金光教教典 付録 用語解説

・本教典中から、解説が必要と思われる一一一の用語を選び出し、それぞれ簡単に説明した。
・教典本文中の参照箇所を若干選び出し、( )内に略号で示した。
・→印は「を見よ」の意である。

■ あいよかけよ

相より相かかわるの意。金光大神はこの語をもって、神と人とのかかわり合いを示した。人は神の願いを受け、真実な生き方を求めて立ち行くことになり、神もまた、人の真実な生き方により、その働きを十全に人の世に現すことができ、神みずからも助かるということを、この語は表現する(覚九・3、一三・1)。人間相互の関係に用いられる場合もある(帳一六・22)。

■ 明き方(あきほう) →金神

■ 生神(いきがみ)

人間救済という神の願いと働きを世に現しつつ生きる人。人間としての助かりの理想像である。生神への道は、すべての人に開かれていると、金光大神は説いた(1徳健2、2福儀1、3道案29)。この語は金光大神の尊称としても用いられていた(1佐範13、2坂利3、3内伝7)。

■ 生神金光大神(いきがみこんこうだいじん)

明治元年九月二十四日、金光大神が神から許された神号である(覚一六・9、帳一二・14)。この語は、取次の業に従った金光大神その人を指すとともに、後には、神からこの世へ差し向けられた、神と人とを取次ぐ働きをも意味するようになった。 →金光大神、神号

■ 生神金光大神社(いきがみこんこうだいじんしゃ)

単に金光大神社ともいう。金光大神の信心、救いの働きが世に現れることによってできた、同信的共同体を神の立場からとらえたもの。また、その働きを中心的に表す金光大神自身のこと。この語の記述例は、「御覚書」「覚帳」の明治三~七年の間にのみ認められる(覚二〇・7、帳一六・19)。

■ 居宅祈念(いたくきねん) →白川神祇伯王殿

■ 一般お廃し(いっぱんおはいし)

一般は、制度全般のこと。江戸幕府の諸制度が全体にわたって、明治五年ごろまでに廃止されたという意味である(覚二四・3、帳二〇・4、二四・10)。

■ 一乃弟子(いちのでし)

安政五年(一八五八)九月二十三日、金光大神が神から受けた称号(覚六・1、帳二・7)。神号を授けられる前段階で、神から直接教えを受け、行ずることのできる立場をいう。後に、信者の中にも、この称号を受けるものが続出し(2大喜25、3尋求62)、明治元年に金光大神は、神命によって「一乃弟子改帳」を調えた。 →取次

■ 丑寅未申鬼門金乃神(うしとらひつじさる/きもんかねのかみ)

丑寅未申鬼門金乃神(覚一六・9、帳一二・14)、丑寅未申鬼門金乃神大明神(2高富4)、丑寅鬼門金神(2伍慶2)、丑寅鬼門金乃神(2小財1)などとも表記される。古来、鬼門(丑寅)裏鬼門(未申)の方角にいる金神は、特に恐ろしい神とされていたが、金光大神は、守る神、大地の神として信仰の対象とした。後に、日天四・月天四という天の神と合わせて、三神天地神サンジンテンチノカミ(覚一五・8、帳一一・7)、天地三神テンチサンジン(覚一六・6、帳一二・10)、天地乃神(覚一八・3、帳一四・3)と呼称し、やがて天地金乃神という神名で表現されるようになった(2伍慶1)。 →日天四、月天四、金神、天地金乃神

■ 内信心(うちしんじん) →身信心

■ 裏鬼門(うらきもん) →丑寅未申鬼門金乃神

■ 縁日(えんにち) →祭り日

■ 大本社(おおもとやしろ)

金光大神が取次を行い、人々を教え導いた場所。各地で取次に従う弟子たちの広前を出社と称するのに対しての名称である。また、信者の間では、御本社オンモトヤシロという呼びかたもある。現在では本部広前と呼び、これを中心とした岡山県浅口郡金光町大字大谷を霊地と称している。 →出社

■ お書下(おかきさげ) →天地書附

■ お剣先(おけんさき) →ご神米

■ お知らせ(おしらせ)

