禁忌の転回ー金神考

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はじめに

日本の民俗文化は、しばし ば神との共存で語られる。日常生活(褻)のなかに、非日常性(晴)を見出す祭儀においても、神を迎え、送り出す精神が広く説かれている。ただし、簡単に神 とは言えども、その属性は一言で表し得るものでもない。南島・竹富島の種取祭で顕著なように、豊作や富を与える福の神がいれば、また、疫病退散の道饗祭で 祟りをなす悪神もいた。それぞれ大衆の生活に根を下ろし、多様な種類と形態で機能してきたのだった。

前者の説明には、他界や異郷から幸福をもたらす他者の来訪、客人信仰などがある。後者の説明では、御霊信仰がそ のひとつに挙げられよう。御霊信仰と言えば、菅原道真や平将門への鎮魂信仰も思い浮かぶが、その根底には戦慄や恐怖の感覚があったはず。今日的な大衆文学 にとってもその役割は大きい (1) が、より祟り神の働きを積極的に考えれば、人々に自然への畏怖観念を深めていたとも言えるだろう。古くは、地震や流行 病、飢饉などの天変地異にさいなまれた人々が、悪神の祟りを回避すべく、多くの禁忌を誕生させている。今なおその形は四十二歳の厄年や、建築時に吉方角を 選ぶ習俗などになごりがある。

このような土着の祟り神は、発生以来長く近世まで暦の中を遊行し、意識の上で民衆の行動を抑制していった。人々 はその俗悪な禁忌を、金神と呼んだ。金神とは、「神道でもなく、仏教や儒教でもなく、日本人が昔から持ってゐた生活上に於ける陰陽道の祟避様式の変化だ」 と、折口信夫は述べている (2) 。かねてから文化論の対象であった狭義の神道 (3) とは、無関係に位置づけられた祟り神の金神。その金神が、いかにして栄 え、どう衰えていったのか。本稿ではその歴史的考察をとおして、禁忌にみる前近代社会の構造変化を考えていきたい。なぜなら、ここでいう前近代社会の構造 変化を、私は日常的な関心から次のように考えているからである。

現代社会では、「森林伐採」「フロンガス」「ダイオキシン」などと、さかんに環境破壊が叫ばれている。こうした 環境問題を念頭に歴史を翻ってみると、古代から近世にかけての日本の構造は、迷信、俗信、祟りなどにあえぎながらも、自然を大切にする精神が揺るがない社 会だったと思える。その精神を、金神という禁忌観念に例えてみると、それがどう展開して現在そのなごりが見られるのかを究明することで、環境破壊の観念的 な発生装置を見つけることができるのではないだろうか、という私見である。

具体的には、まず、民間陰陽道史から金神の起源や歴史的広がりを整理し、金神信仰から派生した現金光教の成立過 程をたどる。次に、桂島宣弘著『思想史の十九世紀』 (4) を軸に金光教祖・赤沢文治研究の先行成果を探った後、文治が捉える天照皇大神を金神との差異から 論じることで、客観的に禁忌を考察していきたい。それは、「おかげ参り」などの社会現象に見られる江戸期の伊勢信仰を、公共の習俗とする観点から、徳川時 代の天照皇大神をも日本の公共心のシンボルと考えたためである。

第一章

1 金神の盛況と『ホキ内伝』

金神は、陰陽道が生みだした最も恐ろしい方位神で ある。陰陽五行説では金気の性に属され、金気は殺戮の要素に配当される。例えば五色(青、赤、黄、白、黒)では刀剣の白、五季節(春、夏、土用、秋、冬) では木々の葉を落とす殺伐の秋 (5) 。この祟り神のいる方角を厳しく忌む風習が、日本の土壌にはまとわりついていた。金神のいる方位をおかして土木事業、 建築、旅行、結婚などをすると、「金神七殺」と称して身内が七人殺され、家人の数が満たない時には、隣人にも祟るとされていた(6)

金神の忌の発生については、金井徳子氏の「金神の忌の発生」 (7)。 に詳しい。金井氏によれば、陰陽道では平安初 期以来、安倍・賀茂二家の世襲が定まったが、金神の忌は、必ずしも陰陽家によって扱われたものでなく、舎人親王の子孫の清原家一族がこの忌を提唱し、育て て来たものではないかと考えられている。金神の忌みが初めて重んじられたのは白河天皇の時代、応徳年間(一〇八四―八六)であり、それは大外記の清原定俊 真人の上奏の結果であり、『金神秘決暦』と題する小冊子が天皇の注意をひいたためである。その後、金神は『備後国風土記』の蘇民将来・巨旦将来の話に付会 され、修験道の祈祷要請にも利用されながら広まった結果、江戸時代には相当盛んだったという (8)

では、なぜ金神が江戸時代には花を咲かせることができたのだろうか。金井氏もそうだが、近世期に金神の忌が盛況 したという説の多くは、陰陽道の大書である『ホキ内伝』 (9) の普及に拠っている (10)。同書には、崇めるべき牛頭天王と忌むべき巨旦大王(金神)が物 語として展開され、その遊行の方位を甲己歳は午未酉の方などとし、四季についても細かく忌が記載されていくのであった。

