ご伝記 金光大神(昭和28年刊行版)

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.. 刊行の言葉

 ここに、わが教祖「金光大神」の伝記を、刊行することが出来ることは、本教信奉者一同のこの上なきよろこびとするところである。
 わが教祖は、徳川幕府の末期から明治維新にかけての大変革期に当たり、備中の片田舎で、一農民として、あらゆる人生の苦難を体験し、その中から実意丁寧神信心によって、真実な生き方を体現されたのである。そうして、その生き方が、次々に伝えられてゆくことになり、難儀に苦しむ人間が、次第に広く助けられることになったのである。かくして、この人間の世に初まった生神金光大神取次の道の生きた働きによって、爾来幾百千万とも数知れぬ人達が現に助かって来ているのである。その様にして、おのずから成立したのが本教であるから、金光大神によって初めて体現されたこの道による生き方が、本教の教義であり、道そのものなのである。
 そこで、金光大神の正確で詳細な伝記は、本教がどういうものであるかを明らかにしてゆき、われわれ人間が助かる道の取次の働きを体認し顕現していくために、どうしても欠くことの出来ないものである。
 ところがそれが、個人の著作にかかわるものは数種あるが、本教として公刊されるということが出来ないまま今日に至ったのである。それは、これまで度々の企画にもかかわらず、内外の事情から、金光大神のありのままの事跡を編集し公刊することが出来なかったからである。それが、自由に、また充分に出来ることになったのは、外には太平洋戦争が終って宗教自由の原則が確立せられ、内には本教も亦現教主の下に立教の立前そのままに一教の事を進め得る様になったからのことなのである。
 かくして、教祖伝記奉修所が開設せられたのは昭和二十二年六月であって、爾来和泉所長以下全員の数年に亙る昼夜不断の努力によってその稿が完成し、今ここに教祖七十年大祭を期して公刊することが出来ることになったのは、誠に感銘に堪えないところである。
 なお、金光大神の事跡は今後も絶えず調査研究を続けてゆかれるべきものであって、その成果に応じて本書も亦改訂修補せられてゆくことは、いうまでもないところである。また、本書に収められている神伝教語と教典中のものと字句の相違するところがあるのは、この道の働きがその受け伝える人それぞれに応じてのものであるところから来て居るところもあると思われる。その点、読者の諒とせられることを望む次第である。
 書名の文字は、現教主の筆になるものである。
 昭和二十八年十月
 金光教教監 高橋正雄

.. まえがき

 「此方が、天地金乃神より、おかげを受けて居る事を、話にして聞かす」ことが、そのまま、金光大神のおしえとなっているのであるから、わが道にあっては、金光大神の事跡が、ある意味で、そのまま教義である、ということができる。この意義において、金光大神の事跡をしることは、わが道の信心にとっては、なによりも大切なことなのである。
 したがって、今日まで、金光大神の事跡は、ある程度、あきらかにせられていたが、それと同時に、あきらかにすることの、はばかられたものも、すくなくなかった。たとえば、「金光大神」などいう神号に関すること、「生神」の信仰に関することなど、すなわち、その例である。奉斎主神たる「天地金乃神」の神名のごときも、そのままでは、まともに出すことができないで、附会的説明を、くわえねばならなかったのである。前者は、現人神たる天皇の神聖を、おかすものとの非難に対するものであり、後者は、神道教派における奉斎主神は、わが国典記載の神でなければならぬ、とする制約にもとづくものであった。前者は、旧来の国民感情にねざすものであり、後者は、明治初年以来の不文律によるものである。これ等の事情のもとに、金光大神をはじめ、われわれの先輩は、どれだけの苦辛をなめたであろうか。かかる事情のもとにあっては、金光大神の伝記のごときも、到底、その真実をあらわすことのできぬのは、いうまでもない。
 しかるに、太平洋戦争終結とともに、信仰自由の原則が、確立せられることとなり、ここにはじめて、金光大神の事跡が、なんのこだわりもなく、ありのままに、あらわしえられることとなった。まことに、今昔の感にたえない。
 教祖伝記奉修所が、呱々のこえをあげたのは、昭和二十二年(一九四七)六月のことであった。金光大神の事跡に関する主たる典拠となるものは、『金光大神御覚書』である。その他、これに関する資料として、われわれの、とりあげたおもなものは、『教典編纂委員会資料』および『小野家文書』であった。
 『金光大神御覚書』は、金光大神が明治七年(一八七四)十一月二十三日、「覚、前後とも書出せ」との神命を奉じて、みずから筆をとった、自叙伝ともなづけるべきものであって、現在、原本の所在は不明である。
 さいわいにも、「明治二十一戊子年旧八月四日マテニウツシ成就致候。二代、金光宅吉」と奥書のある『御覚書』が、金光教主のもとに襲蔵せられているので、本教は、これを金光大神の事跡に関する根本典籍とさだめた。それは、筆を、その生時におこして、明治九年(一八七六)六月二十日の条におさめてある。
 奉修所は、まず、その第一着手として、この『御覚書』を検討することとした。その文章は、漢字の音・訓、万葉仮名・平仮名・片仮名などを、自在に駆使して、当時の方言・訛音・諺語などを、ありのままにつづり、そのうえに、固有名詞、姓名にかえる歳書、当時の、地方の風俗・習慣、農事の作法なども、多分に、おりこまれていて、ただに、よみくだすだけでも容易のことでなく、そのうえ、誤字・作字・脱字・重複なども、ときにみいだされ、その内容を、一々あきらかにするには、多分の根気と研究とを必要とする。前後、三回にわたる検討によって、われわれは、かろうじて、これを通読することができ、かつ、その内容をも、ほぼ、補足することができるようになった。
 これが、うらづけとなったものは、『小野家文書』である。小野家は、地方の旧家であって、寛政四年(一七九二)以来、大谷村庄屋を世襲し、なかにも光右衛門翁は、学徳をかねそなえた、地方まれにみる英材であった。『小野家文書』は、この家に蔵せられた公私の文書であって、当主、小野鉄之助氏が、その、ほとんど全部をあげて、わが金光教本部に寄贈せられたものである。その内容も、もっともふるいものには、寛永十二年(一六三五)『大谷村池符堤代砂入川成帳』というものがあり、前記、光右衛門翁、その子四右衛門翁二代にわたる記録類は、きわめて精細・的確なものであって、あたかも、農耕時代の金光大神の生活記録の、うらづけとなるものである。そのうえ、江戸末期の、地方農村の事情を、あきらかにするうえにも、まことに珍重すべきものである。
 『御覚書』のうらづけとなったものには、このほか、『伯家文書』『蒔田家譜』『岡山県文書』『岡山県通史』『岡山県郡治誌』『浅口郡誌』『中塚一郎浅口郡誌』『吉備郡史』『小田郡誌』などがある。この中、『岡山県文書』は、佐藤範雄先生が、その生前、金光教会創設のときの文書を検べる必要から、県の書庫にこれをもとめて、写真にとられたものである。この書庫は、すぐる昭和二十年六月の戦災に烏有に帰したので、これは、ふたたび、得がたきものとなった。
 『教典編纂委員会資料』は、明治四十三年(一九一〇)、教典編纂委員会が、教典編纂の資料として、当時、蒐集したものである。内容は、金光大神に、したしく取次を仰いだ人々の、のこしていた記録や、当時、現存していたものの、談話聞書の類であって、その数、すべて百余人、千二百節におよぶものである。
 すなわち、これ等の人々が、参拝のたびごとに、金光大神から、したしくうけたまわったものが、その大部分であって、金光大神の事跡に関するものと、教義に関するものとの、二つの類型にわけることができるようである。そして、これ等は、いづれも、ひとしく、金光大神の言行をつたえるものながら、その人、その人の、信念や教養の程度によって、それぞれに、そのうけとりかたに相違がある。その、ひとつひとつが、ある意味で、一つの金光大神観をなしているものと、みることができるのであって、まことに興味ぶかいものがある。
 以上のほか、資料として、われわれのとりあつかったものは、道の先覚者の伝記・記録・遺物など多数にのぼり、佐藤範雄先生の『信仰回顧六十五年』のごとき、千六百頁におよぶ大部なものもある。
 われわれは、はじめ『御覚書』の全篇を、主たる事項を中心として、いくつかに区分しながら、原文のままを、おおやけにしよう、とくわだてた。したがって、ほかの資料も、必要に応じて、原文のまま引用しなければ、体裁をなさぬこととなり、かくて、各資料が、個々の事項にしたがって、分類記載せられるようなものとなった。これは、資料をあつかううえには、もっとも忠実な方法であるとおもわれ、そこに長所もみとめられるが、なにぶんにも、よみにくいきらいがある。そこで、われわれは、参与会の意見を参酌しながら、それ等を消化して、みやすく通読できるように、しばしば、稿をあらためて、ここに、ようやく、成案を得ることとなったのである。
 われわれは、今日まで、金光大神を「教祖」とよび、安政六年(一八五九)十月二十一日の、神の、取次のたのみごとを、「立教神伝」とよびなれているが、これは、はたして適切であろうか。もとより金光大神は、金光教という教義・教団の開祖には相違ないのであるが、それは、ただ、開祖という、歴史的存在にとどまらずして、まことに、神と人との取次者としての、永遠の存在である。したがって、本書には、「教祖」という言葉を、なるべく、さけることに注意した。この永遠者の、永遠にいき、永遠に活動し、永遠に進展してゆく一つの段階として、その、現身をたもたれていたあいだの事跡をとらえて、これを記述したのが、すなわち本書である。
 本書は、今日までに、われわれにあたえられた資料を、一応、とりまとめたもの、というにすぎない。もし、今後、さらに、あたらしい資料が、みいだされたならば、本書は、その都度、ただちに訂正もし、増補もせられねばならぬものであることは、いうまでもない。
 本書が、わが教主の、あつきいのりのたまものであることは、もうすもかしこきことである。教内各位の援助と、参与諸氏の助言と、所員一同の努力とによって、いまや、ようやくにして、世にでることができるようになった。まことに、感激にたえぬとともに、身の不徳と非力とを、いまさらに痛感して、ただ、おわびあるのみである。
 わたくしは、今後とも、本書完成のために、大方の、一段の指数を切願してやまない。
 昭和二十八年七月
 教祖伝記奉修所にて 和泉乙三

.. 例言

 * 本書は、いわゆる新仮名遣によって記述し、ふり仮名も、これにしたがうこととし、引用文も、おおくは、これに、ならうこととした。
 * 年号には、西暦紀元年数を附記して、年を繰るうえのたよりとした。
 * 年齢は、すべて、かぞえどしである。
 * 本書にしるした、神のみさとし、ならびに、金光大神の言行にして、とくに、典拠をしめしていないものは、すべて『御覚書』(二代様本)によっている。
 * 本書には、『御覚書』そのほか、金光大神の筆になる原文を、処々に引用した。それ等の文章にもちいられている文字は、きわめて複雑なので、これが引用にあたっては、おおくの場合、よみやすくこれを書きかえ、かつ、ところどころに括弧を、ほどこした。その文体も、ほとんどが、いわゆる連用段どめになっているので、解しにくいとおもわれる箇所には、傍注をほどこした。
 * 『御覚書』には、「願」と「頼」とが、ともに「願」となっていて、これを「ねがう」とよむべきか、「たのむ」とよむべきかは、その場合の事情や、前後の関係によって、これを判別するよりほかに、みちがない。これは、いくたびかの検討のすえに、さだめられたよみかたに、したがうこととした。
 * 本書「金光大神の広前とその取次」中、金光大神が、特定の人に対してあたえた「理解」、および、その前後の記述にして、とくに、その典拠をしめしたもののほかは、すべて、その本人の記録、もしくは、その談話聞書によったものである。
 * 本書中、『教典編纂委員会資料』および本所に於いて採集した資料による記述は、その事項のもとに、これを提出したものの名を、括弧を附して示すこととした。
 * 会話その他にもちいられてある方言や訛音の類は、なるべく資料のままをとることとした。したがって、解しにくい場合は、その意味を漢字であらわし、原文の言葉を、ふり仮名でしめし、かつ、そのあるものには、注をほどこした。
 * 本書は、記述の簡潔をはかるために、尊称・敬語の類を、なるべく、さけることとした。
 * 地名にして「現何々」と註記してあるのは、すべて昭和二十八年六月現在の行政区画による。
 * 本書は、巻末に、主要固有名詞ならびに主要事項索引を附して、読者の検索に便することとした。索引は、五十音図の順に排列し、漢字は、特殊のよみかたのもののほかは、字音によって排列した。
 * なお読者の参考に供するため、本書の記述に関する詳細な注釈・金光大神年譜・語彙・人物志などを取りまとめ別冊として刊行することとする。
 以上

.. 金光大神 目次

 金光大神の筆跡(写真)
 金光大神取次の広前(写真)
 刊行の言葉
 まえがき
 例言

 一、時代の概観
 (一)金光大神とその時代
 (二)農村と都市との分離
 (三)階級制度
 (四)農民の生活状態
 (五)町人の勢力
 (六)宗教概観
 (七)陰陽道の俗説
 (八)金光大神と金神
 二、金光大神の生涯
 (一)金光大神の出生とその生地
 (二)金光大神の養家と大谷村
 (三)少・青年時代と小野光右衛門
 (四)家督をつぐ
 (五)お四国めぐり
 (六)住宅の改築
 (七)みかげのうけはじめ
 (八)神のたのみはじめ
 (九)信境ようやく進展す
 (一〇)神の一乃弟子
 (一一)その名あらたまる
 (一二)隠居ねがい
 (一三)子女あいついで病む
 (一四)取次のたのみ
 (一五)取次当初の周囲の事情
 (一六)教化ようやく遠し
 (一七)修験者の亡状
 (一八)神の簸かえ
 (一九)取次広前建設のたのみ
 (二〇)養母逝く
 (二一)地方藩主並に藩士の入信
 (二二)神の一礼
 (二三)祭日の制定
 (二四)明治維新の国是と金光大神
 (二五)神主の職をうしなう
 (二六)改暦と金神社
 (二七)神前撤去の命
 (二八)神名さだまる
 (二九)金光大神とその家族
 (三〇)『覚書』の執筆
 (三一)岡山地方の教勢と白神新一郎
 (三二)防長地方の布教
 (三三)教勢近畿にのぶ
 (三四)四国路の先駆
 (三五)教団組織の機運
 (三六)金光大神の修行
 (三七)現身の取次を終う
 (三八)一子大神の帰幽
 三、金光大神の広前とその取次
 (一)金光大神取次の広前
 (二)金光大神の風格
 (三)金光大神の神勤
 (四)神前の奉仕
 (五)金光大神の取次
 (六)取次の権威
 (七)金光大神の眼識
 (八)取次のこころづかい
 (九)「理解」の諸相
 神
 神と人
 金光大神-取次
 取次者のこころがまえ
 神と取次者
 信心の本質
 信心のねがい
 信心のすがた
 信心のこころがまえ
 信心と取次広前
 修行
 死生
 天地・自然
 みかげ
 処世・家業
 国家・社会
 婦人
 方位・日柄・忌穢
 医薬

 索引(省略)
 縮刷B6版刊行について(省略)
 (一)金光大神取次広前平面図(省略)
 (二)大谷村本谷竝津部落地図(省略)
 (三)大谷村地図(省略)
 (四)金光大神事跡関係地図(省略)

. 金光大神

. 一、時代の概観

.. (一)金光大神とその時代

… 金光教

 神命を奉じて、神と人との取次に立つ金光大神の道を、金光教ととなえる。

… 金光大神

 金光大神は、文化十一年(一八一四)いまの岡山県浅口郡金光町大字占見に、一農民の二男としてうまれ、文政八年(一八二五)齢十二にして、金光町大字大谷の農家にやしなわれ、天保七年(一八三六)養父の死によって家をつぎ、ひたすら農業にいそしみ、安政六年(一八五九)齢四十六にして、神のたのみのままに農業をすてて、神と人との取次のことにしたがい、明治十六年(一八八三)齢七十にして、その現世のわざをおえたのである。
 金光大神が、はじめて呱々の声をあげた文化年代は、歴史家のいわゆる「文化・文政時代」であった。徳川家斉イエナリが、江戸幕府十一代将軍として、位、人臣をきわめ、一世の豪奢オゴリをほしいままにし、まさに泰平の極運、江戸文化の絶頂にあったときである。
 うちつづく泰平になれて、人はただ、惰眠のゆめを、むさぼるのみであったが、これをよびさましたものは、かの外国船の渡来であった。
 外国船が、わが国におとずれることとなったのは、はやくすでに室町時代のすえごろからのことであって、一時、西洋の文物をはじめ、キリスト教なども、さかんに我にとり入れられたのであったが、江戸幕府は、キリスト教の蔓延と、貨幣の流出とをおそれて、鎖国の制をとり、爾来、厳重にこれをまもってきたのである。
 しかるに、かの蒸汽機関の発明は、西洋諸国の産業・交通・貿易など、各方面の発達を、とみにうながすこととなり、したがって、その蒸汽船が、わが近海に出没することが、年とともに、おおきをくわえることとなった。
 ことに、嘉永六年(一八五三)六月の米艦の渡来は、真に、わが国朝野を驚倒せしめる出来事であって、国論一時にわきたち、この間に処して、すでに政治の実力を、うしないつくした江戸幕府は、ほとんど手も足もでぬ醜状を暴露して、ここに明治維新の出現を見ることとなった。
 明治維新は「王政復古」をその根本理念とし、祭祀をもって百政の源泉としたのであるが、その神道的偏狭政策は、到底、当時の大勢のゆるすところでなく、「文明開化」を標榜する欧化思想によって、政治・経済・宗教・教育・風俗、その他あらゆる部面の一大革新を、うながすこととなり、それだけ人心の摩擦も、社会の動揺も、なみなみならぬものがあり、種々の混乱をまきおこした。明治十年(一八七七)の西南の役は、その勢のきわまるところに発したものとすることができる。
 金光大神の晩年には、これ等、幾多のうつりかわりを経て、薩長の勢力を主流とする明治政府の基礎が確立せられるに至ったが、一方、自由民権思想が、これに動揺をあたえはじめて、今や、まさに憲政樹立の新機運にむかおうとする時期にあったのである。

.. (二)農村と都市との分離

 金光大神は、農家にうまれ、農村にそだち、その半生を一寒村の農民として生活し、神人取次の生活に入ってのちも、「土を掘る百姓」をもって、みずから、持していた。したがって、その信心も、教義も、主として「土」にはぐくまれたのである。

… 城下町

 農村が農村として都市から区別せられるようになったのは、江戸時代になってからのことである。もとより、それまでとても、京師は王城の地として千年の歴史をもち、堺・博多のごとき都市は、開港地として、つとに繁栄していたのであるが、江戸時代に入って、城下町が各地にあらわれるに至って、都市と農村とが、しだいにわかれ、都市は純然たる消費地となり、農村は、もっぱら、これに物資を供給する役目をおわねばならぬこととなった。

.. (三)階級制度

… 政権維持の政策

 江戸幕府は、その政権を維持する必要から、ひたすら国内の鎮圧につとめ、政治的にも社会的にも、はた思想的にも、いやしくも、その動揺・混乱をひきおこすことなきよう、つねに細心の注意と警戒とをおこたらなかった。したがって、あらゆる部面に、一定の分限・格式・伝統・慣例をおもんずるはもとより、文字の書きかた、言葉づかいのすえにいたるまで、一定の規律をもうけて、あえて、これをみだすことのないようにつとめた。士・農・工・商の階級制度も、その一環としてさだめられたものであって、江戸幕府は、これ等の身分を、かりにも、こえることをゆるさなかった。

… 階級制度

 士は、身命をささげて、国土をまもり、治安をたもつ任務にあるものとして、これを四民の最上位においたことは、いうまでもない。農は「国の本」である、農民なくしてその実をあげることはできない。その任務のおもいことは、まさに士につぐものがある。農民によって生産せられたものが、衣食住、その他生活の用に供せられるには、それぞれ加工せられねばならぬ。これは、主として、工芸をこととする職人のつとめである。したがって、彼等の地位は、農民につぐものとせられる。ひとり、商人にいたっては、いのちを君国にささげる士人の武勇はもとよりのこと、農民の労役もなければ、工人の苦心もなく、いながらにして利益をほしいままにし、分厘の利をあらそい、遊楽をこととする、まことに、いやしむべき存在として、これと席をおなじゅうすることすら、いさぎよしとせぬものとし、四民の最下位におかれた。かくて商人は、職人とともに「町人」とよばれ、彼等からは、正式に租税をとりたてることすら、せられなかったのである。

… 江戸幕府の農民政策

 かくして農民は、士につぐ身分として、おもんぜられたのである。しかしながら、その実際は、五穀をつくりだすための、単なる、いきた道具にすぎなかった。「百姓を大切にする」ことは、この、いきた道具の、いたまぬように、という懸念に、ほかならぬものであって、つかえるだけつかえば、それでよかったのである。

 されば「百姓は、飢寒に困窮せぬ程に養ふべし。豊なるに過ぐれば農事を厭イトひ、業を易カウる者多し。困窮すれば離散す」るから「百姓共は、死なぬ様に、生イカサぬ様にと合点致し、収納申付様に」(昇平夜話)することが、農民政策の呼吸コツであり、「春秋、灸をいたし、煩ワズライ候はぬ様に、常に心掛べし」(慶安御触書)と、いたわるのでもあった。
 耕地は農業の基本であるから、その一歩ブ(一坪)の地をも、あれることをいましめた(五人組帳前書)のはもとより、その永代売をも厳禁し、これをおかすものは、売主・買主ともに処刑(入牢)せられた(寛永二十年御書附)。されば、田畑の開墾は、江戸幕府のたえず奨励するところであったが、ことに享保(吉宗)以後は、とみに、その度をくわえた。
 したがって、耕地をつぶして、家屋をたてることは容易にゆるされなかった。子孫・兄弟がふえ、病身のものなどのある場合は、屋敷うちに小屋をつくるか、差懸サシカケなどをほどこして、これにすまわせることとした(享保七年御書附)。これがために、当時の農家の次男・三男以下の子弟は、一戸を、別にかまえることができず、世帯はわけても、いつまでも本家の屋敷うちの、そうした一隅に起居せねばならず、その一生を、体テイのよい本家の作男たる、みじめなさまにおかれた。この境涯にあまんずることができねば、他家に養子にゆくか、勤奉公にでるか、どちらかの道をえらばねばならぬのである。養子にいっても、畢竟、他から入ったものとして、おもきをおかれるはずはなく、勤奉公も、収入のおおい都市のそれは、容易にのぞめることでなかった。

… 租税事情

 江戸時代の租税は、幕府も諸侯も、米をもってこれを徴収した。「米遣の経済」といわれた所以である。税率は「四公六民」が古来の法であったが、享保(吉宗)のころから、「五公五民」になった(地方凡例録)。しかしながら、これは大体の基準であって、実際には、各藩それぞれの経済事情によって一様でなく、あるいは「六公四民」にもなり、ついには「八公二民」にさえなったところもある。租税は、本税のほかに、いろいろの名目のもとに附加税がかけられ、「是等の儀も一概に申尽がたし。<*1>功者の入候儀」(地方要集録)であった。
 かくのごとく、江戸時代は「米遣の経済」であったが、それと同時に、貨幣がひろく流通して、貨幣経済の時代でもあったのである。したがって、幕府も諸侯も、租税として収納した米は、みな、これを貨幣にかえて、もちいねばならなかった。この仕事にあたったのは、いずれも町人であった。これがために、この仕事にあずかる町人は、つねに莫大の利益をえた。

… 武士階級の生活

 倹約を主とすることは、江戸幕府の鉄則であったが、その創始の時代こそ、厳重にまもられたれ、元禄(綱吉)以降、世のくだるにつれて、将軍をはじめ、諸侯も、武士も、しだいにおごりにながれ、それにつれて、士気もゆるめば、経済もふくれていった。泰平にともなう、自然のいきおいというべきである。
 彼等は、経済の破綻をふせぐために、いろいろの方法を講じた。すなわち、幕府にあっては、元禄以後、しきりに貨幣の質をおとして、その差額を「出目」ととなえて利益をおさめた。そのたびごとに、新旧貨幣の交換・物価の変動のために、四民は、言語に絶する混乱と迷惑とをこうむるのであった。幕府は、そのほか、町人から「冥加金」「運上金」の名目のもとに、一定の金銀を徴し、諸侯や富裕な町人に、しばしば「御用金」を申しつけて、経済の危急を、まぬがれることにつとめた。諸侯にあっては、蔵米をひきあてに、町人から借財することはもとより、あるいは領内の産業を奨励し、なかには、これが専売を、くわだてなどして、その収益をはかり、あるいは紙幣を濫発して財政の破綻を瀰縫ミホーし、さらには、ただでさえ窮乏にあえぐ家臣の禄米の幾割かを、「拝借」ととなえてとりあげ、体テイよき減俸を策するようなこともおこった。されば、幕府旗本をはじめ、諸国の士人の困窮は一層はなはだしく、ついには、士人たるほこりも気概もうしない、ただ、目前の衣食におわれるありさまであった。
 旗本諸士のあいだには、「直ジキ家督」「急養子」などとなえて、その家格を、体テイよく町人に売買することさえ、おこなわれた。幕府は、政治の改革をおこなうたびごとに、「棄捐キエン」を断行して債権を放棄せしめ、これによって、債務にくるしむ幕下の士をすくうた。

<*1>熟練

.. (四)農民の生活状態

… 農民の生活状態

 かかる世情に処して、たえず粒々辛苦の功をつんでいたのは、地方の農民であった。農民は、すでに、米麦をつくりだす、いきた道具であった。彼等は、日に夜をついで、はたらきつづけた。「百姓は、財の余らぬように、不足なきように治オサメる事」が、農民を御ギョする根本であったから(本佐録)、着物は布(麻葛)・木綿のほかはゆるされず(寛永五年定書)、それをそめるにも、紫・紅梅など、はでな色はいうまでもなく、模様をつけることも、ゆるされなかった(寛永二十年御書附)。頭髪は藁でつかね、雨具も簑・笠をもちいるのが、古来の風儀として奨励せられ(天保十三年御触書)、食物は雑穀を専一とし、米を多く喰いつぶさぬようにつとめ、大豆の葉・あずきの葉・ささげの葉、さては、いもの落葉などまでも、むざとすててはならなかった(慶安御触書)。
 農村の風儀を、堅実にたもつことは、農事をすすめるうえに、きわめて大切なことである。それゆえに、農民が、酒色にふけることはもとより、各種の賭事や遊芸に手をだすことをいましめ、浪人者をはじめ、<1>諸勧進・旅商人・旅役者・旅芸人などの、農村を徘徊することを、きびしくいましめ、武芸すら農民には要なく、まして、当座の利益をめあてに、いとなみをする町人どもには目もくれず、もちつたえた田畑を確保して、農業に精を出すべきものとせられた。  さらに農民は、いかに、みめかたちよき女房なりとも、夫の事をおろそかにし、大オオ茶をのみ、物まいり、遊山ずきのものは離別すべく、さりながら、子供おおく、<2>まえかど、恩をうけた女房ならば格別、みめさま悪しくとも、夫の所帯を大切にいたす女房は、いかにもねんごろにせよ、ととくのであった(慶安御触書)。

… 奢侈の風の浸潤

 以上のごとく、江戸幕府は、つねに意を農民政策にもちいて、いたらざるなき、ありさまであったが、滔々たる奢侈の風は、いつとなく農村にも浸潤した。文化・文政のころには、婚礼や葬儀の場合に、縮緬チリメン・綸子リンズの衣類が、もちいられたり(文政十年申渡)、家づくりにも門・玄関をかまえ、杉戸附書院や入側附イリカワツキにまぎらわしたものをつくり、室に、櫛形や彫物の欄間をとりつけ、塗物の床縁トコブチ・桟・框カマチをもちい、金銀の唐紙をたて、あるいは、外見は、いかにも質素に見せた数寄屋作スキヤヅクリなどを、建てるものもあったようである(天保十四年御触書)。

… 農村の窮乏

 もとより、これ等は、きわめて稀有のことであって、一般に、農村は、都市の発達に反比例して、しだいに疲弊の一途をたどり、農民は、町人の富裕に逆行して、しだいに窮乏にあえいだのである。
 農村を、極度におびやかしたのは飢饉である。諸侯が、厳重にわが領域をまもって、たがいに物資の流通をたち、そのうえ、海外からの輸入のみちのたえていた当時にあって、一度、飢饉におそわれては、農民は、餓死するよりほかはなかった。享保・天明・天保のそれは、江戸時代の三大飢饉といわれた。ことに天明度の飢饉における東北地方の惨状は、真に、この世のこととも、おぼえぬほどのものであったが、そのほか、江戸時代二百数十年のあいだに、大小三十五回の飢饉が、おとずれたのである(日本災異志)。
 窮乏にあえぐ農民等は、窮余の手段として、子女を売買し、「間引」ととなえて、胎児をおろしたり、分娩と同時に扼殺することが、公然の秘密として、おこなわれた。

… 農民の逃亡

 農民は、みだりに、郷村をはなれることをゆるされなかったのであるが、困苦にたえかねて、ひそかに逃亡をくわだて、都市に出稼奉公し、あるいは六十六部や順礼すがたに身をやつして、一生を、流浪の旅にさまようものが、年とともにふえ、時にあるいは、一郡一郷が、こぞって逃亡をはかるような珍事もおこった。寛文九年(一六六九)には、津山領、美作勝田郡の農民が、伊勢神宮に領主の悪政除去をいのる、ととなえ、数千人が糧食をたずさえて故郷をさって、ふたたびかえらなかったということである(徳川時代の農民の逃散)。この逃亡を当時は「逃散チョーサン」とよび、厳重にこれを警戒したのであるが、容易にこれをふせぐことができず、ために都市は、いやがうえにも膨脹し、農村は、いたずらに荒廃にまかせるよりほかはなかった。

… 農民の反抗

 租税の負担にたえかね、飢寒にさいなまれた農民は、しばしば徒党をくんで暴動をおこし、幕府や領主に嗷訴した。承応二年(一六五三)の佐倉騒動をはじめ、江戸時代には、この種の百姓一揆が、およそ五百七十四件にのぼったといわれ(百姓一揆発生の季節)、ここにも、当時の農村の様相が、ものがたられている。
 金光大神をうみ、金光大神をそだてた当時の、農村の状況なり、農民の生活は、おおむね、かくのごときものであったのである。

<1>各種の寄附ごと <2>まえまえ

.. (五)町人の勢力

… 町人の勢力

 以上のごとくにして、江戸時代の農民は、当時の特権階級たる、幕府・諸侯・士人をやしなうために、その全力をかたむけつくして、みずからを、かえりみるいとまがなかったのである。そして、これ等の特権階級は、知らず識らずのあいだに、その財力を町人階級に吸収せられ、町人ひとり天下の金権をほしいままにして、確乎不動の地歩をしめ、しだいに封建制度の基礎を、ゆすぶっていったのである。

… 天下の台所

 ことに大阪には、諸侯の蔵屋敷があって、四方の領米は、みなここにあつまり、諸侯の経済は、ことごとく、この地の町人によって維持せられた、というても過言でない。当時の大阪は、天下の富の七分を領して「天下の台所」とうたわれ、堂々たる諸侯も、大阪町人の怒にふれることをおそれた(蒲生君平)。
 はじめ「素ス町人」とののしり、席をおなじゅうすることすら、恥とした武士階級も、ここにいたって、町人のまえには頭があがらぬこととなり、平身低頭して、ひとえにその助力を、こわねばならなかったのである。

… 町人文化

 町人の勢力は、ひとり経済的方面にとどまらず、学問・芸術・文学、その他、社会文化のあらゆる部面を開拓して、江戸時代独特の「町人文化」の華をさかせた。金光大神の呱々のこえをあげたころは、まさに、その絶頂に達していたのである。

.. (六)宗教概観

 金光大神の信心は、当時の庶民の信仰状態のなかに、めばえた。
 切支丹宗門が、はじめてわが国につたえられたのは、室町時代のおわりのころであったが、安土時代には西国はもとより、王城の地にもその会堂が、そびえたち、その勢、あなどりがたきものがあったが、桃山時代にいり、これに、領土的野心あるかに観た豊臣秀吉は、ついにその布教を厳禁した。
 江戸幕府も、そのはじめから、秀吉の政策を踏襲したが、ことに、かの島原一揆の勃発(寛永一四~五、一六三七~三八)は、これに、一段の拍車をかける結果となり、ついに鎖国の断行をさえ見ることとなった。

… 仏教の興隆と僧徒の堕落

 幕府は切支丹宗門禁遏のための一手段として、仏教の興隆をはかり、何人も仏教信者として、いずれかの寺に属せねばならぬこととした。かくて仏教は、ほとんどわが国教として、とりあつかわれることとなり、社家のごときも、その葬礼は、寺僧によっていとなまれねばならなかった。そして寺は、その檀徒のために、切支丹門徒にあらざるむねを保証し、これを「寺請テラウケ」ととなえた。
 かくして仏教は、時代の寵児として、あらたに登場することとなり、したがって、その勢力を、ほしいままにすることができたが、僧徒の堕落・腐敗も、また、これをまぬがれることができなかった。

… 修験道

 当時、仏教の一派に修験道があった。修験道は、「修持得験」を宗義とし(修験道十二箇条答進)、奈良朝以前におこった、わが国特有の宗教であって、その始祖を役ノ小角という。聖徳太子このかたの、いわゆる殿堂仏教にあきたらずして、葛城・大峰を自然道場として苦修をかさね、行力を得て、種々の不思議をあらわした。平安朝に入って、その門流は、葛城・大峰をはじめ、諸国の高山・霊岳を道場として練行をつむとともに、専ら誦呪ジュジュ・祈祷をこととし、これを修験者ととなえ、山伏ともよんだ。古来の熊野信仰とむすびついて皇室をはじめ、朝野の尊崇をえ、すこぶる勢力をふるうて、江戸時代におよんだ。
 修験道は二派にわかれていた。醍醐寺の開山、聖宝の系統に属するものを当山派ととなえて、醍醐の三宝院を本山とし、三井寺の長吏、増誉の系統に属するものを本山派ととなえて聖護院を本山とする。明治五年(一八七二)九月十五日、政府は、この宗を廃して、天台・真言両派に帰属せしめた。

… 児島五流

 本山派西国の重鎮に、備前児島五流というものがあった。五流とは、大法院・報徳院・建徳院・伝法院・尊瀧院をいい、いずれも現児島郡郷内村にあったが、いまは尊瀧院しかのこっていない。後鳥羽上皇の皇子頼仁ヨリヒト親王の直系が、これ等五流の法統をつぎ、「公卿山伏」ととなえ、江戸時代には、備前池田家の帰依をえ、西国筋に威勢をはっていた。浅口郡は、伝法院の<*1>霞であったのである。

… 石鎚山

 金光大神の信心に関係のある伊予の石鎚山も、修験道、四国第一の行場である。この山は、役ノ小角のひらいたものといわれ(愛媛面影)、頂上に、石土イワツチ毘古命を祀る石鎚神社がある。古イニシエ、蔵王権現とよばれ、灼然シャクネン上仙ショウセン等の開創したものとせられ(大日本地名辞書)、四国・中国筋のものが、おおくここに登って修行するのである。
 修験道では、山に入って修行することを「峰入」ととなえ、峰入三度にして「先達」となる、というのがその規定である。
 江戸時代の修験道には、むかしのような威勢は見られなかったが、それでも、全国いたるところ、山伏の姿を見ぬはなく、「護摩を焚き呪文を唱へて祈祷を行ひ、禍を祓ふを務めとすれば、病に臥するもの、不幸に悩む身、之に頼て幸を得んと、来り属するもの多し。されども、又、間々、奇怪不思議の説をも説けば、世を害ふ事も少からず」(近世日本世相史)、というのが、幕末当時のありさまであり、金光大神取次の当初に、種々の亡状を、あえてしたのも、これ等の末徒であった。

… 国学の発達と古神道の興隆

 国学の発達とともに、古神道の興隆を見ることとなったのは、江戸時代における一特色というべきである。江戸時代の国学は、下河辺シモコウベ長流チョウリュウ・僧契沖ケイチュウ等の万葉集研究にその端をひらき、荷田カダノ春満アヅママロ・加茂カモノ真淵マブチ等により、古典の研究がすすめられ、本居モトオリ宣長ノリナガにいたって大成せられた。彼等は、わが国古典の研究によって、国体の本義をあきらかにし、神道を、「神ながら」にして、儒仏二道に卓越するものと主張し、平田篤胤アツタネにいたって、一種、熱烈な宗教的色彩をおびるにいたった。
 この気運に呼応するように、山崎闇斎アンサイは、儒学の立場から、わが古典を究明して「垂加神道」をとなえ、当時の公卿・諸侯をはじめ、有識者のあいだに、その説がひろくおこなわれた。
 これ等の神道思想が、勤王論となり、攘夷論と化し、倒幕運動にうつっていったことは、この思想の、おのずからなる発展とみることができる。

… 教祖神道

 以上は、いずれも学問・思想を本としたものであるが、これとはことなって、自己独特の宗教的経験から、神道的教義をたてて、民衆の教化にあたったものに、長谷川角行カクギョウを祖とする富士講・井上正鉄マサカネの禊教・黒住宗忠の黒住教・中山みきの天理教などがあり、史家は、これ等を「教祖神道」となづけ、幕末の時代をいろどる一特色としている。
 富士講は、後、扶桑教・実行教にわかれ、禊教などとともに、新異の法をとき、人集をするというかどによって、しばしば幕府の忌諱にふれた。井上正鉄のごときは、三宅島配流ハイルの身となり、ついに病をえて、かの地にたおれるような悲運をまねいた。

… 心学

 当時の社会教化運動の一として見るべきものに、さらに「心学」があった。
 「心学」は神・儒・仏三教を調和し、平易な言説と通俗な譬喩とをもって、実践道徳をとくものであって、京都の人、石田梅巌バイガンによってはじめられた。その講席の、最初にひらかれたのは享保十四年(一七二九)であった。その門流には、手島堵庵トアン・中沢道二ドウジ・柴田鳩翁キュウオウなどがあり、京都はもとより、大阪、江戸その他の地にあって、主として町人のあいだにおこなわれた。
 江戸時代の宗教風俗として、これまでの時代に、かつて見ることのできなかったものが、いろいろにあらわれた。

… 御蔭参

 その一には「御蔭参オカゲマイリ」とよばれる、伊勢参宮に関する不思議な現象があった。「御蔭参」は、また「抜参」ともよばれ、「物弁へぬ女童部、八歳九歳の小児まで、我一ワレイチと談り合せ、主従の用を忍び、抜参りといふをなし、あるひは乳呑子を抱き、御乳オチのとに至るまで、その身ばかりか、飼馴れし犬猫をもひきつれて、おとらじ負けじと詣で」るありさまであった(後見草)。
 これは、慶安三年(一六五〇)にはじまり、宝永二年(一七〇五)・明和八年(一七七一)・文政十三年(天保元、一八三〇)というように、およそ六十年ごとにおこなわれたのである。
 慶安度には、三年正月から、翌、四年五月にかけて、箱根の関所をこえたもの、一日、八九百千人にあまり、皆、白衣を着けていた(寛明日記)。宝永度には、五十日間に三百六十二万人が参拝し(玉勝間)、明和度には、四月八日から八月九日までに、およそ二百七万七千四百五十人が参拝し(明和続後神異記)、文政度には、三月頃、阿波の国からはじまって、五畿内におよび、さらに中国・九州に至り(御影参)、その数何十万とも知れなかった(宮川舎漫筆)、ということである。この文政度には、金光大神も、十七歳にして、庄屋の倅等とともに参宮した。