神が、みずからの願いや思いを人に伝えること。金光大神はそれを自身の言葉を通して(覚五・5、帳二・4)、あるいは心に感じることによって知った(覚一五・5)。なお、祈念時の手の上下によって神意を知ることを手みくじといったが、これは金光大神においては信心はじめの時期に限られる(覚五・3、帳二・3)。 →裁伝

■ お洗米(おせんまい) →ご神米

■ お供え(おそなえ) →献備

■ 小田県(おだけん)

明治四年十一月、備中国全郡と備後国六郡とを合わせて深津県ができ、翌五年六月、深津県が小田県と改められ、県庁は笠岡に置かれた。明治八年十二月、小田県は岡山県と合併し、翌九年四月、備後国六郡を岡山県から分割して広島県に編入した。

■ お試し(おためし)

信心が深められてゆく過程で、人が神から受ける試練をいう。「御覚書」では、安政五年(一八五八)七月、秋うんかにかかわる事蹟に、この語が用いられている(覚五・6)。伝承によると、その前後にもたびたび、金光大神はお試しを受けたという(2大喜3)。信者に対して金光大神は、病気災難などを、神からのお試しとして、積極的にそれと取り組むように説いた(2角佐4、3内伝1)。

■ おどうじ →吉備津宮

■ 月天四(がってんし)

単独に用いられて、月経、妊娠、出産、水などをつかさどる月の神性を表す場合もあるが(覚一五・8、帳一一・7)、日天四と併記されて、天の神性を表す場合が多い(2金萩11、藤き4)。四は一般的には子が当てられるが、四は死に通じるとして忌み嫌う人々の意識の過ちを正すため、金光大神は、あえて四を用いたと伝えられる(2金萩10、3尋求116)。

■ 金乃神(かねのかみ)

金神の別称。金神は、一般には、遊行して祟り障りをする神として忌み恐れられていたが、金光大神はこの神に、大地をつかさどり、生きとし生けるものを守護する神性を見、晩年にいたるまで、金神という神名とともに、この神名も用い続けた。 →天地金乃神

■ 神代(かみよ)

神の教えに従い、神の願いを受け、人が生神となって造り出す世。明治十三年旧十一月、神は、人間の自己中心的な計らいによって営まれる世を人代ニンヨとし、それを神代に建て直すよう求めた(帳二四・25)。また、神とのかかわりにおいて生きる人間が造る国を神国という(1市三13)。

■ 神原祈祷(かんばらぎとう)

現在の岡山県総社市富原トンバラ(旧上原)の地方の祈祷者、またはその方式をふむ祈祷者を招いて行われていた祈祷(覚一一・1)。

■ 祈念座(きねんざ) →六角畳

■ 吉備津宮(きびつぐう)

吉備津神社。現在の岡山市吉備津にある、備中国の一の宮。金光大神は、四十二歳の時、厄晴れ祈念のためにこの宮に参り、お釜殿の釜鳴神事カマナリシンジにおいて、釜の出す音を二度聞いた(覚三・3)。この音は、おどうじと呼ばれ、それによって吉凶を占った。

■ 鬼門(きもん) →丑寅未申鬼門金乃神

■ 教導職(きょうどうしょく)

維新政府が定めた三条教則を宣布するため、明治五年以来、国家が任じた宣教師の資格。神主職の資格を失った金光大神に対して、この資格取得の勧めがあったが、金光大神は、神命に従い拒否した(帳二四・5)。なお、信者の中には、この資格を取得して布教にしたがった者もあった。

■ 熊王神(くまおうじ)

九魔王神という字も当てられる。金神遊行説とからみ、凶の方角とされている(3道案12)。その方角の選びかたは地方によって異なる。熊王神の金神という用い方もある(2大秀1)。

■ 結界(けっかい)

神前に向かって右側に設けられた座。金光大神は、この座にあって取次の業を行った(覚二・11、帳一七・12)。本部広前および各地の広前で、この形式は継承されて、今日におよんでいる。 →取次、金光大神広前平面図

■ 献備(けんび)

信者が取次を願うに際して、願う者の真心から神に奉る金封。お供えとも初穂ともいう。初穂は、その年、はじめて収穫した穀物のうちから、神に謝恩の意味で供えるもので、広義に用いられて、金封をも初穂というようになった。

■ 講社(こうしゃ)