ベルナール・フランク著『方忌みと方違え』には、「おそらく室町時代末期頃に、誤って安倍晴明撰とされた概説書 『ホキ内伝』の編纂者たちは、この書物の中に金神に関するあらゆる説を集めた。その結果、奇妙なことに、その後金神は八岐大蛇や素戔鳴尊に付会されて再び 人々の支持を取り戻すことになった。その場合は金神の遊行はなお一層複雑になっているようである(月の周期や季節の周期に結びついた日毎の周期等)」とあ る (11) 。金神の忌の勢いは、しばらく落ち着いていたのだが、再び広まった背景には、『ホキ内伝』という大書の普及が先にあり、その影響を受けて、金神 の忌も広まっていったのである。さらに同書の広がりの補足として、中村璋八氏の説明を『日本陰陽道書の研究』から抜き出してみたい。

安倍・賀茂両家の陰陽道に関わりを持った人々の依拠した文献は、平安・鎌倉・室町期を通じて、両家の人達に拠って 作成され、それが当時通行していたと思われる。(中略)併し、その多くは亡佚し、現存する書は極めて少ない。特にその鈔本や版本の数も限られている。その 中にあって『ホキ内伝』だけは、その鈔本・版本及びその注釈書の種類が甚だ多い。このことは、この書が陰陽道において如何に重要な位置を占めていたか、ま た、多方面の人々に如何に親しまれていたかを示している (12) 。

『ホキ内伝』は元々、陰陽道のテキストとして主に陰陽家が用いた大書であり、その枠を越えることはなかった。し かし、近世になって山伏や真言密教、神道家などが祈祷要請をねらって複写や注釈を加えて人々に広めていったのだった。撰者は安倍晴明と同書にあるが、その 内容から見て晴明の撰んだものでないことは明瞭である。同書の中身には真言家の説が見存し、祇園社務の僧が作ったとも言われるが、これも明らかではない。 ともあれ、成立時期や撰者はどうあったとしても、室町から江戸の近世期に広まったという事実は疑えない。なぜならこの大書は、陰陽道のほかの文献以上に鈔 本・版本及びその解説書が多いのである。版本は慶長十七年版、寛永三年版、寛永六年版、寛永九年版、正保五年版、慶安三年版、萬冶三年版、寛文一年版、天 和二年版、貞享五年版、寳永七年版、天保五年版、弘化三年版などがあり (13) 、この事実をみても、江戸時代にいかにこの書が多くの人々に親しまれていた かがわかるのである。

このような諸々の学説により、金神の盛況にかかわる『ホキ内伝』が、江戸時代には様々な人物によって民衆にも普及していったことがわかった。今度は、実際に金神が同書の中でどう扱われているのか、その中身にも触れていきたい。

2 「金神七殺之方」から金光教へ

まず同書には牛頭天王の縁起話が説かれ、陰陽道に かかわる神が次々に話の中で登場する。最初に王舎城大王、商貴帝が登場。そして、天刑星と同一の牛頭天王が主人公で、その妻になったのが頗梨采女。牛頭天 王と頗梨采女との間に生まれたのが八王子であった。牛頭天王と八王子が巨旦大王を滅ぼす話が、巻第一の序文として構成されている。この話は、金井氏の言う ように『備後国風土記』の蘇民将来・巨旦将来の話が基になっているようだが、そこにはまだ金神の名前は出ない。つまり金神は、『ホキ内伝』の縁起で初めて 巨旦に付会されたのだと言えよう。

続いて、「天道神方」「歳徳神方」「八将神方」「天徳神方」以下十三条の方角や日時の禁忌を記しているが、その うち五つの項目は、金神にかんするものである。その数で考えるだけでも、金神の忌みは特別な趣があろう。なお後半は、その他の日柄や方位にまつわる禁忌が 延々と記されるのみなので省略する。

同書はそのような内容であるが、ここで、金神にかんする一つの記載に注意をはらいたい。同書巻第一「金神七殺之方」項の末尾には、金神の祟り性を端的に著す次のような内容が載っている。

右金神者 巨旦大王精魂也。七魄遊行而殺戮南閻浮提諸衆生。故尤可厭者也。 (14)

意訳すると、「金神は巨旦大王の生きた魂である。七つの魂が世の中を行き来し、民衆を平気で殺戮するので必ず退 治しなければならない」。もともと別個の物語だった巨旦将来の話と、金神が重なり合う箇所である。牛頭天王に宿を断った魑魅魍魎・巨旦大王は、牛頭天王た ちに退治され、金神という浮遊神になったのである。だからその祟りは恐ろしい。また、中村氏は、底本だけでなくほかの抄本の記載を続群書類従本の相当する 箇所に補っているが、それに従えばこの箇所には次のような内容が続く。

若人雖向此方、則家内七人死。若無家内其敷、則隣家人加之者耶。是名風災。金收肺、具七魂、斷破萬物。故尤可厭者也。 (15)