… 開帳

 これは、常は秘してある仏像を、帳トバリをひらいて、結縁のため、衆人にひろくおがませることであって、ときに、神社で神体をおがませるものもあった。「開帳」の語は、鎌倉初期の文献にも見えているが、江戸時代になって、堂塔修理その他の費用を得るために、さかんにおこなわれるようになった。
 開帳には居開帳イガイチョウと出開帳デガイチョウがあった。居開帳は、その寺で、おこなわれ、出開帳には、他所に出ておこなわれるものと、所々をめぐっておこなわれるものとがあった。将軍参詣のために開帳し、後、衆人におがませるのを「御成オナリ開帳」といった。開帳は、およそ三十三年に一度おこなわれ、三十日でおわるのが通例であったが、ときに五十日・六十日にわたることもあった。
 開帳にあたって、仏像の送迎に、各種の趣向がこらされ、境内に、催物などがさかんにもうけられ、そのために弊害もおこったものと見えて、しばしば幕府の禁令が発せられている。

… 社寺巡拝

 これ等は、いずれも泰平の余沢にともなうものであるが、さらに江戸期にいり、諸国の交通が発達するにつれて、霊場巡拝の風が、さかんにおこることとなった。
 名山・古刹を巡礼することは、ふるくからおこなわれて、信仰上の一種の行でもあり、風習でもあった。花山法皇巡礼の遺跡といわれる、紀州那智にはじまり、美濃の谷汲タニグミにおわる「西国三十三所」の巡礼や、弘法大師の霊場「四国八十八箇所」の巡拝、さては「六十六部」とよばれる廻国巡礼などは、はやくからおこなわれた。
 江戸時代になって、京都に三十三所、江戸に三十三所・八十八箇所の霊場が、あらたにえらばれたのをはじめとして、一向宗(真宗)には、宗祖、親鸞ならびに、その高弟二十四人のはじめた寺々を、「二十四輩」ととなえて巡拝し、浄土宗には「二十五箇寺詣」「四十八箇寺詣」、日蓮宗には「百箇寺詣」「二十一箇寺詣」を見るようになった。その他、江戸には、「九品仏クホンブツ参マイリ」、「六地蔵詣」、早春の「七福参」、春分・秋分の日の「六阿弥陀詣」、京都には、七観音・七薬師・十二薬師・六地蔵詣なども、さかんにおこなわれた。
 以上は、主として仏教に関するものであるが、「千社詣」「金毘羅参」など、神社関係のものも、また、さかんにおこなわれたことは、「伊勢へ七度、熊野へ三度、愛宕様へは月参」という諺にも、それがうかがわれる。
 これ等、神社・仏閣にもうでるものが、札フダをおさめることも、盛んにおこなわれた。これは花山法皇によって、はじめられた、ということである。江戸時代には、「千社札センジャフダ」とよばれる一種の形式さえおこってきた。これは、天愚テング孔平コウヘイによって、はじめられたものとつたえられ、「麹町五吉」が有名であった。はじめは筆書したものが、後には、種々意匠をこらした印刷物となった(麓の花)。
 社寺巡拝は、さきにのべたごとく、本来、信仰心に発したものではあったが、江戸時代には、一種の遊楽化し、さらには、生活窮乏の余にでたもの、盗賊の護身に利用せられたものもすくなくなかった(塩尻)。

… 寺社の富突

 寺社で「富突トミツキ」のおこなわれたことも、江戸時代の一の異風景である。
 「富突」とは、富籤のことである。これを「つく」というのは、櫃ヒツのなかにある、木でつくられた籤を、錐でついてとりだすからの名称であって、幕末のころ、江戸をはじめ、京都・大阪などの寺社で、さかんにおこなわれた。
 享保十五年(一七三〇)四月、幕府は、仁和寺修復のため、江戸護国寺で、三箇年間、正・五・九の三月ミツキずつ「毘沙門天富突」を許可してからこのかた、堂塔・殿宇の修理、その他の勧化カンゲのために、寺社でおこなわれることとなり、後には、一定の寺社でおこなわれる、民衆の射倖心をそそる、一種の興行となりおわった。江戸では谷中ヤナカ<2>感応寺・目黒不動・湯島天神のそれが「三富」とよばれて、もっとも名だかかった。文政(一八一八~二九)のころには、江戸府内の、名ある寺社では、ほとんど、これのおこなわれぬところなく、四季におこなわれるものもあれば、月に二三回もよおされるものもあった。これがために「富突講」「百人講」などの組織さえできていた(元禄五年町触)。  富札は、一枚が<3>一分でうりだされて、二万・三万と発行せられ、当籤は、五十両から千両まで、いろいろの方法が考案せられた。

 富札は、「謙徳」などいう、もっともらしい名でうりだされた。弊害のすくなくなかったことは、昔も今も、この種の催にはつきものであるが、諸国の農村にもおよび、「貧民を剥倒すもの四方に遍ね」かった(草莽危言)ようである。

… 門前町

 門前町の繁昌、これも江戸時代の宗教風景の一特色である。すなわち、名だかい寺社の門前が、一種の歓楽街となって、水茶屋・料理茶屋がのきをならべ、芸者・遊女などが、しきりに出没するようになったのは、元禄以後のことといわれ、江戸では上野山下ヤマシタ・芝増上寺前をはじめ、両国回向院前・根津権現前・深川富岡八幡前などが、ことに繁昌した。これ等も、当時の僧侶の堕落をものがたると同時に、この時代の寺社参詣ということが、すでに一種の遊楽になっていたことを、しめすものである。

… 庶民の信仰状態

 江戸時代の庶民の信仰は、一般に、これとさだまった、しっかりしたものがあるのでなく、名は、甲宗・乙派の檀徒であるというても、かならずしも、その宗義を信修する、というのではなく、ただ、祖先代々の祭祀、一家の葬礼を、ここにたのむ、というにとどまり、家には、仏壇のほかに神棚をもうけて、神仏の守札を、わけもなく、ならべまつり、燈明をかかげ、日供ニックウをそなえて、家内安全・家運長久をいのる、というにとどまり、文神には天満天神、武神には八幡宮・摩利支天・不動明王、五穀豊穣には稲荷大明神、男女の縁むすびには出雲大社、男女のかたらいには足柄・箱根・玉津島・貴船・三輪の神々を、安産には塩竃明神を、火難をまぬがれるためには秋葉権現を、育児には子育観音を、疫病には祇園宮を、というように、その祈願の内容によって、その対象もおのずから、ことなっていたのである。
 出産には産穢があり、死には死穢が、ともなった。これ等の穢に触れたものは、それぞれ、一定の期間、神の前を、さけねばならなかった。死者の忌日は「精進日」ととなえ、肉食をとおざけた。
 一身の安全をねがうがためには、神仏の護符をふところにし、盗難・火難をまぬがれるためには、門戸に、それ等がはりだされた。祈願の方法には、願掛ガンカケ・参篭オコモリ・断食・水行・日参さては丑刻参ウシノトキマイリなど、さまざまのものがあった。人間には、その生年によって、守本尊が、さだまっているとせられ、「子は千手、丑・寅はみな虚空蔵、卯は文珠にて、辰・巳不賢よ」「午勢至、未と申は大日に、酉は不動ぞ、戌・亥八幡」とした(翁草)。
 神には神使ツカワシメがあった。狐は稲荷・蛇は弁財天・鳩は八幡・烏は熊野権現・猿は山王・鼠は大黒天の使として大切にせられ、天狗・霊鬼・狐狸妖怪・生霊・死霊のわざわいをおそれ、七福神が福神としてうやまわれた。
 かように、当時の庶民の信仰は、まことに、千態万様、ほとんど、あげてかぞえるにいとまがない。これ等が、当時、一般の民俗・風習のごとくになり、民衆のこころにふかくむすびついて、その生活をうごかしていったのである。

<1>「支配下」の意 <2>天王寺と改む
<*3>一両の四分一

.. (七)陰陽道の俗説

… 陰陽道の俗説

 わが国中古以来、上下の人心を支配し、その生活を拘束したものに、いわゆる陰陽道の俗説がある。

 金光大神も、齢二十三(天保七、一八三六)にして養父をうしない、家をつぎ妻をむかえて、つぎつぎに子女をあげたが、不幸にして、長男・長女・二男と、あいついでこれをうしない、うたた恩愛別離のかなしみをあじわい、陰陽道に説くところの「金神七殺」に、多年なやまされたのである。
 いわゆる陰陽道は古代漢土におこった思想を本とするものであって、はじめは、純然たる哲学でもあれば、科学でもあったのである。しかるに、世のくだるにつれて、いつしか宗教的・神秘的な色彩がくわわり、種々の迷信がともない、しだいに複雑怪奇なものとなり、しかも、それが暦面に註されて、人間生活の日常を支配することとなり、人間の弱さにふかくくいいって容易に、はなれることのできぬものとなった。

… 暦書の渡来

 漢土の暦本は百済国を経て推古天皇十年(六〇二)十月、はじめてわが国につたえられた。当時聖徳太子が摂政として、さかんに大陸の文化をとりいれたときであって、朝廷は、書生三・四人をえらんで暦法をまなばしめた(日本書紀)。
 暦が、わが国にはじめてもちいられるようになったのは、奈良朝のころであったが、いまだ、ひろく民間には、およばなかったようである。鎌倉時代になって、仮名文字で註した「仮名暦」というものができて、庶民のあいだにも、ひろくもちいられることとなった。江戸時代になっては、西洋の暦学も入ってきて、はじめて、わが国人の手によって、暦がつくられることとなり、暦本も「伊勢暦」をはじめ、さまざまなものが、各地に発行せられ、そのなかには、南部の「盲暦メクラゴヨミ」とよばれる、「文盲モンモウ」のものでもわかるように、絵によって判読せられるものもあらわれた。
 かようにして、暦は、ひろく庶民のあいだにゆきわたることとなり、それだけ陰陽道の俗説も、しだいにひろく信ぜられるようになった。
z いわゆる陰陽道は、その内容とするところが、ひろく複雑であって、ほとんど、つかまえどころのないものであるが、人生の運命・年時の吉凶・方位の善悪をさだめ、生活行動のすべてを、これによって律しようとするものである。その内容のおもなるものをあげると、陰陽説・五行説・鬼門説・神殺シンサツ説などである。

… 古代漢土の哲学思想

 古代漢土の哲人は、宇宙の本源を太極となづけ、太極がわかれて陰陽となり、陰陽まじわって五行となり、五行が天地にゆきめぐって万物を生ずる、とかんがえたのである。

… 陰陽説

 陰陽とは、ものの消極面と積極面とになづけられたものである。陰陽説では、天地間一切のものは、陰陽いずれかでないものはなく、一動・一静・一語・一黙、みな、これ陰陽の理によらぬものなし、と説き(朱子語類)、一度ヒトタビは陰となり、一度は陽となり、循環せしめる所以のものは道であり、本然の理である、と説くのである(易学啓蒙)。そして、具体的には陽と陰とを「天と地」「日と月」「昼と夜」「暑と寒」「栄と枯」「男と女」「君と臣」「兄と弟」「幸と不幸」「喜と悲」というように、天地人生の対立的関係にあてはめて、これ等、両者のあいだの消長を説くのである。
 この消長を、形式化したものが易の卦である。卦ケに、八卦・六十四卦の範疇カタをもうけ、これによって、人生の運命・生活万般の吉凶をうらなう、卜筮術ゴクセイジュツを考案した。

… 五行説

 五行とは、木・火・土・金・水の五をいうのである。この五が、天地を循環流行して万物を生ずるのであって、万物は、いずれも、この五のどれかを本具する、というのが五行説の根本である。陰陽家は、かく説きながら、この五行が、万物を生成する所以は、別に考究することなく、端的に、天地万物に、この五を配当するにとどまり、そして、いかにも天地万物が、五行からなりたち、その本質として、この五のいずれかを本有しておるかに、いいなすのである。
 まず、天界にあっては、あまたの星とことなり、毎夜、天空をきらめきわたるもののあるのをみて、それが、いかにも人間の運命を支配しているかにおもいなし、これに、それぞれ五行を配当して、歳星サイセイを木星・蛍惑ケイワクを火星・鎮星チンセイを土星・太白タイハクを金星・辰星を水星となづけた。年や日をかぞえる数字の十干・十二支にもこれを配当した。すなわち、十干には、五行をそれぞれ兄と弟とにわけて配当して、甲キノエ・乙キノト(木)、丙ヒノエ・丁ヒノト(火)、戊ツチノエ・己ツチノト(土)、庚カノエ・辛カノト(金)、壬ミズノエ・癸ミズノト(水)とし、十二支には亥・子を水に、寅・卯を木に、巳・午を火に、申・酉を金に、丑・辰・未・戌を土に配当した。
 かくして、干支によって年をくり、その年をもって、配当せられてある五行の性をおびた年とし、その年に生れた人間は、その年の性が、その人の本性となるとせられる。これと同様に、日も、干支五行によって、それぞれの性があたえられ、天赦日テンシャニチ・八専ハッセン・十方暮ジッポウグレ・五墓日ゴムニチ・犯土ハンド・社日シャニチ・三伏サンプク・庚申コウシン・三隣亡サンリンボウなどいう、特殊の日が生ずる、とするのである。
 この手段は、四季・四方にも、とられた。四季と五行とは、その数があわぬから、春を木、夏を火、秋を金、冬を水とし、土は、これを四季にわけて、立春・立夏・立秋・立冬の前十八日ずつに分配して土用となづける。四方も、その数があわぬから、東を木、南を火、西を金、北を水とし、土を中央に配した。
 その他、人体に配しては五臓、色に配しては五色、味に配しては五味、音に配しては五音、穀物に配しては五穀、道徳に配しては五倫・五常、健康に配しては五福、その他、気象・畜類・果物・蔬菜、乃至、百般のものに五行を配当し、それで万物は、五行からなりたっている、とするのである。
 陰陽家は、さらに五行に相生ソウショウ・相剋ソウコク(相勝)の作用があると説く。すなわち五行には、それぞれ、たがいに助けあうものと、殺しあうものとの関係があるというのである。木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生じ、水は木を生ずとして、これを相生の関係にあるとし、これに反して、金は木に勝ち、木は土に勝ち、土は水に勝ち、水は火に勝ち、火は金に勝つとして、これを相剋(相勝)の関係にあるとするのである。この関係から、いろいろの吉凶がわかれ、人間界の喜劇や悲劇も生ずる、とするのである。まことに、いわれなき妄断といわねばならぬ。

… 日の吉凶

 陰陽道では、日の吉凶については、以上、干支五行に、もとづくもののほかに、いろいろのことをとくが、そのなかに、<*1>十二直(建タツ・除ノゾク・満ミツ・平タイラ・定サダム・執トル・破ヤブル・危アヤブム・成ナル・納オサム・開ヒラク・閉トズ)、六曜(先勝センカチ・友引・先負センマケ・仏滅・大安・赤口ジャクコウ)などは、いまも、世俗の注意をひくところのものである。

… 方位の吉凶

 方位の吉凶については、鬼門説があり、神殺説がある。

… 鬼門

 鬼門とは、東北、丑・寅の方をいうのであって、四門の一とせられる。四門とは、天門(戌亥)・地門(辰巳)・人門(未申)・鬼門(丑寅)をいうのである。そのなかで東北は陰の気のきわまるところであって、陰悪の気のあつまる所、百鬼出入の門として、古来、もっともおそれられた(仮名暦略註)。

… 八将神

 神殺の方としては、八将神ジン方・天一神ジン方・歳徳神方・土公神方・金神方などがある。八将神とは、大歳ダイサイ・大将軍・大陰ダイオン・歳刑サイギョウ・歳破・歳殺・黄旛オウバン・豹尾をいう。大歳は「歳の君」として、漢土では、もっともおそれられたが、わが国では君徳は至仁であって殺伐をこととせぬ、として、吉備真備キビノマキビが、大吉神にまつりかえ、「万よし」の方になっている。この神は、子の年には子の方に、丑の年には丑の方にと、その年の十二支の方位におるのである。大将軍は三年に一度ずつ、東(卯)・南(午)・西(酉)・北(子)と居をうつすので、俗に「三年塞フサガリ」として忌まれる。その他の八将神も、それぞれ方位をさだめて、年々にめぐりうつり、その方位をおかすと、それぞれのたたりをうけるのである。

[図1]干支方位配当図 *省略

… 天一神

 天一神は、和名を「なかがみ」とよび、天上にあること十六日、くだって地をめぐること<*2>四十四日にして、また天にのぼる。天上にあるあいだが「天一天上」であって、たたりなき期間とせられる。

… 歳徳神

 歳徳神は、その年の十干の徳を神格化し、しかも、その年の十干にあたる方位に居るとせられ、暦本には、とくに「あきのかた」と註し、民間では、正月元日、その方に歳徳棚トシトクダナを設けて、<3>「にらみ鯛」をそなえ、若水をくんでその年の福徳をいのるのである。歳徳神方は、俗に「恵方エホウ」とよばれるが、これは「兄方エホウ」の義とせられる。「兄」は、すなわち甲キノエ・丙ヒノエ・庚カノエ・壬ミズノエなどの「え」である。この神は、いつの年も、この<4>「え」のつく方にやどるからの称であって、すなわち左表のごとくである。
 甲キノエ・己ツチノト 歳は甲方(寅卯)
 乙キノト・庚カノエ 歳は庚方(申酉)
 丙ヒノエ・辛カノト 歳は丙方(巳午)
 丁ヒノト・壬ミズノエ 歳は壬方(亥子)
 戊ツチノエ・癸ミズノト 歳は丙方(巳午)

… 土公神

 土公神ドクウジンは地の神とせられる。農村では、一般に竃の神として、おもんずるが、竃には春のあいだだけとどまり、夏は門・秋は井戸・冬は庭にと、その居をうつすのである。したがって、そのとどまっている期間に、それ等のものを新に造るは、さしつかえないが、ふるきを修理するのを忌む、とせられる(仮名暦略註)。

… 金神

 金神の本質については、古来正説なし、とせられ、五行の「金」が殺伐を事とするから、これを神格化したものであろうか(仮名暦略註)。金神方をおかすときは「七殺」のたたりをうける、といわれるが、これは、九星説の「七赤金星」に附会したものであろう。
 金神遊行の方は、
 甲キノエ・己ツチノト 歳は午未申酉
 丙ヒノエ・辛カノト 歳は子丑寅卯
 戊ツチノエ・癸ミズノト 歳は子丑申酉
 庚カノエ・乙キノト 歳は辰巳戌亥
 壬ミズノエ・丁ヒノト 歳は寅卯戌亥
とせられる(◇◇内伝)。したがって、金神は、
 子丑戌亥の方には三年目と二年目
 寅卯申酉の方には四年目と一年目
 辰巳午未の方には五年目と五年目
というように、周期的に遊行し、この方位をおかして、土木を起し、家造ヤヅクリをし、旅だち、嫁どりなどすることが忌まれる。
 金神の名は、奈良朝時代の暦書には見えぬ。平安朝末期の文献に、はじめて、その名が見えるから、当時漢土からわたってきたものであろうか。そのたたりは、前にもしるしたように「七殺」である。この神のたたりにふれると、家に七墓をつく。家族でたりなければ、牛馬などの家畜におよび、その家でたりなければ、隣家におよぶとして、俗間では、ことに忌みおそれられた。これをさけるために、「金神除ヨケ」「金神封フウジ」などの祈祷はもとより、家などたてるときには、金神の明方にあたる期間に、「場取バドリ」「屋敷取ヤシキドリ」などととなえて、あらかじめ、その地点の四隅に笹をたて、しめ縄をひきわたすなど、いろいろの方法が講ぜられる。
 以上は、いわゆる陰陽道俗説の内容の一端をしるしたにすぎぬ。これ等の内容には一貫した理論もなければ、科学のうらづけもなく、一顧の価値すらみとめることのできぬ、奇怪なものであるが、これらが、一度、人間の弱さにくいいっては、ついに抜きがたき根をおろし、かえって、これを生活の基準として、はかない安心をえようとするのである。

<1>十二客 <2>四方各五日、四隅各六日
<3>塩鯛を対い合せに串にさして供するよりこの称あり <4>甲・丙・戊・庚・壬を十干の陽徳とし、乙・丁・己・辛・癸を陰徳とす。陰徳は陽徳に配合するが故に、つねに陽徳「え」の方にありと説く

.. (八)金光大神と金神

 金光大神は、前来、述べきたったような、生活の窮迫した農村に人となり、とりとめのない信仰状態のなかに、その信心が芽ばえたのである。ことに、その前半生は、養父をはじめ、子女の死があいつぎ、あたかも「金神七殺」の俗説を、うらづけるような事実に出あって、多年、不安の日をおくったのである。
 しかしながら、金光大神は、その実意丁寧な性格から、いわゆる金神のたたりも、一に、わが無礼・不行届のいたすところとして、こころに、たえず、するどい反省をくわえた。

… 金光大神の金神に対する態度

 金光大神のこの態度は、その四十二歳のとしの病気にあたって、遺憾なくあらわれ、ここにいたって、「殺す神」たる金神は、「神徳をもってたすけてやる神」となったのである。かくて、金光大神の金神は、一般のそれとは、すでに、その本質をことにしていたのである。
 金光大神は、世の人が、金神の方位を忌み、つとめて、その明方アキホウをもとめるのは、それはやがて、めぐりかえり来る金神の不在ルスを、うかがう所以のものであることに気づいた。人と人とのあいだでも、他の不在を幸いに、おもうままの振舞をして、しかも、その咎をまぬがれる、ということは、ありえぬことである、との見解をとったのである。
 思オモイ、ひとたびここにいたった金光大神は、爾後、なにごとをなすにも、事前に金神のまえにこれを告げ、その守護をいのり、かつ、神に無礼なきようにと、いましめ、つとめるのであった。ここにいたって、方位・日柄の吉凶に、多年、こころをいため、くるしめてきた金光大神は、いまや、はじめて、ひろびろとした天地に出ることができ、その生活も、また、きわめてのびのびとしたものになった。
 かくて、金光大神は、実弟香取カンドリ繁右衛門の「金神信仰」の影響のもとに、その信仰の対象が、金神に帰一して、その信念を、これにかたむけることとなった。かくして金光大神は、みずから金神の神意を感得することとなり、神意のままなる、独自の生活を展開し、ここに「氏子ありての神、神ありての氏子」という神人調和の新生活が、いとなまれることとなったのである。
 金光大神の信心の進展につれて、その対象たる神の名も、「金神」から「金乃神」となり、「金乃神」はさらに「天地乃神」「天地金乃神」とあらたまり、天地万有を統一する神の信仰に到達した。信心の対象たる神の名が、かくあらたまりゆくにつれて、己の名も、「赤澤文治」が「文治大明神」にかわり、さらに「金子大明神」「金光大明神」「金光大権現」とつぎつぎにあらたまって、ついに「生神金光大神」となった。

… 金光大神の神観

 天地金乃神は、天地そのままの神である。天地のほかに、天地金乃神があるのでもなく、天地金乃神のほかに、天地があるのでもない。天地金乃神は、「天地の心」として天地万有を統一し、天地万有は、神の内容として、各自に、その本質として神を内蔵する。
 かくして、金光大神は、天地の統一神たる天地金乃神をみとめると同時に、万有個々に、その本質として神をみとめ、この神の徳をあらわし得たものを「生神」とした。したがって、金光大神の信仰は、いわゆる一神教と汎神教とを調和したものということができるであろう。
 この信仰のもとに、金光大神は、その独特の生活を開展していった。すなわち、陰陽道の俗説たる方位・日柄の煩累からはなれ、いきいきとした生活をいとなむとともに、「天地の心」をこころとし、「実意丁寧神信心」によって、生神としての徳を、しだいにあらわしていったのである。

… 取次のわざ

 かくして、金光大神は、神のたのみのままに、家業をやめ、昼夜不断に神前に奉仕して、取次のことにしたがうこととなった。その取次の当初には、近郷にある修験の徒の妄動によって、すくなからずなやまされ、あるいは、「狐つかい」「狸つかい」に擬せられ、あるいは「肥コエ担カタギの金神」の異名のもとに、世人から、さげすまれることもあったが、金光大神は、一途に、取次の道の本来のたてまえを、たもちつつ、隠忍、もって時節のいたるをまち、さらに、他をかえりみるところがなかった。
 かかるあいだに、その取次の道は、下ゆく水のごとく、西に、東に、しだいに遠きにおよび、これとともに、教子等によって、教団組織のねがいがおこり、その具体的運動、ようやくその緒につかんとする、明治十六年(一八八三)十月をもって、やすらかに、その現世のわざをおえたのである。

. 二、金光大神の生涯

.. (一)金光大神の出生とその生地

… 金光大神出生

 金光大神は、文化十一年(一八一四)八月十六日暮六ツ(午後六時)まえ、備中浅口郡占見村字香取の里に、香取十平の二男としてうまれ、母を志もとよんだ。この日は、あたかも、村の鎮守大宮神社祭礼の日であった。
 金光大神は幼名を、源七となづけられた。

… 占見村

<1>占見村は、<2>『和名抄』にもその名が見えていて、ふるい地名である。北に遥照山がそびえ、南に<3>占見新田村をへだてて里見川をひかえ、これをさしはさんで、<4>大谷・須恵・佐方の村々と相対している。「香取」は、遥照山が西南にながれた地点に立つ、安芸守アケノカミ山の南麓にある、占見村西端の部落である。
 占見村は、当時、戸数百三十六・人口七百八十余・田地四十六町二反余・畑地二十二町二反余を有し、寛文五年(一六六五)池田光政が備前を領したとき、その預地アズカリチとして、その支配をうけるようになった(浅口郡誌)。

… 遥照山

 遥照山は、養子山また曜星山とも書かれ、浅口・小田両郡にまたがる、郡内第一峰であって、頂上に厳蓮寺ゴンレンジの古蹟がある。この寺は、承和十四年(八四七)僧円仁(慈覚)が、叡山になぞらえて開創し、根本中堂をはじめ、講堂・僧房などが、山中に甍をならべ、麓に、山王二十一社を勧請カンジョウし、壮観をきわめたといわれる(浅口郡誌)。

 その他、この村には、安倍晴明・芦屋道満など、陰陽道にゆかりのある人々についての伝説がのこっている。

… 占見新田村

 占見新田村は、その名のしめすごとく、寛文十年(一六七〇)はじめて干拓せられた地であって、ふるくは、西海に通ずる船路であった。寛文十一年(一六七一)鴨方藩池田氏によって領せられ、戸数百三十一・田畑六十六町八反九畝を有していた(元禄十四年村々手鑑)。

… 金光大神の生家

 源七の祖父を香取千之助とよんだ。千之助は、兄善八からわかれて世帯をたてたが、<*5>判株をもって一戸をかまえるにいたらずして、父、十平のときにおよんだ。十平には五男・三女があった。その略譜をしるすとつぎのごとくである。

千之助・・・十平 ・・・・・・・・・・女(名不明早世)          
    ・            ・                  
    ・・女(森田梶平に嫁す) ・・好之丞・・亀吉・・兼三郎・・繁雄 
    ・            ・                  
    ・・志ん(難波粂吉に嫁す)・・たみ(田中伴造に嫁す)      
                 ・                  
                 ・・源七(川手家に入る)       
                 ・                  
                 ・・りう(未詳)           
                 ・                  
                 ・・繁右衛門・・・かの        
                 ・      ・           
                 ・      ・・俊彦        
                 ・                  
                 ・・彦助(小幡家に入る)       
                 ・                  
                 ・・平八郎(未詳)          

 源七の母志もは、<*6>益坂村、小橋徳八の長女であった。その略譜は左のごとくである。

徳八・・・浅吉・・富五郎・・徳八(徳太)
   ・
   ・・志も(香取十平に嫁す)
   ・江本
   ・・庄八・・惣左衛門・・吉三郎・・住太郎
   ・
   ・・仲(道満惣治郎に嫁す)

… 父母の性格

 源七の父も母も、その家は、ともに農家であった。父の家の名が、その地名と同一であることから、この家が、由緒あるもののようにおもわれるが、それを、つまびらかにする何等の資料もないのは、きわめて遺憾である。母の家も、また同様である。
 父は、その性実直であり、かつ、きわめて信心ごころのふかい人であった。おさないころの源七が、とかく、よわかったので、父は、その健康をいのるために、十町余もはなれた村の鎮守をはじめ、あたりの宮・寺に、いつも源七を背にして詣でていた。そのために、父の着物は、つねに背にあたるところからやぶれたということである(香取家口碑)。
 これは、源七が川手家にやしなわれるようになってから、のちのことであるが、あるとき源七は、手づくりの、あたらしい草履をはいて父の家をおとずれ、かえるときに、父のために、その草履をのこして、みずからは、父の家にあった、ふるいのをはいてかえった。父は、その親おもいのこころが、身にしみてうれしく、その草履を大切にして、宮・寺にまいるときだけ、はくことにしていたので、十二年のあいだも、たもっていた、ということである(香取家口碑)。
 母は慈愛にとみ、かつ、きわめて聡明なひとがらであったようである。子女の「まびき」が、どこの農村にも、ほとんど公然の秘密のごとくにおこなわれていた当時にあって、八人もの子女を、そのままに養育したことは、当時にあっては、なかなかの苦辛であったであろうが、これをなしとげた一事に見ても、そのひとがらが察せられるのである。
 母は、源七が十一歳(文政七、一八二四)のときに、その生れ日・時、そのほか、なにかのことを、源七に物語ってきかせたことがあった。
 源七が大谷へいってからのち、たまに生家をおとずれると、母は、いつでも牡丹餅などをつくって、源七をもてなし、かえるときには、養家への土産物として、それをもたせてかえし、自分も、あとから見えがくれについてゆき、養父母が、きげんよく源七をむかえてくれるのを、そっと、見とどけて、安心してひきかえした、ということである(香取家口碑)。これは、養母が、きわめて勝気な、口やかましいひとであったので、それに対するこころづかいも、あってのことであろう。
 これ等のいいつたえによっても、その父母の性格のあらましを、うかがうことができるのである。

… 金光大神の幼時

 源七は五歳(文政元、一八一八)の時、唐辛トウガラシの粉が眼にはいって難渋した。六歳(文政二、一八一九)にして天然痘をやみ、九歳(文政五、一八二二)には麻疹ハシカを、さらに十歳(文政六、一八二三)にして<7>虫腹ムシバラをやんだ。このときには<8>杉谷の小児科医小坂氏家伝の虫薬をもとめて、五貼もこころみたが、そのしるしも見えないで、ながいあいだくるしんだ。

 源七は、おさないころから、よく、お宮の形などをつくって、おがむまねをしてあそんだ(香取家口碑)。ようやく長ずるにおよんで、池の塘ツツミなどに、飼牛をかうすがたが、見うけられた(唐川専治)。

<1>現金光町 <2>源順著、承平年中(九三一~三七)撰進す
<3>現金光町 <4>現金光町
<5>名跡 <6>現鴨方町
<7>蛔虫の障害その他胃腸の疾患の俗称 <8>現鴨方町

.. (二)金光大神の養家と大谷村

 文政八年(一八二五)九月、源七は、齢十二にして、その従姉妹イトコ<*1>喜久の夫にあたる、大谷村大橋万吉と、母方の叔父にあたる、益坂村江本庄八とのせわによって、大谷村川手粂治郎の養子になるはなしがまとまった。

… 大谷村

 当時の大谷村は、西に隣トナリする須恵村とともに、備中井手蒔田マイダ家の知行所であった。村は、本谷(大谷)・別所・小田コダ・道前ドウゼン・津・竃人カモウド・夕崎ユウザキ・新田の諸部落にわかれ、東と南とは、山をへだてて<2>黒崎村(幕府直轄地)に隣り、西は、丘をさしはさんで須恵村に接し、北は里見川をへだてて、占見新田村・<3>八重村などに対していた。
 昔は、このあたりは西国にかよう船路であって、いまの平坦なところには、海水がたたえていたのである。それが今日のようになったのは、寛永から寛文にかけてのころ(一六二四~七二)であったといわれる(浅口郡誌)。「竃人」の名に、塩やく煙の、たちのぼっていたことがものがたられ、「津」の名に、帆影の出入したことがしのばれ、「本谷」の東を、北にはしる木綿崎山の北端には、「木綿崎の松」の遺跡があり、「神のます、うらうらことにこき過て、かけてそいのる、ゆふさきの松」(夫木抄)と詠じて、とおく任地にくだっていった<4>太宰大弐ダイニ高遠タカトウの歌は、いまも人のしるところである。  大谷村の耕地は、当時、田畑あわせて四十五町六反余、<5>石高二百四十七石余あり、戸数七十二・世帯数百四・人口四百七十五(男二四八、女二二七)をかぞえていた(文化十三年大谷村明細帳)。この耕地は、天保十五年(弘化元、一八四四)ごろには、他村からの入作イリサクによって、およそ<6>三割六分ばかりも占められていて、村民の持高は、四町三反余のものが、最高であった。他はおして知るべく、「三反百姓」といえば、一般には零細農とせられるが、この村では、有数の百姓とせられたのである。  江戸時代の農村自治の単位は「五人組」であったが、この村では五戸乃至十四戸を一組として、その数が十組あった(大谷村宗門帳)。村役人には、庄屋・年寄・保頭ホウトウ・組頭(判頭)・百姓総代などがあった。庄屋は、寛政四年(一七九二)以後、小野氏が世襲した。庄屋は、一村の納税その他諸般の事務をすべ、年寄は村政に参与し、保頭は触達に任じ、組頭は五人組を代表し、組合員の印形インギョウを保管していた。  この村の鎮守は<7>加茂神社であって、社地は「本谷」の南、須恵村との境にある。寺には「別所」に<8>寂光院善勝寺(天台宗)があり、村民の大部分を檀家とし、それ等の<9>「寺請」をし、毎年四月に、「宗門御改寺請名歳帳」をつくって、蒔田家にさしだしていた。
 村民は、すべて農業にしたがい、大工職・酒造職をかねたものが、各一人いた。村民は、農業の間には、村の池・溝・堤ドテ・道路などの工事フシンはもとより、堤ドテ番・池番・堰イデ番などの警備、その他の公務にしたがい、それぞれ日当銀を得た。

 村民は、「五人組」のほか、区域をさだめて講を組織して、これを「講内コウウチ」ととなえ、慶弔のあるときに、たがいに往来し協力した。

… 金光大神の養家

 金光大神の養家は、当時「川手」を名のっていた。本来、この「川手」という家は亡びてすでになく、わずかに一畝歩(三〇坪)ばかりの畑地が「多郎左衛門屋敷」として、養父の宅地の前(南隣)にのこっていた。「多郎左衛門」というのは、川手家に代々つたえられた名前である。
 養父の家は、<*10>もと「赤澤」と名のっていたもののごとく、川手家断絶の後、その祖先の位牌を、この家にひきうけて、祭祀をたたなかったが、この「赤澤」もほろびてあとをつぐものがなかった。
 養父の宅地の北隣に大橋氏がある。その家から八兵衛というものがわかれ、川手家の判株をゆるされてこれを再興し、川手・赤澤両家の祭祀をいとなむこととなったようである。この関係から、川手家は、大橋家を「本家モトヤ」とよび、本家・分家の礼をとっていた。その系図をしめすと、つぎのごとくである(大谷村百姓系図、安部家霊璽)。すなわち、

八兵衛・・文治郎・・・善兵衛・・・粂次郎・・・文治郎(金光大神)    
         ・     ・     ・              
         ・・女   ・・善六  ・・鶴太郎          
         ・     ・                    
         ・・五郎四 ・・与八                 
               ・                    
               ・・女      (系図の=は養系を示す)
               ・                    
               ・・布手                 

 これにあきらかなように、養父粂次郎には善六・与八の二弟があった。家はもとより貧しかったが、養父のころになって、一層にその度をくわえ、わずかばかりの田畑をも、他にゆずりなどして、財産とては<11>三畝十七歩ばかりの土地と、六畳の間に納戸という、ささやかな住宅とのほかには何もなく(御物成帳、古老談)、日々の生計にもさしつかえ、その母(善兵衛妻)のごときは、蒔田家の救助米をあおいでいたこともある(御用諸願書留帳)。  粂次郎は勤勉な人であった。つとに、家運の再興をこころざし、文化二年(一八〇五)十一月、意を決して、家を弟与八に託して、<12>江戸小日向馬場の蒔田屋敷に勤奉公ツトメボウコウにでた。ときに齢三十五であった。粂次郎は、その出発にさきだって、給銀の前借をして借財などの整理をした(御用諸願書留帳)。かくして粂次郎は、江戸にあって懸命にはたらき、文化六年(一八〇九)に江戸からかえり、一家の経済再建につとめ、ある程度の見とおしがつくようになって、はじめて、益坂村、西本仁太郎ニタロウの娘いわを妻にむかえた。夫婦の年齢が、二十もちがっているのは粂次郎の、かかる事情によるものともおもわれる。
 いわの生家と、源七の実家香取家とは、かねて親戚のあいだであった。いわば実家をおとずれるときには、その途次、香取の家に、しばしば、たちよっていたということである(香取家口碑)。

… 金光大神養家に入る

 文政八年(一八二五)十一月二十六日、この日は乙酉・納オサムとあって、吉日である。源七は、この日、実父や益坂村庄八叔父にともなわれて、川手家に入った。一行は、一旦、本家モトヤ大橋の家におちつき、裃に威儀をただし、川手の家の姻戚、<13>「屋守」の安部乙蔵(音兵衛)・井田豊蔵両人のでむかえをうけた。ときに粂次郎は五十五歳、いわは三十五歳であり、家は、二反六畝余の高持タカモチ百姓となっていた。  粂次郎夫婦のよろこびは、たとえようがなかった。祝宴は、夜を徹トオしてひらかれ、<14>古川五平が「座持ザモチ」として、客をもてなし、実父や庄八がひきとったのは、翌日の午後であった。正客のひきとった後、さらに「後客アトキャク」の宴がはられた。かくて「里帰サトガエリ」も無事にすみ、源七は、いよいよ川手家の人となった。
 源七は、曽祖父の名をゆずられて、文治郎とあらため、人々から「文治」とよばれた。
 養父母は、文治の養育に、細心の注意をおこたらなかった。まず、その食物の好悪コウオなどについて、たずねるのであった。文治は、
<*15>「麦飯がきらいであります」
と率直にこたえ(藤井くら)、さらに、
 「私は、神・仏に参りとうござりますから、休日には、こころよう、まいらせていただきとうござります」
とも申しでた(金光萩雄)。これは、川手の家に入って、まもないころのことであった。この「麦飯がきらいであります」ということは、当時の農民生活では、ほとんどゆるされぬほどのことであったが、それからは、麦二斗を米一斗にかえて、これを文治にたべさせた、ということである(藤井くら)。

<1>森田梶平娘(八右衛門妹) <2>現玉島市黒崎町
<3>現金光町 <4>大弐は太宰府の官名。高遠は藤原氏。寛弘元年(一〇〇四)十二月補任
<5>公定収穫高 <6>約十六町歩
<7>祭神、瓊々杵命・別雷神 <8>山号「大谷山」。本尊、阿弥陀如来
<9>切支丹宗徒にあらざる保証 <10>四二頁、八六頁参照
<11>二畝十七歩宅地、一畝歩畑地 <12>いまの新宿区五軒町
<13>現玉島市黒崎町 <14>八百蔵父
<*15>体質に適せざりしものの如し

.. (三)少・青年時代と小野光右衛門

 文治は、十三歳の年(文政九、一八二六)から、「津」の庄屋小野光右衛門に、手習の面倒を見てもらうこととなった。光右衛門の四十二歳のときである。これは、かねて養父が、光右衛門はじめ、小野家の人々の信用をうけ、つねに出入をしていた関係によることとおもわれる。文治の手習は、その翌年(文政一〇、一八二七)でおわったが、この短日月のあいだに、文治のうけた光右衛門の感化には、よほど、ふかいものがあったようである。これは、文治の一生にとって、この上なき幸福シアワセであった。

