
むかし、ひとつのアパートに、AさんとBさんという二人が住んでいました。
ある日、Aさんはセンターにやってきて言いました。
「わたしが契約してるお部屋を出たいんです。でも、一緒に住んでるBさんの荷物がまだあって困ってます」

センター長のぼくは、Aさんがとても困っているように見えたので、
Aさんの言うことをそのまま信じて、Bさんの家族にも「Bさんを改善させてください」と何度も伝えてしまっていた。

ところが数日あと、アパートの管理会社から電話がかかってきた。
「Bさんの荷物が残ってしまっていて、勝手にすてるわけにもいかず、こまっています。センター長さん、何か知りませんか?」
ぼくは言った。

「勝手にすてるのはだめです。Bさんが“ほんとうにいらない”と言うまでは、何もしないでください」
そのあと、ぼくはすぐにBさんに電話した。

「Aさんが、Bさんの荷物のことで困ってると言ってるよ」
すると、電話の向こうのBさんは、ちょっとつらそうな声で言った。

「ぼく、Aさんに何回も“悪い人”だと言われてきました。
前にマスクを取りにいっただけで、ストーカー扱いされて警察まで来たんです」
そして、Bさんは静かに続けた。

「そんな相手の家に行って、荷物だけ取るなんて……
“盗んだ”って言われたら、ぼくはもう何も言えない。
ほんとは返してほしい物もあるけど、またなにされるか怖いんです」
しばらくして、Bさんははっきり言った。

「だから、荷物は全部すてたことにします。
ぼくは一切さわりません。それが一番安全なんです」
ぼくはびっくりした。
自分の大切な物を自分で手ばなすなんて、とてもつらいことだ。

「ほんとうに、それでいいの?」
「はい。荷物がなくなるのはくやしい。でも、また“ストーカーだ”なんて言われるほうがこわいんです」
Bさんの言葉は、とても静かで、でも決意がこもっていた。
ぼくは決めた。

「わかった。じゃあ、その気持ちをぼくがちゃんと書いて残すよ。
誰も勝手に荷物をさわったり、送ったりしないようにする」
Bさんは、少しだけ安心した声になった。
***
ところが数日後、Bさんのお父さんから電話が来た。

「息子の荷物、まとめて家に送ってくれたらええねん!」
少し怒っている声だった。
けれどぼくは、きっぱり言った。

「それはできません。Bさんは“荷物を全部放棄する”と決めました。
お父さんが勝手にさわると、またAさんに何を言われるかわかりません」
お父さんは長いあいだ黙っていたけれど、やがて言った。

「……わかった。もう何もせえへん」
お父さんの“ついよかれ”の気持ちを止められたのは大きかった。
***
そして退去の日。
部屋にはAさんと、友人のC子さんが紹介した片づけ業者が来た。
家具も服も古い家電も、ぜんぶまとめてトラックに入れられた。
その中には、Bさんがほんとうは大事にしていた物もまざっている。

けれど、そこにBさんはいない。
Bさんが受け取ったのは、管理会社からの「片づけが終わりました」という紙と、業者の請求書だけ。
あとで聞いた話では、Bさんは請求書を見て、少し笑ったらしい。

「高いけど……Aさんのガラクタが実家に送られてくる未来が消えたと思ったら、安いもんです」
ぼくは、不思議とその気持ちがよくわかった。
自分の荷物を失ってでも、これ以上のトラブルを避けられるほうが安心できる。
そんな選び方だった。
C子さんは、「部屋の契約者はAなんだから、片づけはAがするべき」ときれいに線を引いてくれた。
Aさんは業者をよんで部屋を空っぽにした。
Bさんは費用を払ったかわりに、“もう自分に火の粉が飛んでこない世界”を手に入れた。
そして、あのお父さんが「荷物全部うちに送れ!」と暴走しなかった。
それを止めたのは、ほかでもないぼくだった。
書類を片づけながら、ぼくは思った。

誰かを助けるって、ただ動くことだけじゃない。
ときには、“余計なことをしない”という助け方もある。
完ぺきな結末じゃない。
Bさんの荷物は戻らない。
だけど、ぼくたちの“よかれと思った暴走”で、Bさんの人生にもっと悪いことが起きる未来だけは止めることができた。
それは、小さくてもたしかなブレーキだった。
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