金神の方角を犯せば身内が七人殺され、数が足りなければ隣家にも祟りが及ぶ、と説かれている。こうしてこの大書は、金神の俗悪な祟りを強調していくのであった。

アングルを変えればそれはまた、ある前近代社会のひとつの構造を示しているとも言える。金神に象徴される祟り神 が、民衆の生活を抑圧しつつ、その恐れによって慎みを要求する世の中だったのだ。ところが、今に続く明治以降の近代には、金神の禁忌はほとんどみられな い。いったい何をもって、金神の禁忌は変転することになったのだろうか。

柴田實氏は、先の『ホキ内伝』中「金神七殺之方」の記述について、「このような陰陽道の方角・日時の吉凶思想 が、いかに前代において猛威を振るったかは、あらためて述べるまでもなかろう。それは今日においても、なお、十分に払拭されたとは言い難い。金光大神によ る金光教の立宗・開教のごときは、一にこのような金神七殺之方などの陰陽思想の超克にその根拠を置いたものであった」と述べている (16) 。

たしかに、金神は姿を消したわけではなかった。現代において、宗教団体と化して機能する金神には、大本と金光教 の二つがある。大本では金神による終末思想を説き、金光教では金神の禁忌を払拭して福神と説く。とくに金光教の立教は、幕末から維新期にかけてでもある。 次章からは、金光教祖・赤沢文治(一八一四―一八八三)の生涯をひとつの事例と定め、その研究から金神信仰の展開に注目していきたい。

第二章

1節 金光教とその教祖自伝資料

一章で見てきたように、中世に発生した金神の禁忌 は、近世になって急激に広まった。その裏には、金神の恐ろしさを描いた陰陽道の大書『ホキ内伝』の普及があり、仏教や修験道の呪術者たちが、祈祷要請にそ の大書を利用してきた。結果、『ホキ内伝』は、抄本・版本・注釈書が多く現存しているということであった。

その渦中にあって、幕末維新期(安政六年)に岡山県の現金光町に立教したのが金光教である。現在、その教団が掲 げる祭神は「天地金乃神 生神金光大神」であり (17) 、いまや金神とまったく同じ神名とは言えないが、神性開示は金神に由来している。創始者の赤沢文治 は、日ごろから金神を畏怖していたのに家族を次々と失う金神七殺の祟りに見舞われ、厄年には大病を煩うが、禁忌を重んじて止まない実意丁寧な態度の貫徹に よって金神への認識を怒りから慈しみに逆転させ、後に民衆救済の神示を受けることになったという。この神示をもって金光教は立教とされる。

教団としては平成十二年現在、立教百四十一年を数え、全国およそ千カ所の教会を合わせて二十万人以上の信奉者が 所属している。明治三十三(一九〇〇)年に、神道本局からの一教独立を果たしており、来る六月十日には教団独立百周年の記念式典が行われる。戦前は、既成 の迷信を打破する教義で勢力をあげ、大正期には全盛期を迎えた。その中身には、「日柄方位は見るにおよばぬ」「女は神に近い」 (18) などの教えがある。 戦後とくに昭和五十八年以降は、教典や祭服、拝詞などが改変され、独自の宗教色を表出。現在の教義は、天地自然の働きを神と捉えることで、神と人とが共に 支え合って生きる世界の創出を目指すことにその眼目が置かれている一方、金光教教学研究所で教義の明確化が内部的にも吟味されている。

金光教の先行研究は、民衆宗教史学の基礎を築いた村上重良氏や、その流れを汲む歴史学者の小沢浩氏、桂島宣弘氏 のほか、宗教社会学の立場から島薗進氏などに扱われてきている。本稿では、禁忌という現象の時代的な特性を重視する理由から、島薗氏が唱える「新霊性運 動」などへの現代社会的な関心を注ぐことはできないが、歴史学的な金光教研究の先行成果は、押さえておきたい。

文治についての基本的な資料としては、「金光大神御覚書」(以下「覚書」と略)、「お知らせ事覚帳」(以下「覚 帳」と略)の二書がある。「覚書」は、文治が明治七年旧十月十五日、「覚、前後とも書きだし」という神命を受けて記述した、信仰自叙伝ともいうべき書であ る。信仰の軌跡が、明治九年旧閏五月までほぼ年代順に記される。

一方の「覚帳」は、文治が体験したできごとや、その時々に受けた神伝がメモ形式で記載されている。安政四年ので きごとに筆が起こされるが、実際執筆を始めたのは慶応三(一八六七)年から明治初年ごろである。「覚書」完成後もこの書への記述は継続され、自らが没した (明治十六年十月十)日の十九日前まで記載は続いている。昭和五十一年から金光教教学研究所において解読が進められ、その解読文をもとに昭和五十八年、 「覚書」や文治にかんする民間伝承などと共に『金光教教典』で収められた。なお、「覚書」は、「覚帳」の記述を参照して書かれたものではないかと言われて いる (19)