… 小野光右衛門

 小野光右衛門、諱イミナは以正ユキマサ、啓鑑亭ケイカンテイと号し、天命五年(一七八五)正月二十四日、本兵衛の長男として大谷村に生れ、幼名を吉太郎、ついで広太郎とよんだ。享和元年(一八〇一)七月十一日、齢十七にして、父の後をついで大谷村庄屋を命ぜられ、後、隣村、須恵村庄屋をも兼務した。
 光右衛門は、性、堅実にして、しかも胆略をそなえ、天文・暦数の学に精クワしく、方鑑・ト筮・測量の事に長じ、禅理・俳諧などにも通じ、江戸幕府天文方<*1>渋川氏の門に入り、さらに陰陽頭オンミョウノカミ土御門ツチミカド家の知遇を得て、その直門ジキモンとなった。
 光右衛門は、意を村政にもちいたのみでなく、世故に通じ、経世の才に富み、地方の信用はもとより、領主の信任もきわめてあつかった。力を、ひろく領内の治水・開墾・殖産の事にいたし、地方、幾多の紛争をも調停して、しばしば領主の恩賞にあずかり、後、天保十一年(一八四〇)八月、大庄屋を命ぜられて領主の役所にいた。安政四年(一八五七)八月、その職を辞し、翌、五年(一八五八)十月、病を得て、齢七十四をもって世を去った。その著書には、啓廸算法五巻同附録一巻・方鑑捷径書・神道方位考西洋算法・春秋日食法・日食弁暦術秘伝書・新法暦詳解等およそ五十巻がある(小野啓鑑翁行状)。

… 光右衛門の感化

 文治は、光右衛門から、習字はもとより、実語教・童子教などをまなんだが、その人柄からうけた感化には、きわめてふかいものがあった。文治が、終生、<2>文字をおぼえることに、おこたらなかったこと、故事・俚諺などにも相当に通じて、常識のゆたかであったことなどは、いずれも、これをものがたるものと、かんがえられる。  文治は、光右衛門の没後、毎月<3>「三日サンジツ」の神まいりの途次、いつも、その墓前にもうでたということも(小野達郎)、この両者の関係のふかさを、あらわすものである。
 文治は、少年時代・青年時代を通じて、その健康には、あまり、めぐまれなかった。しかしながら、文治は勤勉にはたらいた。文治の住居から、二丁ばかり南に、笹橋ササハシという瓦焼職の家があった。その燃料の、松の枝木エダギをはこぶのは、村のわかいもの等の仕事であったが、文治は、他のものが六把はこぶところは八把というように、つねに、他のものよりも余分に、はたらくことにこころがけ、その余分に、はたらいた賃銀を貯蓄して、神まいりの料にあてていた(藤井くら)。
 やや長じては、道路や池の村普請などにも、養父とともに参加し、日当をかせいで、家の経済をたすけた(足役改帳)。
 当時の村の子どもらは、<4>「てぎ」とか、「ほうびき」とかよばれるあそびをした。これらは、いずれも、銭が賭けられる。銭のかけられる「ほうびき」を「かけほうびき」とよび、江戸時代、都鄙トヒともに、はやくから流行して、相当の弊害も、とものうたもののごとく、慶長七年(一六〇二)の禁制中にも、これを禁止した条項が見出されるほどである(武家厳制録)。  文治は、十三の歳(文政九、一八二六)に、銭がないから、というてことわったのに、貸してやるから、とて友達にすすめられて、このあそびに手をだし、借りた銭を、みなとられて親につぐのうてもらい、そして、きびしくいましめられたことがあった(藤井きよの)。文治は、こどもごころにひどくこりて、以後、勝負ごとには、一向に見むきもしなかった。それでも、たまたま手元に金がなくて、こまるときには「博打バクチでもして<5>ほしかの一俵も買おうか」とふとおもうこともあった。と後年、みずからのうちあけ話をしたことがある(森政禎次郎)。
 文治は、十五の歳(文政一一、一八二八)に、虫腹になやまされ、養父にともなわれて、「左方」の医師堀主水モンドをおとずれ、<*6>灸テ点ンをおろしてもらい、灸治につとめたが、一向に、そのしるしも見えなかった。

… 伊勢参宮

 文政十三年(天保元、一八三〇)は、かの「御蔭参」のあった年である。この年、文治は、七月十五日(庚午、開)にたって、<7>大峰参オオミネマイリをかねて伊勢参宮をした。一行は、庄屋の倅策太郎(四右衛門)をはじめ六人であったが、ほかに<8>「抜参ヌケマイリ」のものも五人加わった。
 それは、文治十七歳のときであった。このとき養母が、脚のつかれぬようにとて、<9>「三里」に灸をすえてくれたのが、途中で化膿して、かえって困難した。かくて、一行は、無事八月中旬にかえることができた。  天保二年(十八歳、一八三一)八月十七日、養母は、四十一歳で初産して男子をあげ、鶴太郎となづけた。養父は六十一歳であった。四十をこえてからのこととて、相当の難産であったことが察せられる。産後の<10>血の道で全身が腫れて、百日余も難渋した。
 天保二年十二月、領主蒔田広運ヒロユキが家督を相続して、蒔田氏十一代の主アルジとなった。その通称を「荘次郎」とよんだので、領内百姓の「次郎」という名をさしとめた。そこで、養父は「多(太)郎左衛門」と、文治は「国太郎」と、いずれも名をあらためた。それは、その翌天保三年(十九歳、一八三二)のことである。こえて弘化元年(三十一歳、一八四四)に至って、「国太郎」を、また「文治」にあらためかえした。

… 養父死す

 天保七年(二十三歳、一八三六)七月、弟鶴太郎は、虫腹のやまいが高じて痙攣サシコミをおこし、ついに十三日<*11>七ツ時に世をさった。齢わずか六歳であった。養父母の悲歎は、察するにあまりあることであったが、その墓土も、まだ、かわきやらぬ八月のはじめ、養父が痢病をやみ、その月六日、六十六歳をもって愛児のあとをおい、一家は、たちまちにして、火のきえたようになった。養父親子が、二十日ハツカばかりのあいだに、かく、あいついで世をさったことは、歳わかい文治のこころにも、つよい痛手と、いいしれぬ不安とを感ぜしめずには、おかなかった。
 養父は、その死にさきだって、家の苗字ミョウジ「川手」をやめて、もとの「赤澤」にもどすように、と遺言した。これは、「川手」をなのっていることが、とかく同姓のものらに、こころよからぬ感をあたえ、かねてから、陰に陽に、圧迫がくわえられていたので、文治が、他村からきた養子の身ではあり、かたがた、その将来を、きづかってのことであった、と推測せられる。
 文治は、この遺言にしたがい、慶応二年(一八六六)、「金光」の性になるまで、「赤澤」をなのった。

<1>渋川景佑 <2>金光大神の記録類には五百余の漢字使用せられあり
<3>江戸時代祝日の称。朔日・十五日・二十八日。式日 <4>「てぎ」とは地上に一定の区劃を定め、これに玉を投じて勝負を争うもの。
 「ほうびき」とは福引の一種
<5>肥料の一種 <6>灸をすえる箇所を墨にて点示すること、これを「おろす」という
<7>修験道の根本道場 <8>無断・無銭にて参宮するの謂
<9>膝頭の下、外側の凹所にして灸穴の一 <10>頭痛・逆上・眩暈その他冷熱感・発汗などを伴う婦人病
<*11>午後四時

.. (四)家督をつぐ

… 金光大神家督をつぐ

 養父の死によって、文治は、天保七年(一八三六)、齢二十三にして家督をつぎ、ここに、一家の主人アルジとして世にたつこととなった。
 養母は文治の身のうえをおもい、家のことをもかんがえて、妻をむかえることを、しきりにすすめ、<*1>大橋新右衛門をたのんで、古川八百蔵の長女とせをもらうこととした。とせは、このとき十八歳であった。

… 大橋・川手・古川三家の関係

 古川の家は、川手家再興のひと八兵衛の弟、大橋孫兵衛の子文蔵が、古川の判株をうけついだもので、川手の家の東南、山よりの一段小高いところにあった。そこで、大橋・川手・古川は、もとよりふかい関係にあったのである。八百蔵は、文蔵の養孫にあたっている。この三家の関係は、左のごとくである(百姓系図、安部家霊璽)。すなわち、

大橋    川手                            
・・・・・・八兵衛・・文治郎・・善兵衛・・・粂次郎・・文治       
・・・・・               ・               
    ・               ・・善六            
    ・               ・               
    ・               ・・与八            
    ・               ・               
    ・               ・・女             
    ・               ・               
    ・               ・・布手            
    ・ 大橋第一分家 古川                     
    ・・孫兵衛・・・・文蔵・・・五平・・八百蔵・・・とせ      
    ・     ・               ・         
    ・     ・・・与太郎・・万平・・万吉・・・・ます      
    ・                    ・・         
    ・         ・・・・・・・・・・・・・・参作      
    ・         ・           ・         
    ・         ・・孫兵衛       ・・治郎(五郎右衛門)
    ・         ・           ・         
    ・         ・・時五郎       ・・国太郎     
    ・                     ・         
    ・                     ・・忠三郎     
    ・ 大橋本家                          
    ・・助八郎・・新左衛門・・・仙之丞・・すて           
                ・                   
                ・ 大橋第二分家            
                ・・新右衛門(新左衛門)        

… 金光大神の結婚

 かくて、とせは、黒木綿紋附の式服に威儀をただし、天保七年十二月十三日、大橋新右衛門と、その姪、大橋すてとの両人にともなわれて輿入をした。この日は壬戌・納という日であった。古川の家から、文治の家は西北にあたり、道は、古川の家から北にむかっていた。この年、西北(戌)には豹尾神、北(子)には金神が、めぐりとどまっているのであった。そこで新婦の一行は、これを忌み、まわり道をして、文治の家に入ることにした。
 よき内助者をえた文治は、家業はもとより、村普請や村の公用などにも、一段と精をいれて、実意に勤勉にはたらいた。当時の庄屋の書類に徴すると、文治は、村の公用でも、領主や<3>掛屋への銀飛脚をはじめ、堰イデ番・堤ドテ番などの大切なことに、よくもちいられた。  天保九年(二十五歳、一八三八)には、幕府の巡見使が、二回もこの地方に来た。第一回は四月であり、第二回は七月であった。巡見使というのは、将軍代がわりのはじめ、<4>公料・私領の民情視察のために、将軍の派遣する役人のことであって、このときは、十二代将軍家慶イエヨシの就任したときのものである。四月のは、公料視察のものであり、七月のは、私領視察のものであった。
 巡見使は、槍をたて、供ぞろえをして、威風堂々と、のりこむのである。これをむかえる地方としては、道路や橋梁も修繕するにおよばず、道筋の百姓等も、農業をやめるにおよばず、旅宿なども畳替・修繕などは、一切無用とせられていたが、実情は、なかなかそうでなく、道筋にあたる村々は、道普請はいうまでもなく、送迎に細心の注意をはらい、警戒に厳重をきわめた。村々の役人等は、領主への報告、他村への連絡、巡見使一行の見はりなど、村民のなかでも、心のきいた、たしかなものを督励ハゲマして、これにあたらせ、かりにも手落なきようにと、つとめるのであった。文治は、この両度の巡見に、庄屋からえらばれて、東奔西走した(小野家文書)。
 文治が養父からゆずられた田地は、<5>本田が二反三畝三歩半・畑が三畝歩、合せて二反六畝三歩半(石高一石五斗五升三合五勺)であった。しかるに、天保九年(二十五歳、一八三八)には、<6>古新田と畑と、あわせて一反十二歩(石高七斗二升七合五勺)がふえ、嘉永六年(四十歳、一八五三)には、本田六畝十三歩(石高四斗五升)がふえ、さらに安政三年(四十三歳、一八五六)には、古新田が十四歩ばかりふえて、田畑合せて四反三畝十二歩半(石高二石九斗一升九合九勺)をかぞえるようになり、村でも高持百姓百二十七世帯のなかで、まず十番目にくらいするところまでになった(安政三年、御物成帳)。
 文治は、青年のころから、おのれが他村からきたものであり、村に対してどれだけ功があった、というわけでもないので、村のよりあいのときなど、つねに末座についていた。そして、なにかと、村への奉仕にこころがけていたが、後には、席次も、しだいに上位におしすすめられていった(香取家口碑)。

… 住宅の増築

 文治が、養父からゆずられた住宅は、さきにのべたごとく、六畳の座敷に納戸、それに台所という、ささやかなものであった。そこで文治は、家督をついで後、つぎつぎに家の増築をくわだてた。すなわち天保八年(二十四歳、一八三七)三月二日、大工河手安吉にたのんで、住宅の東側に、風呂場と便所チョウズバとをかねて、四尺に九尺のものをたてた。この日は、己卯・建タツという日柄であったが、この年、東方には、金神が、めぐりとどまっているのであった。

… 長男亀太郎出生

 天保十年(二十六歳、一八三九)六月十五日の夜、妻は男子を安産し、亀太郎となづけた。はじめて男子をあげた文治一家のよろこびは、想像するにあまりあることであったが、この日養母が瘧オコリにかかり、九月のはじめまでくるしんだ。

… 亀太郎死す 二男槙右衛門出生

 天保十三年(二十九歳、一八四二)八月朔日、亀太郎まず病の床につき、ついで文治も病床の人となった。父子ともに悪性の下痢であったのである。文治は、日ならず全快したけれども、亀太郎は、ついに、その月十六日の朝、四歳にして、みじかいいのちの緒オを断タった。長男をうしのうた文治夫妻の、うったえる方カタのない痛恨と不安とは、はたして、どれほどであったであろうか。そのころ、妻はすでに身おもであり、十月十日の夜、二男を安産し、槙右衛門となづけた。
 文治は、天保十四年(三十歳、一八四三)、巳午(南南東)の方に、門納屋モンナヤを増築することを計画した。それは、東西六間半に南北二間のわらぶきで、北側に三尺の庇ヒサシをつけ、東二間を門にとり、中二間を作業部屋に、西二間半を倉庫にあて、門には三尺の戸が、左右からたてられるものであった。工事は、やはり河手安吉をたのむことにして、まず、その吉凶を<7>方位家にたずね、すべて、その指示にしたごうた。  すなわち、この年も、すでにおしせまった十二月十八日に、釿始チョウナハジメをおこのうた。それは、この年、巳午の方が、あたかも「明アキの方カタ」(恵方)にあたっていたがためであろう。そして、この日は、丙辰・満にあたっていた。かくて工事は、翌、弘化元年(三十一歳、一八四四)正月八日(乙亥、納)にはじめて、二十六日(癸巳、満)におわらねばならなかった。  文治は、その柱の用材を、<8>「羽口ハグチ」の人で、紀州にゆくものがあったので、その人にたのみ、買うてかえってもらうことにしたが、その船は、なかなか帰ってこなかった。さきに亀太郎をうしのうた痛痕と不安とは、なんとなく文治を、おどおどさせていたが、それは、やがて文治を焦躁にと、かりたてた。工事の日限はきまっている、のんきにしてはいられないのである。紀州へ註文したものが、むだになっても、そんなことは、いうているひまがない。とりあえず、玉島でまにあわせて、ようやく指定の日までに仕あげることができ、文治は、安堵のむねをなでおろした。

… 三男延治郎出生

 弘化二年(一八四五)二月八日、妻は三男延治郎を安産した。この日、妻は文治とともに、津の「大新田オオシンデン下シモ」の田に、麦の除草にでていて、<*9>午後七ツ時、にわかに産気をもよおした。そこで文治はやむなく妻を灰畚ハイフゴにのせて、つれかえった(藤井しげの)。

<1>「百姓系図」新左衛門とあり <2>御覚書による
<3>各藩の金融機関 <4>幕府直轄地
<5>新田に対し、昔より作られて、租税を徴せられし田の称 <6>江戸時代になりて開墾せられしものを新田といい、その内享保以前のものを古新田という
<7>氏名不詳 <8>現玉島市
<*9>午後四時

.. (五)お四国めぐり

… 三十三の厄歳

 弘化三年(一八四六)、文治は三十三の歳をむかえた。三十三は、一般には婦人の厄年とせられているが、この地方では、男子にも厄年とせられていた。厄年の前年を「いり厄」といい、翌年を「はね厄」という。厄年には「厄ばね」にとて、親類・縁者をまねいて、祝宴をはるのが、ならわしであった。この年、文治は、「ことしは、三十三のいわいであるけれども、いわいは、すまいとおもう。他ヒトにも入用をいれさせ、宅ウチにも入用をいれて、それでただ、のんだり、くうたりするばかりじゃ。なんにもならぬから。それよりも、かねをだしてくれ。それで、わしは、お四国めぐりをしよう、とおもう」
と妻にかたるのであった(高橋富枝)。

… 四国八十八箇所

 「お四国めぐり」とは、霊場巡拝の一であって、四国路にある弘法大師の霊場八十八箇所を、巡拝することをいうのである。阿波の霊山寺を一番として、順次に阿波・土佐・伊予・讃岐と、八十八箇所の寺々をめぐって、讃岐の大窪寺におわるのを例とする(和漢三才図会)。巡拝者を「遍路ヘンロ」とよび、もうでる寺ごとに、生国や氏名・年齢などをしるした札をおさめるので、これを「札所フダショ」ともとなえ、札をおさめることを「札をうつ」というのである。
 遍路は、着物のうえに笈摺オイズリをつけ、白の手甲テコウ・脚絆キャハンに身をかため、<*1>「同行ドウギョウ二人ニン」としるした菅笠スゲガサをいただき、背には手まわりの品々をおい、納札箱を胸にして、手には数珠をかけ、鈴と杖とをたずさえたいでたちもかいがいしく、札所では、鈴に和して御詠歌を誦し、巡路にあたる民家では、仏恩報謝のために、彼等をねんごろにもてなすのが、当時、一般のならわしになっていた。

… 文治の一行

 文治は、一行とともに二月二十二日(戊申、執)に村をたち、三月二十六日に、三十四日ぶりで、無事かえることができた(御用諸願書留帳)。一行は、文治のほか、栗尾藤右衛門・栗尾理喜蔵・渡辺源之丞・栗尾熊太郎等であり、このうち源之丞と熊太郎とが、いずれも六十三歳のとしがしらであり、藤右衛門が二十八歳で、もっとも、としよわであった。

 文治は、途中、<*2>「戸たてずの庄屋」とよばれる、弘法大師にまつわる伝説の家を見て、大師の遺徳をしのび(高橋富枝)、けわしい坂をこえ、ふかい谷をわたりつつ、札所・札所の礼拝おろそかならず、かぎりなき法悦にひたった慎しやかなそのすがたが、ゆかしくしのばれるのである。
 遍路は、もとより大師信仰に発したものであるが、時代の風潮につれて、一種の遊楽気分から出たものや、生活の窮乏に余儀なくせられたものも、すくなくなかった。
 したがって、これ等の徒は、途中が難儀であったり、遠いまわり道であったり、あとがえりしなければならぬような土地にある札所は、本道から遥拝して、すますものもおおく、文治の一行にも、そうしたものもあったのである。文治は帰宅ののち、
 「お四国めぐりをする、というても信心でなく、あそび半分のきもちでゆき、むつかしいところにあるお寺へは参拝せずに、遠くの方からおがんだりする。それくらいなら、はじめから、でかけないで、うちでおがんだ方がよいではないか」
と、家人にものがたるのであった(藤井くら、古川この)。

<1>弘法大師と我と二人 <2>愛媛県南宇和郡一本松村正木にあり。正木郷大庄屋蕨岡助之丞にかかる伝説

.. (六)住宅の改築

… 長女ちせ出生

 弘化四年(三十四歳、一八四七)九月十七日<*1>夜五ツ時、文治は長女をあげ、ちせと名づけた。はじめての女児のこととて、文治夫妻の愛撫は、ことにふかいものがあった。

… ちせ急死す

 しかるに、翌、嘉永元年(三十五歳、一八四八)六月十三日の未明に、ちせは急病におかされ、医師二人をむかえて治療につくすはもとより、親類・講中うちつどい、神々への祈念にも、おこたりなかったのであるが、その日の午後には、ちせはすでに、なきひとのかずにいっていたのである。まことに掌中の玉を、たちまちにして、うばわれたように、文治夫妻は、ただ茫然自失するのみであった。

… 四男茂平出生

 翌、嘉永二年(三十六歳、一八四九)四月二十五日<*2>夜四ツ時、四男茂平が誕生した。

… 住宅買収の議

 この年十二月三十日(大晦日)文治は、「小田コダ」の森田八右衛門から須恵の丸山青木竹治郎の持家をかわぬか、という相談をうけた。八右衛門は、文治の実方の従姉妹関係にあたる人である。文治も、いまの住宅が何分にもせまいので、かねて、何とかせねばならぬ、とかんがえていたおりからなので、こころがうごいた。なにしろ大晦日のことである。すぐさま庄屋小野四右衛門をたずねて、方位の吉凶をただし、「よし」といわれたので、文治は、八右衛門を証人にたてて、早速、これをかいとることにした。四右衛門は、その道の学者としてのきこえある小野光右衛門の子として、方位・家相のことについても、すでにまなぶところがあり、相当の自信もあったのであろう。
 嘉永三年(三十七歳、一八五〇)正月四日、小野四右衛門は、年賀のため井出の役所におもむいた。あたかも文治は、人足として、その供をしていたので、四右衛門は文治をつれて当時、大庄屋として、そこに在勤していた父光右衛門にあい、文治の家屋かいとりの一件を委細ものがたり、あらためて、その吉凶をただしたのであるが、光右衛門は、意外にも、
 「当年は戌歳、文治も戌の生、三十七歳、年まわりになる。この建築フシン、してはならぬ」と、きっぱりといいわたした。文治は、はたと当惑した。家は、すでにかいとることにしてある。いまさら建築してはならぬ、とあっては、なんともいたしかたがない。ふかく思案したすえに、事情をつげて、
 「なにとか、おくりあわせ、ねがえぬものであろうか」
とおして申しでた。光右衛門は、さらばと、さらにしらべなおして、
 「それならば、三月十四日、辰・巳の方に『小屋がけ』をいたして、仮移転ワタマシしており、八月三日、<*3>下家をとりのけ、四日地形ジギョウ、六日上棟ムネアゲ、二十八日移転ワタマシということにすれば、よし」
とさしずしてくれたので、文治は、ほっとむねをなでおろしたのであった。

… 仮移転

 そこで文治は、<4>正月二十八日から二日がかりで、かいとった家をもちかえり、かねての光右衛門の指示にしたがい、辰・巳の方に小屋がけをして、<5>三月十四日、移転のいわいに<*6>「やうつり粥」をたき、二男槙右衛門をつれて、文治は、ここにうつりすむこととなった。この年、辰の方には歳破・豹尾・金神が、巳の方には金神が、それぞれ、めぐりとどまっているのであった。

… 槙右衛門の死

 ところが、五月十日のころから、槙右衛門がやみつき、日をふるにつれて、容態がしだいにおもくなっていった。文治は、嗣子カカリゴのことではあり、再三の、にがい経験もあり、すこしの油断もなく、はじめから医師にかけ、薬を服ませなどして、用心におこたりなく、来診の医師にも、たえず容態についてただすのであった。その都度、医師は、「いや心配はいらぬ」と、きわめて自信ありげに見えたが、十二日夜にいって、槙右衛門は高熱のため、徹宵ヨドオシ、もだえくるしみ、ほとんど手のつけようがない。文治は、夜のあけるのを、まちかねて医師をよびむかえたが、医師も、「これは、ことのほか険悪ムツカシい」とおどろくのみでほどこすすべもなく、そのまま、むなしくひきとる始末であった。
 一家は、たちまちにして暗雲にとざされた。親族も額をあつめ、講中もあつまり、<*7>「はだかまいり」までしたが、神・神への祈念も、成就をみることなくして、この日(十三日)槙右衛門は、九歳のみじかい一生をおえたのである。病気は、疱瘡の潜伏期の悪化によるものであったであろうか。

… 三男・四男ともに天然痘を患う

 この日、槙右衛門のみまいにきた人が、延治郎をみて、「この子には疱瘡がでている」としらせてくれた。一家は、槙右衛門に、うちかかっていたので、気がつかずにいたのである。みれば茂平にも発疹ている。これ等もほっておけない。槙右衛門の遺骸を、とりあえず門納屋の一室にはこびおいて、<8>「しめおろし」をおこない、疱瘡の無事をいのるのであった。かくして、文治の兄弟、ならびに親類うちつどい、槙右衛門の葬送をいとなんでくれ、実家サトの母志もも墓地に会葬した。文治は、親族をはじめ講中に、それぞれ、てあつく挨拶した。  延治郎と茂平との経過は、きわめてかるく順調にしあげることができた。槙右衛門の死は、さることながら、この二人の、やすらかにすんだことを、よろこび、五月二十八日、文治は、神職神田筑前を請じて<9>「しめあげ」をおこのうた。筑前は、他の同職のものとともに、おごそかにこれをおこない、文治は、てあつい礼物をおくって、筑前はじめ神職たちをねぎらい、親族をもまねいて、祝宴をひらいた。
 文治の、このゆきとどいた礼遇モテナシに、神職たちはくちをそろえて、
 「なんと、世のなかには、おもいわけのよい人が、あればあるものじゃのう。他家には、みな、そろうて仕上げても、このような礼をしたものはない」と、かたりあうのであった。
 文治は、槙右衛門の死によって、「建築フシンしてはならぬ」と光右衛門から、きびしくいましめられた、さきの日のことをおもいおこし、ぬきさしならぬ場合ではあったが、「なにとか、おくりあわせを」とて、しいて自分の勝手を、とおしたことを、ふかく反省するとともに、あえなく散っていった若葉の身を、いとおしくも、申訳ないことにもおもい、こころひそかに、やるせないおもいを、禁ずることができなかったのである。

… 飼牛斃る

 かかるおりから、七月十六日、飼牛カイウシが虫気ムシケをおこした。文治は、早速、<10>牛医師をむかえて、治療をもとめた。医師は患部に鍼をうち、薬をも調じなどして、昼夜、つきそい看護してくれた。医師をはじめ、みなのものの、こころづくしのかいがあって、十八日朝、医師は、  「なおった。わしもかえるから、みなも、仕事をしなされよ」 と、いいおいてかえっていった。  あたかも<11>中六ナカロクの佐藤平吉が、おもいがけなくおとずれたので、文治は、
 「よいところへきてくだされた。これから、玉島へ建築フシンの用材をかいに、ゆこうとおもうておるところじゃ、いっしょにいってくだされ」
とて、これとつれだち、こころもかろやかに家をでた。
 玉島で用事をすませた文治は、町はずれの<12>久々井クグイまでかえると、妻の弟、古川参作が、うかぬ顔でやってくるのにであった。参作は、文治のかおいろをうかがうようにして、「牛が、にわかにわるうなって…」 と、口をきるのであった。文治は、  「わるうなったちゅうて、それだけのことなら、なんの、わざわざいうてくるにおよぼうに。いうてくるからには、よくよくのことじゃろうが。死んだとて、いまさら、どうなろうに」 と、いいなだめた。参作も、らくな気持になって、  「兄さんが、そういわれりゃあえい。ちから、おとしてじゃろうとおもうて、しらせにきた。実は、昼メ食シ後ゴに<13>へんがかわり、すぐに医師にかけつけたが、医師のくる間マに死んで、どうしようもなかった」
と、一部始終を報告した。文治は、「これからかえって、牛をみるのも、いじらしいし、どうしようか」と思案したが、おもいわけをして、万事を参作にたのみおき、平吉をうながして、用材かいいれのために、益坂村へ、わが家のうらの土手道ドテミチを、西にむかったのである。

… 建築の工事をはじむ

 その心事ココロをいたましめるできごとに、かくも、あいついで、ぶつかりながらも、文治は、建築の準備をすすめた。建築には、日がかぎられていた。
 いよいよその日がきた。<14>八月三日は、かねて光右衛門から、下家シタイエをとりのけよ、と命ぜられていた日である。文治は、作業にかかるにさきだち、金神を拝して、  「方角は、みてもらい、日柄は、なん月ガツなん日ニチと、えらんで仕ツカマツりますが、小家コイエを大家オオイエにいたし、<15>三方にひろげますので、どの方角へ、どのような御無礼を仕りますやら、凡夫であいわかりませぬ。建築フシン成就のうえは、早々、御神棚オミタナを仕り、<16>御祓・心経五十巻ずつ、御オン上アげます」と、こころからわびるとともに、あつきいのりをささげるのであった。  かくて、<17>四日に地形ヂギョウをすませ、五日から、たてまえにかかって、<18>六日に棟上ムネアゲをすませた。すべて光右衛門さしずのままである。工事中、七・八日も雨がふりつづき、文治は、こまりいったが、さきをいそぐ、そんなことには、頓着していられなかった。そして<19>二十八日には、予定のとおりに移転ワタマシをすることができて、ようやく安堵のむねを、なでおろすことができたのである。
 棟梁は、<*20>安倉の川崎元右衛門という森田八右衛門縁故ユカリのものであった。

… 工事落成の報賽

 文治は、棟梁に神棚をあらたにたのみ、かつ「金神様には、なにをそなえたらよいか」とたずねた。<*21>「甑コシキの物」がよいとのことで、それをそなえて、はじめの祈誓のごとく、御祓・心経をあげて報賽の礼をつくした。

… 建物の構造

 この家は、後年、金光大神取次の広前となったもので、間口六間・奥行四間のわらぶき、南むきにたてられて、瓦ぶき三尺の庇が南がわに、とおっていた。
 その間どり、南がわは「上カミの間」床と押入とのついた六畳、「外アダの間」六畳の二間であって、中堺には三尺の襖が四枚たてられた。この二間の南がわは、ともに三尺の障子がたてられ、「外の間」には、東よりに三尺の戸袋が、とりつけられた。「上の間」「外の間」のそとには、雨戸が閉タてられるようになり、雨戸のそとには三尺の廊下が、とおっていた。
 北がわは、「上の間」のおくが六畳の「納戸」になり、「上の間」とのあいだには、三尺の襖が三枚たてられた。「外の間」のおくは、四畳半の「台所」になり、堺に三尺の簀戸スドが三枚たてられた。
[図2]嘉永三年改築住宅図
 「上の間」の西がわには、「納戸」よりに奥行三尺の「床の間」があり、南よりには「押入」があった。「押入」には二枚のまいら戸がたてられ、南がわには、戸袋が、とりつけられた。まいら戸は、紅殻塗ベニガラヌリの竪桟タテザンであった。「納戸」は、北がわに「押入」があり、西がわには、南よりに三尺の壁があり、そして三尺の障子が二枚たてられて、外のぬれ縁にでられるようになっていた。「台所」の北がわには仏壇と「戸棚」とがあり、あかりとりの窓もついていた。台所の東がわ南よりに、床ウ上エから、たくことができるように、竃が築かれていた。
 天井は、「上の間」と「納戸」とには板がはられ、「外の間」と「台所」とには、葭簀ヨシズがはられていた。
 土間は、座敷の東がわを、南北にとおっていたが、おもてと、うらとが仕切られて、三尺の簀戸がついていた。土間の南に「土間ニワの口」があり、四尺ばかりの腰高障子がたてられて門にかよい、北には背戸があって、ここにも腰高障子がたてられた。農家の正面は、「おもて」とよばれ、農事の作業場として、どこの家でも、相当の広場になっていた。
 宅地は<*22>二畝十七歩とあるが(御水帳)、実積は、よほど広かったようである。宅地の西がわには竹籔があり、その外は、一段ひくくなって、里見川の土手道から、南にわかれた村道が、この宅地にそうて、西にすこし迂回して南にはしっていた。
 宅地の北がわは、大橋本家モトヤにつづき、東がわには、空地があって、木綿崎山の山裾が、急勾配でせまっていた。さらに宅地の南は、門をでると、左がわに一段たかく古川家の土蔵が見えていた。門をでた通路は、「太郎左衛門屋敷」の南がわを西におれて、前記の村道にむすばれていた。
 これまで、六畳一間ヒトマに納戸という、せまい家に辛抱していた文治一家は、多年の勤労が、ようやくむくいられて、ここに、あらたなすまいをえて、ひろびろと起居することができるようになった。

… 飼牛また斃る

 しかるに、翌、嘉永四年(三十八歳、一八五一)七月十六日、つぎの飼牛が、また虫気をやみ医師をつけ、昼夜の看護も、まえのごとくおこたるところがなかったのに、そのかいもなく、十八日、ついにたおれた。発病も死も、ともに去年と月日をおなじくした。はたして偶然か必然か。文治のこころには、なんとなく、気にかかるものがあった。
 かえりみれば、さきに養父おやこが、二十日ばかりのあいだに、あいついで世を去ってからこのかた、不幸なことがうちつづき、いま、また飼牛が、年をならべておなじ月日にたおれ、あたかも七基ナナツの墓を、きずいたことになる。「金神七殺」とは、これをいうのであろうか。金神のたたりというものは、これほどに執念ぶかく、おそろしいものであろうか。住居もあらたになった今、なにとぞ、このおそろしいたたりから、のがれでたいものと、ひたすらに念じつづけたのである。
 文治は、後年、浅口郡<23>西阿知新田の人、斎藤宗次郎に、  「金光大神も、出雲屋敷にまでなった。また、氏子でたらいで、<24>牛・馬でも七墓ナナハカならべるまで、金乃大神さまに御無礼したものじゃ」
とものがたったことがある。「出雲屋敷」とは、金神のたたりをよけるため、出雲大社におこなわれる、一種の祈祷のことである。文治は、当時、この種の方法をも講じたことが、これによってうかがわれるのである。

<1>午後八時 <2>午後十時
<3>用いふるしたる家 <4>日柄辛酉、十二直破
<5>日柄丙午、十二直満 <6>黒豆をいれてたく粥にて移転のときの風習
<7>家にとり大切なる者の危篤に陥りたるとき、講中の人々水垢離をとりたるままの裸体にて宮寺をかけめぐりて祈念すること <8>しめ縄をはることをいう。疫病を守る神を「厄守」とよび、疱瘡もこの神のわざと信ぜられ、しめ縄をはりてこの神を祭り、病の無事仕上を祈ると共に他に病の及ばぬ様にと祈ること
<9>しめ縄を徹し厄守の神を送る行事 <10>隣村下竹に大西利右衛門という者ありたり
<11>六条院中村の略称。平吉は古川八百蔵妻むめの弟にて、つねに建築の手伝などに従いたり <12>現玉島市
<13>急変の意の方言 <14>日柄壬戌、十二直除
<15>東・南・西 <16>六根清浄祓・般若心経
<17>日柄癸亥、十二直満 <18>日柄乙丑、十二直定
<19>日柄丁亥、十二直満 <20>現浅口郡寄島町
<21>蒸物の意にて、餅・赤飯(こわめし)の類 <22>七十七坪
<23>現倉敷市 <24>「牛馬まで加えて」の意の誤か

.. (七)みかげのうけはじめ

… 実母の死亡

 嘉永四年(三十八歳、一八五一)五月二十九日、文治の実母、香取志もが、齢六十九で世をさった。

… 二女くら出生

 この年、十二月十五日<*1>明六ツ時に、文治は二女をあげた。今年の干支は辛亥にあたっている。養母が、おなじ亥歳うまれであるから、生児コドモの名は、わしがつけてやる、とてくらと命名した。養母も、寛政三年(一七九一)亥年のうまれであった。

… 実父の死亡

 嘉永六年(四十歳、一八五三)八月十八日、実父香取十平が、七十七歳にして、実母のあとをおうて世をさった。

… 五男の出生家庭の問題となる

 安政元年(四十一歳、一八五四)十二月二十五日<2>夜四ツ時、文治は五男をもうけた。この年文治は四十一歳であったので、この生児は、あたかも、「四十二の二歳子フタツゴ」にあたっている。「四十二の二歳子は親を食う」とて、これを忌む俗説がある。そこで一般には、かかる場合、かりに、これをすてて他人にひろわせ、さらに、これをひきとってそだてなどするのである。  文治の家庭でもこのことが問題になり、家におかぬがよい、という意見もあったが、養母が「わしがそだててやる、みなに迷惑をかけぬから」というので、これにまかせて、そだてることにした。それにしても、すでに年末のことではあり、かたがた、来年正月生ということに「まつりかえ」をしよう。正月二日が、ちょうど八日ぶり<3>「火合ヒアワセ、七夜シチヤ」にもあたるから、氏神神主にたのんで、「正月二日生」にしてもらおう、ということに、家庭ウチワの相談がまとまったのである。
 あくれば安政二年(一八五五)、文治は、ここに四十二歳をむかえた。俗説に、男子一生の大厄とせられた年である。

… 厄晴の祈念

 元日早旦、文治は礼装して、若水をくみ、<4>歳神トシガミをまつって、その年の幸福をいのり、ついで氏神の社にもうでて「厄晴ヤクバレ」の祈念をこめ、神職神田筑前に「生児の生歳を卯歳(安政二)にまつりかえていただきたい」とねがい守札をおさめ、卯年にちなんで、名を宇之丞とつけた。  正月四日、五寸ばかりもつもっている雪をおかして(高橋富枝)、文治は、備後鞆の津祇園宮にもうで、神主の大宮氏にたのんで、<5>木札モクサツをいただいてかえった。
 こえて正月十四日、文治は、備中<6>宮内ミヤウチの吉備津神社にもうで、御竃殿オカマデンに「日供ニツクウ」を献アげたが「おどうじ」が二度もあった。ここに「おどうじ」というのは、この社特有のものである。すなわち、参詣したものが、御竃殿に日供の料をそなえると、そこに奉仕している巫女が、なにがしかの米を<7>釜にうつしてこれを炊カシぐのである。そして、沸ニ騰タつにつれて、釜が、牛のほえるような一種のうなりを発するのをいうのである。このうなりがなければ、不吉とせられ、これが二度もあるのは、きわめてまれなのである。
 文治は、この二度の「おどうじ」について、いろいろにかんがえて見た。「これは、私が<8>出世するおしらせであろう。ありがたいことである」として、こころもかるく吉備津神社を退出し、すぐにその足で、道をいそいで備前<9>西大寺の観音院にもうでた。この日は「会陽エヨウ」のおこなわれる日である。「会陽」とは、毎年、元旦から二七日のあいだ、国家安全・五穀成就の祈祷を修し、その結願の日たる十四日の深更、この祈祷をこめた宝木シンギをなげあたえるのを、参詣の群衆がはだかでもみあい、あらそいとる行事をいうのである。文治も、この会式に参加して十五日に帰宅した。これ等、神仏への参詣は、いずれも、かの厄晴のためであったのである。

… 喉痺を患う

 しかるに、文治は四月二十五日の<10>午後になって、何となく身に不快をおぼえ、奥の間(納戸)によこたわった。翌、二十六日には病勢がすすんだ。時、あたかも、麦のとりいれに、いそがしい最中であった。かねて懇意な占見の医師柚木ユノキ隆碩ユウセキをむかえて診察をこい、薬餌につとめるとともに、神仏に祈念することにも、おこたるところがなかったが、病気は喉痺ノドケになった。ものもいわれず、湯・水も、とおらぬようになり、ついに、医師は「九死一生」と宣告した。しかしながら、文治は、「こころ<11>実正、神仏へ身まかせ」、妻には、そとにでて仕事をせよ、と手まねをもって指図した。
<12>身内のものも、みな来て「小麦うち」を手伝うてくれた。この人々も、文治の病状が気になるので、仕事の手は、おのずからにぶりがちである。  「文治は、とてもたすかるまい」と絶望のこえをはなつものもあり、  「こんなことになるのなら、宇之丞を、そだてにゃあよかったのにのう。死なれては、つらいものじゃ」 となげくものもあり、  「仕事どころか」 と、ふさぎこむものもあったが、  「それでも、仕事だけは、なんでも早うかたづけて、神様におすがりするよりほかに、方法シカタがない」 ということになって、四月二十九日の夜、上の間に身内のものがあつまり、石鎚の先達、古川の<13>新屋シンヤの治郎を、さきにたてて、石鎚神イシヅチノカミをはじめ、神々に、病気平癒の祈念をした。文治も、襖をへだてた、となりの病床にあって、人々の志を感謝しつつ、みなの祈念にしたがい、こころのなかで、神々を念じていた。