信仰を同じくする者の結社。講ともいう。すでに文久年間には、金光大神の信心を得た者が講を結び、金神講などと称えた。講の中から、取次ぎに専念する者も現れ、後に、出社と呼ばれる者が輩出した。明治十八年六月に神道金光教会が設立されると、その下部組織として講が制度化され、講社事務所という名目で布教活動が行われた。

■ 五香(ごこう)

五種の薬草で造った小児薬。当時、胎毒を取るためとして、これを煎じて新生児にのませていた。金光大神は、神命により、この俗習を廃し、初乳を直ちに新生児にのますことを説いた(覚一二・3、1荻須9、2松勝3)。

■ 児島五流(こじまごりゅう) →五流

■ ご真筆(ごしんぴつ) → 天地書附

■ ご神米(ごしんまい)

剣先型に折った白紙に包んで、取次を願う参拝者に授ける洗米センマイ。金光大神は、取次のしるしとして、これを手渡した(1山定64、2吉良1)。洗米は、天地金乃神の恵みを象徴する。はじめは、お洗米とも、お剣先とも呼ばれていたが、金光宅吉イエヨシがご神米と定めてからは、この名が用いられるようになった。

■ 五流(ごりゅう)

中世から備前国児島郡林村(現岡山県倉敷市林)を本拠地として成立した天台系本山派山伏の集団で、五つの寺院を擁していた。その中の尊龍院の山伏たちが、文久から慶応年間、たびたび金光大神広前に来て取次を妨害したところから(2国三9、津治19)、信者の計らいにより、一時、金光大神は尊龍院の許状を取得したこともあったが、間もなくそれを返却した(帳二二・21)。

■ 金光大権現(こんこうだいごんげん) →神号

■ 金光大神(こんこうだいじん)

金光教祖(一八一四~一八八三)の神号であるとともに、氏名でもある。慶応三年(一八六七)三月、浅尾藩から名字帯刀を許され、はじめは金光文治と名乗ったが、藩へは、白川家から許された金光河内の名で届けた。明治五年、戸籍法制定により、戸長へ金光大神と届けたが、名に「神ジン」は使用できないとして、戸籍上は大陣と記された。信者たちは、金光様、生神様、生神金光様などと呼びならわしていた。なお、没後は、四男萩雄が大陣の名を継いだ。金光大神という神号は、直信にも与えられている。

■ 金光大神祭り(こんこうだいじんまつり) →祭り日

■ 金子大明神(こんしだいみょうじん) →神号

■ 金神(こんじん)

古来、日柄方位の俗説とかかわり、人々は七殺金神シチセツコンジンなどといい、祟り神として恐れていた。金神除コンジンヨケ、金神封コンジンフウジと呼ばれる祈祷をしたり、金神の留守の方角、つまり明き方を選んだり、屋敷の四隅に笹を立てて注連縄をひく、場取バトリ、屋敷取ヤシキドリという方策を取って建築するなどして、人々は金神を避けていた。金光大神は弟香取繁右衛門によって、この神への目を開かされ(覚四・1、帳一・1)、その後、新たな信心の世界を開くこととなり、金神は祟り神ではなく、大地を守り、人々を助ける神であると説いた。 →金乃神

■ 金神社(こんじんしゃ)

慶応三年(一八六七)二月、浅尾藩庁の添状を得て、金光大神は白川家から金神社神主に補任され、公的な布教資格を取得した(覚一五・2、帳一一・1)。これにより、金光大神広前は金神社と称することとなった。それと同時に進められた金神社の社殿建築は、完成を見ぬまま、明治四年十月、金光大神の神主職喪失とともに、建築の根拠をなくした。明治九年ごろから、人民共有の社祠の再興が公認されることとなり、大谷村民の社祠として金神社を存置する運動が起こり、明治十一年、素盞嗚神社スサノオジンジャと称えることで公の許可を得た。しかし、この存置運動は、金光大神の願うところではなかった。

■ 裁伝(さいでん)

神前にあって、参拝者の願いに答えて、言葉をもって伝えられるお知らせをいう(3内伝11)。これを伝えた後、金光大神は取次の座に着いて、神意をさらに説き明かし、参拝者の了解のいくように教えた(2押マ1)。神伝という語も、ほとんどの場合、裁伝を指す。 →お知らせ

■ 差し向け(さしむけ)