本稿では、改暦という社会現象を目安に、両書の性格の違いを執筆時期で区別したい。というのも、「覚書」「覚 帳」の旧明治六年癸酉正月二十日には、「閏、大小なし、月三十日」「月三十日と決まり、閏月、大小なし」と記述されてある。文治が改暦を意識した日付であ る。その翌年に文治の「覚書」執筆が始まる。つまり、江戸末期から執筆されていた「覚帳」に対して、「覚書」は、改暦直後にようやく執筆されはじめた回顧 録なのである。「覚書」は著者にとって、改暦という近代化を経た意識で改めて著された書物だと、位置づけ得よう。

2節 禁忌との対峙

では、これより文治の生涯を金神とのかかわりでた どっていくとともに、先行研究を整理していくことにしたい。「覚書」の記述によると、文治は文化十一(一八一四)年、備中国浅口郡占見村 (20) の農家・ 香取十平の次男に生まれ、十二歳の時に隣村大谷村の川手家(後に赤沢と改姓)の養子となった。幼少のころから休日には神仏にお参りすることを願い出ていた という話があるように、若くから神仏に対する崇敬の念は篤く、文政十三(一八三〇)年には伊勢神宮への「おかげ参り」を村の有志と共に果たしている。天保 七(一八三六)年には、義弟・鶴太郎に続いて養父・粂治郎の相次ぐ二人の死の悲しみに直面するが、その後は家督を相続して農家経営の拡大に励む。しかし、 ようやく家運が上向きに転じかけたと思うや否や、天保十三(一八四二)年に長男・亀太郎が夭折、嘉永元(一八四八)年には長女ちせが病死してしまう。

なんとか気を取り戻した翌(嘉永二・一八四九)年、今度は家屋買収のめでた話がおこる。これにも祟りを気にかけ た文治は、幼いころから手習いの先生であり、また陰陽頭土御門家の直門でもあった庄屋の小野光右衛門 (21) に、日柄と方位の吉凶を鑑定してもらう。する と、建築予定の翌(嘉永三・一八五〇)年は干支が戌年だったので、戌年生まれの文治にとって家の建て換えは、年まわりが悪いということだった。すでに建築 準備を整えていた文治は、それでもなんとか繰り合わせをと、光右衛門に再び策を請う。まず母屋の南東に小屋を作って仮移転してから古い家を取り壊し、棟上 げの後に引っ越すという策を教わるのであった。ところがその嘉永三年、言われたとおりに仮移転した小屋で、次男の槇右衛門が高熱に倒れ、九歳で早世する。 さらに、二頭の飼い牛が次々に年をはさんで急死したのであった。

これで義父、義弟、子供三人、牛二頭で計七つの墓を築いた文治は、あたかも金神七殺の祟りと思わざるを得ない状 況におかれ、安政元(一八五四)年、数え年四十一歳になった。この年の暮れに五男の宇之丞(後生は教祖帰幽後の役割から二代金光様と位置づけられた人物) が生まれたのだが、いわゆる「四十二の二つ子」だったのだ。数え年で父親が四十二歳の時に二歳になる男児は親を喰い殺すという俗信におびえ、この子供の誕 生日を翌(安政二・一八五五)年正月にまつりかえる。

そうして、大厄の四十二歳を迎えるにあたり、厄負けしないようにと村の氏神・賀茂神社をはじめ、備後国鞆の祇園 宮・沼名前神社、備中地方の総氏神・吉備津神社、備前国西大寺の観音院などを巡って厄晴れを祈願する。それだけ苦労したにもかかわらず、安政二(一八五 五)年には、扁桃周囲膿瘍にかかって声も出ず、医者には九死に一生の重病と手を放される。いよいよこれから、一家は親類を集めて文治の回復を祈っていくの だが、「覚書」ではこの時のできごとを次のように表現している。

新家治郎子の年へおさがりあり。普請わたましにつき、豹尾、金神へ無礼いたし、お知らせ。妻の父が、当家において 金神様おさわりはないと申し、方角を見て建てたと申し。そんなら、方角見て建てたら、この家は滅亡になりても、亭主は死んでも大事ないか、と仰せられ。私 びっくり仕り、なんたこと言われるじゃろうかも思い。私がもの言われだし、寝座にてお断り申しあげ。ただいま氏子の申したは、なんにも知らず申し。私戌の 年、年回り悪し、ならんところを方角見てもらい、何月何日と申して建てましたから、狭い家を大家に仕り、どの方角へご無礼仕り候、凡夫で相わからず。方角 見てすんだとは私は思いません。以後無礼のところ、お断り申しあげ。 (22)

文治の義弟・古川治郎に神が乗り移り、普請時の金神への無礼が知らされる。これに文治の義父が占った旨を主張す ると、金神の留守中に勝手をしようとする「日柄方角占い」さえすれば、亭主が死んでもよいのかと言い返される。反射的に文治は「いけない」と思った刹那、 口が聞けるようになり、「金神様、義父は何も知らずにいるのです。思えば年まわりが悪いのに普請をした無礼、凡夫ゆえに気づけませんでした。何も方角だけ をみて済んだとは思っておりません。無礼いたしました」と声を発した。

ここまでの前半生が、禁忌に振り回された文治の足跡である。金神の禁忌を守りながらも、結局その祟りにあうこと になったが、九死に一生を得たのはなぜだったのだろうか。またその後、金神との関係はどう展開していくのだろうか。まずは先行の学説成果から、小沢論と村 上論の禁忌の超克をたどっていきたい。