… 石鎚神の神懸

 やがて、治郎に石鎚神のおさがりがあって、
 「建築フシン、移転ワタマシにつき、豹尾・金神に無礼いたしておる」
とあった。その語気には、さすがに、あらあらしいものがある。「建築・移転につき」とは、すぐる嘉永三年の住宅建築に関することであって、「建築、移転」とは、建築をするについて、仮に小屋掛をして移転をしたことを、指摘したものと解せられる。
 これに対して妻の父(古川八百蔵)は、
 「当家において、金神様おさわりはない、方角をみて<14>建った」 と応酬した。これも語気には、はげしいものがあった。当時、かかる場合の応酬ヤリトリは、向意気がつよくなければならぬ、とせられていた。石鎚神はさらに、  「そんなら、方角をみて建ったら、このいえは滅亡になっても、亭主は死んでも大事ないか」 と、詰問するのであった。  神々を一心に念じていた文治は、最初の「建築・移転につき…」とある神のこえに、はっととむねをつくものがあり、さてはこの建築が、やはり神に無礼になっていたのか、あいすまぬこと、といまさらに、こころにわびつつ、神と岳父シュウトとの応酬に、いきをころして、耳をすませていたのである。岳父が、反抗的に「金神様おさわりはない…」と断言するのを耳にして、「<15>なんたことを、いわれるのじゃろうか」と、文治のこころは、おどろきと、おそれおおさとに、うちおののくのである。
 かく感じた刹那、文治は、咽ノ喉ドが、おのずからひらけるのをおぼえた。文治は病床から、とりあえず、
 「ただいま<16>氏子の申したのは、なんにも知らずに申したのでござります。私、戌の年、年まわりわるく、建築をしてはならぬ、と申されたのを、おしてねがい、方角をみ、日柄をあらためて、いただきまして、何月何日と申して、建てさせてもらいましたが、もとのせまい家を、大家オオイエにつかまつりましたので、どの御方角へ、どのような御無礼を、つかまつっておりますことやら、凡夫で、あいわかりませぬ。しかしながら『御方角をみて、それですんでおる』などとは、私は、毛頭おもうておりませぬ。以後、御無礼のところは、ひらに、おことわりを申上げます」 と、まことをうちだして、ひたすら、わびにわびた。  これに対して、神は、「戌の年はええ。<17>よし、ここへ這いながらでも、でてこい。いまいうた<18>氏子の心得ちがい、その方は、いきとどいておる。正月朔日に、氏神の広前へまいりきて、手をあわせて、どのように申してたのんだか。氏神はじめ神々は、みなここへきとるぞ。『戌の年、当年四十二歳、厄歳。厄まけいたさぬように御願申上げます』と申してたのんだであろうが。戌歳男は、今度は熱病をわずらう<19>番てい。熱病ではたすからぬで、喉痺に、神がまつりかえてやったのぞ。神徳をもって、神が、たすけてやる。吉備津宮に日供を献アげたときに、二度もおどうじがあって、もの案じを、しながらもどってきたであろうが。病気のしらせを、いたしてやったのぞ。信心をせねば、厄まけの歳。<20>五月朔日、験をやる。金神・神々へ、礼に、心経百巻、今夜コンセキにあげい。妻は、石鎚へ、衣裳をきかえて、七日のあいだ、御馳走に、香・燈明をそなえい。御広前へ、五穀を御備えあげい。日天四(子)が、戌の年のあたまのうえを<21>昼の九ツには、日々、舞うてとおってやっておるぞ。戌の年、戌の年、一代、まめで、米をくわせてやるぞ」
とて、治郎の手にしていた幣が、そなえた五穀のへぎ盆のうえにひきつけられ、大豆と米とが、それについてあがった。
 「これを盆にうけて、粥にたいて、戌の年にくわせい」
と、かさねてさとした。まことに不思議な光景であり、文治にとっては、はじめての経験であったのである。
 かくて、文治は神の霊験に浴して、しだいにこころよく、五月四日には、端午の節供をむかえるために、みずから粽チマキを結いなどして、一家は、さわやかな五月のそらのように、よろこびのなかに、端午の節供をいわうことができ、文治が再生の感激は、たとえるに、ものなきありさまであった。
 後年、文治は、神のさとしのままに、その生涯のことを、覚書にしたが、この病難のくだりにいたって、いまさらに感慨にたえぬもののごとく、前記「氏神はじめ、神々は、みなここへきとるぞ」というところまで、筆をはこびきて、「ここまで、かいてから、おのずと、かなしゅうに相成候」と筆をくわえている。
 これに対して、
 「金光大神、その方のかなしいのでなし。神・ほとけ、天地金乃神、歌人なら、うたなりとも詠もうに、神・ほとけには口もなし。うれしいやら、かなしいやら。いま、かように、氏子がたすかり、神がたすかることになったが、どうして、こういうことが、できたじゃろうか、とおもい。おもうて、神仏、かなしゅうなったのよ。また、もとの<*22>かきくちをかけい」
と、神は、金光大神をさとしている。
 当時、喉痺とよばれたこの病気は、いまいう扁桃腺周囲濃瘍のことであろうか。在来の医書には、「七・八日不治則死」(医心方)などしるされ、おもくあつかわれていて、医師が、これを「九死一生」と診断したことは、無理からぬことであったとともに、文治自身はもとより、肉親の人々が、これをふかく憂慮したのも、さもあるべきことであった、とおもわれる。

… 一念発起

 文治は、かくして、こころよくはなったが、その健康は、とかく、すぐれぬものがあり、この状態は、およそ、翌、安政三年(四十三歳、一八五六)のすえまで、うちつづいた。

… 信心文サ

 文治は、病気のつらさが、身にしみて感ぜられた。そこで、このことあって後、毎月、朔日・十五日・二十八日の<*23>「三日サンジツ」に、朝の間マから、一日がかりで、神まいりをさせてもらおうと、一念発起した。かくて、文治の信心は、ここに、あたらしい段階に、すすむこととなったのであって、文治が、村人から「信心文サ」とよばれたのも、このころからであったであろうか。

<1>午前六時 <2>午後十時
<3>産穢のため母子とも忌に居り、火を別にす。生児の忌は七日にして明け、他と火を共にするより、この称あり <4>歳徳神-この年は庚(申・酉)の方にあり
<5>祈祷料に応じて大小種々の木札を下ぐるが例なり <6>吉備郡真金町
<7>鳴釜という <8>家の繁昌するをいう方言
<9>現西大寺市 <10>午後二時より日没までを「ばん」という
<11>たしか。鎌倉三代記「お心の御実正なは、独参とやらの力…」 <12>最も近しき親族
<13>分家のこと。治郎は古川八百蔵の二男にして、弘化五年八百蔵の父五平の実家同姓古川を嗣ぎ五郎右衛門と改称。別居せしを以て「新屋」と呼ばれいたり <14>「建てた」の方言
<15>「なんということ」の略、方言 <16>八百蔵
<17>促しの語 <18>八百蔵
<19>「番」はまわりあわせ。「てい」は「たい」「とい」「てや」などと通ずる、意味をつよむるための助詞。方言 <20>四月は小の月にて二十九日きり。明日のこと
<21>正午 <22>「かきかけたところを、つづけてかけよ」の意
<*23>江戸時代の祝日の称。式日

.. (八)神のたのみはじめ

… 実弟香取繁右衛門

 かかるなかに、安政四年(四十四歳、一八五七)十月十三日<1>暮六ツ時、当時<2>亀山村にいた実弟香取繁右衛門のもとから、使のものがきて、
 「繁右衛門どのが『金神様おのりうつり』と口ばしりながら、屋根にとびあがったり、常夜燈にとびついたりして、乱心の体テイで、とんと手がつけられませぬ。『はよう大谷へいって、兄の文治を呼ヨうできてくれ』と申されます。どうぞ、いそいできてくだされ」
とのことである。
 「みなさまに御迷惑をかけておることでござりましょう。すぐさま、まいります」
とこたえて、兄弟おもいの文治は、とるものもとりあえずかけつけて見ると、繁右衛門の身内はいうにおよばず、庄屋の<3>御寮人コリョウニンはじめ、村内ムラウチの懇意なものもあつまって、うかぬ顔を、そろえてまちうけていた。文治を見て、  「よう御座った。<4>苗にも稗にもなって、どうぞ、繁右衛門どののおさまるように何分にもたのみます」
と、うったえるのであった。

… 金神のたのみ

 繁右衛門は、別の間マに、おごそかにかまえていた。文治を見て、
 「<5>戌の年、ようきてくれた。金神、たのむことがあって、よびにやった。金神のいうことを、きいてくれるか」とのことである。文治は、すなおに、そのまえに手をつき、  「私のこんにかなうことでありますなら、承知いたしました」 と、こたえた。  「別儀ではない。このたび、<6>この方未の歳、よんどころなく、屋敷宅替せねばならぬことになったが、<7>十匁の銭ゼニさえ借るところがない始末じゃ。建築フシン入用を金神がたのむ」 と、いうことであった。文治は、こころよく「してあげましょう」とひきうけた。  「それで神も<8>くつろいだ。総方も、一日中大儀でござった。ひらきくだされい。庄屋御寮人を、わかい人で、おともをして、いってくだされ、神がたのむ」
とて、ひとしきり、神の<*9>「おいさみ」があった。文治は、
 「どうぞ、おしずまりくだされ」
と、ねごうた。
 「しずまりてやる」
とて、繁右衛門のからだが、神棚にとびつくと同時に、神がかりの状態がとけて、そのまま、そこに倒れ伏し、昏々として、朝まで、ねむりつづけた。
 繁右衛門を、乱心したものとおもいこんでいた親類のものらは、なお不安の念がさらず、祈念・祈祷のことなど、なにかと相談に夜をふかすのであった。
 翌朝、繁右衛門はけろりとしていた。文治が、「昨日のことを、おぼえておるか」とたずねたが、彼は「なにもしらぬ」という。「おぼえておらぬとあっては、いたしかたもないが、実は、これこれであった」と申聞かせ、
 「ともかくも、お世話になったさきざきへ、妻にでも、お礼にまわらせ、おって村役場へも、自身で挨拶にゆくがよい。そのうえで、すぐにも建築にかかるがよかろう」
と、注意をあたえて、文治は、ひきとった。

… 繁右衛門の金神信仰

 繁右衛門は、これよりさき、亀山村難波小八の娘千代を妻としてむかえていた。小八の死後、その後家むめは、幼児源八をかかえて、農作も、いとなみかねる事情にあったので、繁右衛門夫妻は、それをたすけるために、難波の家に同居していたのである。繁右衛門は、この家にきてからほどなく、<10>堅磐谷の一婦人<11>小野氏によって金神信仰をつたえられ、熱心に信心していたのである。
 十月十八日、文治は、その後の様子を見に、亀山へいったが、繁右衛門は、すでに建築にかかっていた。文治は、なにかと工事の手伝をした。文治は、うまれつき器用であって、大工仕事などは、できたのである(高橋沢野)。

… 金神の霊験を感得す

 文治は、その手伝のためであったか、二十日の日から、腕がはれていたんだが、わずか一日やすんだだけで、あとは農事をしながら、自然にいたみをわすれた。文治は、これを、金神のおかげとしてよろこび、亀山へ、たびたびまいっては、建築を手伝うた。
 十一月九日、建築が成就して、ここに金神を奉斎し、繁右衛門も、この日、神から<*12>肥灰をさしとめられて、もっぱら金神の守モリをすることとなった。

 文治は、この建築についての費用はもとより、九日には祝の樽をそなえ、繁右衛門の心配せぬよう、小遣、そのほかの経費にも、こころをくばるなど、いたれりつくせりのありさまであった。
 かかる経過をたどって、文治の信仰は、しだいに、金神一途にすすんでいった。

… 妻の妊娠につき神の教をうく

 そのころ、妻は身おもであったが、月がかさなるにつれて、なんとなく、からだに倦怠をおぼえた。十二月のある日、文治は、亀山にまいって、このことについて神の加護をいのった。すると、神は、
 「<13>氏子に、かんがえちがいあり。この胎児コをそだてまい、とおもうておる。この胎児をそだてる気になれ、きょうから身がるにしてやる。この胎児をそだてねば、親の身に<14>あたりがつく。この胎児をそだてい、とめの子にしてやろうぞ」
と、繁右衛門の口をもって、文治をさとした。文治は、これによって、はじめて妻にそうしたこころのあることをしり、かえって、妻にこのよしをつげると、妻は、
 「子どももおおいし、するので、今度の子はおくまい、とおもうておりましたが、そういうことならば、そだてる気になりましょう」
と、告白するのであった。文治は、そのよしを神に申上げ、妻のこころえちがいを、ひたすらにわびた。妻は、この日をかぎりに、身もかるく、心もはればれとして、布機織ヌノハタオリをはじめ、どの仕事にも、さしつかえがなくなった。
 この、安政四年十月十三日の「建築入用を金神がたのむ」とあったのが、すなわち「神のたのみはじめ」であって、のちの慶応三年(一八六七)十一月二十四日の、「いよいよ当年までで、神のたのみはじめから、十一箇年に相成候」との神のさとしは、このときの事実を指摘したものとおもわれる。

<1>午後六時 <2>現玉島市
<3>妻の敬称 <4>「よいものにもなりわるいものにもなり」というほどの意。他をなだむる者の態度につきていう方言
<5>文治のこと <6>繁右衛門のこと
<7>銀六十匁をもって金一両とす <8>「安心した」というほどの意の方言
<9>神威の振い勇むこと。憑依者の動作に興奮の状を呈す <10>現浅口郡船穂町
<11>小野うたか <12>農事
<13>妻のこと <14>意趣がえし

.. (九)信境ようやく進展す

… 神名あらたまる 拍手をゆるさる

 安政五年(四十五歳、一八五八)元旦、文治は、鏡餅をととのえて亀山にまいり、年始のとりつぎを、繁右衛門にこうた。そのときに、
 「戌の年は、<1>神のいうとおりにしてくれ、そのうえに、神ともちいてくれ、神もよろこび。金乃神が、戌の歳へ、礼に、柏手カシワデをゆるしてやるからに、神とあったら、<2>『他領の氏神』というな、大社タイシャ・小社ショウシャなしに柏手うって一礼いたしてとおれ。<3>『金乃神したばの氏子』と申して、日本神々へ、とどけいたしてやるから、神が、受返答いたすようにしてやる。戌の年、いままでは、段々、不時フジ・不仕合フシアワセ、難をうけた。これからは、なにごとも神を一心にたのめ。医師・<4>法印いらぬようにしてやるぞ。ほかの氏子にはいわぬ、妻の産のこと、五日か十七日か」
と、神は、繁右衛門によって、文治をさとした。

… 三女この出生

 文治の妻は、正月十七日<*5>夜の四ツ時、女児をあげ、名をこのとつけた。この日、妻は、日のくれるまで、野にあって、はたらくことができ、出産も、きわめてやすらかであった。
 文治は、妻の産が、きわめてかるく、かつ産期が、かねての神のみさとしのままであったことを、ふかくよろこび、翌朝、早々亀山に礼参した。
 このことがあってから、文治は、神棚をもあらためてととのえ、朝夕、拍手をうって礼拝し、ひたすら、信心にはげむとともに、神のみかげを体験することも、日に夜に、たびかさなっていった。
 かの正月朔日の神のみさとしは、まことに、文治の信心のうえに、一期を劃したものである。すなわち、神名が、ここに「金乃神」と、あらたまったことは、その一であり、「したばの氏子」と、めされたことは、その二であり、「拍手」をゆるされたことは、その三であった。これまで、文治は、神をおがむのに、手をうつことがなかった。それは、むやみに手をうつものでない、というつつしみのこころからであったが(高橋富枝)、このゆるしをえてからのち、はじめて拍手の礼をおこなうこととなったのである。この拍手をゆるされることを「神門拍手」とも「拍手神門」ともなづけられた。これは、拍手によって、神は扉をひらいて、そのいのりを、ききとどけることを意味し、信心の、ある段階に達したものにゆるされたものである(高橋富枝)。

… 神の教を手に感得す

 安政五年三月十五日、文治は、はじめて、手に、神のおしえを感得するようになった。それは、手をあわせて神を念ずるとき、わが願の成就する場合には、手がおのずからあがり、しからざる場合は、おのずからさがるをおぼえ、これによって神意をうかがうことが、できるのである(近藤藤守)。

… 独自の信境ひらく

 ここにいたって、文治は、神のおしえを、自身に、うけうる身となり、しだいに独自の信境がひらけ、したがって、金神方位の俗説から、ついに、ぬけでることのできなかった繁右衛門の信仰とは、おのずから、その本質を、ことにするものとなっていったのである。
 この年も孟蘭ウラ盆会ボンエがめぐってきた。七月十三日は、どこの家でも、精霊棚ショウリョウダナをしつらえて、祖先の霊を、むかえる日である。文治も、この日は、祖先の墓地をきよめて、香華をたむけ、仏壇をもかざりなどして、これをむかえる用意をした。

… 神のことばを、はじめて口ずから伝う

 夕方、祖先精霊をむかえ、回向エコウをせねばならぬとて、つねよりもはやめに、金乃神のまえに、燈明ミアカシを献じて拝礼した。そうすると、
 「戌の年、今晩は<6>ぼにとおもうて、精霊回向へ、気をよせい。燈明、あぶらはすくのうても、火はきえぬ。はや、晩から、なんぼうになりゃあ。母・妻とも、ここへこい、ものがたりいたしてきかせる」 という、金乃神のことばが、おのずと文治の口をついて、ながれでたのである。これは文治にとっても、かつて、ためしのないことであり、家族にとっても、かつて見たことのない光景であった。このとき、あたかも森田八右衛門がはいってきた。神棚は、どこの家でも外の間にあったのであるから、文治のこの不思議な光景は、すぐに目につくのである。  「<7>じょうじゅう、このようにいわれるか」と、八右衛門は家人に、いぶかりたずねるのであった。家人は、「いや今夜はじめて」と、応接した。
 この光景は、そのままやみ、文治の態度に、何のかわったところもなく、文治は、つねのごとくに八右衛門と用談した。ほどなく八右衛門はかえっていった。
 この日は、祇園宮の縁日であったので、文治は、そのまえにも燈明を献じて拝礼した。すると、
 「うしろ、本家より、八兵衛と申す人、この屋敷へわかれ…」
という、金乃神のことばが、文治の口をついてながれ、つづいて、
 「戌の年さん、おまえがきてくれられたで、この家も、たちゆくようになり、ありがたし。精霊、お礼申上げる」
と、川手家先祖のことばがあらわれ、さらに客人神マロウドガミから、
 「<8>近江の国よりまいり、このところへおさまり、<9>八百三十一両二年になり。墓所を、氏子がそばへいたしおり、これを、場所をかえるように、たのみます」
という、たのみのことばがあらわれ、それで、この不思議な光景は、おわった。
<*10>客人神とは、近江国坂本、日吉ヒエ神社摂社、上七社の一である。この神の祠ホコラは、木綿崎山北端にあって、ふるくから大橋氏がこれをまもり、年々の祭礼も、この家が奉仕して今日におよび、その由緒についても大橋氏につたえがある、といわれる。この祠のある地点は、「客人神」の地名ともなっており、この社地を道ひとすじへだてて、大橋・川手・古川三家の墓地があるのである。

… 神と人とのあいよ、かけよの生活

 このことがあってから、神は、なにごとをも、文治の口をもって、おしえるようになり、文治も、また、なにごとをするにも、神のみさとしのままにし、かりにも、これにそむくことのない、きわめてすなおな、神と人との、あいよ、かけよの、あたらしい生活が、ひらけていった。そして、これは、文治にとっては、なにものにもかえることのできぬ、難易をこえた、とうといものであると同時に、なにものにも、くらべることのできぬ、利害をわすれた、よろこびでもあった。

… 神のおためし

 この年(安政五)七月、稲の出穂期に、「あきうんか」が、おびただしく発生した。うんかのなかでも、これは、その害が、ことにひどいものといわれる。当時の農家は、<11>油を田にそそいで、これを駆除するのがつねであった。  七月のある日、神は、  「この方には、油をいれな。それでうんかがくうか、くわぬか、今夜、<12>この方広前へきて、ねてみい。蚊がくうかどうか。その方は、ひごろ蚊にまけて、<13>ほろせがでる性分ショウブンである。ほろせがでるか、まけるか。今夜、蚊がくわねば、うんかもくわぬものとおもえい。自然、神の封じのこりの蚊が、くうかもしれぬが、それは、手でおさえておけ。うんかも、そのとおりで、少々はいつの年でもおる。蚊にまけねば、うんかもくわぬのじゃ。しかしながら<14>『とうない田』には、他のするように油をいれておけ。しかも、一升のものなら二升、というように、他ヒトの二倍も、いれるようにせよ。そして他には『二倍もいれた』と申しておけ。うんかの密集ヨリのところへは、<15>いかい、いれるようにせよ。『いかい』というても、他なみでよい。油をいれるときにも、<16>かず、あるくな。うんかをおうな。稲がいたむぞ」
と、こまごま文治をさとすのであった。

 文治は、この神のみさとしのままに、神の広前(外の間)に、ただひとり横になっていた。蚊が、うなりをたてて、むらがりおそうのであったが、なんのこともなく、さすのがあっても、ほろせもでず、かゆくもない。
 やがて、神は、
 「もう今夜も<17>八ツじゃけに、蚊帳カヤのうちへはいれ。<18>『ねきり』をねぬと、あすの日がつとまらぬ」
と、文治をさとした。このことは、文治にとって、はじめての経験であったが、文治は、「おためしなされ、おそれいり、お礼申上げて」蚊帳に、はいった。
 文治は、この神のみさとしをまもるに、なんのためらいもなかった。

… 唐臼をあらたに立つ

 七月すえのある日、文治は<19>唐臼立を、<20>本庄ホンジョ名口ナグチの職人に、たのみにいったが、「月をこしてから、いってあげましょう」とのことであった。八月十三日は、<21>屋守祭ヤモリマツリの日である。文治は、その朝、屋守の安部家へ、まつりのいわいにゆくことをねごうた。神は、「今日はゆくな、唐臼立がくるぞ」とて、これをゆるさなかった。すると、はたして<22>四ツまえに職人がきて、さしつかえもなく唐臼立ができ、午後バンには、仕事がおわった。神のみさとしは、まことに符節をあわすがごとくであって、文治は、ただ、おそれいるよりほかはなかった。
 秋がきた。文治の田をみて、とおる人が、「うれいろがよい。こんなのは、<*23>谷中タニジュウにない」と、いずれも感嘆する。
 文治は、「下淵シモブチ」の田に糯稲モチをうえたが、古川参作も、小溝ひとつをへだててならんでいる田に、おなじく糯稲をうえていた。しかも、その籾タ種ネは、文治にかえてもらったものであったのである。栗尾馬蔵が、とおりがかりに双方をみくらべて、「参サの稲と、文サの稲とは、うえものが、ちがうじゃろうか」とあやしんだ。ほかの人々も、おなじように不思議がるほど、できばえがちごうていた。
 かくて、その年もようやく収穫期になった。

… 神のてご

 ある日の朝、神は、
 「<24>倅と妻とは、朝のうちに稲をこいで乾し、その方は、ふるい籾が一石余もあるから、それを唐臼にかけて、朝のうちに<25>米にしてしまえい。新唐臼じゃけに、おもいから、神が手伝をしてやるぞ。<26>飯後より、綿つみにいけい」 と、文治をさとした。そこで、文治は養母に、  「今日は手伝人があって、仕事が、はようかたづくから、お飯を、はやめにこしらえなされい」 と、たのみおいて唐臼挽にかかった。臼は直径尺九寸あり、しかも、あたらしく、つくったばかりのものである。普通の場合でも、屈強なものが、二人がかりでなければ、ひくことのできぬものを、文治は、ただひとりで、唄をうたいながら、かるがるとひき、しかも臼のまわるのが、<27>目にもとまらぬほどであった。
 「その方、単独ヒトリでひいてみい」
と、神のこえがかかると、臼は、にわかにおもくなって、いきがはずんで、唄どころではなかった。神は、
 「こんなことは、神も、したことがない。まあ<*28>一服せよ。公儀の仕事でも、休憩タバコということは、あるものじゃ」
とて、休息をさせた。

 かくして、この脱籾モミヒキも、たちまちにして、おわることができて、文治は、ただおそれいるのみであった。養母は、「今日は手伝人がある、と<29>いようたが、誰も、きてはおらぬのじゃのう」とあやしみ、妻は妻で、飯後、文治・倅とともに、津の「五反場」で、わたつみをしながら「今日は、<30>なあし、仕事がはかどるじゃろうか」とあやしみ、つぶやくのであった。
 またある日、神は、
 「今日は、この近傍マワリの稲を、<31>刈乾カリボシにいたせい。雨天でも、雨がふりふりでも刈ってしまえ。三日の間、雨はふりはせぬ。明日・明後日の二日のあいだに、『下淵』の田の稲を<32>野扱ノコギにいたせい」
と、文治をさとした。この日は、いまにも雨がおちそうにみえ、<33>うえの参作は、稲刈鎌を手にして、一旦、でてきたが、空あいをみて、「これは、<34>じょうしき降雨じゃ。自家ウチには、まあ、やめよう」とつぶやいて、家へ、ひきかえしたほどであった。
 文治は、神のみさとしのままに、その日は、家のまわりの田をかり、翌日から翌々日にかけて「下淵」の田の野扱をすませたうえに、まわりの田に、刈乾にしてある稲をもとりあつめ、刈った稲をほすために、<35>台にしてあった稲までも、かりあげてしまった。その翌日は、はたして大雨オオブリになったが、文治は、屋ウ内チにあって、刈乾にした稲を、稲扱器イネコギにかけていた。  かくして文治は、きわめて手順よく、稲のとりいれを、おわることができたのである。  この年の村内のうんかの害は、相当なものであった。油を三度も注れて、一俵もとれなかった、というものもあれば、稲が、<36>すすれ藁のようにかれて、まるでとれぬ、というてなげくものもあった。古川参作も、さきにしるした「下淵」の田には、油を二度も注れて、しかも「四畝半で、正月餅につくだけのものもとれぬ」というて、機嫌がわるかったが、そのとなりにならんでいる文治の田は、反当タンアタリ二石八斗の収穫があった。文治のは、そのほかの田も、反当二石が下で、いずれも上米<37>七俵乃至九俵もあり、油をいれた「とうない田」の方が、かえって、できばえがわるく、文治は、しみじみと、神のみかげの霊さ尊さを、あじわったのである。  かくて、麦まきの作業が、はじめられることとなった。  文治は、ある日、津の「大新田」に、牛をおうてでたが、ぽつり・ぽつりと雨がおちてきた。文治は心中、「いかがいたしましょうか」と神意をうかがうと「やめずに、牛をつかえい。本降ホンブリではない」との、みさとしをうけ、終日、たがやすことができた。  さらに他の日には、近傍マワリの小さな田に、牛をつかいかけると、雨がふりだした。「今日は降雨フリじゃ、午後バンには牛はつかわれぬ。おうてかえれ」という神のみさとしのままに、ひきあげてきて、家にいるやいなや大雨オオブリになった。「<38>どうなら、ふるか、ふらぬか」など、ためろうていたものは、みな、ずぶぬれになった。

… 天に一家

 神は文治に、
 「世間の氏子は、みな『天に<39>一家がないから、降・照のことは、わからぬ』というておるが、この方には、天に一家を、こしらえてやるぞ」 とさとした。  また、ある日文治は、「札場西の田」で<40>馬鍬マンガをかいていた。すると、にわかに雨がおちてきた。そこをとおる人が、
 「この雨天フリに、馬鍬マンガかいて、どうするのなら」
と揶揄した。文治は、
 「また田植をするのい」
と、たわむれかえすほどであったが、それでも、さしたることもなく、終日、牛をつかうことができ、陽が、とっぷりくれてから、やっと「もう、しもうてかえれ」との、みさとしをうけた。
 翌日は好天気であった。近所の人々は、
 「なんと、昨日の日がふらず、今日が、また、このお天気。昨日は、文サ、腰よう、やりなさったのう」
というて、文治を、ほめ、うらやむのであった。この日、文治は、昨日耕しておいた「札場西の田」の麦蒔を、かたづけてしまうことができた。すると、
 「明日は仕事の<41>しかけをすな、雨がふる。大雨オオブリがするから、麦をまいたところには、わらをきって、ひろげておけ。土が塗ったようになって、はえつきがわるい」 と、神は、文治をさとした。文治は、そのみさとしのままに、<42>ひるの間に、わらをひろげてかえってくると、いままでよい天気であったのに、たちまち空がくもって、<*43>茶漬をたべる間に大雨オオブリになった。

… 神さまじゃのう

 「天に一家をもった」文治の仕事ぶりは、まことに感嘆のほかはなく、生来、かち気で容易に、ひとにゆずらぬ養母も、この、日ごろの文治をみて、さすがに、あたまのさがるおもいを禁ずることができなかった。そして、おりにふれて「ありゃあ、神さまじゃのう」と、ひそかに驚異のまなこを、みはるのであった(藤井くら)。

<1>神を神として敬い仕えるの意 <2>あれは他領の氏神様じゃ、などいいて区別をするなかれの意
<3>金乃神直属の下級の氏子の意なるべし <4>修験者の称
<5>午後十時 <6>盆(孟蘭盆)の転
<7>常住、「つねに」の意の方言 <8>木綿崎の松の根方に、客人社の神札流れかかれりという(大橋家口碑)
<9>後一条天皇万寿四年(一〇二七) <10>祭神、伊弉諾尊(日吉山王新記)
<11>下部に小孔をあけたる竹筒に油を容れ、まず株間にこれをそそぎ、ついでうんかを払いおとすなり <12>神前
<13>◇子、小瘡 <14>「ともない田」の訛か。他と、一枚の田を作り分くるもの
<15>多く <16>数おおく田の中をあるくな
<17>午前二時 <18>熟睡しておかぬと
<19>磨臼。脱籾器。粘土を普通の石臼のごとく固めて作り、上下の摩擦面に樫歯をうえたるもの。歯をあらたにするを「立つ」という <20>現浅口郡鴨方町
<21>玉島市黒崎町、御前神社の祭 <22>午前十時
<23>「本谷」のこと <24>浅吉(延治郎改名)のこと。改名の年月不明なるも、安政三年の宗門帳には既にこの名を記す。「朝のうち」とは午前十時までのこと
<25>籾がらを去ること <26>午前十時の食事の後
<27>斎藤宗次郎所伝 <28>ひと休 文治は煙草はきらいであった
<29>「いいおったが」の訛 <30>「なにしに」の訛。「どうして」の意
<31>刈りたる稲を現場にて乾すこと <32>現場にて稲穂を稲扱器にかけること
<33>古川氏をよぶ文治一家の通称。文治の家の左側一段高き処にありしがためなり <34>定式、「かならず・きっと」の意の方言
<35>刈乾の際、稲穂の地面に触るることなきよう、稲を四五株おきに一株通り刈り残して、その上に、刈りたる稲穂を載するをいう <36>「煤け藁」の訛か。屋根をふきかえたる後の古藁のこと
<37>当時は三斗五升俵 <38>「どうであろうか」の意の方言
<39>親類のこと <40>牛馬にひかせて耕地の土塊を砕きならす農具、ゆえに「かく」という
<41>準備 <42>午前十時より午後二時までの称
<*43>午後二時の食事の称

.. (一〇)神の一乃弟子

 「神のいうとおりにしてくれ、そのうえに神ともちいてくれ」る文治のこころいきは、神には、うれしいものであった。神は、これをふかく愛し、あつく信じて、今年正月からこのかた、「金乃神<*1>したばの氏子」として、これに拍手をゆるし、あるいはおしえ、あるいはためし、農事のてだすけまでして、これを、みちびいてきたが、いま、さらに「一乃弟子」として、神に、もらわれる身となった。

… 皇大神との神語

 金光大神は、『御覚書』安政五年(四十五歳、一八五八)九月二十三日の条に、金乃神と天照皇大神との神語を、大要、つぎのごとくに記している。
 すなわち、この日、金乃神は、皇大神に対して、
 「<2>天照皇大神さま、戌の歳氏子を、わたくしにくだされませ」 とこい、これにこたえて、皇大神は、  「はい、あげましょう」と、いうことであった。そこで神は、  「戌の年、金神が、その方をもらうから、金神の一乃弟子にするぞ」 と、文治に申渡した。ところが皇大神は、  「金神さま、戌の年をあげましょう、とは申したれども、え、あげませぬ。戌の年のような氏子は、ほかにござりませぬ」 とて、いたくおしむのである。神は、  「それでも、一旦、やろうと申されてから、やらぬとあっては、いつわりになります。是非、もらいます。おしくおもわれますれば、戌の年のかわりに、<3>倅巳の年が、成長つかまつりましたならば、御広前へ、まいらせますから、戌の年をくだされませ」
と、しいてねがうのであった。皇大神は、
 「さよう、おおせられまするならば、あげましょう」
とて、そのねがいをいれ、金乃神も、
 「くだされれば、安心つかまつります」
とて、

… 家族への神の申渡

 「戌の年の母・家内一同へ申渡す。『一乃弟子にもらう』というても、よそへつれていくのではない。<*4>この方で金神が、おしえするのじゃ。なんにも心配なし」
と、文治の家族をさとすのであった。

… はだしの行

 かくて文治は、「神の一乃弟子」として、あらたに神のおしえをうける身となった。その、てはじめとして、神は、
 「秋中、行をせい。朝おき、衣裳をきかえて広前へでて祈念いたし、すみしだいに、広前へ、妻に膳をすえさせて食事シタクをいたし、すぐに衣裳をきかえて、はだしで農業へ出い」
と、文治をさとした。
 かくして、文治には、この日から、はだしの行がはじめられた。文治は、いかなる日も、はだしのままで、野仕事ノラシゴトにでた。ある、霜のおびただしい朝のことであった。妻は、いつになく、
 「いま、大霜がふっておるのに、はだしででられては、他ひとが嘲ワ笑ラう。外見ザマがわるい。『信心ばかりして、わらんずひとつつくらぬ』と他がいうけに」
と、文治をいさめる。文治は、
 「そんなら、外見がわるけりゃ、あとから、わらんずをもってきてくれ」
といいおいて、でてゆくのであった。そして文治は、
 「妻は、神のおかげというものを、知って知らず、とかくに、ひとまえを<5>かまう」 となげくとともに、「わしは、ひとまえは、かまわぬ」とて、何も彼も、神のおおせどおりにして、そむくところがなかった。  文治は、妻には、そうはいったものの、さすがにそのこころねを察して、野へのゆききには、鍬をかついでおればそのさきに(影山鶴吉)、棒をもっておればそのはしに(高橋富枝)、<6>牛鍬ウシンガをもっておればその柄に(樋口鹿太郎)、かならず一足のわらじをつけていた。そして、もし、あやしみたずねるものがあると、「わらじが<*7>くうて、どうもならぬので…」など、いいまぎらすこともあり(同上)、妻も、田のあぜなどにこれをそっとならべておくこともあった(藤井くら)。

… 神意ようやく動く

 かくて、その年十一月、神は、上の間の襖をはりかえるように、と文治をさとした。ことに中境の分には、菊桐の模様のついたのを、上の間内側にもちいしめ(六日)、ついで上の間正面(床柱)に、神棚をしつらえ、あらたに厨子ズシをまつり、神酒ミキ徳利トクリ(二合入)や三宝などをも、あらたにととのえしめ(廿九日)、さらに十二月六日には、<*8>置炬燵スケコタツを大工遠藤国太郎につくらしめ、文治のみを、それにあたらしめた。
 これ等は、やがて文治をして、専心、取次にしたがわしめようとする、神のしたごころの、うごきつつあることを、おもわしめるものである。

<1>下部 <2>明治五年九月十五日太政官布告により「太」を「大」に改む
<3>浅吉 <4>こちらの家にあって
<5>気にする <6>牛馬にひかせ耕地をうがちおこす農具
<7>足がすれて、いたむこと <8>「すけ」は「置く」「載す」などの意の方言

.. (一一)その名あらたまる

 安政五年(四十五歳、一八五八)十二月二十四日、神は、文治の名を「文治大明神」とあらためしめた。すなわち、これまでの「赤澤文治」は、この日をもって「文治大明神」となったのである。神は、これを「神号」ととなえた。
 この日、神は、家の祖先のことについて、つぎのごとくに、さとした。
 「この家は、もと海のへりに、しばのいおりをつくって住みつき、おいおい<1>出世して、これまでに<2>四百三十一両二年になる。まえの川手太郎左衛門の屋敷がつぶれて、その家の<3>位牌を、こちらにひきうけて、まつっていたが、<4>この家もおとろえて、子孫がつづかぬことになった。二フタ屋敷とも、このあたりが海であったときに、屋敷内に<5>四ツ足が埋ウモり、それが、金神に無礼になったためである」 この神のみさとしをうけた文治大明神は、いまさらに、すぎこしかたのことどもを、かれこれとおもいでて、まことに、感慨にたえぬものがあったもののごとく、  「私<6>養父おやこ、月ならびに病死いたし、私子三人<7>年忌歳ドシには死に。牛が七月十六日よりむしけ、医師、鍼・服薬いたし、十八日死に。月日かわらず、二年に牛死に、医師にかけ治療いたし、神々ねがい、祈念・祈念に<8>おろかもなし。神仏ねがいてもかなわず。いたしかたなし、ざんねん至極、と始終おもいくらし。
天地金乃神さまへの御無礼をしらず、難渋いたし。このたび、天地金乃神さまおしらせくだされ、ありがたし。『<9>内々のことを、かんがえて見い。<10>十七年のあいだに、七墓つかした。年忌・年忌に、しらせいたし。実意丁寧神信心のゆえに、夫婦はとらぬ。しってすれば主からとり、しらずにすれば、牛・馬七ひき、七墓つかする、と<11>いうがこの方のこと』とお知らせなされ、おそれいって御信心つかまつり、家内一同安心の御礼申上」と、つぶさに、その心事をもらしている。  ここに、「天地金乃神さまへの御無礼をしらず、難渋いたし」とあるのは、文治大明神が、これまで世俗にならい、方位・日柄をしらべてきたことが、実は、神の不在をうかがう所以のものであった。神の不在をはかって、わが、気ままのふるまいをしたのであるから、やがて、その方位に、めぐりかえった神が、これをとがめるのは、当然のことである。これにまさる無礼があろうか。これまでの、かずかずの不幸は、みな、この、いたらぬこころが、みずからまねいたものである、と翻然として、さとるにいたったことを、意味するものと、かんがえられる。  すでにしるしたごとく、文治大明神が、後年、斎藤宗次郎に、  「氏子でたらいで、牛・馬でも七墓ならべるまで、金乃大神さまに御無礼したものじゃ」 と述懐し、さらに備前上道ジョウトウ郡古都コズの人、田淵愛造に、  「日柄・方位はいらぬ。いつでも建築はできるからなあ。家相をみて、あいた方へ建てるとすれば、その方は留守じゃ。ぐるぐるまわっておられる、というのに、留守へ建てておくと、まわってかえられたときには、とりのけるのかな。人間でも、留守の間に、門先モンサキへだまってものをおけば、かえってきたときに、これは誰がここへ<12>おいたのなら、というて蹴ちらす気にもなろうがな。それを、おるときに、これをすこし、ここへおかせてもらいます、というておいて見い。晩におそうなれば、これは、こうしておいては、というてとりいれて、監視バンをしてくれる。神さまもおなじことじゃ。留守ばかりねらわいで、おられるときに、ことわって建てなされ。ここは<*13>丑寅じゃから、というてあけておくようでは、つまるまい。
丑寅へ百間長屋でも建てるようにならねば、なるまいがな。つかい勝手のよいのが、よい家相じゃ」
とさとしたごときは、当時の信境をものがたるものの一例であり、そして「金神の遊行」ということも、後には、凶殺タタリのためでなく、「まわってきて、まもってくださる」ものと信ずるようになった。この点について、
 「金神は金乃大神なり。しかる神ではない。あの、暦にでておる御方角について、日々おんまわり、氏子をまもりくださる。それともしらずに、御無礼をいたし。そのうえに、『おんしかりあり』『しかられた』というて、また、にげる」
と文治大明神は、後年、斎藤宗次郎を、さとしている。
 かくのごとくにして、文治大明神は、多年なやまされてきた、いわゆる陰陽道の俗説から、しだいに超脱することができたのである。したがって、文治大明神には、天地が、一時にひらけたようにおもわれたであろう。そして、ひろびろとして、こだわりのない、いいしれぬ、よろこびにみちた生活が、はじめられたのである。