人の世の救済のために出現する神の働き。その働きは、食物をはじめ、病気、災難などをも含め、人の世の一切の事象を通して感受される(覚一五・6、二一・13、帳一七・14)。この語は、信心しておかげを受けた人が、神の願いを受けて、人の世に向かう取次の働きに用いられる場合が多い(覚二一・21、帳一七・25)。

■ 三神天地神(さんじんてんちのかみ) →丑寅未申鬼門金乃神

■ 時節(じせつ)

神の働きを受けて、物事が成就する時期、または、それに至る時の流れをいう。それは、人の企てによってではなく、神を信じ、願いが成就するための様々な条件が整うのを待つ生き方によって経験される(1斎宗13、2福儀21、3尋求191)。その「時」への不信が、心配や不安を生むことになる(3慎誡1)。

■ 下葉の氏子(したばのうじこ)

安政五年(一八五八)正月、弟香取繁右衛門を通して、神から金光大神に与えられた呼び名(覚五・1、帳二・1)。後、斎藤重右衛門などの直信にも用いられた(2斎重5)。下葉とは、大きい枝葉の陰に隠れた葉のこと。そこから神の庇護のもとに生きる氏子を指した語で、一乃弟子という呼び名とともに、神号が授けられる前段階。

■ 実意丁寧(じついていねい)

生活のあらゆる場面で、真実な思いを込め、人または物事に対し、行き届いて神の願いに応じる生活態度のこと。金光大神は、人々が忌避していた金神とも、この態度を貫いてかかわり、おかげを受け(覚六・9)、その体験をもとに、人々に信心の基となるものとして説いた(1島八25、2平五1、3尋求189)。

■ 注連おろし(しめおろし)

天然痘にかかった時、その病気をつかさどる厄守りの神ヤクモリノカミを床にまつり、注連縄を張って全快を祈る、当時一般に行われていた行事。全快後、注連縄をはずして、厄守りの神を送り返す行事を注連あげといい、それらの儀式を執行する人を注連主ヌシという(覚二・18、八・2、帳三・8)。

■ 修行(しゅぎょう)

金光大神が人々に促した信心の修行は「家業の業」「心行」という言葉に尽くされている(3金理39)。それは信心に基づき、心を整えつつ生活の営み万般を行う「行」である。このような行に対して、水垢離ミズゴリを取るなど、表に現れる行を表行といい、金光大神は表行を戒めた(2近藤20、3神訓1)。なお、神命により金光大神は明治八年と同十六年に百日修行の心行を行っている(覚二三・8、帳一九・21、3内伝13)。

■ 白川神祇伯王殿(しらかわじんぎはくおうでん)

白川伯王殿とも伯王殿ともいう。神祇伯は、大宝令、延喜式による神祇官の長官職名で、永承元年(一四〇六)以来、白川家はこの職につき、王を称し京都にあって、その任にあたっていた。金光大神は、橋本卯平の仲介を得て、布教公認のため、白川家に元治元年(一八六四)に入門し、居宅祈念イタクキネン、つまり、自宅で風折烏帽子カザオリエボシ、浄衣ジョウエ、白差袴サシバカマを着けて祈念することを許された(覚一三・3、帳八・2)。この許状を神拝式許状シンパイシキキョジョウという。後、慶応三年(一八六七)、金神社神主金光河内として神職補任状を得たが(覚一五・2)、明治政府の宗教制度変革とともに、明治四年、神主職を失い、無資格の身となった。

■ 心行(しんぎょう) →修行

■ 神号(しんごう)

金光大神やその家族、または篤信者トクシンジャなどに、神から与えられた神名カミナヲ主として指す(覚一六・11、帳一二・16、1吉吉1、2大喜25)。金光大神の場合は、その信境の進展に応じて、文治大明神、金子大明神、金光大明神、金光大権現、生神金光大神と神号が改められていった。

■ 神国(しんこく) →神代

■ 神職補任状(しんしょくほにんじょう) →白川神祇伯王殿

■ 神伝(しんでん) →裁伝

■ 神拝式許状(しんぱいしききょじょう) →白川神祇伯王殿

■ 神門帳(しんもんちょう) →願主歳書覚帳

■ 末(すえ)