3節 禁忌の超克

小沢氏は『生き神の思想史』 (23) で、文治が大 患から復活した理由に、凡夫性の自覚を挙げている。小沢氏によれば、文治は、もはや一般的な常識ではどうにもならない状況で凡夫として自分の限界をみつ め、そこにあらゆる問題の根源を探そうとしたのである。その凡夫観は人間の存在拘束性、被造物性、有限性の自覚に値する。本来なら除けたり封じたりするは ずの金神に、自己の存在をかけて向かい合い、その苦難の意味を問いつづけて止まなかった文治の主体的なかかわりが、新たな民衆の祖神との出会いを準備して いたのだという。また、人間をすべて凡夫とみるか、マジカルな霊能の保持者とみるかは、神性の高さとその権威の集中度にかかわり、教祖があらゆる民衆の救 済を願う時、そうした偉大な力を発揮し得るのは唯一で至高のものでしかあり得ない。文治の神の神性は、とくに強力な威力をもって日常生活にかかわる金神に 集中し、やがてその金神が難儀な氏子の立ち行きを本願とする普遍的神性を備えた「天地金乃神」として、自らの姿を顕現するのであった。

かような趣旨で小沢氏の唯一神論は展開していくのだが、それは、あくまでキリスト教的表現を用いた説明でもある ようだ (24) 。本稿の目的は、文治に信仰された金神が、その性格を変転していく過程を見つめ、そこから前近代社会の構造変化を捉えることにある。そのた めには、もう少しこの金神の神性開示への経緯をじっくりと見つめねばならないだろう。大患を乗り越えた文治は、小沢氏の言うように、この後本格的に信仰を 金神へと集中していく。

「覚帳」書き出しの安政四年の事蹟には、実弟・香取繁右衛門の乱心に駆けつけた文治が、弟の口を通じて金神と直 接問答ができるようになった経過が記されている。それ以降は信仰の展開にともない、やがて金神から利益を授かるようになり、その対象たる神名も、「金神」 から「金乃神」となる。「金乃神」はさらに「天地乃神」「天地金乃神」と改まり、天地万有を統一する神の信仰に、文治は到達した。神名が改まりゆくにつれ て、己の名も、「赤沢文治」が「文治大明神」に変わり、さらに「金子大明神」「金光大明神」「金光大権現」と次々に改まって、最後には「生神金光大神」と なっていた。

こうした文治の信仰過程において、金神が窮極の福神と捉え直されるターニングポイントは、安政六年旧十月二十一 日の事蹟であろう。「金子大明神」となった文治が、「天地金乃神」から人類救済を頼まれるからである。詳細は「覚書」には次のように記されており、それは 今日、立教神伝と呼ばれている。

金子大明神、この幣切り境に肥灰(農業)さしとめるから、その分に承知してくれ。外家業はいたし、農業へ出、人が 願い出、呼びに来、もどり。願いがすみ、また農へ出、またも呼びに来。農業する間もなし、来た人も待ち、両方のさしつかえに相成り。なんと家業やめてくれ んか。其方四十二歳の年には、病気で医師も手を放し、心配いたし、神仏願い、おかげで全快いたし。その時死んだと思うて欲を放して、天地金乃神を助けてく れ。家内も後家になったと思うてくれ。後家よりまし、もの言われ相談もなり。子供連れてぼとぼと農業しおってくれ。此方のように実意丁寧神信心いたしおる 氏子が、世間になんぼうも難儀な氏子あり、取次ぎ助けてやってくれ。神も助かり、氏子も立ち行き。氏子あっての神、神あっての氏子、末々繁盛いたし、親に かかり子にかかり、あいよかけよで立ち行き、とお知らせ。 (25)

また、資料としての性格の違いを示すため、「覚帳」同年同日の記述も次に引用したい。

当十月二十一日お知らせ。麦まきしまい安心いたし。色紙五枚買い、五色の幣切りてあげ。この幣を切り境に肥灰さしとめに相成り候。おいおい家業やめと仰せつけられ候。 (26)

後者の記述も、簡素ではあるが基本的な内容は読みとれよう。五色の紙でつくった幣を切ることをきっかけに農業を 辞めさせられ、世俗的な生活も欲望も捨てて神前広前に仕えよ、という神示がくだったのだ。おそらく立教神伝はこのメモから構想され、この世に数えきれない ほどいる難儀な氏子の悩みを神に取り次ぎ、助けてあげてほしいという神頼みとして、「覚書」に清書されたと考えられる。その清書内容の解説は、村上重良著 『金光大神の生涯』によると、「文治はこれを機に、それまで遠く離れて畏怖の念を抱いていた金神と出会い、金神への信仰を深めて、やがて自分を守り、自分 と助け合う金乃神の信仰に到達した」と説かれている (27) 。村上説では、金光教の成立には、突然の激しい神がかりも、神秘的な終末観もなく、時として教 祖文治の口から神の言葉が流れ出ることはあったが、それはシャーマニズム的な神がかりではなく、深い祈念の中で自ずから感得した神の言葉を筋道立てて述べ たものであり、創唱者としての性格は、生き神教祖とは異質であったという。ようするに文治は、オカルト教祖ではなく、あくまでも人間本意のきわめて近代的 な教祖だったということだ。また、村上氏は次のようにも語っている。