<1>繁昌すること <2>称光天皇応永三十四年(一四二七)
<3>祖先の霊牌 <4>赤澤家なるべし
<5>獣類 <6>粂次郎と鶴太郎
<7>死者の忌日・一周忌・三周忌・七周忌などにあたる年 <8>疎略
<9>「これまで」の意 <10>養父の死から、その十七回忌までの意か
<11>世間の諺 <12>「おいたのか」の方言
<*13>鬼門方

.. (一二)隠居ねがい

 安政六年(四十六歳、一八五九)正月朔日、神は、文治大明神に、
 「当年は、倅浅吉も十五歳になるから、その方は、倅に家督ヨをわたし、病気と申立てて、御上村役場へ、隠居することを、おねがい申上げよ。また、<1>春中には、子ども三人、疱瘡をさするぞ」 と、さとした。そこで文治大明神は、その月十八日、庄屋小野四右衛門に、このことをねがいでた。庄屋は、さしたる異議もなくして、承知してくれたが、  「名まえをも、きりかえていただいて、ほんとうの隠居になって、安心いたしとうござりますが」 と、つけくわえた。庄屋は、  「そういうことならば、三月が<2>帳面あらためであるから、そのときまで、なお、よく思案して、そのうえで、ねがうがよかろう」
と、注意をあたえるのであった。

… 隠居願の処理

 文治大明神にとっては、いまさら考慮の余地とてはない。三月になるのをまちかねて朔日の日になるやいなや、村役場へでて、さきの件をねごうた。庄屋も、
 「いよいよ隠居願か。隠居をしたならば、もう自家ウチらも、用事をたのんでも、きてはくれまいのう。まだ私等ワシラは、隠居などはしとうない。そんなら、倅浅吉へ、判株をもたせることにしよう」
とて承諾し、四月十二日附で処理せられた(宗門帳)。

 三月朔日、神は、この年の籾種モミダネのことについて、早稲・<3>中田チュウデン・晩稲とそれぞれにおしえ、さらに田植の仕付シツケのこと、肥料のことまで、こまやかにさしずし、ことに、麦の中耕ナカウチについては、  「当年は<4>雨おおし。田麦は<5>中杖だけ支コうて、外側ヘリを支カうな。『雨に、風がそう』ということがある。風がふいたときに、そうしておくと『将棋倒ダオシ』になる。外側ヘリにまで土を支うておくと、右にたおれたり、左にたおれたりして、かりにくい」 と、こまごまにさとし、ついで四月十日、  「五月五日の節供を安心していわい、その日は仕事をやすみ、六日から麦刈をするがよし」 とさとした。  四月二十八日、文治大明神のもとに、まいってきた氏子が、「麦がうれた」と、注意してくれたが、五月朔日から雨がふりだして、五日朝まで、ふりつづいた。  雨のあがるのを、まちかねていた村人等は、五日の日、昼食チュウジキをすませて、みな麦刈にでたが、文治大明神は、神のみさとしのままに、神々への節供の礼参、村役場への挨拶などして、その日一日を、ゆっくりとやすみ、六日の日から麦刈にかかった。  「今日刈った分は、午後バンには家にとりこみ、<6>日仕舞にせよ」
との、神のみさとしをうけて、文治大明神は、そのとおりにした。夜にいり、雨になり、風さえふきあれて、どこも、麦が、みだれたおれて、それを刈るのに苦労したが、文治大明神のは、はたして「将棋倒」になって、刈るのに勝手がよかった。

… 生麦を俵にす

 かくして、刈りいれた麦の処理について、神はさらに、
 「天気の間をみて、はやめに脱穀コナしてかたづけ、陽ヒをいれずに、雨気アメケ中ジュウに俵にいたせよ」
と、さとすのであった。
 雨が、ふりつづいた。
 村人等は、その雨のなかを、ぬれそぼちつつ、田植準備タゴシラエをいそがしくしたが、文治大明神は、その間、屋内にあって、手もとの仕事を、それぞれにかたづけ、やがて天気がさだまってから、田植準備にかかり、田植も、都合よくすますことができた。

… 穀象虫ツミの発生

 近所に、鈴木久蔵というものがあった。<7>本家からわかれて、おなじ宅地内にすみ、古着買などを内職にしていたので、「ころもの久蔵」とか「しらみの久蔵」とかいう異名をとっていた。久蔵には、今蔵という弟があったが、これは、まだ本家にすんでいた。  久蔵は、かねて文治大明神の生活ぶりに注意していた。文治大明神が、神のみさとしのままに、陽をいれぬ麦を俵にしたのをみて、みずからも、生麦を、そのまま俵にした。六月になると、久蔵の麦俵には、おどろくばかりの穀象虫がわいた。  そこで、久蔵は、文治大明神をおとずれて、  「穀象虫が、黒うなるほど、わきましたが、貴家には、どうでござります、穀象虫は、ではいたしませぬか」 と質すのであった。文治大明神は、「自家ウチにはでぬ」とこたえると、「陽をいれましょうか」という。「虫がおれば、陽をいれるがよかろう」とこたえると、「貴家コナタには、どうなされますか」とたずねる。文治大明神は、「私方には穀象虫もでぬのであるから、みあわせておこう」と挨拶するのであった。  久蔵は、家にかえり、麦俵をだして、陽をいれにかかったが、おびただしい穀象虫が、本家のなかまで、はいる始末であった。今蔵、承知せず、  「ばからしい。信心する、おがむちゅうて、素人のいうことを真にして、おがんで虫のわかぬものなら、<8>法印方には、虫は、わきはせぬ、生麦を、どこの国にか、俵にするものがあるか。ばかの天上。自家(本家)をまで、<9>しまわせた」 と、ののしるのであった。  久蔵は、文治大明神をたずねて、この顛末をものがたるとともに、  「それでも、おかげで<10>たんといたまず。余計に減りもいたしませぬ。ありがとうござります」
とよろこび、
 「神さまに、御礼を申上げてくだされ」
とたのむ。文治大明神が、このむねを神前にとりつぐと、神は、
 「仕事のまねは誰でもできるが、心のまねができぬから」
とさとした。
 八月になった。ある日、文治大明神は、神のみさとしのままに、かねて、しるしをつけて、別にしてあった、もっともやわらかな麦俵をもちだして、むしろのうえにあけてみた。俵のやわらかなのは、なかに、虫など、わいているのが普通である。
 あたかも、そこへ久蔵の倅が、きあわせたので、文治大明神は、
 「どうなら、自家等のは、穀象虫ツミも穀蛾ムシもおらぬじゃろうが。かえってお父トウに、きて見さんせ、というてくれ」
と、ことづけをしたほどであった。
 この年、文治大明神は、「堂東」と「小田コダ」の田三枚ミマチとに、棉をうえていた。神は、その棉の施肥コヤシのことについて、かねて、
 「棉肥は、<11>まこのせんとくを、反に一俵あてにいたせよ。旱ヤけても、水をあてな。水をあてると<12>内虫おおし」
と、文治大明神を、さとすところがあった。
 綿の収穫期になった。文治大明神のつくった綿は、まことに出来栄がよくて、摘みやすくもあり、綿の肌理キメもこまやかであった。
 ある日、文治大明神が、綿を摘んでいると、古川治郎が、とおりがかって、
 「これはええ綿じゃ。撰別ヨリ無用ナシじゃ。自家ウチのは、まるで<13>鳩糞ハトフのようじゃ。このような上綿はない。肥料も<14>いかいやり、水も、再々いれたのに、とんと肌理もわるい」
など、愚痴をこぼしながら去っていった。綿の仲買人も「これは、よい綿じゃ。<*15>こがようでる」とほめて、値よく、かいとってくれるのであった。

 ないごとも、神のみさとしのままにする文治大明神の仕事ぶりには、前来、述べたごとくに、世間の常識をこえ、旧来の慣例をやぶるものもあり、ときに、人の、まゆをひそめるようなこともあったのであるが、しかも、その一々が、こころにくきばかりの結果を、もたらすのであった。かくして、去秋このかたのことどもを、文治大明神は、いまさらに、かえりみて、信心をもととした生活の、いかなるものであるか、ということを、しみじみと、あじわうのであった。

<1>春とは、必ずしも季節によらず、麦刈の終るまでを、おおらかに、かくよびたり <2>宗門帳
<3>中稲 <4>雨おおければ麦徒長のおそれもあり
<5>田につくる麦は一うねに二筋ずつ植う。その二筋の内側の土を左右の麦にかうこと <6>その日のうちに処理すること
<7>ここは母屋のこと <8>修験者の称
<9>「誤らせた」、「損をさせた」などの方言 <10>多く
<11>「まこ」は「真粉」か。夾雑物のなき意、「せんとく」は油糟の別名 <12>棉の果実の内部に発生する害虫
<13>内虫生じて、綿の白きに虫害による黒色まじりて、その状鳩糞の如くなれるをいう <14>沢山
<*15>「こ」は「くりこ」の略、棉の果実を綿繰器にかけ、種子を去りたる毛状繊維を「くりこ」といえり。綿の質良く、量の多く出ずるを「こがようでる」といえり

.. (一三)子女あいついで病む

 今年(安政六)正月朔日、「春中には、子ども三人疱瘡をさするぞ」と、神のさとしたことは、すでにこれをしるしたが、こえて三月朔日、さらに、
 「三月には、子ども疱瘡を、<*1>しのべおき、さきで、くりあわせで、させる」
とさとした。

… 二女くら病む

 五月下旬、二女くらが、九歳にして病床の人となった。文治大明神は、早々に、その全快を神にいのったが、病人は、日ごとに衰弱していった。神は、
 「すておいて農業にでよ。朝でるときに、様子をみて出、飯にもどってまた様子をみる、というように、朝・昼・午後バン・暮クレと、野からかえったときに、みてやれ。それで、万一、死んでおったら、これは、その間に死んだのである、とおもえい。以前ウチウチは、<2>夜もねず、医師・法印・隣家・親類・講中まで心配をかけ、日・夜混雑マゼカヤしたが、それでも、死ぬるものは、死んだであろうが。このたびは『死んだら、ままよ』とおもうて、心配せずと、農業・家業に出精いたせ。病人のそばに居オんな。病人をみおると、気が急ってわるい」 と、文治大明神をさとした。  文治大明神は、この、ただならぬ神のみさとしをかしこみ、さすがに、不安の念にたえぬ妻をうながして、日々、野にあって、農業にいそしむのであった。  五月二十七日、夫婦は<3>「辻の畑」で、鍬をつかいながら、
 「午後には、小麦の<4>『かしらごなし』をいたそう」 と相談して、いつもよりはやめに<5>中食チュウジキにかえってきた。すると、留守居をしていた養母が、
 「<6>昼役には、おくらは、よう眠とるか、湯とも水ともいわぬが、行て見さんせい」と、妻につげた。おりから、文治大明神は、土間にいてこれを耳にし、そこにたたずんだまま、神意をうかがうと、「心配なし」ということであったので、やすんじて茶漬の箸をとった。  妻は、手足をすすぎ、やがて奥の間にはいって、<7>「おくや」「おくや」と病児をよんだが返辞がない。返辞がないのも道理、手も足もつめたくなっている。妻はおどろいて、
 「母さん、油断じゃった。おくらは死んだ」
と悲痛なさけびをあげ、ともに愁嘆した。
 文治大明神は、茶漬の箸を手にしながら、
 「なにをいうのなら。いま、私は、おうかがい申したら、『心配なし』とおしらせがあったぞ」
とたしなめると、妻は、悲痛のあまり、
 「なんの、死んだものに『心配なし』もないものじゃ」
と反撥する。文治大明神は、
 「いよいよ死んどるか、どうか。よくあらためてみい」
と妻をうながすのである。妻は、もう一度、病人のそばにゆき、よく、からだをしらべてみて、
 「呼ツく息だけ、背中にぬくもりがのこっておる」
とつげた。文治大明神は、
 「そんなら、死んではおらぬ」
といい、妻も、にわかに元気づき、「はよう、御祈念をたのみます」
と、取次をこうのであった。
 文治大明神は、たべかけの茶漬の箸をおいて、神前に祈念したが、神は、
 「神酒オミキをのませ、<8>加持をしてやれ」 とさとした。文治大明神は、神前の幣帛と神酒とをもって、奥の間にはいった。病児は、眼もうつろに歯をくい、顔もあおざめて、すでに、この世のものともおもわれなかった。文治大明神は、病児をひきおこして片腕にかかえ、脛にもたせかけ、小指で口をあけ、神酒をそそぎいれた。神は、  「腹へおさまったから心配なし。加持をいたしてやれ」 と、かさねてさとすのであった。  そこで、文治大明神は、六根清浄祓と般若心経とを三巻ずつうち誦ズし、枕頭に祈念した。  神は、「もうよし」とこれをとどめ、  「<9>暮六ツまでに験をやる。『甦祝イキイワイ』とおもうて、<10>午後バン役、この方の広前にてやすめい。家内は、そばにおってやれ」 と、夫婦をさとすのであった。  文治大明神は、茶漬をたべなおし、中境の襖をたてきって神前(上間)に横臥ヨコになった。気がおちつくにつれて、すぎこしかたのことどもが、あたまのなかを去来する。とつおいつ、ふかき感慨を、とどめることができない。  「<11>先前は、おしえてくださる神さまもなかったのに、今度は、こうして、結構におしらせくだされる、ありがたいことである。これで死んでもおかげじゃ。今までは、大入用をいれて、それで死なせ、隣家・一家・親類・谷中の御厄介になったが、このたびは、入用もおさせなさらぬのう」
など、おもいふけるのであった。すると、妻が奥の間の襖のむこうから、
 「もう、<12>いけません。いまのうち、『死みやげ』に、ま一度祈念して、おねがいくだされ」 と、こえをかけるのである。文治大明神は、おきなおって、神前に祈念をこめた。神は、  「祈念しても、せいでもひとつこと。しょうとおもえば、せよ。せぬよりはよかろう」 とさとす。文治大明神は、祓と心経とを、五・六巻ずつもあげた。神は、「もうよし」とこれをとどめて、  「暮六ツまでには、まだ間アイがある。ほどのう験をやる。一口ないても験、ものいうても験ぞ」 とさとした。  文治大明神は、また横臥になった。  「『信心いたしても、どうもならぬものじゃのう、また<13>彼処アシコには、子が死んだ』と、他にいわれるのが残念であるが、いたしかたもない。世間に、ためしのないことでもない。
神さまのおしらせどおりにいたし、病中、入費もいれず。まことに、ありがたいことじゃ」
と感謝しながらも、
 「万一の場合は、素麺箱にでもいれて、夜のうちに、うらの竹やぶのなかにでも、いけてしまおう」(吉原良三)
など、われしらず、おもいせまるのである。

 すると、「おかあさん、小用がでる」というこえが突然、耳にはいった。文治大明神は、がばと身をおこして、みると、病児が、いつのまにか「土間の口」のそとにでて、無意識の体テイで蹲ツクバんでいる。妻は、ゆうがたの、そとじまいにでていたのであったが、やがてそこにきた。
 文治大明神は、
 「それみい。験をくださったのう」
とうれしげにこえをかけ、
 「ひきかかえて、もどれい」
と命ずるのである。妻が、だきかかえて奥の間にもどると、病児は、また、すやすやとねむりにおちていった。時あたかも<*14>七ツさがりであった。
 文治大明神は、早々、神前に感謝の祈念をささげた。妻が、「御礼がすみましたら、湯をあびなされ」とこえをかけながら、たらいに湯をとっていると、病児が、また「小用」といいつつ、土間ニワの口のそとにでて、そこで、したたかに通じて、正気をとりもどした。
 病児は、その夜、三・四碗も茶漬をたべ(吉原良三)、やがて熟睡した。

… くらついで疱瘡を患う

 翌、二十八日の朝、妻は、病児をみて、「おくらは疱瘡がでとる」という。神は、
 「疱瘡というな。疱瘡というと、このうえに心配がかかるぞ。<15>茶をのんで、みな野へいけい」 と、これをたしなめるのであった。  夫婦は、神のみさとしのままに、野にでたが、妻は、なお気にかかるのか、「あれは疱瘡じゃ」という。 文治大明神は、昼食メシにかえったときに、病児をよくみると、いかにも、顔カ面オに、ばらばらと発疹している。夫婦は、また、つれだって野にでたが、文治大明神は、晩の拝礼のときには、なにとか、おしらせくだされるであろう、と期待しながら仕事にはげんだ。  夕祈念のとき、はたして、神は、  「今日、早々には、疱瘡ではない、と申したが、それは、<16>くつろがせるために、いうたのい。他家ヨソには『疱瘡仕上アゲ』というが、この方には、おおけな子から、仕下オロさするぞ。<17>五月は小、明日(廿九日)きり。二十九日、日もよし、『注連おろし』をせよ。その方は手伝テゴをして、子どもらに『門注連カドジメ』まで、おろさせよ。<18>祇園宮厄守広前のことも、子どもらにさせよ。日々、御饌ゴゼン・香・花をそなえさせ、朝・晩、御馳走に、祓・心経をあげさせよ。その方は祇園宮へむくことはならぬ。この方の広前のことを、させねばならぬ。この方には、<19>笹ふりの不浄・穢・毒断ドクダテといことはない。  おくらのは<20>『二月フタツキ疱瘡』にさせるが、ほかの子らは、疱瘡にかかっても、また途中でも、<21>六月十三日には、一応『注連あげ』をして、厄守を帰イなさねばならぬ。祇園宮の祭である」 と、文治大明神を、こまごまとさとした。  文治大明神は、このみさとしのままに、二十九日、子らをして、床に壇をもうけて祇園宮をまつらせ、「注連おろし」をおこなわせた。神はさらに、  「自家ウチにもくらが疱瘡じゃ。今日『注連おろし』をする、と<22>うえの祖母ババに沙汰しておけ。六月朔日には、<23>疱瘡穂ぞろいぞ。<24>うえの叔母らが、子どもをつれて、氏神や<25>観音さまへまいるから、くらにも<26>赤手拭をかつがせて、ついてまいらせい」
とも、さとした。
 文治大明神は、翌、朔日、神のみさとしのままに、くらを、氏神や観音にまいらせた。かくて、くらは、日中を戸ソ外トであそびくらしたが、なにのさわりもなかった。翌、二日、神は、
 「くらは、今日は、出ようともいうまいが、出すな。今日から厄にかかり、<27>疱うみなり」 とさとし、ついで、三日早朝、  「今日、朝のうちが疱瘡さかり。昼から晩にかけて、くだり坂になり、まず、これで、ひとりはしあげとなる。安心いたせい。すべて疱瘡というものは、顔カオ面オモテが<28>おも、ほか手足はあら、とおもえよ。くらのようなのが『三日疱瘡』と申すものなり」
とも、さとした。
 神のみさとしのごとく、くらの疱瘡は、きわめてかるく、わずかに、三日でしあげることができた。十三日には、かねての神のみさとしのごとく、早朝「注連あげ」をおこない、子らをして<29>「山ノ神」まで厄守をおくらせたが、神は、  「祇園宮祭ののち、厄守が、都合のよいときにきて、あとの子どもには疱瘡を、<30>さしょうぞい」
とも、さとすのであった。

… 金子大明神とゆるさる

 この年(安政六)六月十日、文治大明神は、神号を、さらに「金子大明神」とゆるされた。

… 五男宇之丞病む

 くらの病気がなおって、やれやれ、とおもうまもなく、五男宇之丞が、六月十六日から、わずらいついた。金子大明神は、はじめ、疱瘡かとおもうていた。その全快を、日夜に神にいのったが、さらにそのしるしがみえぬのみか、病状は、しだいに悪化して、二十一日には、湯・水も、のどをこさぬような重態におちいった。
 この日、神は、
 「疱瘡なら、もう、おもてにでるであろうに、はや五・六日にもなるが、その気配がない。このたびは病難ぞ。むつかしいが、<31>どうなら。この子は生年をまつりかえしておろうが、もとの歳へもどすか。もどさねばたすからぬが、どうする。<32>守札をながすか。いかがにいたすぞ」
と、金子大明神を、きびしくさとした。
 金子大明神は、この子のうまれたときのことどもを、いまさらに、おもいおこし、こころをまよわせて、勝手にその生年をかえた、わが過アヤ誤マチを、ふかく悔い、
 「おそれいりました。守札をながして、もとの歳へ、もどしまする。どうぞ、おたすけくだされませ。おねがい申上げます」
と懇請した。神は、
 「それならば、もとの寅の年(安政元)男六歳、名もあらためよ。名は虎吉、とらよしと申せ。今日、朝のうち<33>四ツまでに験をやるぞ。<34>朝役、自宅ウチにおってやり、昼メ食シをたべてから、『下淵』の田へ『田の草』に、みな、でよ」とさとした。
 はたして四ツ時まえに、病児が「水をのむ」という。杉形茶碗に一杯のみ、さらに「団子がほしい」という。妻は、すぐに<35>水団子をこしらえてやった。病児は、これを一個だけ口にして「もう、よい」という。妻は、うれしさのあまり、「もっとたべい」とすすめる。金子大明神が、「すすめな」とこれを制するのを、なおもすすめて、いま一個をくわせたが、これはすぐに嘔吐した。金子大明神は、「すすめな、というのに、むりにくわせて、いらぬ難儀をさせる」と、妻をたしなめおいて、神前に感謝の祈念をささげた。そして神のみさとしのままに、昼メ食シ後、うちそろい、安心して、「田の草」にでてゆくのであった。  翌、二十二日、朝の祈念のとき、神は、  「これをついでに、疱瘡をさしてやろう。しかしながら、先に『注連おろし』も『注連あげ』もいたしてあるから、今度は注連はいらぬ。つぎに、午の年二歳おこのは、昨年から、顔面の腫物で、毒をとってあるから、疱瘡もやすい。やまやま、十五・六ほども出ようぞい。<36>初病もない。祇園宮役守は、このまえのように床の間に、別にまつるにおよばぬ。神棚で、御馳走するがよい」
と、さとした。

… 三女この疱瘡を患う

 かくて虎吉(宇之丞)は、疱瘡をかるくすませて、こころよくなり、それと同時にこのの疱瘡が、はじまった。
 妻は、それとはしらず、「このは寝冷をしたか、乳をのむのに口腔クチノウチが、あつい」とつぶやいていたが、そのあけの日、はたして疱瘡がでた。これには、娘くらが、しじゅうつきそうて、両親の、仕事にでているあいだの看護モリをした。
 かくのごとくにして、三児の、つぎつぎの病気に、ただの一夜も、とくに看護をするというわずらいもなく、なにごとも、神のみさとしのままにして、不浄・穢・毒断などというこころづかいもなく、それぞれ、結構に、しあげることができ、金子大明神夫妻は、ひたすらに、神に感謝するのであった。
 二十八日、神は、疱瘡仕上シアゲの祝についても、
 「隣家だけよんで、『また、さきで本祝ホンイワイをするから』というて仮祝カリイワイをし、『借末代』ということがあるから、祝物は、斟酌して、一切うけぬようにし、むだな入用をかけるな」
と、ねんごろにさとすのであった。金子大明神は、みさとしのままに、ささやかな祝宴をはり、祝物は、すべてうけなかった。

… 金子大明神の感慨

 金子大明神は、このたびのことを、「結構にしあげ、ありがたし」としるしているが、これには、きわめてふかい感慨が、こめられているもの、とおもわれる。すなわち、すぐる嘉永三年度の、子らの疱瘡のときも、その数が三人で、年齢も九歳・六歳・二歳であったが、そのときは、長子槙右衛門が不幸にして斃タオれたのであった。ところが、このたびは、いずれも無事にしあげることができたのであって、金子大明神は、往年のかなしみにひきくらべて、まことに無量の感慨に、ひたったこととおもわれる。

… 牛使のわざを浅吉にゆずる

 この年(安政六)も、ようやく秋たけて、麦をまくべき季節になった。九月十日、神は、
 「当年の麦まきは、二十日ごろから、来月二十二・三日ごろまでがよい。気を急セるな。そのうちには蒔かせてやる。当年は、<37>倅に牛をつかわせよ。<38>地が穿ウげようが、穿げまいが、畝ウネがゆがもうが、ゆがむまいが、どうなろうとままよ、とおもうてまかせておけ。人がきて取次をたのむのに、牛をつこうておっては、すぐにはもどられぬ。溝は、切りかけておいて、もどっておがんでやっても、らく」
とさとした。
 農家が牛を使うのは、大体に、春の田ごしらえのときと、秋の麦まきのときとの、二期にかぎられている。そのあいだは、飼料をあたえて、充分にこうてあるから、いざ、これをつかうとなると、相当に牛の気があらくなっていて、これを、つかいこなすことは、屈強のわかものでも、骨がおれるのである。しかるに、浅吉は、ようやく、かぞえどし十五になったばかりである。本人はもとより、誰にも、不安に感ぜられるのは無理のないことであった。
 金子大明神は、牛のつかいはじめとして、ある日、「札場」の「土手根」の田にでかけた。妻が、
 「牛が暴アれるから、『つかいかけ』をしてやってくれ」
というので、金子大明神は、それも、もっとものことと、牛の手綱タズナをとると、牛は、とびまわって、とても手にあわぬ。金子大明神は、
 「これは、神さまが、おしらせくだされてあるのじゃ」
と気がつき、「つかえい」といいながら、牛を浅吉にわたそうとした。妻も浅吉も、いよいよ、こころもとなげに、
 「大人オセの手にさえあまるものを、どうして子どもの手に、あうものか」と、口をそろえていうのであった。心に、期するところのある金子大明神は、
 「たとえ、わが手にあわいでも、つこうてみい、らくじゃ」
と、たしなめた。
 いままで、とびまわって、手におえなかった牛も、浅吉の、おぼつかない手にとられた手綱のもとに、すなおにうごいた。金子大明神は、
 「どうなら、おそれいれい」
と、妻と浅吉とを、さとした。
 かくして、十月二十一日までに、麦まきは、すべて、おわることができたのである。

<1>のばしおく <2>文治大明神夫妻が
<3>文治大明神の宅地の上の山の辻 <4>脱穀作業の一
<5>午後二時の食事の称。「茶漬」ともいう <6>午前十時より午後二時までの称。仕事を主にしたる、いいざま
<7>「おくらや」の略称 <8>ここは枕頭にて幣帛などをふり、祓・心経を誦しつつ祈りなどする意なるべし
<9>午後六時 <10>午後の仕事
<11>これまで幾人か愛児を失いたる過去のこと <12>絶望の意
<13>「あそこ」の訛 <14>七ツ時のおわり、六ツまえ
<15>朝食の称 <16>安心させる
<17>小の月、陰暦は二十九日にて終る <18>備後鞆の津祇園宮のことにて、厄守の神とせらる
<19>笹にて塩水をまき、疱瘡の穢を清むる行事 <20>月をまたがりてやむ疱瘡
<21>祇園宮例祭日 <22>古川八百蔵の妻むめ、子らを本としたる称
<23>稲穂のことにかけ、語呂をあわせるいいざま <24>古川参作妻つう、通称てる
<25>本谷西平「山ノ神」に観音堂あり。ここなり <26>赤色は疱瘡神のいとうもの、「かつがせ」は「かぶらせ」の意
<27>俗に「膿もり」という症状か <28>「おも」は主、「あら」はその反対。疱瘡は主として顔面に発し、手足などは、まばらなりとの意か
<29>本谷西平の地名 <30>させるであろうぞよ
<31>「どうか」と詰問するいいざま <32>氏神社からうけたる守札にて、人死したるときは、これを川に流すが、当時の風なり
<33>午前十時 <34>午前十時までの仕事
<35>作りたる団子を、水になしたるもの <36>初期の症状もなし
<37>浅吉 <38>土地をたがやし、おこす意

.. (一四)取次のたのみ

… 取次を請うものようやくおおし

 信心をもととした金子大明神の生活は、その妻や養母のこころを、しだいに、神にみちびいていったことは、いうまでもなく、こころある村の人々も、ようやく、その生活に目をそそぐようになり、おとずれきて、神への取次を、たのむものが、日に月に、ふえてきたことは、いままでの記述のはしばしにも、その一端が、うかがわれる。
 河手藤五郎も、こころを、金子大明神にかたむけていたもののひとりであった。百姓のほかに綿打を内職としていた。あるとき、家に病人ができたので、おがんでもらおうとて、たずねてきたが、金子大明神は、古川へ、やねがえの手伝にいって、不在ルスであった。たれも、よびにいったわけでもないのに、金子大明神は、「<*1>亥の年が、まいってきておる、かえれ、と神さまのおしらせがあったので、もどってきた」とて、ひょっこり、かえってきた、という(河手照太郎)のも、このころのことであった、とおもわれる。

… 麦蒔終了の礼

 安政六年(四十六歳、一八五九)十月二十一日、麦まきが、すべて、とどこおりなくおわったので、その夕刻、金子大明神は、そのむねを神前に感謝した。神は、
 「麦まき終ミて安心いたした。<*2>色紙を五枚買うてこい」
と、これに命じた。金子大明神は、命のままにこれをもとめてきた。当時、村内には、そうしたものを、あきなう家はなく、わずかに「占見新田」に「西本屋」というのが、一軒だけ、あったといわれる。
 金子大明神は、もとめかえった色紙を、神前にそなえて、
 「如何いたすのでござりましょうか」
と神意をうかがうと、
 「五枚かさねて、七五三のちぢみをつけた幣をきれ。幣串は曲尺カネで二尺五寸。あらためつくって、あげい」
ということであった。「七五三のちぢみをつけ」とは、幣のたちかたの一種である。
 金子大明神は、神のみさとしのままに、幣をととのえ、これを神前にすすめて、
 「これでよろしゅうござりますか」
と、神の御検オアラタメをねごうた。

… 神の取次のたのみ

 すなわち、神は、「金子大明神、この幣きりさかいに、肥灰さしとめるから、その分に承知してくれ。
そと、家業はいたし、農業へ出。人がねがい出、よびにき、もどり。ねがいがすみ、また農へ出。またもよびにき。農業するまもなし、きた人もまち、両方のさしつかえにあいなる。なんと、家業をやめてくれぬか。
その方、四十二歳のとしには、病気で、医師も手をはなし、心配いたし。神仏ねがい、おかげで全快いたし。そのとき死んだとおもうて、慾をはなして、天地金乃神をたすけてくれ。家内も、後家になった、とおもうてくれ。後家よりまし。ものいわれ相談もなり(る)。子どもつれて、<3>ぼとぼと、農業しおってくれ。この方のように、実意丁寧神信心いたしおる氏子が、世間に、なんぼうも難儀な氏子あり、取次たすけてやってくれ。神もたすかり、氏子もたちいき(ゆく)。 氏子あっての神、神あっての氏子。すえずえ繁昌いたし。親にかかり、子にかかり、<4>あいよ、かけよでたちいき(ゆく)」
とて、去年の秋このかた、ひそかに金子大明神によせていた、取次についての神のたのみを、ここに、はじめてあきらかにし、さとすところがあった。
 「家業をやめてくれぬか」という神のたのみは、金子大明神にとっては、重大きわまるものであった。それは、養子の身として、養家に対する義理にそむくことになりはしないか、ということであり、隠居の身にはなったが、やはり、百姓は百姓である。一介の農民として、お上に対して、すまぬことになりはしないか、ということであり、そして、家族の生活は、どうなるであろうか、ということである。

… 取次の神命受諾

 しかしながら、これらの問題にくらべて、神の、このたのみごとは、さらに重大であり、絶対的なものであった。そこで金子大明神は、「おおせどおりに、家業やめて、御広前あいつとめ、つかまつる」こととなり、その生活も、ここに、まったく一変することとなった。

… 村内への挨拶

 金子大明神は、神前に奉仕するにさきだち、礼装して、庄屋をはじめ、年来、せわになった村内の誰彼をたずねて、
 「このたび、神さまのおおせをうけましたので、御広前をつとめることになりました。今日までの御厚誼を、御礼申上げます」
と挨拶し(野山清一郎)、ことに、庄屋では、小野光右衛門の霊前に、なみだをたれて、その生前の恩義を謝するところがあった(小野達郎)。
 かくして、金子大明神は、もっぱら神前に端坐して、取次にしたがうこととなった。村人たちはこれをみて、
 「よう、きまったものじゃのう」
と感嘆した(野山清一郎)。

<1>藤五郎の生年 <2>七夕祭などに、短冊に裁ちて用いる赤・緑・黄・紫・白(縞目あり)の半紙判のものあり、それなるべし
<3>「ぼつぼつ」にて、きわめて消極的意味をあらわすものとしてもちいらるる方言 <4>相協力する意の方言

.. (一五)取次当初の周囲の事情

… 家族の心事

 神の、取次のたのみを受諾した金子大明神は、そのときをかぎりに、鋤・鍬をなげすてて、ひたすら、神のみまえに奉仕して、取次のことに余念がなかった。
 当時、四十をすぎたばかりの妻は、十五歳の浅吉をたよりに、頑是なき子どもをかかえて、としおいた姑に奉養することとなった。
 妻のこころを、まずとらえたものは、この後、どうして一家の生計をたててゆくべきか、ということであったであろう。神も「ぼとぼと農業しおってくれ」とさとした。さしあたり、手なれた百姓をするよりほかに、みちはない。この、一家今後の生計についての問題は、養母にとってもおなじことであり、としをとっているだけに、なおさら、不安にたえなかったであろう。
 妻は、浅吉をたよりに、取次の当初、しばらくのあいだは農業につとめ、姑も、これをたすけたようである。
 そのころのある年、占見の秋祭の日に、岡山の<1>松本与次右衛門が参拝した。神は、このものをともない、うえの山に神輿ミコシをみにゆけ、と金子大明神をさとした。二人は、つれだって、裏山にのぼったが、山のうえには<2>畠があり、甘藷がつくってあるが、そのできばえが、いかにもわるく、ひろいところに、三株ばかりしか、ついていない。
 「これはひどい」と金子大明神は、与次右衛門をかえりみ、そのうわさをしながら、山をおりて、神前に拝礼すると、神は、
 「神輿ミコシをみにゆけ、というたのは、うえの畠をみせようとおもうたからである。母と家内とが、この方の亭主にかくれて、つくっておるから、あのようにつかぬのじゃ」
と、金子大明神をさとした(高橋富枝)という挿話が、つたえられている。これは、その当時の、妻や養母の心事の一斑を、ものがたるものということができる。

… 古川八百蔵の憂慮

 まして、目と鼻とのところにすみ、この年ごろの、常識をはずれた女ム婿コ文治のふるまいに、注意の眼をはなさなかった岳父シュウト古川八百蔵は、この女ム婿コ一家の様子をみて、だまっているはずはない。そこには、村の保頭をつとめている手前もある。
 「大勢の子どもがあるのに、そのようなことをしておっては、将来がおもいやられる。信心をやめい」
と、八百蔵は、おりにふれては金子大明神を、きびしくいましめるのであった。
 金子大明神には、その意中は、もとよりわかっているのであるが、なんといわれても、神命にはかえられぬ。金子大明神は、その意にしたがわぬのみか、ときには、かえって信心をすすめさえ、するのである。八百蔵は、
「おまえのような信心はせぬ」
とて、その態度は硬化するばかりである(影山鶴吉)。

… もどしの風は十層倍

 したがって八百蔵はじめ、古川一家の人々と、金子大明神とのあいだには、おのずから、きまずいものが、ただよっていたことが、想像せられるのである。

 かかる状態にあったある日、神は、金子大明神に、
 「小坂の伯父が死んだから、葬儀の準備シタクをして、親族をさそいゆけ」
とさとした。これは<*3>小坂西村、貝畑久太郎のことである。久太郎は、古川参作の妻てるの父であり、金子大明神には、妻の関係から伯父分にあたる人であった。
 久太郎は、かねて病床にあり、一時、重体をさえつたえられたほどであった。金子大明神は、この、神のみさとしをえて、うちおどろき、すぐに古川にも、このむねをつたえた。
 金子大明神は、本来ならば、名代ミョウダイでもすむべきところを、神のみさとしであるから、古川家の人々をもまちかねて、ただひとり、裃の行李コウリを背にして、貝畑の家をおとずれた。
 ところが、事は、案に相違して、家はひっそりしている。案内をこうと、久太郎自身、納戸からあらわれて、小倉帯をしめながら、
 「文、きたのか」
とて、「なにしにきた」といわぬばかりである。ことがらが、ことがらだけに、金子大明神は、その挨拶にも窮して、ただ当惑するのみであった。神は、金子大明神に、
 「つねづね、親族のものらが、その方の信心をあざけり、わろうておるから、神が眼をさましてやったのぞ。『もどしの風は十層倍』と、となえながらかえれ」
とさとし、金子大明神は、挨拶もそこそこにひきとったが、このとき、ようやく古川家の人々が、うれわしげに、はいってきた。かえるみちすがら、金子大明神は、神のみさとしのごとく、「もどしの風は十層倍…」と、くりかえし、となえながら、かえりつき、家族の顔をみるさえ、いとわしく、そのまま神前に拝礼したということである(高橋富枝、貝畑家口碑)。

… 古川参作の反省

 これは金子大明神取次当初、およそ万延元年(四十七歳、一八六〇)秋のころのこととおもわれる。このことは、古川一家の「反文治」の気勢を、あふるにたるものであった。
 そのなかにあって、ひとり参作は、
 「わが家にかかわることについて、かく、事実に相違する神のみさとしのあったのは、ただごとでない。それは、わが一家の不信心によるものである。いまにして、こころをあらためねば、この後、はたして、どういうことがおこるかもしれぬ」
と、ふかく反省したようである(古川隼人)。かくて参作は、その年(万延元)十一月五日、まず、金子大明神の取次をこい、ついで八百蔵も、その身の病気がもとで、翌、文久元年(一八六一)五月三日、取次をこうこととなった(願主歳書覚帳)。
 かくて、古川一家は、いずれも熱心な信者となり、神のたのみのままに、遠路参拝者のために、休憩・宿泊の世話をするようになった。それは、このときから、まもないころである(津川善右衛門、古川てる)。