金光大神は、神命により、明治七年一月一日(旧暦)から、一か月の日数を三十日、一年を三百六十日とする暦を作り、明治十六年までの新暦、旧暦との対照表を作成した。「覚帳」には、明治七年以降、各所に「末何月何日」「末何日」などと記されている。この末暦スエレキとでも呼称すべき暦は、独自の宗教暦としての性格を持つと考えられる。

■ 素盞嗚神社(すさのおじんじゃ) →金神社

■ 先祖祭り(せんぞまつり) →祭り日

■ 大しょうぐん(だいしょうぐん) →不残金神

■ たてこみ金神(たたてこみこんじん)

この金神の方角を犯して家を建てると、金神をたてこめることになるので、万事が凶になるという俗信(2角佐7)。また、その祟りを受けた家を指すこともあった(3教理14)。

■ 多郎左衛門屋敷(たろうざえもんやしき)

金光大神の屋敷地の一部。天保十五年(一八四四)に建てられた門納屋あたりから南が、それと推定される。安政五年(一八五八)十二月、金光大神はお知らせにより、多郎左衛門屋敷の由来を知らされた(覚六・9、帳二・10)。

■ 乳つけ(ちつけ)

出産三日目または五日目に、産婦の乳首に他人の乳をつけて、その後で産婦の乳を飲ませる俗習(2松勝3)。

■ 手みくじ(てみくじ) →お知らせ

■ 出社(でやしろ)

金光大神広前を大本社と称したのに対して、弟子たちの広前、また、その広前の取次者を出社と呼んだ。岡山出社、笠岡出社などと地名を冠して、金光大神は記している(覚一七・5、帳一三・5、2角佐1)。

■ 天地書附(てんちかきつけ)

戸長の命による布教差し止めが解かれて後、明治六年四月十一日のお知らせを受けて、金光大神が信心の要諦を端的に示した書き付けをいう(覚二一・10、帳一七・2)。萩雄ハギオ、宅吉イエヨシなどにも、これを書かせ(覚二二・3、帳一八・3)、信者に下げ渡した。金光大神はその意味について、神社などの下付する守り札のようなものではなく、心の守りであるとも(2福儀17)、信心を日々忘れないための書き付けであるとも(覚2片馬2)教えた。ご真筆、お書下カキサゲ、またはお書付カキツケなどと呼ばれる場合もあった。

■ 天地金乃神(てんちかねのかみ)

金光教奉斎神の神名。金光大神は、この神を三神天地神サンジンテンチノカミ、天地三神、日月天地金乃神、天地の神、あるいは詳細に、日天四 丑寅/月天四 未申 鬼門金乃神と各様に記し、人々に説いた。それらの名称によってわかるように、この神名は、金光大神をもって開示された天地の神性を表したもので、明治六年の天地書附成立直前のころ生まれた神名である。「御覚書」「覚帳」によると、それ以前にも用いられている。しかし、これらの記述は、いずれも執筆時点で顧みて、この神名が当てられたものである。

■ 天地三神(てんちさんじん) →丑寅未申鬼門金乃神

■ 道理(どうり)

この語は、おおむね天地の道理を指す。天と地、および、その間にある万物が生成転化する根源の理を意味する(2佐範14、藤広1、3尋求50)。その理にのっとって人が生き、世の営みをなす信心の道を天地の道という(帳二〇・17)。天地の道の乱れを引き起こし、それによって人の世の様々な難儀が生まれると、金光大神は説いた。

■ 土公神(どくうじん)

土をつかさどる神。大谷村あたりでは、おどっくうさま、ろくうじんなどと称し、かまどの神としてまつっていた(覚一二・2、帳七・2、1市一8、2金萩16)。

■ 毒断て(どくだて)

毒断ち、毒養生ともいうる美容期、妊娠中、または産後などに、体の害になるとして特定の飲食物を避ける習俗。安政六年(一八五九)、子供の病気を機に、金光大神は、このような習俗は神の願うところでないことを知り(覚七・8、帳三・11)、その後、当時行われていた禁忌全般にわたり、その誤りを人々に説き明かした(2福儀7、3道案21)。

■ 毒養生(どくようじょう) →毒断て

■ 歳書帳(としがきちょう) →願主歳書覚帳

■ 取次(とりつぎ)

