神誡神訓拝承の次第
ご神誡、ご神訓拝承の儀は、明治十五年八月のこと、私どもの郡、安那郡平野村の長岡宣氏(小学校長兼神官。私が教師になるにも尽力してくれ、いろいろ道のことにも尽力した人である。安那郡神道支局副長)の紹介状を持ち、鞆の沼名前神社宮司ヌナクマジンジャグウジ吉岡徳明ノリアキ師のもとに至り、「備中大谷に生神金光大神という生神あり。此方はかくかくの教えをせられ、私はその信者であるから、この道を別派独立したいので、宮司に何かとお取り立てを願いたし」と申したるに、吉岡師「その教えの信条があるか。その信条によっては独立できぬことはない」とのこと。(2)信条ということがわからぬので、「信条とは何でありますか」と問うたら、「何か、その教えを箇条に書いた物はないか」「それはないが、日々のご裁伝があります」「それを箇条に書いて、見せてください。それを見たうえで、何かとお世話しましょう」と言うてくれた。ここにおいて、将来を頼みおきて帰った。(3)翌日、生神様のみもとに参り、事の次第を申しあげしに、その時のお言葉、
「此方は、独立してもせんでも、人が助かることさえできれば結構である」
と仰せられた。(4)金光様の所では、明治九年の県令により人を助けられることもできることになっていたが、出社の方はなかなか困っていた。「金光様おわする間は仰せのとおりで結構でありますが、お隠れの後は何か書いた物がありませぬと、世のはやり神と同じように思われます」と申しあげた。(5)この旨、神前に奏せられて、ご裁伝あり、
「神の教えることを何かと書いておくがよかろう」
とあり。(6)この時、教祖いたくお喜びあり、
「あのようなお許しがあった」
とお喜びになった。この時の教祖のお心持ちを受け取られたし。(7)それより社務所へ行き、山神(金光萩雄)様に先の次第を申しあげたが、これまたお喜びあり。
(8)十五年中は、書きあげる物もはなはだ少なかった。十六年正月より、
「これも書いておくかのう。これも書いておくかのう」
と仰せられ、拝承しては回らぬ筆で書いた。かようなわけで神誡神訓はできたのである。(9)一つできれば山神の君に申しあげ、山神の君も書きおかれた物もあり、相合わせて今日に至ったのである。これ実に独立準備のはじめである。
(10)間もなく吉岡師は東京に帰り、内務省に入られた。私どもは無知文盲にして、いかにして独立すべきかの見当さえ立たざるところを吉岡師が言ってくれ、生神、神に奏せられ、お許しがあった。恐れ入ったことであった。