… 庄屋の訓誡

 金子大明神が、農業をやめたことについて、庄屋小野四右衛門は、前後二回、金子大明神を、わが屋敷によびよせて、その不心得をいましめ、理解をくわえた(遠藤烈太郎、山本定次郎)。
 金子大明神は、「へい、承知しました」とこたえてかえり、このよしを神前に奏すると、神は、
 「子どもの心配は、すな。子どもは、神が、うえさしはせぬ。たでの穂一本も、つくらいでも、さきの日で難儀はさせぬ」
と金子大明神をなぐさめ、はげますのである(山本定次郎)。
 金子大明神の決意は、ついに、これをひるがえすすべもない。とあきらめた庄屋は、その後、ふたたび、これをとがめることもなく、黙認のやむなきにいたったようである(庄屋日記)。

… 田畑の処分

 かかる事情のなかに、神は、金子大明神所持の田畑を処分せよ、とさとした。処分のはじめは、すなわち、「札場」西「向淵ムコウブチ」土手根溝べりの<4>田一反二十五歩半(石高六斗八升五合六勺)であった(御水帳)。神は、これを皮肉にも、古川八百蔵にうりわたせ、とさとした。それは、万延元年(四十七歳、一八六〇)十二月のことである。  ついで、翌、文久元年(一八六一)には、「堂東下」道べりの<5>田四畝十五歩(石高五斗四升)を藤井駒次郎に(御水帳)、くだって明治元年(一八六八)には、「客人神」西下「油免アブラメン」の<6>田十六歩(石高三升七合三勺)を大橋時五郎に(同上)、さらに明治四年(一八七一)には、「下淵」横道東下の田<7>六畝十三歩(石高四斗五升)を古川参作に(同上)、いずれも売渡した。
 かくして、最後にのこったのは、宅地(広前境内)<8>三畝十七歩と、<9>畑地二筆三畝十二歩とだけであった(明治四年御水帳)。これら田畑の処分について、金子大明神は、後年、
 「地所などは、ほそいものにやってしもうた」
とかたり(相沢新造)、さらに、
 「神さまを、おがみはじめには、親類のものがきて、百姓が、そういうことをしてはならん、というて、私をひきだして百姓をさせる。かえって神さまをおがんでおると、また、よびにくる。…どうしたらよかろうか、とかんがえたすえ、つくるところがなかったら、つくれとはいうまい、とおもい、庄屋へいって、田地をうりたいが、というと、やすいがよろしいか、という。やすくてもかまわぬ、というて、うってしもうて、…それで、とうとう『きちがい』になって、あいてにせぬようになった」
とも、かたっている(近藤藤守)。
 ここに「売渡」といい、「うってしもうて」というのは、ただ、名目だけのことであって、金子大明神は、それ等の代銀は、すべて、うけとるところが、なかった(藤井きよの、古川隼人ハヤト)。したがって、「やってしもうた」ということも、また、いつわりではないのである。
 ただ、所持の山林だけは、処分しなかった(藤井くら)。このことについて、金子大明神は、
 「田地はうりても、山林はうるな。薪タキギは、人がもってまいらぬ、と神さまが、おつたえくだされた」
とかたっている(山本定次郎)。

<1>岡山の藩士にして文久初年の入信 <2>辻の畑
<3>現浅口郡鴨方町 <4>御水帳地番一二七、新検上田
<5>御水帳地番五二〇、上田 <6>御水帳地番五七一、下田
<7>御水帳地番九九九、新検荒田 <8>多郎左衛門屋敷分の一畝を加算せり
<*9>絵師迫一本木ハナ

.. (一六)教化ようやく遠し

… 願主歳書覚帳

 金子大明神は、万延元年(四十七歳、一八六〇)五月朔日の神のみさとしによって、『願主歳書覚帳』をととのえた。これには、取次をねごうたものの所・名・歳をはじめ、取次の内容なども、簡単にしるされ、同年正月から慶応二年(五十三歳、一八六六)二月におよび、およそ四百五十人の記事がみえる。これを地方別にすると、万延元年には、地もと大谷村を中心として、備中浅口郡内一二一・同<1>下道シモミチ郡一・同小田郡一一・備前児島郡一・備後<2>深津郡一・讃岐仲多度郡一、計一三六をかぞえる。
 かくて、文久元年(一八六一)以降、しだいに遠隔の地におよび、文久二年(一八六二)には、笠岡を中心とする小田郡と、岡山とが、にわかにその数をましている。すなわち、小田郡五二、岡山九である。小田郡は、斎藤重右衛門の入信による結果であり、岡山は、さきにしるした松本与次右衛門をはじめ、岩藤市三郎など、池田藩士の入信の影響によるものである。
 『願主歳書覚帳』の冒頭には、
  一 久々井  丑年  彦助
  一<3>当谷  亥ノ年  藤五郎   一 同所  未ノ年  <4>駒治郎
         妻丑年きよの
など、しるされている。

… 実弟小幡彦助

 久々井の彦助は、金子大明神の実弟である。彦助は、文政十二年(一八二九)生であって、安政五年(一八五八)九月、当時、浅口郡西原村にすんでいた実母の妹道満ドウマン仲マカのせわで、その従姉妹イトコ関係の久々井小幡オバタ清蔵妻かやの二度目の養子となり、その娘もとと結婚した。
 金子大明神は、これを養子につかわすときの準備シタクはもとより、二毛作地ウラケジまでかいあたえて、その生計をたすけた。彦助は、文久二年(一八六二)正月、脳をやみ、金子大明神は、これを広前にひきとり、その全快を神にいのるとともに、ねんごろに看護した。かくて、一旦、こころよくなったのであるが、二月のすえに再発し、三月三日、さらにこころよくなり、やがて、妻は女児かねをあげたが、彦助は、不幸、その年の十月十六日、齢三十四にして、悲運に斃れた。その前後の、金子大明神のこころづくしのほどは、まことに、取次者としての威厳と、骨肉としての温情とを、かねそなえたものであった。

… 肉親の取次

 すなわち、正月三日、久々井から彦助養家の本家、小幡初之丞に、隣家のものが二人ついて来て、
 「彦さんが、かんがたってこまります。神さまに、おねがいしてくだされ」
と申出た。神は、
 「心配なし、おさめてやる」
と、彼等をさとした。しかるに、こえて八日、この三人がまたまいって、
 「病人がなおりませぬ。何分にも暴アれて、監視バンにもこまりますので、檻カコイへいれ、<5>『上原カンバラ祈祷』をいたします」 と、つげるのである。金子大明神が、このむねを神前にとりつぐと、神は、  「ほかの氏子なら、そのようなことも禁トめ申さぬが、この方から、無事でやったのであるから、この方で、なおしてもどしてやる。これが、氏子同志ならば、『壮健マメなからだをやったのであるから、いまさら、まちがいものは、え、うけとり申さぬ』というところであるが、この方は神じゃけに、『上原祈祷』などいうて、二匁の初穂も、そういうところへはやらぬ。もとの本身にして、もどしてやる」 と、彼等をさとした。三人のものは、  「そう、おっしゃっても、なかなか、本人は、すなおに来はいたしませぬ」 という。神は、  「来ねば、この方から『むかえ神』をやるから、来る」 と、さとすとともに、浅吉に、  「いって、その方がさきになって、ひったててもどれい」 と厳命するのであった。  浅吉は、ただちにおもむいて、その日<6>八ツ時ごろ、病人をつれてもどった。本家の主人はじめ、三人のものもついてきて、
 「介抱いたします」
という。神は、
 「今朝ケサほども申したとおりである。この、おちついておるところを、大勢おっては、かえってよくない。この方で介抱してやるから、みなに、ひきとってもらえい」
と、金子大明神をさとした。金子大明神は、このむねを、みなにつげてかえってもらい、病人を門納屋の一室にやすませ、後、あらためて神前に祈念した。
 かくて、金子大明神は、日々「験日ゲンビ」のおしらせをたのしみにして祈念をおこたらず、やがて「験日」のおしらせをいただいた。
 十四日朝、病気の発作があって、手がつけられぬ。金子大明神は、神前に祈念した。神は、
 「今日、昼から晩までには、おさめてやる。晩には風呂をたて、家内中、はいってからあとで、丑の年をいらせい。明日、十五日、この方広前へでて御礼を申させる」
とさとすのであった。
 金子大明神は、神のみさとしのままに、
 「みな、風呂へはいったけに、おまえも風呂へいれい」
とて、病人を、風呂場にとものうた。病人は正気になっていた。すなおに入浴するので、金子大明神はうれしさにたえず、神前に感謝して、すぐひきかえし、
 「どうなら」
と、湯加減をたずねてやるのである。病人は、
 「よいあんばいであります。もう、あがります」
とて、たちいでて手水をつかった。金子大明神は、
 「今夜は母屋ウチへやすめ」
とて、病人を母屋にともない、神前に拝礼させてのち、寝につかせ、みずからも神前に感謝の祈念をささげた。

 かくて彦助は、十五日・十六日と、うちつづけて熟睡するのである。十六日昼、神は、
 「もう、おこせい。ねさせておけば、限キリがない。<7>うしろの孫兵衛どのをたのんで、<8>月代サカヤキをしてもらえい」
と、金子大明神をさとし、ここに彦助は一応快癒をみたのである。そこで金子大明神は、このむねを養家にしらせたが、おりから妻は身重ミオモであり、にわかに来るものもなく、翌日になって、ようやく人をよこした。
 「午後に倅浅吉に着換をもたせて、かえらせよ」
との神のみさとしのままに、金子大明神は、この日、本人を養家にかえらせた。
 しかるに、二月二十八日夜、小幡家の身内五人、彦助をともない、
 「あいすまぬ儀でありますが、また、病気がさしおこりました。おりあしく妻が出産の<9>ぶっけで、心配でござりますので、おあずかりをねがいます」 と請うのであった。金子大明神は、これをこころよく承知し、やがて祈念した。神は、  「<10>氏子心配すな。神が産はさせぬ。帰イんでみい。腹はなおっておろうぞ。病人はおいておけ。なおしてかえらす。一度イッコに毒をとると<11>根コンおとりになるので、二度に、毒の<12>とりさばきをしてやる。病人が、もとの本心になって、『産人サンニンは、大事にしてやらねば』というように、わきまえがついてきたら、産をさしょう」
と、この人々をさとし、五人のものも、
 「よろしゅう、おたのみいたします」といいおいて、ひきとった。
 かくて、三月三日の午後バン彦助は、
 「姉さん、かえります」
と、妻にいいおいて単独でかえっていったので、金子大明神は、翌日、浅吉に様子をみにやると、本人は、
 「朝役アサヤクに、下コ肥エをかたいだ」
とて、別にかわった様子もなかった。やがて、その月二十六日の夜、女児を安産し、翌日、彦助みずから礼参した。そのとき、神は、
 「ひと月、のべてやった」
と、出産のことについて、さとすのであった。
 ところが、この年十月十六日、早天の祈念中に、
 「久々井の彦さんが急変で死なれました」
とて使がきた。祈念中の金子大明神は、このこえを耳にするやいなや、神意をうかごうたが、神は、
 「急変ではない、変死じゃ。母親が神の恩しらずゆえ、丑の年彦助も、始終出世することなし。神が、はように、<13>くつろがしてやった」 と、金子大明神にその事情を明示した。かくて祈念もすみ、使のものに様子をきくと、  「十五日、日中ヒナカ麦蒔をいたし、別にかわった様子もなかったが、今朝、夜あけがたと申すに、変死いたしました」 と、いうことであった。  金子大明神は、その身のうえを、ふかくうれい、さまざまにこころをつくしてきた愛弟が、かく悲運にたおれたことを、かぎりなく悼むとともに、  「家内中、たびたび神さまへ御厄介申上げ、おかげをうけて恩知らず、母の亭主清蔵は、娘の持病につき、黒住へ信心いたし、『久々井での<14>大元オオモト』と他ヒトにいわれた人ときくなれども、先セン養子も去イに、娘の病気もなおらず、父も病死いたし、『あと、たちがたなし』と申し。清蔵妻は、私母、西原村<15>叔母にも従姉妹になり、と西原の叔母が申し、香取彦助を養子にすすめ、私、兄・兄弟あまたにおるなれども、みな不仕合ゆえ私をたのみ。せわしてやり。娘の持病もおかげでなおり。<16>二毛作地ウラケジも心配してやり。『神さまへは信心すな』と申し。心得のわるい母親と、このたびおもいしり。黒住のおかげもないはず。取慾ばり。彦助<*17>死場シバ入用無心申し。みかぎりた女」
と、みずからしるして、養母の仕打シウチを、ふかく遺憾としたのである。

… 河手藤五郎

 つぎに『願主歳書覚帳』にしるされている「当谷亥ノ年藤五郎」とは、河手藤五郎のことである。この人のことについては、さきにも、一言ふれるところがあった。金子大明神とは、よく気心もあい、どちらも養子の身分であった関係から、ことに親交があった、ということである(河手照太郎)。

… 藤井駒次郎夫妻

 「同所、未ノ歳駒次郎・妻丑年きよの」とは、藤井駒次郎夫妻のことであって、駒次郎は「金子コンシ大明神」、妻は「向明神ムカイミョウジン」と、いずれも神号をゆるされた。

 駒次郎の父は礒右衛門(重蔵)とよばれ、川手家などの組頭をつとめていた。駒次郎はその二男である。妻きよのは、<18>下道シモミチ郡陶スエ村、岡藤太郎の娘であるが、長男恒治郎をうんでからほどなく、二十五歳にして失明した。百方、手をつくし、神仏にも祈願したが、そのしるしがなかった。安政六年(一八五九)九月二十八日、齢三十一にして、はじめて金子大明神の取次を請うたが、神は、  「眼はみえなくても、一生、不自由はさせぬ」 と、これをさとした。きよのは、まことに、このみさとしのごとく、道をゆくにも杖を要せず、機ハタもおれれば、裁縫もでき、糸を針にとおすことも、おもいのままであり、布の縞目まで、器用にあわせることができた。裁縫は、ことにたくみであった。股引モモヒキの仕立は、股モモや脛ハギのふとさにあわせてぬわねばならぬので、もっとも工夫のいるものであるが、近所の娘たちは、その仕立をも、きよのにおそわっている。  おとこまさりで、かち気な人であったから、みずから地方にでかけて道をとき、岡山・<19>天城アマキの池田侯にも出入した。岡山の地に、はやく道のひらけたのもこの人に、あずかって力があったといわねばならぬ。広島・大阪などにもおもむいた、といわれるが、時いまだいたらずして、これらは、いずれもその功を成さずしておわった。
 この人も、古川参作とおなじく、神のたのみによって、遠路参拝者のために、はやくから宿泊のせわなどをしていた。そして、後年、長男恒治郎には「吉備乃家」を、三男広武には「木綿崎館」を、いずれも経営せしめて、神のたのみを、うけつがしめたのである。

… 斎藤重右衛門

 『願主歳書覚帳』文久元年(一八六一)九月二十五日のところに、
<20>酉九月廿五日 戌三月十七日 妻 寅三十三歳  一笠岡宮地  重右衛門   未歳三十九歳 と、しるされている。これは斎藤重右衛門のことである。  重右衛門は、文政六年(一八二三)正月二十四日、笠岡の地に、栄十郎二男として生れ、母を久とよんだ。齢二十九(嘉永四)にして、富岡村、小野彦四郎二女津志ツジを娶った。名を又三郎ともとなえ、また数馬カズマ(伯家文書)とも名のった。文久元年(一八六一)妻の大患によって神縁がむすばれ、たちまちに、熱烈な信念をおこして、取次に身命をささげ、神の信任をうけて、「西三十三箇国」道びらきの神命を拝し(青山金右衛門)、教績を西日本にあげた。慶応三年(一八六七)十一月二十三日、四十五歳にして「金光大権現」とゆるされ(笠岡教会)、後、明治元年九月二十四日「金光大神」とゆるされた(神号帳)。重右衛門は、まことに一本気な人であって、官憲の忌諱にふれること、前後二度にもおよんだ。明治の初年、かの「金神社」造営の挙のあったとき、寄附札の境内にうたれてあるのをみて、金子大明神の所為と臆断し、憤然として霊地をさり、後、ひさしく、その土をふむことがなかったのは(斎藤松太郎)、こころある人の、おしんでやまぬところである。  妻の病気は、産後の血の道であった。文久元年三月に発病し、医薬のかいもなく、しだいにおもってゆき、五月の、麦こなしのころには、近所で、むしろをはたくおとが、気分にさわるようになり、はては、みまいの人のこえさえ、病にこたえるようになった。  八月十四日、三人の医師も、  「もう、とても拙者等のちからにはおよび申さぬ。このうえは、いかようにも、お手前の、おもうままにいたされたい」と、手をはなしてしまった。妻は、  「かいほうも十分にしてもらい、これきり死にましても、さらに不足はござりませぬが、この期ゴになって、ただひとつおもわれるのは、大谷の金神さまへ、一度だけ、参詣していただきたい、ということであります。それさえ、していただきますれば、もう満足でござります」 と、くるしいいきのしたから、たのむのであった。  重右衛門は、これをきいて、はたと当惑した。それは、  「自分の気象として、はやり神に手をあわせる、などいうことは、なんとしても、たえがたいことである。しかしながら、この一言をきいてやらねば、この、ながの月日を、介抱してやったことが水の泡になる。さればとて、参詣すれば、世間の人は、『さてさて、家内というものは、あれほどに、かわゆいものか。あのような、かたいじな人が、家内の病気ゆえに、はやり神へまで参詣した』とうわさをするであろう。参詣してやらねば、妻が、うらむであろうし、どうしたものか」 と、思案にくれるのであったが、  「ほんに、鴨方カモガタあたりまでいって、「参詣した」というてかえれば、それで得心するであろう」 とおもいついて、重右衛門は、翌、十五日、鴨方あたりまでいった。ひきかえそうとおもうたが、まだ、時刻がはやすぎるので、いま一歩、いま一歩とおもうまに、占見まで来てしまった。まだ日がたかい。大谷はめのまえにみえている。  田の畦アゼにこしをかけて、時刻をはかっていたが、「ほんに、隣家・親類のものがみまいにきて、『大谷へ参詣したそうなが、大谷には、どんなお宮があるか』『どうして、どういわれたか』など、きかれたときに、はなしができぬ。まずゆこう。いって家だけでもみておこう。それにしても、笠岡辺のものに、であわねばよいが。もしでおうたら、『この辺へ薬をかいにきた』といえばよかろう」 など思案しながら、ついに広前まできてしまった。  戸口から、うちの様子をうかがうと、あいにく、広前には、<21>小平井オビライ村五軒屋ゴケンヤの勘六と、西浜ヨウスナ村田方タガタの万吉とが、すわっている。金子大明神は、この人々に、
 「とかく、信心は、まことのこころでなければならぬ。親には孝、人には実意丁寧、家業を大切にし、いずれの神・仏をも、うやまわねばならぬ。『禍は下シモから』ということがある。たとえ、小神コガミたりとも、粗末にせぬように」
と理解していた。
 重右衛門は、これを小耳にはさみ、
 「さても天理じゃ、道理じゃ。世間のひろいことをいわれる。これがまことの神さまである。いますこしはやく、参詣する気になっていたならば、家内も全快になったであろうに。さてもさても、自分というものは、他ヒトのいうことをきかぬ、かたいじものである。おしえてくれる人も、ただ『金神さまは<*22>よくわかる』というだけで、『ありがたい神さまである』とは、誰ひとり、いうてきかせてくれなかった」
と、しばらく、家の東がわに、たたずんで、悔恨のなみだにくれるのであった。

 重右衛門は、やがてこころをとりなおし、まえの井戸で、かおをきよめて神前にすすみ、妻の病状をうったえて、祈念をこうのであった。金子大明神は、これに対して、
 「笠岡の病人は、三日のうちに、おかげのしるしがあれば全快になろう。おかげのしるしがなければ、もう、むつかしい。いかに、神が人をたすける、とはいえ、この病人は、こんせい(根精)がきれておる。こんのきれたものは、神のちからにも、およばぬことである」
と、さとした。
 翌朝、妻は、いつになく、
 「夜前ヤゼンは、ねあせがでませなんだ」
といった。重右衛門は、「これこそ、おかげのしるし」と、こおどりして大谷へいそいだ。金子大明神は、
 「病が、すこしでもよければ、それが神の験ゲンというものである。神の験というものは、商売人が、入金をいれるのとおなじことである。入金というものは、物価ネダンのあがりさがりによって、かれこれいうことがあるが、この氏子は、こころが一粋気イッスイキであるから、よもや、おかげを、とりはずすことはあるまい。全快させてやれば、『金神さまはありがたい、あの大病人が全快した』と世間の人がいうであろう。それをたのしみに、おかげをさずけてやる。一心に信心せよ」
と、さとした。
 かくて重右衛門は、一日はさみ、二日はさみに参詣し、ついには、「薬を煎じる手間で」とて、日ごとに参詣するようになり、妻の、さしもの難病も、ほどなく全快した。ときに重右衛門は三十九歳、妻は三十二歳であった。翌、文久二年(一八六二)三月十七日、重右衛門は、妻をともない、「丸に金字」の紋をおいた、木綿地の幕をととのえて礼参した。
 重右衛門が、神のみさとしのままに、笠岡村宮地の自宅にあって、取次にしたがうこととなったのは、はやく、すでに、文久元年(一八六一)九月二十五日であった(斎藤精一)。重右衛門はそのとき、
 「私は、人なみの信心はいたしませぬ、他の人が取次いで、十日間でおかげをいただくところを、五日間でおかげいただかねば、私は、信心はいたしませぬ。そのかわり、身のくるしみは、いかようなことも、いといませぬ」
と、神に祈誓するのであった。その当初の意気ごみのほどが、しのばれるのである(笠岡金光大権現)。

… 高橋小みと(富枝)

 『願主歳書覚帳』文久二年(一八六二)二月十二日の部には、
 十二日
 一西六 高橋泰蔵いもと 亥女
      小みと廿四歳
と、しるされている。これは高橋富枝のことである。小みととは、その幼名である。
 富枝は、天保九年(一八三九)十月二十八日、浅口郡六条院西村字高井にうまれ、父を源之助、母を千代とよんだ。安政四年(一八五七)、齢十九にして、浅口郡大島村正頭ショウトウの人、黒住芳太郎にとつぎ、男児をあげたが、生後、十日ばかりにしてこれをうしのうた。富枝は、爾後、怏々としてたのしまず、後、いとまをこうて実家にかえる身となった。
 富枝は、いまだ婚家にいるころ、隣人、黒住福之丞から、はじめて金子大明神のことをきいた。福之丞は、『願主歳書覚帳』万延元年(一八六〇)十月十七日の部にその名がみえ、郷党から「福金神」とよばれて、当時、取次のことにしたごうていたのである。
 そのころ、世間では、「大谷の金神は御発行ゴハッコウじゃが、あれは狸をつかうのじゃ」という、うわさがたかかった。富枝は、はじめて金子大明神の広前にもうでて、その理解を傍聴カタエギキするにおよび、「これは四ツ足風情の説きうるところでない」という、ふかい感銘をえたということである。
 かくて、富枝は、「おさなき婦人ながら、千人に一人の氏子である」との神の信任をうけ、「一乃弟子」「子明神」など、つぎつぎにゆるされ、取次にしたがう身となり、霊徳を遠近にあらわした。村人は、これを金神狸のわざとして、あざけり、ののしり、ついに庄屋平井瀧右衛門は、「金神狸を、<23>とりしめてやる」とて、富枝に<24>「留篭トメコ」の制裁をくわえ、屋外に監禁した。富枝は、この制裁をあまんじてうけ、しかも「犬猫でないから、とめこの中では、物を食わぬ」とて食を断ち、他日にそなえるために、十二支、その他の文字を習うことに余念がなかった。かくして監禁十日ののち、<25>村内、円珠院(天台)の僧龍岳の忠言によって、その制裁をとかれた。  後、広前をあらたにたて、慶応元年(一八六五)正月二十四日、白川神祇伯の神拝許状をえて、公然、取次にしたがうこととなり、「金子明神」「金子大明神」「金照明神」と、あいついでゆるされた(六条院教会)。この神号については、明治元年九月二十四日、金光大神のととのえた『神号帳』には、「金子大明神、西六高井こみと」としるされている。  「この道は、一代仏ボトケをきらうぞ」との神のみさとしによって、明治元年(一八六八)齢三十一にして、体術<26>不遷流の達人、仁科藤吉をむかえて、四男一女をあげた。
 『願主歳書覚帳』文久二年(一八六二)三月十五日の部には、
     戌年二十五歳
 一岡山西川  岩藤市三郎
としるされ、ついで同年四月十三日には、
 一岡山西川  松本与次右衛門
      午年五十三歳
 一同 倅  市之丞 辰歳
      十九歳
としるされている。

… 松本与次右衛門

 松本与次右衛門は、その子市之丞の病気が、機縁となって道に入ったのである。市之丞は、京都勤番中に性病にかかり、病苦にたえかねて百方医薬につとめたが、さらにそのかいがなかった。
 母は継母であったが、かねて信心していた。市之丞は、この母にすすめられて信念をおこし、薬瓶を川に投げすてて、文久二年三月五日、駕篭カゴを駆カって広前にもうで、金子大明神の取次をあおぎ、そのまま、藤井駒次郎の家にやどって、朝夕、祈念をこらした。三週間にしてぬぐうがごとくに病苦を脱し、うれしさのあまり、こおどりしつつ、かえっていった(藤井きよの)。爾後、一家、うちそろい、信心にいそしむことになり、岩藤市三郎とともに、同藩士のあいだに道をとき、その人々の入信するものがすくなくなかった。
 与次右衛門とその妻とは「金子大明神」を、市之丞は、「一乃弟子」を、ともにゆるされた(神号帳・一乃弟子改帳)。

… 橋本加賀(卯平)

 さらに、『願主歳書覚帳』元治元年(一八六四)五月の部には、
 一安倉  橋本加賀 戌年五十一歳 ぞく名
           卯平
としるされている。
 橋本加賀は、もと、大和吉野の丹生ニウノ川上カワカミ神社の社人であった。父を善五郎といい、はじめ善九郎とよばれたが、社人の<*27>継目ツギメ許状をえて加賀と称した。
 ゆえあって家を弟にゆずり、備中寄島に身をよせ、道広伊勢と結婚して右近ととなえ、通称を卯平(右平)ともよばれた。慶応元年(一八六五)正月七日、「一乃弟子」をゆるされ、村人等のたのみにまかせて、取次のことにもしたがい、岡山布教のうえにも力をつくした。ことに、金子大明神をはじめ、その教子等が、白川神祇伯に神拝許状をこうときには、いつも「申次人モウシツギニン」として紹介の労をとっている。
 以上、『願主歳書覚帳』にしるされている人々のなかで、後の記述にかかわりのあるものについて、その信心の動機なり、経過なりのあらましをしるし、あわせて、金子大明神の教化の、しだいに、とおきにおよんでいった情況の一端をのべた。

… 講社の結成

 かく、地方に信者のふえてゆくにつれて、各地に講社が結成せられるようになった。『願主歳書覚帳』には、文久三年(一八六三)以降、これについての記事が、しばしば見出される。
 講には「講元」があって、講を代表し、講員を結集し、その信心上の指導や、世話にもあたっていた。講員は、一定の期日にあつまって、神前を拝し、懇親をかさね、さらに、全員うちつれて金子大明神の広前にもうで、ときに、その代表者がこれにかわることもあった。
 この講の組織は、のちの、教会なり「組」の先駆をなすものであって、いまもこの組織が存続して、むかしながらの行事を、おこのうている地方も、すくなくない。
 かくして、金子大明神の教化は、文久・元治・慶応のころには、一種の「流行神ハヤリガミ」として、世間からながめられたことは、さきの、斎藤重右衛門の告白によっても、うかがわれ、いつとはなしに、各地からの参詣者に「金神参マイリ」の称もおこった。

… 東長屋の建築

 参拝者が増加するにつれて、金子大明神の広前は、しだいに狭隘を感ずるにいたった。これに対応するためであったであろうか、神は、文久元年(一八六一)正月朔日、
 「東長屋を建てかえい。二間に四間、土間ニワ四尺、間半マナカ庇ヒサシつき。柱立ハシラダチ一丈一尺。用材キは、益坂の<28>才治郎をたのみ。大工は、<29>中六畳屋の午の年国太郎をたのみ。『この方のは、なん月なん日ということはないのであるから、<30>職先が急セれば、その方へゆくがよし。いつなりとも、その方の勝手次第。準備できしだいに建ってよし』といいつけよ」 と、金子大明神をさとした。この神のみさとしにあらわれている金子大明神の建築・作事に対する態度は、往年のそれにくらべて、格段の相違のあることが感ぜられるのであって、方位・日柄の、迷妄は、まったく、そのあとをみることが、できないのである。  ここに「東長屋を建てかえい」とあるのは、かの嘉永三年(一八五〇)三月、辰巳の方に、かりに建てた小屋が、当時、そのまま、物置などに使用せられていたのを、とりのぞいて建てることを意味するのであろうか。  この建物は、母屋と門納屋とに接して、東がわ山よりに、棟を南北にたてられた。南の間が、床の間・押入のついた八畳、北の間が六畳、東西におのおの三尺の庇がもうけられ、北のはしが四尺の土間になり、ここに、竃が築ツかれた、瓦ぶきの家である。  つねは、家族の居室にもちいられ、後、附近の藩主など、身分のあるものの参拝の際の、休憩所にもあてられ、したがって、翌、文久二年(一八六二)六月四日、神は、これに上カミ便所チョウズを増築することを命じた。ここには畳をしき、刀架なども用意せられた。南の間、押入の裏がわにもうけられ、西の庇の廊下から、これにかようようにつくられた。東の庇は、後、さらに三尺ひろげられて、長ナガ四畳の間と三畳の間とがつくられた。  さて工事は、大工遠藤国太郎・<31>脇大工<32>遠藤玉之丞・手伝人テゴニン佐藤平吉等によって、六月四日から、準備がはじめられ、七月二十一日に地形石ジギョウイシがすえられた。  初秋の、つよい陽光ヒザシをうけて、みな「あつい」「あつい」といいながら、工事をすすめるのであった。この日、神は、  「明日は、天気をくりあわせてやる。あつきことなし。午後バンには、世間に『ふりこむ』というが、吉兆に雨がふる。二十二日早々、建前にかかれい。人手は、大工とも七・八人でよい。手がたらねば、神が手伝テゴをしてやる」 と、さとすのであった。  翌、二十二日は、神のみさとしのごとく、朝から曇っていて、仕事はらくであった。そして<33>八ツ半ごろに建前がすんだ。建前が、おわるやおわらぬに、はげしい驟雨ユウダチがおそうてきた。空模様は、午刻ヒルごろからわるくなっていたのであった。みなは、「いまに降るぞ」「いまに降るぞ」といいながら仕事をいそいでいたのであるが、鴨居まわり、そのほか、ぬれてならぬ箇所に、それぞれ雨覆オソイをして、おりてくるまに雨になり、おくれたものは、頭から、しずくをながすほどであった。人々は、
 「よう、<*34>ふらざったのう。途中でふられると、どうにもならぬのじゃったが、えい間に建ったのう」
と、よろこびあうのであった。
 ほどなく、空はからりとはれた。

… 上棟式に関する神諭

 この日午後、神は、棟上のことについて、
 「<35>五色の幣を三本截キり、祝儀を三包つくり、<36>米一俵を、棟梁に一斗五升、脇大工と手伝人との両人に一斗ずつ、三つの容器にいれ、幣を一本ずつたてて、この方広前にそれをそなえ、棟梁・脇大工・手伝人三人で上棟式ムネアゲマツリをしてくれ。『棟ばさみ』も、献マツる米もいらぬぞ。
ほかでは、棟で祭をするが、この方には神のさしず。棟で祭っても、地をおさめぬと転覆カヤっても、しようがないぞ。この方には、地をおさめ、すえの繁昌をたのしますために」
とさとした。
 東長屋の増築につづいて、この年(文久元)八月、神は、母屋の酉戌(西北)の方に大小便所をもうけることを命じ、翌年六月四日、母屋の東がわ(東長屋北)にも、大小便所をもうけることを命じた。前者は、金子大明神夫妻のためのものであり、後者は、家族ならびに、参拝者のためのものであった。これによって、天保八年にもうけた風呂場と便所とは、とりのぞかれたものと推定せられる。

… 広前内部の模様替

 かくて、文久二年(一八六二)十二月、神は、母屋の土間六尺だけを、座敷にせよと命じた。これによって、広前は、四畳一間ヒトマ拡げられ、参拝席が外アダの間マ六畳とあわせて十畳になったのである。この四畳の間は、南に三尺の障子二枚がたてられ、それをあけると、二段の踏段があって、すぐに外ソトにでられるようになっていた。
 以上は、いずれも、参拝者の増加にともなう用意であったのである。

<1>現吉備郡 <2>現深安郡
<3>大谷村本谷 <4>駒次郎(戸籍)
<5>上原は地名にて現吉備郡神在村。当時ここに陰陽師多く「口よせ」に類する一種の祈祷をなしたり <6>午後二時
<7>大橋氏のこと。広前の背後に隣りせしよりの通称 <8>昔は前頭部より前額部まで剃りたり。この部分をよぶ称にて、これを剃ることをもいう
<9>産気の約 <10>つれて来たものをよびかくる語
<11>精根のおとろえること <12>処理
<13>心をらくにする意の方言 <14>黒住教本庁の称
<15>金子大明神の実母の妹、道満仲 <16>湿田多き地方なり
<17>葬儀の費用 <18>現吉備郡
<19>備前児島郡 <20>「酉」文久元年。「戌」文久二年。これは妻の参拝の日附とおぼし
<21>「小平井村」現小田郡大井村、「勘六」藤沢氏。「西浜村」現笠岡市、「万吉」笠原氏、金貸業 <22>見ぬき見とおし
<23>厳しく戒めること <24>檻の一種
<25>山号「桜見山」、明王院末。龍岳は字にして姓は清氏、名は勧豪。円珠院二十八世の住職 <26>僧物外の創めし流儀。不遷は物外の別名
<27>白川家の与えたる神職相続の許状 <28>田村氏
<29>六条院中村。「畳屋」は地名。「国太郎」は古川八百蔵三男にて遠藤氏に入る <30>仕事先
<31>棟梁をたすける大工 <32>国太郎と同所の人
<33>午後三時 <34>「ふらずあった」の約音
<35>五色の五枚を重ねて截つ幣 <36>当時は三斗五升入
<*37>上棟式に棟に立てる幣

.. (一七)修験者の亡状

 金子大明神の存在が、ようやく世の注目するところとなったことは、当時の修験者等のあいだに、しだいにおおきな問題となっていった。

… 山伏寺多し

 まえ、すでに述べたごとく、この地方には、ことに修験者がおおく住んでいた。金子大明神の出生地に隣接する<1>「松井」には、円明院・永照院・清正房・大乗院・大量院・教法院・養清院・常照房・常楽院・地宝院・大江房・不動院・常智院(以上聖護院末)などがあり、<2>「小坂東」には、一乗院(三宝院末)・千手院・林光院・文珠院・本明院・蓮行院(以上聖護院末)などがあった。
 その他、近郷には、倉敷に華蔵院、<3>矢掛に智教院、<4>大島に大成院などがあり、いずれも、門跡を本山にいただいて威勢をふるい、ことに児島五流は、すでに述べたごとく、後鳥羽院直系として、西国筋におもきをおかれていた。

… 蓮行院庄屋にうったう

 庄屋小野四右衛門の日記によると、文久二年(一八六二)三月二十四日の午後、東小坂蓮行院外二名の修験者が庄屋をおとずれて、「文治義、金神を信心いたし候儀、差留呉度サシトメクレタシ」と申出た。蓮行院は、名を日野真賢とよび、当時、二十九歳であった。
 四右衛門は、金子大明神が百姓をやめて、神のまえに奉仕する身になったことを、かねて、みてみぬふりをしていたのであるが、修験者等から、かく、正式に申出でられては、とりあげぬわけにはゆかぬ。
 蓮行院等のおとずれたとき、四右衛門は不在であった。夜になって四右衛門は金子大明神をよびよせ、委細を、といただした。金子大明神のかたるところは、蓮行院等のうったえに相違ないので、金神を、おがむことを厳重にさしとめたのである。このことは、もとより、金子大明神の所為が、当時の禁令にふれるものであったから、修験者等は、そこをついたのである。

… 蓮行院神前の物を運び去る

 彼等は、なお、やすんぜぬものがあったのであろう。その翌、二十五日の午後、ふたたび庄屋をおとずれて、
 「<*5>壇まわりのものを、うけとりたし」
と、強硬な態度であり、
 「実は、此方コナタへ、あずかりくれてもよろしいが、同人のところにおくことは、決してあいならぬ」
とも、つけくわえた。
 庄屋は、やむなく彼等の申出をみとめ、川手弥十郎というものを、これにたちあわせた。

 蓮行院等は、八日ばかりまえに笠岡斎藤重右衛門からそなえた、まあたらしい幕をはじめ、幟・鏡・金幣・提燈・金燈篭などをうばいさったが、金子大明神は、なんのこだわりもなく、彼等のなすがままにまかせた。
 かくて、五月十九日<*6>飯後メシゴ、蓮行院ほか一名が、先般、うばいかえった品々をたずさえて庄屋をおとずれ、
 「正式に、やきはらいたいが、どうであろうか」
と、その意向をただすのであった。庄屋は、
 「それは容易ならぬことである。上カミむきに、とどけたうえのことでなければならぬ。いずれ、その手続をとるから、そのもとからも、とどけられるがよろしかろう」
とこたえ、品物の目録をあずかった。これ等の品物は、のちのちまで、庄屋の物置に保管せられていたということである(小野達郎)。有耶無耶におわったのであろう。そのうち、幕だけは、近年まで「夕崎」の荒神講のときに、もちいられ、五幅のものであった(古老談)。

… 智教院の強請

 こえて、七月二十一日午後、矢掛智教院代僧、<7>新見<8>重林院と智教院執事石川斎次右衛門とが庄屋をおとずれて、
 「文治が狸をつかい、笠岡のものをくるしめ、その狸憑タヌキツキが智教院へきて、こまらせるので、狸をひきとるように、先日来、文治にかけおうているが、らちがあかぬので、今日は、文治へ、じきじきにかけあうためにきた」
という。庄屋は、「その儀ならば、先般、同院より、蓮行院ほか両僧をもって、<9>かけあいなされた次第がらもあるのに、またまた、かく御両所がおみえになるのは、どういうわけであろうか」 となじるのであった。両人はこれに対する弁明をこころみ、そして、  「文治が、むかえにきてくれれば、狸も、ひきとると申すことゆえ、きょうは、是非とも文治をつれてゆきたい」 という。庄屋は、  「文治という人物は、さようなことに、とりあうものではないが、ともかく、穏当にかけあわれることは、別段、おとめ申さぬ。しかしながら、本人をひきつれてゆく、などいうことは、かたく、おさしとめ申す」 と注意した。  「いや、平和に談示いたす。それでも平和にことがはこばねば、正式におとどけ申そう」 という。庄屋は、  「さようの場合になれば、この方ホーからも、きっと正式の御返答を申上げることにする。ただいままでのところは、内分の儀とこころえられたい」 ということで、彼等は庄屋を辞去した(庄屋日記)。  彼等は、この日、金子大明神のところにきて、強請ユスリがましいふるまいをした。そこで、神は、この件の善後措置に関して、金子大明神を笠岡出社にさしむけた。金子大明神は、<10>暮六ツにたって、笠岡におもむいたが、広前には、信者氏子等も、まいりあわせていた。重右衛門は、意をうけて、この日(廿一日)、早速、矢掛に人をつかわし、翌二十二日午後使は、「智教院謝罪オコトワリ申上ぐ」と復命した。かくて金子大明神は、翌、二十三日未明、駕篭でおくられ、信者が五人共をして、<*11>五ツ時にかえりついた。
 智教院は矢掛西町にあり、聖護院末であった。院主を宮家玄昌とよび、当時二十七歳であった。石川斎次右衛門は、その母の弟である。玄昌は、児島五流とは、特にふかい関係があって、当時、はぶりをきかせたもののごとくである。
 修験の徒の、金子大明神にくわえた亡状のほどは、あげるに遑イトマがない。