人の願いを神に、神の思いを人に伝えて、神、人ともに、あいよかけよで助かっていく世界を顕現するための働きをいう(覚九・3、帳二四・5)。金光大神によって始められた、この働きを継承する人々を、取次者と呼ぶ。取次者は、本部広前および各地の広前にあって、これを行う。

■ 二間四面の宮(にけんしめんのみや)

間口、奥行き各二間の方形の宮のこと。神社建築では、柱と柱との間を一間といい、一間の長さは一定していない。元治元年(一八六四)、金光大神は、神からこの形式の宮の建築を頼まれたが(覚一三・1、帳八・1)、棟梁の行状の問題と、明治政府の宗教政策がからんで成就を見なかった。

■ 日天四(にってんし)

単独に用いられて、主として太陽の恵み、つまり日の神性を示す(覚一五・8、帳一一・7)。なお、月天四および金神または金乃神とあわせて用いられ、天地金乃神の別称を表す場合が多い(2福儀2、藤広2)。 →月天四

■ 日本祭り(にほんまつり) →祭り日

■ 人代(にんよ) →神代

■ 願主歳書覚帳(ねがいぬしとしがきおぼえちょう)

安政七年(一八六〇)正月、「神門帳こしらえ」との神命によって、金光大神が願主覚帳を調えたことに始まる。同年五月、標記のように、その名が改められた(覚一〇・1、帳四・1)。これは信者の住所、干支、名前を記したものである。別に歳書帳と呼ばれたものが記されていた(覚一七・1、帳一三・1)。

■ 不残金神(のこらずこんじん)

金神は陰陽五行の俗説とからんで、その数が多く、一般に八百八金神ともいわれた。そうした金神のすべてを含むという意味で、この語は用いられた。金光大神は、改まって神名を記す場合、最も祟りの激しいとされた大しょうぐん(大将軍)とあわせて、これを記した(覚二一・22、帳一七・26)。

■ 伯王殿(はくおうでん) →白川神祇伯王殿

■ 八百八金神(はっぴゃくやこんじん) →不残金神

■ 初穂(はつほ) →献備

■ 場取り(ばとり) →金神

■ 火合わせ(ひあわせ)

産穢サンエを忌んで、産後七日の間、産婦は家族と炊事を別にし、八日目にはじめて同じ火で煮炊きした物を食べる風習があった。この語は、産婦の炊事用の火を家族と同じくすることをいう(覚三・1)。

■ 日柄方角(ひがらほうがく)

日や方角の吉凶を調べることを、日柄方角を見るといい、当時盛んに行われていた。遊行する祟り神とされた金神などの暦神の留守を選ぶためにこれを行い、特に建築や旅行に際して、人々はこのことに心をつかっていた。金光大神は、このことが、神の留守をうかがう人間の勝手で無礼な行為であることに気づき、人々にその非を強く説いた(覚二一・21、帳一七・25、1斎宗6、2藤嘉3、3道案11)。

■ 日切り(ひぎり)

病気をはじめ、人が出合う様々な災厄、苦難に処するに当たって、何日間、何週間と日限を切って、その間、一心に神に願い、そのことと取り組む場合の、日限を定めることをいう(帳二五・37、2金萩13、三佐3)。

■ 備中逆川(びっちゅうさかがわ)

小田川オダガワのこと。この川は、昔は現在の岡山県井原市で二分し、一本は西に流れて広島県に入り、芦田川に合流していたが、元和元年(一六一九)水野勝成が福山城を築く時、城下の水害を防ぐために井原市で西流する川をせきとめて、大部分を東へ流れるようにしたと伝えられる。そのため、川の主流が逆の方向に流れるようになったところから、この名がついたようである(覚一九・8、帳一五・10)。

■ 百日修行(ひゃくにちしゅぎょう) →修行

■ ひれい

鰭に由来する語。鰭には貫禄とか威徳とかの意があり、ひれいは、そのような意味と共に、また、威徳が明らかに現れる状態をも表す(覚一五・8、帳一一・7)。

■ 広前(ひろまえ)

一般には、神仏の前を敬っていう言葉。金光大神は自宅の上の間カミノマの床トコに神をまつり、その前に坐って参拝者を取次いだ。神は、まつっている所にだけ鎮座しているのではなく、世界中が広前であると説いた(2松太3)。 →金光大神広前平面図