金光大神(文治)にみられる、信仰の合理性・開明性と政治の相対化を指標とする近代宗教の芽ばえは、その最晩年に成立した国家神道体制によって、自主的で豊かな展開を阻まれた。 (28)

晩年の文治周辺には、金神を介した信仰共同体が形成されていた。だがその時期は、国家神道体制という社会状況と 重なっていたのだった。立教後の原始金光教団が、明治以降に神道とどうかかわっていったのかを探るべく、次章は、最新の研究成果が期待できる桂島宣弘著 『思想史の十九世紀』を軸に、考察を進めていきたい。

第三章

1節 原始金光教団の神道化

二章でみてきたように、文治の前半生は、金神に表 現されるいろんな禁忌に悩まされながら、実意をもって困難を克服していった過程である。その甲斐あって金神は、福神に変転し、なお文治に神助けの願いを告 げるのであった。これはおよそ三十前、村上氏によって迷信打破の教団論として評された。また、約十年前には小沢氏によって、多神教的な信仰にあった凡夫観 が、普遍的唯一神へと誘ったという、生き神としての教祖論に評価が移行されてきた。だがここ数年、とくに初期金光教の信仰共同体が注目され、「教え」と教 導職の関係を国家神道イデオロギーとして考える理論も構築されている(29) 。

これより三章で扱う桂島宣弘著『思想史の十九世紀』は、その集大成である。そのまえがきには「近代の眼差しに規 定された研究視角自体が、実は民衆宗教の『他者』性を隠蔽し、容易に『自己』の側に回収をはかる当のものだということであった」とある。つまり、他者を認 識することではじめて自己の姿がうかがえるのであろう。本稿が求める前近代社会の構造変化をたどるにも、現実との連続性を想定しては何かを隠蔽しかねな い、という問いを突きつけている。では、この問いを考慮しながら、明治以後の文治の思想、桂島氏が研究する文治へのアプローチを見ていきたい。

桂島氏は同書『思想史の十九世紀』で、村上氏が言う「信仰の合理性」という評価を退き、近世の民衆思想が有して いた土俗的要素の豊かさを強調していると思われる。村上氏などによる従来の論は、天皇万歳にあらわされる否定的な戦前像を前提にしており、戦後風潮の来歴 だけを前近代の民衆宗教からたぐり寄せた近代主義的視点である、という見方をしているようだ。なにしろ実際には、初期金光教の集団は、桂島氏の言うよう に、教祖文治を中心に、多数の「生き神」たる「金神」を擁する流行神の集団(同じように金神を信仰する文治周辺の人たち)として、民衆の前に姿を現してい たのである。村上説のような近代宗教とは、ほど遠く考え難い。

また、その金神の見方を逆転させたからと言って、当時の社会状況からみると、まったく新しいことを始めたことに は必ずしもならない。流行病が万延していた状況の中で、病気平癒の利益を求め、難儀な民がうわさを聞きつけ集まってきたわけである。その意味では、既成の 信仰を大きく逸脱するのではなく、あくまでもその範疇で助かりが説かれていたのだった。桂島氏によると、立教当初の文治の宗教活動は、金神による病気治し であり、元治元(一八六四)年に白川家から神拝式許状を取得したことも、既成の宗教教団と鋭く対立している自覚がなかったからだと押さえている (30) 。 だからこそ、明治以降の文治は、新しい意味での神道への布教公認に対立意識をもっていくのである。それは狭義の神道ではなく、国家神道なるものであった。 桂島氏は、この初期金光教の神道化過程を次のように述べている。

金光教祖赤沢文治は、金光教を近代的「宗教」、神道とすることを最後まで認めていなかった。(中略)元治年間に金 神から建築を命じられた「金神社」とは、文治の信仰する金神=天地金乃神の「まいり場所」を意味するものであったが(中略)文治の没後に設立された「素盞 鳴神社」「金乃神社」は、文治が構想した「金神社」と本質的に相違する、近代神道の神社にならざるを得なかった。 (31)

文治周辺に広がった金神の信仰共同体は、明治以後、淫祠邪教視されはじめる。維新の政策によって金神は迷信とな り、従わない彼らは神前撤去の弾圧を受けるようにもなった。それでもなお金神を信仰していた晩年の文治にとって、近代的神社の建立は、布教合法化のためと は言え、「この方のは神がちがう」と、反対意志を隠せない仕事だったのだ。だが、「人が助かりさえすればよい」 (32) という文治の意思とは裏腹に、文治 没後の二年を経た明治十八年には、神道備中事務分局付属の金光教会が設置される (33) 。これによって初期金光教は、「宗教」たる神道として公となり、民 衆宗教に対して淫祠邪教視される眼差しを払拭することはできた。しかしそれは、いわゆるキリスト教に始まる本来的宗教ではなく、「非宗教的国家宗祀」、つ まり「宗教」ならざる神道として、文治の思想は近代に構成されていったのだった。