… 五流尊瀧院の山伏補任状を斡旋す

 児島郡林の人、金光カネミツ梅次郎は、当時、熱心な信者の一人であった。五流尊瀧院に出入していた関係から、金子大明神のために、山伏の補任状をえて、彼等の亡状を、とどめようとした(古川この)。これは、金子大明神が、何等の資格をもっていなかったことが、彼等にとっての口実であったから、苦肉の策であったのである。

… 山伏、補任状を持去る

 あるとき、尊瀧院の役僧と名乗るものが、倉敷華蔵ケゾウ院の修験者をともない、金子大明神をおとずれ、
 「京都にのぼるにつき、金を寄附してくれ」
と強要した。金額をもさだめて、あたかも命令するかのような口吻であった。金子大明神はこれを拒絶した。
 彼等は、「命にそむくか」と威たけだかになじる。金子大明神は、
 「いや、御命にそむくわけではありませぬが、何分、ちからにかないませぬ。こちらのこころだけ、ということならば」
という。
 「命にそむくか。許状をだせ。許状など、あたえるところでない」
といい、許状をみせると、
 「これは、一から十までゆるしてある。備中にも、ふたつとないほどのものである。かようなものを、いただいておりながら、命にそむく、という法はない」
など、せまるのであるが、金子大明神は、ついに、彼等の要求に応じなかったので、無法にも、その補任状をもちさった。
 金子大明神は、神のみさとしのままに、尊瀧院に人をつかわして、一応の交渉をなさしめたが、要領をえず、そのまま、関係はたえたのである。金子大明神は、後、礼物をととのえ、四男石之丞に棟梁川崎元右衛門をさしそえ、尊瀧院につかわして、挨拶をなさしめた(金光萩雄)。

… 四組木綿繦懸用のことを斡旋す

 山伏等の亡状を、みるにたえかねたものに、さらに、松本与次右衛門があった。与次右衛門は、おのが発意により、この年(文久二)六月上京して、<12>吉田家に請うて、その月二十八日<13>「四組ヨツグミ木綿繦ユウダスキ懸用」のゆるしを得、吉田家役人、藤川伊織の注意にもとづき、七月八日、庄屋小野四右衛門をおとずれ、その許状をしめして、
 「私、親切をもって、折角、ねがいあげ、御免になったことゆえ、蒔田家の承認をえたい」
と申出た。庄屋はこれに対して、「正面、とどけることはできぬが、なにかのついでに、それとなく、うわさをしておこう」
と挨拶し、
 「五流からも、許状をよこしておる様子であるが、当方百姓に、そのような御免状をわたされては、百姓のさまたげになるので、返上するように申しつかわしても、かまわぬふりあいではあるが、内々、勘弁してやっている」
とも、実状を、かたりそえるのであった。与次右衛門も、そのむねを諒し、「何分よろしくたのみいる」と、しきりに低頭して辞去した(庄屋日記)。
 『大谷村御物成オモノナリ帳』をみると、文久二年(一八六二)には、「山伏一条入用」として庄屋は<14>浅吉から銀八匁五分を徴し、慶応二年(一八六六)には、「小坂一条掛合、小用共」として、銀十四匁と、「文治一条に付、両三年中、度々、山伏其外者共立会、<15>支度・小入用とも」として銀九十一匁八分とを、浅吉から、川手弥十郎に支払わしめている。これによって、修験者の亡状は、このころまで、うちつづき、おそらく明治五年九月、修験道の廃せられるまで、たえなかったものと推測せられるのである。

… 山伏の亡状に対する態度

 彼等の亡状に対して、金子大明神は、あるときには、神前に端坐し、まじまじと、まばたきながら、そのなすにまかせ(高橋富枝)、
 「うちむかうものにはまけて、時節にまかせい、と神さまが、おおせられるが、ここぞ」
と、まいりあわせたものにものがたり(国枝三五郎)、また、あるときには、
 「こんなに、神さまのところが、さびしゅうなっても、おなじことじゃ。壁をあてにおがんでも、おかげはたつのじゃから。まあ、おまいりなされ」
とも(樋口鹿太郎)、
 「さきを、たのしんでまっておれ。大谷の津か、伊勢の津か、というようになる」
ともさとし(同上)、さらにあるときには、
 「このくらいのことは、神さまのおちからで、おはらいのけになることはへんはない。それに、さようにたびたびくるのは、神さまが、おやりなさるのじゃから、われは、一向に、はらはたてぬ。御承知のとおり、今日なくなっても、あすは、また<16>あがる。神さまというものは、お気のよいものぞ。そして、その山伏は、なんにもないようになるぞ。この神さまのお道は、年々に御繁昌なさる。氏子、さきで合点せよ」 と、さとしたが(津川善右衛門)、さすがに、情の激するときには、  「この方は、こえかたぎの百姓じゃったに、それがこうなったがにくいで、『狐じゃ』『狸じゃ』といおうが。この方は、人がたすけたいばかりに、こうしてやっておるのじゃ。それが気にいらなけりゃあ、この方をころしてみい。そうすりゃあ、<17>法印のいうとおりになろうぞい」
とて、顔をうちあからめ、ながい眉毛を、ぴんぴんとふりうごかし、手をもみながら、いきどおることもあった(高橋富枝)。

… 麻疹の猖獗ショウケツ

 さて、文久二年(一八六二)の夏には、麻疹がはやって、死亡するものもおおく、小野氏の当時の年譜には、「八月麻疹大流行、家々大難苦」と、しるされている。
 六月四日、神は、金子大明神に、「倅浅吉、当年十八歳巳年、身上難歳ナンドシ。<18>祇園宮へ六月十三日<19>まいらさせい」
と、さとした。六月十三日は同社の例祭である。そこで金子大明神は、神のみさとしのままに、その日、浅吉を<20>沙美から舟でまいらせた。  浅吉は、翌、十四日<21>七ツ時に帰宅したが、とかく元気がなく、十五日も十六日も、うらの薮のこかげのかけ台のうえに、はだかのままで、ふせっていた。神は、
 「あれは、つかれではない。麻疹ぞ」
と、金子大明神をさとした。浅吉は、これを無事にしあげて、二十五日もとの本身ホンミになった。神は、
 「ついでに、あと四人の子どもを、月のうちに、<*22>さしてしまおう」
とさとした。四人の子女は、そのみさとしのごとく、あいついで麻疹の床にふし、おりから、東長屋上便所カミチョウズの作事にきていた遠藤国太郎の養父伴蔵が、
 「このあいだから、子ども衆のすがたが見えぬが」
とあやしむほどであった。それでも、七月朔日までに、いずれも、ことなくしあげ、

… 麻疹の手本

 「五人の子に看護モリいらず。果物ナリモノ・野菜アオモノ・毒断なし。この方より、<23>麻疹の手本だし」 と、金子大明神は感激した。  七月二十三日朝、金子大明神が、矢掛智教院の件が落着し、笠岡からかえってみると、麻疹のために、取次をこう所々の氏子が、広前に、まちうけていた。鈴木久蔵もその一人であったが、  「妻が、妊娠のうえに麻疹で、医師も『九死一生じゃ』と、薬を一貼おいたまま、手をはなして、かえられました」 と、うったえなげく。金子大明神は、神前の神酒をさげて、  「はよう、いただかせい」 と、はげましてかえらせ、総氏子の祈念にかかったが、久蔵は、  「妻が、早々におかげをうけました」 と、よろこんで礼参した。  その日、棟梁遠藤国太郎の妻も、おなじく妊娠麻疹で、  「<24>中山の医師も手をはなした。<*25>うえの母にきてくれるように」
との使がきたとて、古川から、取次をねがいでた。神は、母に、
 「心配せずといけい。一心にねがえ。うろたえな。あすの晩には、安心してもどるようにしてやる」
とさとしたが、そのとおりに、みかげをうけて全快した。
 かくのごとくにして、この年、「本谷」から「小田」にかけて、妊娠麻疹の婦人が、六人までもたすけられた。

… 金光大明神と神号改まる

 この年(文久二)十一月二十三日、金子大明神は、「金光大明神」と神号をゆるされた。

… 妻六男出生の際の神諭

 文久三年(一八六三)二月朔日、神は
 「妻、卯の年四十五歳妊娠、当月九日夜安産」
とさとした。九日になると、神はさらに、「今夜は参人あり、明夜にのべる。<26>釜の柱、しもうてやすめい」 と、さとすところがあった。  十日の夜は、参拝者もなかった。<27>夜五ツ時、妻に悪寒がきたので、金光大明神は、神におうかがいした。すると、神は、
 「心配なし。広前の金幣をもていって、もたせておけ」
とさとした。金光大明神は、みさとしのままにし、そして一心に祈念した。神は、
 「もうよし、金幣を<28>この方へおさめおけ。<29>産のぶっけをしらせたのである。産の場所をこしらえおいて、夫婦とも安心にやすめい。まだ暇取マドる。今夜、<30>月のおいりでなけらねば、うまれぬ」 とて、金光大明神には、「うまれても、おきるにおよばず」とさとし、ついで、  「今度の子は、そだてようとおもうな。成育ソダたぬぞ。うぶごえ<31>だき。うまれた子は、わきへおしよせておいて、<32>卯の年、平生のとおりにやすめい」 と、妻をさとした。  やがて、妻は「はらが、はる」とてめをさまし、あたかも十日月が、西にいるころに、男子を安産したが、生児コは、神のみさとしのごとく、産ごえはあげたが、生命はつづかなかった。金光大明神夫妻は、すべてを、神のみさとしのままにした。  十一日早朝、金光大明神は、あらためて、妻の安産を神前に感謝した。神は、  「生児は、七夜まで屋内ウチにおけ」とて、後の措置などについて、さとすところがあり、さらに産婦に対して、  「卯の年、よがあけた。おきて門の戸をあけい。<33>水神社広前を<34>ゆるしてやる。水をくみ、御膳をたき、<35>土公神と、この方とへ、そなえあげい」
とさとし、ついで、

… 婦人に関する教

 「女の身のうえのこと、<36>月役・妊娠・悪阻ツワリ、腹帯、腹いたまず、産前、身のかるく。産後の、<37>よかれもの・団子汁、子に五香いらず。母の乳へ神酒つけ、おやこともいただけ。頭痛・血の道・虫・病気なし。不浄・穢・毒断なし。平日のとおりに、あいなること」
と、婦人の身についてのこころえを、さとした。
 妻は、そのままおきいでて、神のみさとしのごとくに、たちはたらいたが、なんのさわりもなかった。

… 門戸を撤す

 三月二十一日、神は金光大明神に、
 「表口の戸をとり、『戸たてず』にいたせ」
とさとした。金光大明神は、なにのためらいもなく、これにしたごうた。
 「表口の戸」とは、広前、南がわの雨戸のことである。金光大明神は、このときから、夏冬をとおして、障子をたてるだけで、戸じまりをほどこすことがなかった。ついで、慶応三年(一八六七)十月五日、神はさらに
 「門の戸をひらき、しきいをつぶせ」
とさとした。金光大明神は、このみさとしのままに、門のしきいをつぶして、ふたたび、とざすことのできぬようにした。

<1>現鴨方町 <2>現鴨方町
<3>現小田郡矢掛町 <4>現浅口郡大島村
<5>神前周囲の物 <6>午前十時の食事をすぎたるころ
<7>現阿哲郡 <8>不詳
<9>内容不明 <10>午後六時
<11>午前八時 <12>ト部兼具の系統、神祇官次官の身として、「神祇官領長上」と僣称せり
<13>木綿糸を四つ組にしたる紐を結びたるもの(神道名目類聚抄) <14>当時の戸主
<15>食事 <16>神前に物がそなわる
<17>山伏の通称 <18>備後鞆の津所在
<19>方言 <20>現玉島市黒崎町
<21>午後四時 <22>麻疹をさせてしまおう
<23>毒いみもせずして無事麻疹を仕上げる手本 <24>「中山」地名、鴨方町。「医師」姫井道淑
<25>古川八百蔵妻むめ <26>かまどのたき口におおいをして
<27>午後八時 <28>神前
<29>産気 <30>「月のおいり」月没時。この日は午前二時。「なけらねば」は「なければ」の訛
<31>「だけ」の訛 <32>妻
<33>井戸 <34>産穢を
<35>竃の神として農家はおもんじたり <36>「月役・妊娠に腹いたまず。妊娠に悪阻なく、腹帯いらず」の意
<*37>「よかれもの」は「よりかかるもの」。「団子汁」産婦を力づけるための料。「五香」胎毒下の薬、まくり・甘草・大黄などを交えて製す

.. (一八)神の<*1>簸サビかえ

 さきに一言した、笠岡、斎藤重右衛門が官憲の忌諱にふれることとなったその第一は、文久三年(一八六三)正月のことであった。

… 斎藤重右衛門捕わる

 この月十日、重右衛門は、<2>四枚肩シマイガタの駕篭で、ともぞろえをして、大谷の広前に参詣した。その状、さながら大名行列のごとくであった。翌日、金光大明神は、  「かえりみちは<3>馬飼マカイ越をかえれ」
とさとした。これは、うらみちであって、あたかも笠岡広前の、すぐ北辺にでられるのであるが、重右衛門は、それにしたがわずに、やはり、威風堂々と、もときたみちを、かえっていったのである。ところが、<4>富岡村までかえりかかると、妻の実家に隣りした<5>坂本吉兵衛の家に、代官所の役人が出役してまちうけ、
 「お上をはばからざる仕儀なり」
とて、とらえられた(信仰回顧六十五年)。重右衛門は、駕篭かき人足どもが、おどろきにげさるのを、山もひびけとばかりに、
 「こりゃ人足、なにがおそろしくて、にげるか。にげることはならぬ」
と、しかりつけるのであったが、ついに縄をうたれて、その代官所の牢舎につながれた(笠岡金光大権現)。

… 入獄の事情

 この事件は、『笠岡金光大権現』の記述によると、「お上をはばからざる仕儀」は一種の口実であって、その真因は、江戸幕府の「新奇異論取締」にあったようである。
 重右衛門は、これよりさき、「神さまは、人の病気・痛処イタガをおたすけなされるから、われも、その取次をさせていただく身として、人を助けねばならぬ」として、家にたくわえてあった裸麦三・四十俵(四斗入)と、<6>琉球芋千貫目ばかりを、ことごとくもちだして、市中の極貧者に、麦は一斗・二斗乃至一俵、芋は十貫目・二十貫目というように、ほどこしあたえたのであった。  これを、当時の宿老庄屋兼帯生長イクナガ小十郎・宿老年寄兼帯築山ツキヤマ刑部ギョウブ・肝煎キモイリ明石安右衛門等が、<7>代官所へ密書をもって、
 「宮地の重右衛門と申すものは、ふしぎの法をいのり、笠岡市中、百姓をあざむく大悪人なれば、御上さまの格別の御憐愍にて、おとりしらべいただけば、市中、百姓どもがたちゆきます」
と誣シいたのであった。役人は、重右衛門をきびしき拷問にかけなどして、
 「その方は、人にものをやる、というが、どれほどの財産があってのことか。日本国中に神々はいくらもあるが、いずれの神が、わらじ一足くれたか。三歳の童子にいたるまで、慾をしらぬものはない。人に、ものをやるからは、また、とる法があるのであろう。いかなる法をもってするか」
ときびしくせめたて、一方には、神前の厨子・諸道具などを没収し、ついにこれらを、やきすてる始末であった。もとより、とがをうくべき事実のあるはずもなかったが、「いよいよ改心いたします」ということで、重右衛門は、四月二十八日に釈放せられた。拘留され、獄につながれること百七日であった。かくて重右衛門は、捲土重来の意気のもとに、ふたたび取次に精神することとなったのである(笠岡金光大権現)。

… 事件の影響

 しかしながら、この事件は、かなり、地方の人心を刺戟し、いろいろの取沙汰が、みだれとんだことは、想像にかたくない。
 「これは、大谷がもとであるから、いまに、大谷へも追手オッテがつく」
など、いうものもあり、修験者等には、絶好の口実をあたえることとなった。したがって、笠岡を中心として、小田オダ・後月シツキ・浅口などの諸地区からの参拝者は、この事件以後、とみに減少した。これは『願主歳書覚帳』が、あきらかに、ものがたるところであり、その影響は、明治の初年にまでおよんだ(金光教祖出現)。
 この事件によって、いまだ信念のさだまらなかったものは、みな、とびちってゆき、真実のもののみが、のこされた。そして、それが、他日の道の根となり力となったのである。金光大明神が、これをもって「神の簸かえ」としたのは、この意義である。

… 金光大明神の自重

 しかしながら、この事件は、重右衛門の短所を遺憾なく暴露したものであった。金光大明神は、
 「きれる刃はこぼれる、というが、この方は、きれず、まがらずじゃ」
とて、重右衛門のうえをなげくとともに(信仰回顧六十五年)、
 「いま徳川の時代にて、石垣をつんだように、ぴりともするものではないが、三十年さきでは世もかわり、この道もつらぬく。神は、守が徳をいただくまでまつ」
とて(高橋富枝)、ますます自重したのである。

<1>箕にて穀物の夾雑物を除くことをいう方言、「簸る」に接頭語「さ」のそいたるもの <2>四人にてかくこと。駕篭は宿老格肝煎仁科藤兵衛の所持せるもの
<3>笠岡市今井馬飼より宮地に出ずる山道。一名宮地峠(だわ) <4>現笠岡市。市の東口
<5>元治元年富岡村庄屋となる <6>甘藷
<*7>笠岡は幕府直轄地にして倉敷代官これを支配し、代官手代在勤せり

.. (一九)取次広前建設のたのみ

… 取次広前建設のたのみ

 元治元年(五十一歳、一八六四)正月朔日、神は、
 「天地金乃神には、日本に宮・社なし。まいり場所もなし。二間四面の宮を<1>たってくれい、氏子安全まもってやる。天地乃神には御上もなし。その方には御上もあり。世話人願(頼)み、御上ねがい申上げい。 世話人、当村午の歳川手保平・同所森田八右衛門巳の年。大工、<2>安倉の丑の歳<3>元右衛門、弟子、<4>中六の午の年<5>国太郎。釿はじめ、きたる四日、吉日。<6>こしらえて、上がかなわねば、どこへでも、宮のいるというところへ、やるけにかまわぬ。こしらい(え)いたせい。御上がかのうてたてば、その方の宮。天地乃神が、宮へはいりておっては、この世がやみになり(る)。
正真、氏子の願・礼場所。その方取次で、神もたちいき、氏子もたち。氏子あっての神、神あっての氏子。子どものことはおやが願(頼)み、おやのことは子が願(頼)み、天地アメツチのごとし(く)、あいよ、かけよで、願(頼)みや(あ)いいたし(せ)」と金光大明神をさとした。

… 建築出願の手続をとる

 金光大明神は、このみさとしを奉じて、ただちにこれが建設の手続に、とりかかった。すなわち、まず村役場の意向をうかがい、<7>判頭藤井春太郎をわずらわして村方に談示のうえ、正月十日、赤澤浅吉を願主とし、世話人<8>川手保平・同森田八右衛門、判頭藤井春太郎等の名で、村役人を経て、浅尾藩庁にねがいでた。当時の村役人は、庄屋<9>小野慎一郎、年寄<10>西三郎治であった。
 かくて金光大明神は、棟梁川崎元右衛門を代理とし、橋本卯平をさしそえ、白川神祇伯に神拝式許状をこい、かねて、「金神の宮の儀」について、その内意をうかがわしめた。橋本卯平は、さきにのべたごとく、大和丹生川上神社社家であった関係から、この種のことに、こころえがあったので、斡旋の労をとったのである。

… 神拝許状をうく

 四月九日、両人は白川伯王家にいたり、大和国担当の<*11>雑掌林常行を介し、備中国担当の雑掌安部田貞◇を経て願出、即日「初入門」として「風折カザオリ・浄衣ジョウエ・白差袴サシバカマ」を着することと、神拝式とを金光大明神にゆるされ(伯家文書)、社殿建立のことも、「屋敷内へたてて、くるしゅうなし」との内諾をえた。
 金光大明神は、これらの手続を経て、いよいよ、広前建設の準備をすすめることになり、門納屋の南がわに、大工小屋・木挽小屋などをたて、棟梁夫妻は、娘をつれて、門納屋の一室に起居することとなった。
 金光大明神が、神拝許状をえたことは、その取次のうえの、おおやけの資格をえたことを意味するものであって、ここに、はじめて、年来の山伏等の非難の口実を、うしなわしめることとなったのである。

… 湯・行水差留

 金光大明神は、この年(元治元)六月十日、神から「<*12>湯・行水御差留オサシトメ」になり、後、明治六年(六十歳、一八七三)三月、一旦、これをとかれ、また、ふたたびさしとめられて、ついに、世をおわるまで、湯も行水もおこなわなかった。

… 金光大権現と許さる

 こえて十月二十四日、その神号を「金光大権現」とゆるされ、妻も、同時に「一子明神」と、はじめてゆるされた。

… 教子等神拝許状をうく

 金光大権現が、神拝許状をえたのを機として、これまで、各地にあって取次にしたごうていたものも、つぎつぎに白川家に入門した。すなわち、斎藤重右衛門・高橋富枝等は、慶応元年(一八六五)正月二十四日に、藤井駒次郎・占見新田村中務ナカツカサ坂助・六条院中村<13>秀蔵・小田郡西浜ヨウスナ村藤井多蔵・玉島村<14>房太郎・同<*15>左京・同小谷清蔵等は、翌、慶応二年(一八六六)十月二日に、いずれも橋本卯平の申次によってその許状をえ、金光大権現も、同日、「冠・布斎服ヌノサイフク・浅黄アサギ差貫サシヌキ」の着用と「河内カワチ」の名とをゆるされた(伯家文書)。
 藤井駒次郎以下のものは、いずれも「金子」の姓をもちい、金光大権現も「金光文治」として「金光」の姓をもちいている(伯家文書)。「金子」とは、「金子大明神」の神号にちなむものであり、「金光」が、姓として公文書にもちいられたのは、これがはじめてである。

… 修験者等に対する白川家の態度

 金光大権現と白川家との関係は、かようにして、しだいにふかくなっていった。修験者等の亡状に対しても、白川家は、
当御殿神祇道御門人の輩、自宅において神拝祈念候儀につき、修験并陰陽師の輩より、彼是カレコレ、故障・無心がましき儀など申掛け、迷惑いたし候趣申出、承届け候。以来、同様の儀申出候ものもこれあり候わば、ひととおり理解聞け候うえ、自然、相用いず、理不尽の儀これあり候わば、その住所・名前等相尋ね記しおき、御殿ゴテンへ早々届出ずべく候。左候わば、急度キット御沙汰にも相成るべく候間、その旨相心得べく、此段申達しおき候也(原漢文体)。
   寅十月二日     白川殿御用場 印
という一札を、橋本卯平・川崎元右衛門あてに、交附した(伯家文書)。

… 神主職の補任

 金光大権現は、ついで、神主職補任のことを、白川神祇伯に申請することになり、その手続として、まず、領主蒔田家の添翰をえるために、慶応二年十一月、「御国恩冥加」として金百両を領主に献じ、翌十二月、村役人を経て、その書類を藩庁に提出した。藩庁は、十二月十日をもって、これを聞届け(永代御用記)、慶応三年(一八六七)二月十日、郡奉行を経てこれを下附した。その文面は、
一筆啓上いたし候。春寒退きかね候ところ、益御堅固に御勤なされ、珍重に存じたてまつり候。然れば、当領下、備中国浅口郡大谷村、文治持山モチヤマに、金神勧請まかりあり候ところ、先年より、たちいり候社人・社僧御座なく、俗人にて神事執行候儀、神明に大志おそれおおく、これにより、今度、右、文治上京参殿、祠官職・神主号御許容、拝授いたしたき段、当役場へ届出候につき、承届け、すなわち添書いたし候まま、よろしきよう御取計くださるべく候。右の段、御頼、御意を得べきため、此のごとくに御座候。
              恐惶謹言
   二月十一日        平田慎作尚志判
           二階堂勇右衛門行能判
  (ママ)        亀山幸右衛門綱睦判
  白河御殿御役人中様
 尚以、当人文治<16>病気につき、代人指出候あいだ、この段御含みおきくださるべく候。以上(原漢文体)。 というものであった(伯家文書)。  この添翰にのべられてあることは、まったく架空のものである。由来、徳川幕府は、百姓の身として、神主職などになることは絶対に禁止し、これをおかすものは、いずれもおもく罰したことは、その実例がすくなくない。さらにその対象となる社は、「有来アリキタリのほか新規に<17>在々ザイザイにて、小さきほこら」たりとも、これを建立することは、きびしくいましめた(五人組帳前書)。それゆえ、「金神社」も「有来アリキタリの」ものとして、「文治持山」に年ひさしく勧請してあったものといい、これに奉仕する社人も社僧もいない、ということを申立てたのである。当時としては、これよりほかに、みちはなかった。金光大権現が、かかるみちを、えらばねばならなかったことは、決してその本意ではなかったであろう。それにしても、村方をはじめ、村役人にも藩庁にも、何等の異議をみなかったのは、金光大権現の実意丁寧なひとがらに対する世の信用が、しからしめたものである、といわねばならぬ。

… 白川家との折衝

 さて、神は、二月十三日、金光石之丞を代理とし、橋本卯平・川崎元右衛門を附添として、上京せしむべきむねを、金光大権現にさとした。一行は、蒔田家の添書をたずさえ、安倉から船で上京の途にのぼった。

… 折衝にのぞむ態度

 上京にのぞんで、神は、石之丞と卯平とに、「このたびは、地頭より添翰をくだされ、『官位の儀、よろしゅう、おねがい申上げます。しかし、金神広前では、京都御法どおりのことは出来ませぬ』と申してくれ」
とて、毅然たる態度で、これにあたることをさとし、さらに、
 「たびたび<*18>まいるから、天地金乃神のおかげのはなしをするがよい」
とも、つけくわえるのであった。
 慶応三年(一八六七)二月二十日、一行は、白川家に出頭して、蒔田家の添書をさしだし、
 「前度マエド、たびたび御厄介になりまして、ありがとうござります。今般、地頭より添翰くだされ、もってまいりました。よろしきように、おねがい申上げます」
とて、神のみかげのありがたきことをも披露し、神拝のこと・神前装飾のこと・紋章のことなどについても、ただすところがあった。

… 神拝

 白川家では、雑掌村上正武・安部田貞◇がこれに応接し、神拝の節、六根清浄祓と般若心経とをあげておる、というに対して、
 「なるほど、この方の法どおりにしても、神が受納キカれねば、おかげをもくだされまい。おかげをくだされないでは、なんぼう法をいのりても、やくだたぬ道理である。おがむ人のねがいで、神は、ますます感応せられるのであるから、それでよかろう。しかし、心経だけは、あげられねばよいに、あれは経文じゃ。仏ブツの方。しかし、とめもせぬ」
と沙汰し、神前装飾のことについては、「この方には、飾物の免許ユルシはだしておらぬ。氏子の奉納物は、なになりとも、くるしゅうなし」
と指示し、紋章については、
 「紋は<*19>丸に金の字、別条なし」
とこたえ、さらに、
 「吉田家では遠路の人でも、二十日も三十日もとめおいて、礼拝・諸礼のことを、おしえるそうなが、この方には、人をとめて、入用をつかわせるようなことは、させませぬ。
地頭のねがいどおりの免許ユルシを、だしましょう」
とて、二十二日附で、左の補任状をさげわたした。

… 神職補任状

       補任状
        備中国浅口郡大谷村文治持山有之
           金神社神主
             金光河内
   今般依願、被補神主職、神祇道拝揖式被授与訖。因、冠・斎
   服・浅黄差貫着用、神拝之節可令進退之旨者、
   本官所候也。仍、執達如件。
    神祇官統領神祇伯王殿
    慶応三年二月二十二日   雑掌  奉
 これとともに、「神主家玄関に立置度旨に付願」によって、御紋附高張提燈一張と、「御神用」小田原提燈一張とをさげわたした(伯家文書、永代御用記)、かくて、一行は、滞京四日にして二十八日無事かえり、委細を復命したのである。
 これに対して蒔田侯は、「今度、白河(ママ)殿より神職許状をうけ候おもむき、かつは先般献金いたし候段奇特のこと」とし、三月十一日、金光大権現に<*20>苗字帯刀をゆるした(永代御用記)。

… 社殿建立の申請

 これについで、金光大権現は、さきに、白川家の内諾をえていた社殿建立のことを、村役人を経て、慶応三年四月、正式に領主にねがいでたのである(永代御用記)。
 この社殿建立のことは、その筋の許可の有無にかかわらず、内々その準備だけは、すすめられていた。このことは、すでにしるしたが、棟梁元右衛門の行動に、とかく、神意にそわぬものがあり、慶応三年八月二十五日、神は、はやくも、
 「棟梁かんがえが、わるいので、宮・社建築成就せぬ」
と警告するところがあった。

<1>「たててくれい」の方言 <2>現浅口郡寄島町(前掲)
<3>川崎氏(前掲) <4>六条院中村の略称(前掲)
<5>遠藤国太郎(前掲) <6>準備して
<7>五人組の頭 <8>浅尾藩足軽
<9>四右衛門長男、安政四年十二月庄屋代勤となる <10>西沢ともいえり
<11>公卿の家司の称 <12>入浴のこと
<13>「御覚書」には「秀吉妻」とあり、詳細不明 <14>姓未詳
<15>姓未詳 <16>代人差立の場合の当時の常套語
<17>在所・在所 <18>白川家へ
<19>後、外輪に八個の波形を配して現在の形式となれり。これが制定の時期不明なるも、明治十四年二月廿八日、金光大神が唐樋常蔵に与えたる提燈(伊陸教会所蔵)には既に之を使用せり <20>己が姓を、公に署することを許すこと

.. (二〇)養母逝く

 金光大権現の養母いわは、安政五年(一八五八)の冬、病にかかり、十一月三日、一旦、重態におちいり、神は、万一のばあいの準備をも、なさしめたほどであったが、幸にして恢復し、爾後、かわることもなく余生をおくっていた。

… 浅吉浅尾侯に仕う

 この間、倅浅吉は、元治元年(一八六四)四月朔日、五人づれで参宮し、帰途、大阪で武士になる志をおこした(金光正神君)。
 これよりさき、村内子弟のあいだには、剣道修練の風がおこり、藩もこれを奨励した。まことに、時勢の、しからしめるところというべきである。
 浅吉は、はやくから剣道をたしなみ、しかも出色のきこえがあったが、手遊テアソビなど、当時の悪風にさそわれがちでもあった。金光大権現は、浅吉の将来を憂慮して、その武士志願をゆるした。そこで浅吉は、おのが剣道の師、矢吹小平太の推挙によって、浅尾藩主蒔田マイタ広孝ヒロタカにつかえ、並足軽ナミアシガルとなり、役米一石を給せられることとなった。それは、慶応元年(一八六五)三月三日、齢二十一のときであった(永代御用記)。

 当時、藩侯は、京都見廻役ミマワリヤクを命ぜられ、松平出雲守とともに、京都守護職松平容保カタモリのもとに、もっぱら京師の警邏にあたり、元治元年(一八六四)七月、蛤御門の変には、五条通・不明門アケズノモン通に奮戦し、功をもって叡賞にあずかった(蒔田家譜)。浅吉は、仕官後、ただちに上京して、藩侯のもとにあった。
 石之丞も、「剣道の修練ケイコをはじめよ」との神のみさとしのままに、慶応元年十一月十五日、十七歳にして、<1>高橋喜代太に<2>「無念流」をまなび(萩の玉露)、高橋藤吉について「不遷流」の体術をもおさめた。かくて、慶応二年(一八六六)十月十一日、浅尾藩にめされて、有志組炮隊にいり、苗字帯刀をゆるされ、役金三両を給せられることとなった(永代御用記)。
 これよりさき九月七日、養母いわは、「今日は気分がわるい」といっていた。それでも、床につくほどのこともなかった。金光大権現は、
 「今夜は、すきな御酒でもめしあがって、おやすみなされ」
とすすめ、万一のことをおもうて、末女このを、そのかたわらに臥せしめたのであった(近藤藤守)。

… 養母の急逝

 養母は、翌、未明に「<3>節供セック団子がほしい」というので、二女くらが、手ばやくそれをつくった。このが、これを寝所にはこぶと、養母は、すでにこときれていた。このはおどろき、「金光様、お婆さんが、つめとうなっている」とさけんだ(古川この)。それは<4>明六ツ時であった。
 かくて、養母は七十六歳にして、きわめてやすらかにみまかったのである。金光大権現は、かくときくや、ただちに祈念した。神は、
 「一時イットキも祈念をやめることあいならぬ。死人のところへいくことならず。今日から御節供ゴセックじゃから、子どもらに節供をさせい。『病人』にしておけ。夜に、なにかのこと、さしずいたすぞ」
と、さとすのであった。夜にいり、あらためて神意をうかがうと、神は、
 「明日は節供もすむ。<*5>『八ツの葬式』ということがあるからに、八ツから披露いたし、夜にいって仮葬カリホウムリにいたしておき、京都浅吉へ沙汰いたして、同人がかえってきたら、本葬をさするぞ」
とさとした。
 金光大権現は、神のみさとしのごとく、九日夜、養母の仮葬をいとなんだが、檀那寺が、なかなかきてくれぬので、時をついやした。それは、寺が、神葬祭をでも、おこなうのであろう、と臆測したためであった、ということである(小林鎮)。
 この日、あたかも安倉の橋本卯平が、「京へゆく」というて参拝した。金光大権現は、これを幸に、
 「蒔田相模守さまおやしきをたずねてくだされ、浅吉におうて、祖母の葬儀についてのはなしを、いたしてくだされ」
とことづけた。当時、蒔田侯は、蛤御門内新在家警衛をもかねていた(家譜)。
 浅吉は、国家多事の際であったが、特にゆるされて三十日のいとまを得、十月朔日発足して、八日にかえりついた。金光大権現が、このむねを神前に奏すると、神は、浅吉に「当分休息せよ」と命じ、養母の葬儀については、「なにかのことは、この方よりさしずいたすまで、まてい」と沙汰した。

… 本葬の状況

 神は十二日早朝、
 「十三日、養ハ母ハの葬儀をいたせ」と、金光大権現をさとした。この日午後、石之丞は藩庁からかえり、「有志役にめされ、苗字帯刀をゆるされた」とつげるのであった。
 養母の葬儀は、浅吉の喪主のもとに、仏式でいとなまれた。金光大権現は、これが、寺の世話になる最後のこととして礼をあつくし、相当の地位にある僧侶が、多数、式に加わった。追善のためとて、会葬の村人たちをも、ねんごろにもてなした。葬列は、広前から、「本谷西平ニシヒラ」の墓地まで、蜒々としてつづき、葬後のふるまい酒も、にぎやかに、くみかわされた(古川この)。金光大権現は、このとき、寺に、祖先の永代供養料をもおさめ、寺も、死者のために「真峯妙貞禅定尼」の七字戒名をおくり、養父の戒名をも、同時に「円峯清悟信士」を「円峯清悟禅定門」とあらためた。
 かくて、金光大権現は、死者の七日・七日の法事はいうまでもなく、<6>満中陰の仏事をも、十月十九日にとりこして、てあつくいとなみ、二十一日、浅吉を、玉島から海路を京にかえらしめ、あつき神護のもとに、養母、最後の礼をも、とどこおりなく、おわることをえた。金光大権現は、  「兄弟オトドイとも、帯刀で祖母ババのともいたし。にぎにぎしゅう本葬式をおさせなされ。なにごともおくりあわせ、くだされ候」 とて、無上の感激と満足とをおぼえたのである。  養母の死は、すでにしるしたごとく、きわめてやすらかであったが,家人にとっては、まことにあっけないものであった。このことがあって、まもないある日、妻、一子明神は、台所にあって子餅をやき、その二個を、たたきあわせて、灰をはらいながら、養母の霊前にそなえて、「ただの三日でも、わずらわれれば、大切にしてあげられたのに、<7>ごんげもないことであった」
とつぶやくのであった。金光大権現は、祈念のとき、神は、
 「神のおかげで<*8>ほくり往生をさせたのに、ごんげもないという。ながわずらいして、病人も看護人も、こまるのがよいか。それで、平生、『祖母ババにやれ』『祖母にやれ』というて、大切にさせてあるのじゃ。そのようなことをいうなら、その方が、途中で、とって食うておったのか」
と、一子明神を、いましめさとした(高橋沢野)。もって、金光大権現の、養母に奉じた平生の一端が、しのばれるのである。

<1>富枝の実弟 <2>神道無念流
<3>重陽 <4>午前六時
<5>午後二時 <6>仏教にて、死者が次の生を受くるまでの期間四十九日をいう。中有。七七日
<7>「あっけない」の方言 <8>ぽっくり

.. (二一)地方藩主並に藩士の入信

 文久・元治の交、金光大権現の霊徳が、しだいに四方に宣伝せられるにつれて、一時、「流行神ハヤリガミ」のすがたを呈し、その結果、「神の簸かえ」のあったことは、さきにこれをのべた。

… 道の堅実なる伸展

 この「神の簸かえ」によって、道の真実は、かえって地味に堅実に、地方にひろまっていったのであるが、そのあらわれの一は、地方藩士のあいだに、信者が輩出したことである。彼等は、当時の教養ある人々であり、それだけ、道の真実を、よくとらえたのである。

… 岡山藩

 岡山藩士にして、つとに入信したものに、松本与次右衛門・岩藤市三郎等のあったことは、すでに、しるしたところである。藤井きよの(向明神)における<*1>天城の池田家、橋本卯平における岡山の池田家との関係などによって、金光大権現の名は、ある程度、この家々にしられ、霊験談のごときも、かれこれつたえられるようになった。

… 足守藩

 備中<2>足守は木下氏の所領である。津川善右衛門(治雄)は、この地の信者の先駆をなすものであって、父猪右衛門は、藩の御用達をつとめていた。  善右衛門は、二十一歳(安政三)のころ病におかされ、とかく、他と顔をあわせることを、いとうさまであった。あたかも玉島から、その近隣にとついできた婦人から、すすめられて入信し、病も、ようやく軽快におもむいた。  やがて善右衛門は、その婦人のすすめにまかせ、二三の人とともに、玉島まで駕篭を駆り、はじめて金光大権現の広前にもうでた。善右衛門は、そのときの広前の模様を、  「はじめは、神前とて、別にかざりとてはなく、御供物は、ござをしきて畳のうえにならべ、床に、ちいさなる厨子をおきてありたり」 と、かたっているから、これは金光大権現の取次直後たる、万延・文久の交であったと推測せられる。  このころ、足守藩士勅使河原十郎夫妻も、信心していた。この人は、金光大権現のことを、偶然、耳にして入信したのであるが、妻モトは、後、<3>総社の藤沢勇によって熱心な信者となり、そのもとにもうでて、取次をこうものも、しだいにおおくなった。
 かくして、足守藩士のあいだに、信者が、としとともに増加し、藩侯木下利恭トシミツ?も信心するようになった(佐藤範雄)。当時の藩士にして入信したもの、<*4>「上禄の分」に杉原寿男・木下発吉・松浦黙シズカ・勅使河原治夫・瀬川作馬・禰屋庸夫、「中禄の分」に佐良木務、「下禄の分」に垣見武操・杉崎温「卒の上」に田中直三郎、「卒の下」に古川松之助等があり(六条院教会文書)、「上禄の分」に、その数のおおいことが注目せられる。