■ 無礼(ぶれい)

天地万物一切が神の恵みによってあるという道理に気づかない人間中心のいき方のこと。金光大神にあっては、日柄方角を見ることが神への無礼であることに気づき、そこから、人の難儀の根本因として、神の働きを知らず、神に願うことをしない人間の無礼の姿を説くこととなった(覚二一・21、帳一七・25、1斎宗6、2福儀4、3尋求40)。 →日柄方角

■ 文治大明神(ぶんじだいみょうじん) →神号

■ 待ちご(まちご)

伊勢参り、四国巡りなどの長旅から帰る時、家の者が新しい衣装を持って、村境などまで迎えに行き、着かえて村に入る風習があった。その着がえの着物のこと(覚二一・14、帳一七・15)。

■ 祭り日(まつりび)

旧九月二十二日は天地金乃神の祭り日で、日本各地でその祭りが行われるようにとの願いから、「日本祭り」とも呼んだ(帳二五・30、1佐範14)。この祭りは元治元年(一八六四)から行われ始めたと推定される(帳八・4)。また旧九月十日は金光大神の祭り日であるが、いつ始められたかは定かでない。明治二年三月十五日の神命により、金光大神祭り日に併せて先祖祭りが定められ、身内親類を招いて仕えられた(覚一七・2、帳一三・2)。なお月々、十日は金光大神、二十二日は金乃神、二十三日は月天四、二十四日は日天四と、それぞれの縁日、または祭り日を定め、神への報恩、信心の改まり日とした(1市一35、2小く1、佐光31)。

■ 守り札流し(まもりふだながし)

子供が生まれた時に氏神社から受けた守り札を、その子が死んだ時に川へ流すこと(覚八・3)。

■ 身信心(みしんじん)

み公認布教に対しての官憲筋からの様々な抑圧に対応して、ひそかに、みずからの身を修め、徳を積む信心をしているという説明に、この言葉が用いられた(帳二五・36、2佐範5)。また、布教に出歩かず、家の内で信心を深めるということを表す、内信心という語がある(1市一51)。

■ めぐり

先祖以来、代々にわたって神への無礼を重ねること、および、それが原因となる難儀(覚二一・21、帳一七・25)。金光大神は、信心によってそれを乗り越え、助からねばならないと、各様に説いている(1近藤26、2石銀3、津治20)。

■ 厄守り(やくもり) →注連おろし

■ 屋敷取り(やしきどり) →金神

■ やれぼう

旧暦一月十一日。この日のことを、お田植え、鍬初めともいう。岡山県地方の農民は、早朝から牛を出し、「やれぼう」と呼びながら追って走った。また、鍬をきれいに洗って甘酒と餅とを供え、豊作を祈った(帳二七・1)。

■ よかり物(よかりもの)

もたれ物ともいう。米俵などに布団をかけてね産婦の後ろに置き、産婦が出産の時によりかかり、また産後もよりかかって休む物。金光大神は神命により、これを廃止し、神にすがり、横たわって足を伸ばしての出産、産後の休養を説いた(覚一二・3、帳七・3、1山定22、2高富41)。

■ 理解(りかい)

庄屋などが目下の者を訓戒するのを理解といっていた。金光大神は、天地金乃神の働きの理を説き、人がそれを了解して信心を進め、神と人とのあいよかけよの関係を深めるよう促す教えを理解と呼んだ。理解は、一定の教説や方式に基づかず、その時、その人の願いに応じて施すものであるとした(2白二1)。

■ 立教神伝(りっきょうしんでん)

安政六年(一八五九)十月二十一日(陽暦十一月十五日)のお知らせにより、金光大神が農業をやめ、取次に専念することになったことをもって、金光教の立教と定めている。この時、金光大神が受けたお知らせの呼称(覚九・3、帳三・14)。

■ 霊地(れいち) →大本社

■ 六角畳(ろっかくだたみ)

一般には、神社等で神主が祈念座として用いていた。名の通り、六角形をした畳である。金光大神は、神主職取得にともない、広前神前にこれを敷き、その上に座って祈念を行っていた。明治四年正月の神命によりこの座を撤去し(覚一九・1、帳一五・1)、以後、使用しなかった。

■ 表行(わぎょう) →修行



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