以上のような桂島氏の研究から、神道国教化政策により淫祠邪教視された土俗的要素が排斥され、結果として金光教 は組織化を公認されたことがわかった。つまり、金神は、神道によって変革されていったということになる。前近代社会の構造は、どうやらこの神道なるもの に、その秘密が隠されているようだ。

秘密究明の前に、ここで神道の定義をはっきりとさせておきたい。桂島氏は、伊勢信仰や国学運動の展開をも隠蔽、 阻止してきた観念装置として神道を一括りにしている。あらゆる土俗的要素を隠蔽した神道を、近代の産物と見なし、前近代社会が有していた土着の民俗性の豊 かさを拾い上げている。基本的には本稿でも同様に、神道によって土俗的要素が失われていったと見るのだが、その変成を神道施策から直接伺うのではない。金 神という土俗性は、神道施策が成立する過程に、いかなる因果関係を保ち得た結果、その豊かさを失っていったのか、という問題である。よって、その神道の定 義も少し異なる。

維新の神道政策が成立した背景には、垂加神道、国学、水戸学など、いろんな流れから尊皇攘夷運動が展開されてい る。しかし、それらはみな、大衆に身近な思想だったとは限らない。その大衆性を約束し、神道施策にも連続するのは伊勢信仰の天照皇大神である。江戸期の家 の掛け軸には、三社のうち真中に飾られ、国学運動にも展開され、神道施策においては、集権的な国家祭祀の中心に置かれた神なのである。土俗的な伊勢信仰か ら、神道施策に至るまでの経緯を含めた上で、それらの総称を神道と定義したい。

2節 禁忌の転回―金神から天照皇大神へ

桂島氏の論とは若干ニュアンスを異にするようだ が、ここにきて金神で神道を捉え返す有効性を感じた。それは天照皇大神にあると思える。現代的な意味では、良くも悪くも民族性、皇祖性、太陽の神性という 多様な性格がはめ込まれた神。時代によってその意味はまったくあべこべに異なっている。前近代社会では、狭義の神道が説くように、日本の文化的シンボルと して表される祖霊信仰や共同体意識の具現体だった。しかし、近代に至る社会の流れの中では、国家神道イデオロギーに利用された神である。展じて戦時中に は、世の人間を天皇の臣民にするべく輝いた偉大な皇祖神となっていった。文治の晩年は、まさにそのネガポジ二つの天照皇大神観が、どちらも当てはまる時期 である。文治のそれは、金神を介してどう受け止められていたのだろうか。

江戸中期に本居宣長が提唱した『古事記』、復古神道と言われる国学、その方面の思想は大国隆正が説いたアマテラ スのほか、オオクニヌシ、イザナギ・イザナミ、アメノミナカヌシなどたくさんの神であった。国学思想を民衆思想と同一視してはいけないのだが、少なくとも 当時流通していた学からは、「記・紀」神話に登場しない神は姿を消した、と言える。だがしかし、ここでもう一度、抹消された金神を他者としてたぐり寄せる ことで、現在自明な「記・紀」神話の神の中に、前近代社会からの差異が見えてこないだろうか。

本稿では最後に、このような視点で、これまで考察してきた文治の研究を材料にしつつ、天照皇大神を金神とのかかわりで考えていく。換言すれば、金神の側から天照皇大神像をつかんでいこうとすることで、すべてをまとめたい。

文治の「覚書」安政五年の事蹟には、以下のような金神と天照皇大神の問答がある。

天照皇大神様、戌の年氏子、私にくだされ候。へい、あげましょう、と申され。戌年、金神が其方もろうたから、金神 の一乃弟子にもらうぞ、と仰せられ。金神様、戌年あげましょうとは申したれども、えいあげません。戌年のような氏子は、ほかにござりませぬ。それでも、 いったんやろうと言うてから、やらんとは、いつわり。ぜひもらいます。おしければ、戌年の代わりに、せがれ巳年成長仕り、お広前まいらさせまするから、く だされ。さよう仰せられますれば、あげましょう。くだされれば安心仕り候。 (34)

一悶着をおえて、天照皇大神の氏子だった文治が、金神にもらい受けられ、「一乃弟子」とされる神話である。この できごとを便宜上「もらいうけ」と呼びたい。この内容からは、伊勢系信仰(村落共同体)からの離脱であり、金神へ信仰意識が移動する時期として読み取り得 る。だが、「覚帳」の同じ日の事蹟には、「同じく九月二十三日、一乃弟子にもらうと仰せつけられ、家内中申し渡し」 (35) としか記載されない。まさにメ モであり、天照皇大神のことは何も記されていないのだが、この箇所の執筆時期は、まだ江戸期だった可能性が高い。「覚帳」はその執筆時期が、リアルタイム に近いのだ。つまり、天照皇大神が文治の中で大きな存在になったのは明治以降とみるのが妥当である。

この「もらいうけ」メモを広げ、明治以降に「覚書」「覚帳」で記した「もらいうけ」の再記述では、いずれも天照 皇大神を金神と同列に並べている。先に引用した濃い内容が「覚書」、これから引用するのが「覚帳」の「もらいうけ」の再生事蹟である。つまり、「もらいう け」を「もらいうけ」たらしめたのは、安政五年の時の文治ではなく、改暦を経た明治七年以降を生きた文治なのである。桂島氏も、それは別の関心だが、この 「覚帳」明治十五年の箇所を次のように引用している。

「伊勢天照皇大神氏子金光大神、金神が元もらい、天地乃神が立つようになりたから、道理は神も氏子も一つことな り。金光、神なり。生家も神に用い」(明治十五年[一八八二]十一月)とあるが、まさに「金神」が文治をもらい、逆にいえば、文治に信仰されることによっ て、その「祟り神」とは異なった「神」の「働き」が示され、「天地乃神」が「立つ」ようになったと述べられているわけである。 (36)

桂島氏は、ここに現れる天照皇大神と金神の関係を、とくに二種の異なる神の同時上映とは、捉えていない。しか し、この「もらいうけ」は、「覚書」に見られるよう、伊勢系信仰から金神信仰への転換起点とも読みとれるのである。ただ、右に引用した事蹟は明治十五年で ある。当時の社会状況を考えれば、この天照皇大神は国学の影響下にある勤皇的アマテラスなのかも知れない。その答えは明治十五年旧九月十日、二カ月さかの ぼった同じ「覚帳」の文治の事蹟に端的に示されよう。

十日、一つ、宮地こしらえ。親神天照皇大神宮の宮も地中(境内)へ建てさせ。先祖の宮建て、同じく。 (37)

この「親神」という天照皇大神観が、同じ書物の二カ月しか違わぬ事蹟に記されているのである。「親神」から浮か ぶ天照皇大神像は、祖神という先祖崇拝的なビジョンを連想させる。勤皇性よりも総氏神としての民族的性格が強い。きわめて祖霊的である。文治の天照皇大神 観が祖霊的だということは、国学運動で代表的に見られる勤皇的アマテラス観が広く説かれた、近代化の社会状況には当てはまらないのである。それなのに、な ぜ文治は勤皇ではなく、祖霊に近い像を捉えねばならなかったのだろうか。何が文治にこの内容を記述させたのか。その理由を、同じ「覚帳」から読み取りた い。親神としての記述からさらにさかのぼること三年、天照皇大神は、文治に直接、ある頼みを語りかけていた。「覚帳」明治十年の事蹟である。

丑七月二十九日早々御礼申しあげ。天照皇大神様よりお頼みに相成り。天地金乃神様ご同様に、忌み、服(服喪)、不浄、汚れ申さず、諸事のこと氏子へ広め。金光大神お頼みに相成り。 (38)

安政五年の「もらいうけ」メモから数えて十九年後、天照皇大神という神が金神の文脈で、禁忌の否定を要求する汚 れなき神として再認識されていたのだった。文治の場合、金神(土俗的要素)から禁忌の転回が始まり、やがて天照皇大神(公としての神道)へと視野が拡張さ れていったのではないだろうか。それが、金神ではなく、天照皇大神にみる客観的な「禁忌の転回」なのである。

終わりに

前近代社会の構造は、土俗的要素が豊かであり、そ れは淫祠邪教視もされ、隠蔽されたものも多くある。だが、文治の金神に限らず、幕末期を生きた民衆には、土俗的要素の反照による「禁忌の転回」という社会 構造の変化があったのではなかろうか。少なくともそれは、国学とは別の思想であり、近代社会へのひとつの行程としてぴったり当てはまる。身体を払い清めれ ば罪が浄化される、というモラル観では、近代の地平をながめることすらできなかったであろう。勤勉、倹約、孝行などの通俗道徳の実践と、天皇や政府への敬 服を唱える社会の型。それが近代化であり、民衆が押し進めた思想である(39) 。

こういう結びにしてしまうこと自体、桂島氏の示唆する近代の言説空間に、従属してしまうことなのかも知れない。だが、他の方法で他者を想定することは、どう可能なのだろうか。私には、自己認識のための他者も、他者たり得るものなのかさえわからない。

国家政府にのっかったつもりで我々一般大衆は、実は自らが近代化への方途を掴んできた。だが、いまさら森林伐採 を嘆き、復古的に森林へ禁忌を唱えてみても、前近代社会に有した自然への畏怖観念は、もうつかみどころがないのであろう。過去に否定したものをいま肯定し 直す、という構図は成り立たない。禁忌は否定されたのではなく、転回していったのだ。ゆえに二十一世紀への環境問題は、それ自体近代的思考に膠着されよ う。思想史の二十一世紀も、他者としてあらねばならないのだろうか。

ともあれ、字がようやく書けたばかりの常人・赤沢文治の自伝資料は、歴史的遺産として以下の典型的な問いを現代に投げかけてくれたように思える。祟り(戦慄や恐怖)とは、回避するのではなく対峙するものだったのだ。

平成十二年一月六日 脱稿

立命館大学2000年度卒業論文 安○○之

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