… 松浦久信の入信

 松浦一太夫は、方位・家相の学にひいでていた。彼が、これ等のことについて、金光大権現を難詰せんとして、かえってその教に承服し、たずさえていた、その道の書籍を献じて信者になったのは、明治維新前後のことであったとおもわれる。
 一太夫は、名を久信とよび、前記、黙シズカの父である。つとに、浪華ナニワの方位家相家松浦東鶏トウケイの門にいり、足守藩郡奉行につとめていた(足守藩座席帳)。
 久信は、はじめ、方位・家相のことをいうにおよばぬ、との金光大権現のことを耳にし、これを怪しからぬこととし、所蔵の書籍をたずさえて金光大権現にまみえ、
 「貴殿は、普請・作事に、方角・日柄をみるにおよばぬ。縁談・縁組に、相性・相剋をえらぶにおよばぬ、とおしえらるるそうであるが、書物にはかくかくとかいてあるが、これは如何にや」
と、なじるのであった。これに対して、金光大権現は、
 「この方は、書物ホンのことは、なにもしらぬが、神さまのおしえのとおりを、理解しておるのである」
とこたえ、やがて、このむねを神前に奏して祈念した。神は、つぎつぎに<5>裁伝をくだして、久信をさとし、神と久信のあいだに、およそ、半日にわたる問答が展開せられた。その裁伝の要旨は、  「氏子、縁談に方角・日柄、相性・相剋をみて、えらぶのは、何のためか。縁がつづきて、壮健マメ・息災で、子孫繁昌を、おもうのであろうが。その方角・日柄、相性・相剋をみて、えらびたる婚礼の祝言が、すむやすまぬで、病気となったり、離縁となったり、死んだりするのは、どういうことなら。この方のおしえのとおりにすれば、縁がつづき、子孫繁昌させてやるが、どうか。普請・作事のことは、さきがながいから、はやくわからぬが、懐妊のことは、はじめから、九月ココノツキか十月トツキかすればわかるが、この方のおしえのとおりにするものは、産前・産後のわずらいは、させぬが、どうか。 また、方角・日柄を、三年もまえから、えらんだうえにも、えらんで建てた普請のあとで、やけたり、家が繁昌せぬようになったり、病人ができたり、人が死んだりするのは、どういうことか。 氏子、元来、大地は、ひとあしふみこむところも、どの方角へむいても、日天子・月天子・金乃神のおらざるところはないが、明年は<6>三年塞フサガリで、大将軍の留守に、『屋敷取ヤシキドリ』をしておくとて、竹をたて、しめなわをはっておるが、大将軍が、めぐりかえりて、わが留守中に、勝手に『屋敷取』をしておるは不埓フラチなり、ととがめたら、どうするか。
暦に『棟上よし』<7>『天赦、よろずよし』とあっても、その棟上の日に、雨、風があったら、今日は不祥なお天気というが、それでも吉日といえるか。日天子・月天子に日の吉凶はないぞ。第一に、氏子、大地の御恩をしらずして、大地に、とがめや、さわりや、わざわいをする神が、めぐるというは、大御無礼ではないか」 というにあった。久信は、  「おそれいりました。ひろい天地に<8>墨・曲尺カネをあて、方角を、にげようとするかんがえは、まちがいで御座る。日々のおてらしに、善悪のあるはずは御座りませぬ。おそれいりました」
と畏服し、たずさえた書籍、「家相図解」二巻・「家相大全」三巻・「方鑑精義大成」二巻・「方鑑斑鳩夜話問答集」二巻を、ことごとく献じたのであった。かくて、久信は、後、「金子大明神」とゆるされるまでに、熱烈な信仰をうるにいたったのである(松浦久信家相書奉献の由来)。

… 庭瀬藩

 地方の藩主にして、熱心な信心をかたむけ、しばしば、足を、金光大権現の広前に、はこんだものに、<9>庭瀬藩板倉勝弘がある。  庭瀬藩に、信心をみちびきいれたのは、御近習キンジュウ弓場ユバ平兵衛であった。平兵衛の入信は、妻の出産が、その機縁であった。妻の出産は、まことに難産であった。胎児の手から、さきにでて、三人の医師も、手のほどこしようがなく、三日のあいだも、ただ、みているばかりであり、母のいのちも、すでにあやうくみえた。平兵衛は、従僕のすすめによって、馬を駆って、金光大権現の広前にもうでて祈念をこうた。神は、  「三日さきに、産をのべてやろう。かえってみい、<10>手はひかせてやる。母オヤ・子無事に安産をさせてやろう。金神の力をうけい」
とさとし、このみさとしのままに、安産することができたのである(高橋富枝)。

 庭瀬の家中で、神号をゆるされたものに、御用人鈴木伝右衛門・外様給人並ナミ取扱内山新兵衛・外様中ナカ小姓コショウ保田数右衛門・同取扱保田健助・御近習弓場平兵衛・御徒士オカチ並ナミ取扱板野兵左右衛門などがあり(神号帳)、「一乃弟子」をゆるされたものに、御オ取次頭ガシラ本多肇ハジメ・外様給人並取扱遠藤嘉兵衛・外様御徒士オカチ小姓守屋孝次・内山徳太郎などがあった(一乃弟子改帳)。

… 板倉勝弘

 藩主板倉勝弘は、道のはなしを弓場平兵衛からつたえきき、おおいに感ずるところがあり、微行して岡山にいで、みずから厨子や献燈の具などを、ととのえかえって奉斎し、夜ふけてのち神前に端坐して、祈念に、ときのうつるのをわすれることがつねであった。近侍をしたがえ、馬上で、しばしば参拝し、ために、広前の門前左側に三つの馬繋ウマツナギがもうけられていた。
 明治元年(一八六八)正月、徳川慶喜の兵が、伏見・鳥羽にやぶれて東走し、これにしたごうたものは、ことごとく官位をうばわれ、朝敵の汚名をこうむるにいたった。庭瀬板倉氏の本家、<*11>松山藩板倉氏が、当時の幕府老中として、その咎をうけたことは、いうまでもない。
 朝廷は、岡山侯池田茂政モチマサをして、松山の城地を没収せしめるとともに、隣藩の向背をとわしめた。庭瀬藩は、もとより徳川氏の譜代として、きわめて苦境にたたしめられ、その進退には、きわめて微妙なものがあったのである。その向背をただすため、岡山藩兵は、すでに庭瀬の東「平野口」にせまっていた。勝弘は、急使を金光大権現の広前にたてて、如何に処すべきかを、うかがわしめ、これによって勝弘は、機宜をあやまたずして、朝敵の汚名をまぬがれ、家宝の槍を献じて神恩に報ずるところがあった(佐藤範雄)。侯の夫人も、帰国をゆるされて後、したしく参拝し、信心の門にいっていた(高橋富枝)。

 以上のほか、地方の藩士としては、福山・浅尾・<*12>岡田などにも信者があったが、特にしるすべきものはない。

<1>児島郡 <2>現吉備郡
<3>現吉備郡 <4>明治四年廃藩置県の際、政府に提出せし「士族名簿」の区分
<5>金光大権現祈念の間、神より「裁定して伝うる教」の謂 <6>大将軍方、三年にして居をうつすがゆえにこの称あり
<7>陰陽家の極上の吉日とする日。天赦日 <8>墨縄、測量の意
<9>現都窪郡。はじめ二万七千石を領し、後、二万石となる <10>胎児の手
<11>現上房郡高梁町。当時の藩主勝静(かつきよ) <12>現吉備郡

.. (二二)神の一礼

… 神の一礼

 慶応三年(一八六七)十一月二十四日早々、神は、
 「一、日天四(子)の下にすみ(む)人間は、神の氏子、身上に<1>いたが・病気あっては、家業できがたなし。身上安全願い、家業出精、五穀成就、牛・馬にいたるまで、氏子、身上のこと、なんなりとも、実意をもって願い(え)。 一、月天四(子)のひれい。<2>子どもこ、そだてかたのこと、おやの心。<*3>月ののびたのを、ながすこと、すえのなんあり。こころ実意をもって神を願み(頼め)。なんなく、あんしんのこと。

… 神名あらたまる

一、日天四(子)・月天四(子)・鬼門金乃神取次、金光大権現のひれいをもって、神のたすかり、氏子のなんなし。あんしんの道おしえ、いよいよ当年までで、神の願(頼)はじめから、十一箇年に相成候。金光大権現、これより神にもちえ(う)。
三神、天地神のひれいが、みえだした。かたじけなく(し)。金光、神が一礼申(す)。以後のため」
と、金光大権現につたえるところがあった。
 ここに、「神の願はじめから、十一箇年に相成候」とは、すぐる安政四年(一八五七)十月十三日、弟繁右衛門によって、建築入用を、神よりたのむところのあったことを、意味するものと解せられる。
 ここに、「日天四・月天四・鬼門金乃神」とは、当時の金光大権現の信心の対象を、しめすものであって、いままで、「金神」ととなえ、「金乃神」ととなえていたのに比して、その信心が、一段と展開したことを、しめすものである。神名が、いつのころから、かくあらためられたか、ということはあきらかでない。

<1>痛処 <2>「子どもこ」の「こ」は接尾語
<*3>「月ののびた」は妊娠のことなるべく、人工流産の誡

.. (二三)祭日の制定

… 神祭日 金光大神祭日

 金光大権現は、後年、
 「金光大神の祭日は、十日ということに、神さまから、さだめい、とおおせられ、二十二日は金乃神・二十三日は月乃神・二十四日は日天子さまの祭日にせい、とおっしゃるのじゃ」
とかたり(佐藤光治郎)、また、「金光大神の祭日は、九日・十日じゃから、十日・十日のおかげをうけいよう」
ともさとした(森政謙吉)。

… 祭日の起源

 これ等の祭日は、いつのころから、はじめられたであろうか。金光大権現が、神名をしるして信者にさずけたもののなかに、「金光大権現」という神号の肩に、祭日をかきいれたものと、そうでないものとの二様がある。祭日を、かきいれるようになったのは、およそ慶応三年(一八六七)と推定せられる。これを裏書するものは、金光萩雄のつぎの談話である。それは、

… 日本休

 「九月二十二日を祭としておけば、『日本休ニホンヤスミ』ということになり、都合よし、ということにてありしが、天長節ができて、それをふれ来れり。天長節のさだまりし前年より、さだめられて、祭ありたり」
というのである。天長節は、明治元年(一八六八)八月二十六日、太政官布達によって、九月二十二日とさだめられ、後、太陽暦、十一月三日にあらためられたのである。慶応三年九月二十二日、石之丞の病気に際し、金光大権現の、家族をいましめた言葉のなかにも、「年に一度の祭に」とあり、かれこれ綜合して、前述のごとくに、かんがえられる。
 みぎの談話は、神祭日に関するものであるが、金光大神の祭日も、これと同時に制定せられたものであることは、前述の、神号に、祭日の記入せられたもののあることによって、推定することができるのである。
 明治二年(一八六九)三月十五日、神は、
 「当年より、せんぞのまつり、まい年九月九日・十日に、身内・親るいこの方へまいらせい」
と金光大神をさとした。このことによって、金光大神祭も、九月のその日が、いわゆる「年一度の祭」であることが、うかがわれるのである。

… 神祭当日の状況

 当時は、祭日とて、別段、儀式がおこなわれたものでなく、単に祭日として、拝礼するにすぎなかったようである。参拝者も、この日は、つねよりおおくあつまり、取次の記帳のごときも、世話人が、かわってつとめるほどであったが、明治六年(一八七三)、神勤さしとめのことがあってからは、この形勢は一変して、祭日とて、つねの日と、ほとんどかわりがなかったようである。
 その当時の祭日の模様をあげると、明治七年(一八七四)九月二十二日(旧暦)の祭について、二十日(同上)早々、神は、
 「御まつり、あんしん。<1>平生のとおりでよし。御広前粗煤アラズス払ハライ・散銭サンセン櫃ビツ両側リョウヒラへ、<2>手燭テショクとぼし、あがりはなの上へ、提燈二はりとぼし、幟、一本もたてな」
とさとし、そして金光大神は、
 「おおせどおりに仕候。世話方きもせず。もっとも<3>巳の年八右衛門、夜にまいり、じきにかいり。外へは<4>谷中の若葉・胡麻屋講中提燈とぼしあげ。二十一日夜。ごまやには、二十三日夜も、御オン燈トボシ上アゲ。先センより、まい年のこと」
と、その前後の模様をしるしている。
 さらに、翌、明治八年九月二十二日(旧暦)の祭についても、神は、二十日(同上)早々に、
 「祭、平生のとおり。二十三日の夜、<5>うむしいたし、隣家よび(べ)。紋附羽織着い」 とさとした。そして金光大神は、「二十一日夜、散銭櫃のそばへ、大蝋燭一本たて。二十四日、<6>川手戸長・津の小野氏・この附近マワリへ御餅やり。使、<*7>宅」
と、その前後の模様をしるしている。

… 金光大神祭当日の状況

 さらに、金光大神祭の模様は、どうであったか。明治四年(一八七一)度のを、金光大神は、
 「九月九日・十日、まつりおおせつけられ。幟、大小四本たて、おもてへ提燈六はり、<8>新ざすきおもてへ二はりともし、大蝋燭ともし、御餅いたし」 と、しるしているが、こえて明治七年度のそれは、  「提燈一はりもとぼさず。例の客<9>だきいたし」
とあるのみである。「例の客」とは、さきに明治二年三月十五日の「身内・親類、この方へまいらせ」との神のみさとしによる人々をいうのである。さきの明治四年の記事とくらべてみて、明治七年のは、なんとなく、さびしさが感ぜられる。以上の記録によって、当時の祭日の大体を、うかがうことができる。

… 金光大神祭の意義

 金光大神祭のことにつき、備前邑久郡<10>土師ハジの人、市村光五郎は、  「金光さま御縁日は、九日・十日とのことにて、それでは、金毘羅さまのとおなじでありますから、おかえになりましては、いかがでありましょうか、と申ししに、…私からかえることはできぬとこたえたりと御話ありたり。自分も、九日・十日のおまつりは、<11>旧でいたしましょうか。<*12>新でいたしましょうか、とうかがいしに、それは、どちらでもよい。これは、恩をわすれぬまでのものじゃから、まあ、『親の法事』というようなものじゃ。それさえおぼえておれば、わすれることはない、とおおせられたり」
と語っている。金光大神祭の意義を、しめすものであろう。

<1>平日 <2>手に持つ燭台
<3>森田八右衛門 <4>「本谷」の若連中および占見新田「胡麻屋」講中の献燈のこと
<5>「むす」の方言。蒸物のこと。赤飯 <6>川手堰
<7>金光宅吉 <8>「ざすき」は「ざしき」の訛。東長屋のこと
<9>「だけ」の方言 <10>現国府村
<11>旧暦 <12>新暦

.. (二四)明治維新の国是と金光大神

… 明治維新の国是

 「旧来ノ陋習ヲ破リ、天地ノ公道ニ基クヘシ」(五箇条御誓文)ということを、国是の一とした明治維新の精神は、これまでの世俗の信仰から蝉脱し、天地本然の道を、道とする金光大神の精神と、一脈、あい通ずるところのものであった。
 この義を、白神新一郎は、
 「文明開化御一新の御規則同然たる、前代未聞、初めて開けし、旧習の事を廃し、天が下、無二広大の天地金乃神大御神様御道。決して加持・祈祷・まじないと云ふ事なく、寄進・勧化・無心筋ムシンスジ・貪欲がましき事を禁じ。不浄・穢といふ事なし。年廻り・月柄・日柄・御方角の善悪に不及オヨバズ、普請・作事・宅替・縁談等、御願申て可為勝手次第。何病気にても、毒いみ・毒養生なし。御祓・経文など、知る事に及ばず。唯、天地の御厚恩を知りて、是までの御無礼御詫辞オワビゴト申て、正直・信マコト一心を以て…」
とといている(御拝文前書)。

… 生神金光大神とゆるさる

 明治元年(五十五歳、一八六八)、七月二十七日、神は、
 「<1>辰歳より丑歳まで、十箇年さき、和賀身のすがたをみよ。すえのため」 と金光大権現をさとした。ついで九月二十四日、神は、その神号を「生神金光大神」とあらたにゆるした。この日、神は、さらに、  「天下太平・諸国成就・<2>総氏子身上安全ののぼりそめてたて、日々きねんいたし(せ)」
と金光大神をさとし、この日また、『神号帳』をあらたにつくらしめ、
 「名前かきつけ、新の氏子には、神号とめい」
とさとして、これまで、神号をゆるされていたものの名を、これにしるさしめるとともに、以後、あらたにこれをゆるすことをとどめた。

… 天地の神と同根なり

 明治三年(五十七歳、一八七〇)十月二十六日、神は、
 「日天四(子)・月天四(子)・丑寅未申鬼門金乃神社、生神金光大神社、当年、十三年に相成。辛抱いたし、神徳をもって、<*3>天地の神と、どうこんなり。(六根の御はらい・しんぎょう御よみなされ)金光大神社の口で、天地乃神が御礼申(す)。このうえもなし」
と、かさねて、てあつい神意を、金光大神につたえた。

 ここに、「当年十三年に相成」とは、すぐる安政五年九月、「金神がおしえするのじゃ」とて、「金神の一乃弟子」として、「もらいうけ」のことがあってからのことを意味する。このことがあってからこのかたの金光大神が、よく神意を奉じて、かつておこたることなく、きびしい神の試煉にもたえ、けわしい世の批判をもしのんで、ひたすら精進して、いまや、天地の神髄にあいふれ、あいかようにいたったことを、神は、かく讃嘆するのであった。

<1>「辰歳」明治元年、「丑歳」同十年 <2>すべての人間
<*3>六根清浄祓の中の語

.. (二五)神主の職をうしなう

… 苗字帯刀をゆるさる

 金光大神の身分は、元治元年(一八六四)四月、神拝許状をえたことにより、さらに慶応三年(一八六七)二月、神主職に補せられたことによって、一応の安定をえ、浅尾藩も、慶応三年三月十一日、苗字帯刀をゆるすところがあった(永代御用記)。

… 神仏判然令の影響

 さらに、村方にあっては、これまで寂光院の所管カマイであった、氏神はじめ、所々の叢祠ホコラの奉仕が、明治元年(一八六八)三月二十八日の「神仏判然令」によって、神職にうつることとなり、その結果、明治二年(一八六九)七月、金光大神は、神職神田筑前とともに、一旦、このことにあずかるの、やむなきこととなったが、この年九月、須恵村の神職原田弥九郎に、これをゆずることとなった。しかるに村民等は、原田など他村のものに、わが村の神事を、まかせることはできぬとして、紛糾をきわめ、金光大神も、その渦中に投ぜられようとしたが、明治五年(一八七二)二月七日、結局、原田弥九郎におちつくこととなって、金光大神は、その煩累ワズライからのがれることができた(寂光院文書、小野家文書)。

… 神主職廃せらる

 これよりさき、政府は、神官の世襲・叙爵など、旧来の因習をあらため、神社制度を確立するために、明治四年(一八七一)五月十四日、「神官職員規則」を公布し、これまでの神職を一応解任したうえで、あらためて任用することとした。

… 神勤を禁ぜらる

 ここにおいて、金光大神も、この年十月十五日、「神職ヲ廃セラレ候。但、神勤ノ儀ハ是迄ノ通タルベシ」との<1>浅尾県の沙汰に接し、ついで、翌、五年(一八七二)十一月二十六日、「神勤ヲ廃セラル」との<2>小田県の達により、ここに、ふたたび、従前の無資格の身となり、爾後、その神勤に対する官憲の取締きびしく、信者等も、やすんじて、その取次をうけることができぬようになった。

… 金光大神の自重

 「きれず、まがらず」、ひたすら、時の趨勢に、したがうことを念とした金光大神は、この制度のうつりかわりにあたり、自重をこととして、いたずらに、官憲との摩擦をおこすことなきように、とこころした。
 この態度を、裏書するものとして、明治四年(一八七一)二月三日の、神のみさとしを、あげることができる。すなわち、
 「広前六角畳をとりあげる。先セン、こえ・はいとめたが、<3>未の十月より、当年、としのまわり十三年なり。いままで、たびたびの不時・難をうけ。またも、どのような不時あっても、<4>苦世話にすな」
とあった。「六角畳」というのは、神前祈念の座のことである。すなわち、畳半畳を六角型にしたものであって、厚味も、畳と同様であるから、これにすわれば、普通の座よりも、一段たかくなるのである。これを徹することは、祈念の座が、ひくくなることを意味するのであって、そこに、つつしみのこころが、みられるのである。「またも、どのような不時があっても」ということは、まさに、きたらんとする事件を、予想せしめるものであって、神は、これに対する金光大神のこころがまえを、さとしたのである。

… 悪評たつ

 はたして金光大神に関する、あられもない悪評が、人々の口の端ハに、のぼるようになった。それは、
 「金光大神が、出社のものらと結託して、強盗オシカケをはたらく」
ということであった。
 明治四年(五十八歳、一八七一)四月六日、高橋藤吉夫妻が参拝して、はじめて、このうわさのことを、金光大神につげるのであったが、金光大神は、
 「この方には、なんにもしらぬ」
とこれにこたえた。事実、大谷村では、このときには、まだ何等のうわさも、なかったようである。

… 浅尾藩の検察

 ところが、しだいに、このうわさが、村内にもつたえられるようになり、参拝者は、一段と、まばらになっていった。このうわさは、やがて浅尾藩をうごかすこととなり、副司郡兼社寺司補寺尾只一は、その事実の検察にかかったが、事態は、もとよりあきらかである。彼は、ある日、金光大神をおとずれて、
 「どこできいても、なんのこともなし。なにをいうも、みなうそなり。…<*5>こなたのが実意じゃから、人がなんというても、別条なし」といい、蒔田家にかつておこった、無実の訴訟沙汰などをも、ものがたって、かえって、金光大神をなぐさめる始末であった。

… 笠岡金光大神再度官憲の忌諱にふる

 この噂の、きえやらぬ明治五年(一八七二)七月、笠岡金光大神が、またもや官憲の忌諱にふれ、あやうく拘禁の身となろうとした。すなわち、他地方からまいる信者等が、ひきもきらず、笠岡の港に船をよせるのが、官憲の眼にふれることとなったためである。笠岡金光大神も、一旦は、こころにふかく決するところがあり、遺書まで、したためたのであるが、さすがに、この前のことなどをもおもいあわせ、いたずらに事をこのむの愚を、ふたたびしてはならぬ、とて、みずからすすんで、自粛すべきむねを申出て、さいわいにも、事なきをえた(笠岡教会)。しかしながら、この事も、また悪宣伝のたねとなり、いまにも金光大神が、縛につくかのごとくに、とり沙汰せられるのであった(高橋富枝)。
 この事態のなかにあって、金光大神は、かねての神のみさとしを体し、その心境には、なにの動揺をもみなかったのである。

<1>明治四年七月十五日廃藩置県 <2>明治五年六月新設
<3>安政六年 <4>「世話」は「心配」の方言
<*5>金光大神のこと

.. (二六)改暦と金神社

… 改暦の詔

 明治五年(一八七二)十一月九日、改暦の詔が渙発せられ、その年十二月三日を、明治六年(一八七三)一月一日とさだめられることとなった。すなわち、
朕惟フニ我邦通行ノ暦タル、<*1>太陰の朔望ヲ以テ月ヲ立テ、太陽ノ躔度ニ合ス。故ニ、二三年間、必ス閏月ヲ置カサルヲ得ス。置閏ノ前後、時ニ季候ノ早晩アリ、終ニ推歩ノ差ヲ生スルニ至ル。殊ニ、中下段ニ掲ル所ノ如キハ、率ネ妄誕無稽ニ属シ、人知ノ開達ヲ妨ルモノ少シトセス。蓋シ、太陽暦ハ、太陽ノ躔度ニ従テ月ヲ立ツ。日子、多少ノ異アリト雖モ、季候早晩ノ変ナク、四歳毎ニ一日ノ閏ヲ置キ、七千年ノ後、僅ニ一日ノ差ヲ生スルニ過キス。之ヲ太陰暦ニ比スレハ、最モ精密ニシテ、其便不便モ、固リ論ヲ俟タサルナリ。依テ、自今、旧暦ヲ廃シ太陽暦ヲ用ヒ、天下、永世、之ヲ遵行セシメン。百官有司、其レ斯旨ヲ体セヨ。
 明治五年壬申十一月九日
というのである(太政官日誌)。

… 太政官布告

 この日、太政官は、
今般、太陰暦ヲ廃シ、太陽暦御頒行相成候ニ付、来ル十二月三日ヲ以テ、明治六年一月一日ト被定候事。
 但、新暦鏤板ロウバン出来次第、頒布候事。
と布告し、ついで同年十一月二十四日、
今般太陽暦御頒行ニ付、来明治六年限、各地方ニ於テ略暦板刻被差許候条、出板販売致度者ハ、草稿ヲ以テ其管轄庁へ願出、許可受事。
但、略暦ハ御頒行太陽暦ヲ標準ト可致、旧暦中、歳徳・金神・日ノ善悪ヲ始メ、中下段中掲載、不稽ノ説等、増補致候儀、一切不相成候事。
と布告した(太政官日誌)。

… 金光大神取次の裏づけ

 改暦の詔の渙発は、まことに、上古以来、わが国上下を、まどわせてきた、かの、いわゆる陰陽道の迷妄を一掃するにたるものであり、その迷妄の脱却を、多年、説ききたった金光大神の教義を、裏づけする所以のものであった。従来、修験の徒が、金光大神をもって公の暦書を非議する一種の反逆者であるとして、これに、くわえつつあった批難も、ここに、その根拠をうしなうこととなり、金光大神は、いまこそ、なんのはばかるところもなく、その所信を宣べ得る時運に、あうこととなったのである。
 金光大神は、あらたに頒行せられた暦本を神前にすすめて、この旨を感謝した。しかしながら、方位・日柄を、えらぶことをもって、処世の唯一のたよりとしてきた一般民衆はたちまちにして、そのこころのよりどころをうしない、茫然自失するのほかはなかったのである。金光大神は、これ等の民衆に対して、いよいよ天地の神徳をときおしえるとともに、「今月今日で一心に頼め、おかげは和賀心にあり」と、その日常のこころがまえを、みちびきさとすのであった(浅野喜十郎、佐藤範雄)。

… 金神社存立の基礎を失う

 金光大神が、神主職をうしのうたことは、すでにこれを述べたが、ここにいたって、社殿建立の途上にあった「金神社」も、その存立の基礎を、うしなうこととなったのは、自然のなりゆきであった。

… 棟梁の解雇

 一方、元治元年(一八六四)正月朔日の、神のみさとしによる社殿建立の工事は、すでにしるしたごとく、棟梁の所行に、神意に、そわぬものがあって、はやくも神は、この事の成就せぬことを警告したのであった。
 明治元年(一八六八)四月三日早朝、神はさらに、
 「棟梁、神の恩しらずゆえ、神がいとまをだし(す)。御上に対し、さきへ建築をのべることを申上げて一区切りつけよ」
とさとすところがあった。
 棟梁元右衛門は、工事開始とともに、妻子をつれて、広前門納屋の一室に起居していたのであるが、金光大神は、この神のみさとしにさきだち、三月、はやくも宿にかえらせていたもののごとく、四月八日、占見新田「胡麻屋」の信者、浅野喜十郎をたのみ、米一俵をつかわし、
 「道具をとりにこい」
とつげしめた。こえて十日、神も、金光大神に、
 「荷物を、もってかえらせい」
と命ずるのであった。
 元右衛門は、進退に窮したもののごとく、その月十六日、藤井きよのをはじめ、世話人川手保兵・森田八右衛門等に、
 「金光大神さまに、神さまへの、おことわりの取次をしてくださるように、おほねおりをねがいます」と懇請するのであった。これ等三人は、その懇請をいれて、金光大神に取次をこうたが、神は、
 「金光、ねがうな、かなわぬ。金神気ざわり。荷物をもってかえらせい」
とて、儼ゲンとしてこれをしりぞけた。元右衛門も、ついに、やむなく、翌、十七日、大工道具はもとより、すべての持物をたずさえてひきとった。そのひきとるときに、神は、
 「七月分も、<2>盆のうちだけは、作事料を<3>たってやる。借金があれば申出よ。はろうてやる。途中で、ひまをだすのであるから、さしつかえないようにしてやる。と世話方両人へ申渡せよ」
ともさとした。まことに、恩威かねそなわった神意である。

… 社殿建築の願

 かくて、明治二年(一八六九)三月十七日早朝、神は、
 「建築のことは、神がさしずいたすまで、まてい。もっとも、ほか<4>信者氏子が<5>『してあげます』と申すことは、とめ申さず」
とさとしたが、はたして五月二十五日、岡山出社、信者氏子らが参詣して、
 「御建築、御延引に相成、してあげましょう」
と、金光大神に申しでるとともに、藤井駒次郎の宅にたちより、種々協議するところがあった。
 それかあらぬか、七月十一日、笠岡金光大神・玉島小谷清蔵らから、あらためて、「御建築の儀」を金光大神に申しすすめるところがあった。金光大神は、このむねを、神前に取次いだが、
 「神は、どちらと申さず、総方へまかせる」
と、これにこたえた。

 ここにおいて、笠岡金光大神は、この年(明治二)九月十日をえらび、元右衛門をよびよせて理解をくわえ、笠岡出社、棟梁、高井谷五郎を客分として、ともに事にあずからせることとし、
一、諸入用は、明細につけたてること。
一、作事料は、月勘定とすること。
一、<6>手次大工は、追々シダイにたのむこと。 一、年末セッキは、二十日限キリに大工をいなすこと。 などをさだめ、この日、あらためて釿始式チョウナハジメをした。笠岡出社の信者斎藤友右衛門・同林右衛門等は、樽・肴をそなえて、これを祝うた。  しかるに、明治四年(一八七一)五月二十四日、神は、  「棟梁、はらわたくさり、建築成就せず」 とかさねて警告し、ついで十二月十一日、その内容をあきらかにし、  「棟梁、はらわたくさりた、とは<7>橋本同行、人に催促うけ、うそを申し。『棟梁さま』と人にいわれて、夫婦とも実意がなし。<8>神のひれいがなし。金光をにだしにいたし、<9>氏子をだまし、何百両の金子をかり。神は<10>氏子かわいさゆえ、神もたちいき、とおもうて、<11>ひれいをもたせ。わがちからとおもうて、仔細らしゅうに、諸方ホウボウあるき。金光大神社の恩をしらず、<*12>はや一年たち、一礼もいたさず。神は承知。金光と申しても生神じゃ。めさきで、ものをいわねばなんにもしらぬ。金光あっての神。神がしらせねば、しらず。天地金乃神も気ざわり。金光大神社に、しらせおき(く)」と金光大神をさとした。

… 社殿ついに成就せず

 棟梁等の不始末に対して、かかる神の警告のあったことをしらぬ地方の信者氏子等は、きおいたって、社地などにつき、かれこれ、評議をこらしていたものとみえて、神は、その年(明治四)十二月二十四日、
 「氏子等は、<13>『辻の畑』の地に御屋敷をいたす、というて、建築の<14>地形ジギョウをはじめるなどと、評議してくれているようであるが、世話方をたのみ、その地所を拓くことは、まず、まつようにつたえてくれ」
と金光大神をさとして、これをおさえ、ついで明治五年(一八七二)二月十四日、
 「棟梁、棟上することなし。この方建築でなし。正真ショウジン、まぎらかしにさせ。こころあらためたら、成就しようか」
とも警告した。
 これは、ことばが簡単であって、解釈にくるしむが、その大意は、
 「棟梁、棟上をすることなかれ。棟梁等の、はらわたのくさった所行によって、神意にそわぬものとなり、神の建築ということはできぬ。ほんとうに、なんのためのことか、わけのわからぬことに、してしもうた。こころをあらためたならば、神の建築として成就するかもしれぬが」
ということであろうか。
 こえて、この年(明治五)八月十八日、神は、
 「宮をたつ屋敷は、この方にきまり」と金光大神をさとした。「この方」とは、当時の広前屋敷のことである。金光大神は、この神のみさとしを奉じて、当時の広前の南庭中央に、夜間、みずから、「心杭シンクイ」を地中ふかくにうちこみ、これを社殿の中心とさだめ、そのしるしとして、高橋富枝から献納した。ながさ一間ばかりの割石を四方にならべた(佐藤範雄)。
 それにもかかわらず、社地は、その後にいたって「辻の畑」とさだめられることとなった。それは、当時の広前のすぐ西下に川手某所有の田があって、
 「いまの屋敷に宮をたてられては、下のわが田地に、瓦一枚、藁一本おとしても、承知せぬ」
と故障を申出で、しいて、同人所有の「辻の畑」を、当時の地価の五倍で、かいとらせたのである。かかる事情のもとに、この地は、いたく神意にそわなかった。そのころのある日、佐藤範雄は、高橋富枝とともに参拝して、建築の資を献じて、すみやかに、その成就を祈願した。そのときの裁伝に、
 「よし建築ができても、この方は、ここをうごかぬ。上にはあがらぬ。あがれば<15>倅である」 とあったということである(佐藤範雄)。  金光大神取次の広前造営のことは、もとより神意にでたものであったが、如上、幾多、神意にそわぬことがおこり、準備も、ほとんど、ととのうていたにかかわらず、ついに、成就をみることができなかった。  されば、当時、社殿屋根の料にと、信者氏子の献納した桧皮なども、ひさしく門脇につみかさねられ(藤井しげの)、腐朽するにまかせ(森ノブ)門外、南がわに、もうけられた大工小屋・木挽小屋なども、あれるにまかせた(和田安兵衛)。  明治七年(一八七四)八月九日、神は、  「建築小屋、そのほかの<16>屋替ヤガエのこと、三年まてい。人がすすめても、『神さまへ、おねがい申してみましょう』と申しておくがよい。たとえ、破壊メゲてもくさりても、大事なし。『何事も、神にうかごうてから』と申しておけ」
 と金光大神をさとしたが、こえて、その月二十一日、颱風のために、これ等のものは、ことごとく屋根をはぎとられた。このとき神は、
 「そのままにすておけ。屋根からとびちったものは、とりおさめて<*17>風呂木にいたせ。屋根をふく料にとては、ひとに藁一把ももらうな。ひとが『あげましょう』というてもってくるものはおさめて、ためておけ。『とりにこい。やろうぞ』というひとのところへは、もらいにゆくな。破壊メゲようと、くさろうとまま。三年さきをたのしめ」
とさとした。後、明治十八年(一八八五)七月のころ、これ等のものは、全部撤去せられたのである(藤井恒治郎)。
 不浄・不正をいむ、金光大神のきびしい態度は、やがて、その生活全般に通ずるものであったが、この社殿造営に関する経緯は、その一端をうかがうにたる、最も、いちじるしいものである。

<1>月球 <2>孟蘭盆のすむまで
<3>もと建値のことなるが、ここは「支給をとりはからう」などに転用せしいいざま <4>総氏子に対する称
<5>この地方の人のいいざま <6>臨時手伝
<7>橋本卯平のこと。「同行」とは、「同様」の慣用語にて、ここは共謀の意か <8>神威を失う
<9>事実未詳 <10>棟梁等のこと
<11>棟梁に体面をもたせ <12>何を意味するか未詳
<13>広前東側山上の称 <14>基礎工事
<15>金光萩雄 <16>屋根替
<*17>風呂たきの料

.. (二七)神前撤去の命

… 神の警告

 明治六年(六十歳、一八七三)一月十五日、神は、
 「このうえは、なにが、また、かわらんと(いうこと)もなし。氏子、こころでよきことになり(る)、とかきつけいたし、家内中へ、申してわたせ」
と、金光大神をさとすところがあった。こえて二月十七日、家族のひとりが、小田県の触書フレガキについての、世間の取沙汰を耳にしてかえり、「神職がたちゆかぬ」など、かたりおうて、気づかうのであった。これに対して神は、
 「天地乃神とは、日天四(子)・月天四(子)・丑寅未申鬼門金乃神のこと。家内中、神のことをわすれな。なにごとあっても、人を願(頼)事すな。よし・あししことも、神まかせにいたせい。心配すな。世はかわり(る)もの、五年の辛抱いたし(せ)。とにかく、家内ウチワ、機嫌ようにいたせい。言遣モノイイでも『あなた』『こなた』と申して(すが)よし。なにごとも<*1>あざ(だ)ぐち申すな」
と、さとすところがあった。ここに「天地乃神とは」とて、その内容を、最初にときしめしたことは、金光大神のおしえる神信心と、「小田県触書」の指摘しているところのものと、おのずから、そのおもむきをことにしているのであるから、心配するにおよばぬ、との神意とおもわれるのである。

… 小田県の触達

 いわゆる「小田県触書」が、いかなるものであろうか。「神職たたぬ」ということに該当するものとしては、明治五年十一月に小田県権令、矢野光儀が発した布達が、かんがえられる。これは、明治四年五月十四日の太政官布告にもとづいて、小田県下の神官補任をおこなうべく、従来のすべての神官を罷免するということを達した布達で、その本文の一部を示せば、次のとおりである。
神社之儀ハ国家之宗祀ニテ、一人一家之私有スベキニ非ル勿論ノ事ニ候処、中古以来、大道ノ陵夷ニ随ヒ、神官ノ輩中ニハ、神世相伝由緒ノ向モ有之候得共、多クハ一時補任ノ社職其侭沿襲致シ、或ハ領家地頭世変ニ因リ、終ニ一社ノ執務致居リ、其余村邑小祠ノ社家等ニ至ル迄総テ世襲ト相成リ、社入ヲ以テ家禄ト為シ、一己ノ私有ト相心得候儀、天下一般ノ積習ニテ、神官ハ自然士民ノ別種ト相成、祭政一致ノ御政体ニ相悖リ、其弊害不少候ニ付、御改正被為在、伊勢両宮世襲ノ神官ヲ始、天下大小ノ神官社家ニ至ル迄精撰補任可致旨、辛未五月被仰出候通ニ付、従来ノ神官社家総テ相廃、今般更ニ祠官祠掌別紙之通申付候条、此段相達候事
 壬申十一月
これに、いろいろの臆測・風説がからまって、この憂慮となったものであろうか。

… 神前撤去の口達

 神は、さきに「このうえは、なにが、また、かわらんと(いうこと)もなし」といましめるところがあったが、はたして二月十八日、戸長川手堰は、金光萩雄をよびだして、「神のまえを、かたづけよ」
と命じた。
 金光大神は、この沙汰に接して、ただちに神前のとりかたづけにかかり、<*2>午後バン七ツ時、これを完了して、そのむねを五男宅吉(虎吉)に、とどけさせ、ここに広前は、荒涼たる「あれの亡所」になりはてた。この戸長の口達が、なんの根拠にもとづくものであるか、あきらかでないが、のちにしるす戸長の口吻などから、それは、当時の、神社整理に関するものではなかったろうか。

… 神の慰諭

 かくて、金光大神は、二月十九日から、広前をしりぞいた。神は、
 「ちからおとさず、休息いたせ」
と慰諭し、ついで三月十三日、
 「金光、うまれかわり、十年ぶりに風呂へいれ」
とて、元治元年(一八六四)六月十日以来の禁をとき、ひさかたぶりに入浴せしめた。
 金光大神は、この「うまれかわり」とあるみさとしを、そのままにうけて、みずからの生年ウマレドシを「<*3>酉之歳生ウマレ一歳」とした。これは、身もこころも、ともに、その更生を期したものと、かんがえられるのである。

… むかえ湯

 ついで三月二十九日、神は、
 「むかえ湯、風呂へいれ」
とて、再度の入浴をさとし、ついで、
 「以後は、風呂へいることならず。寿命長久いたせ(す)ために」とさとした。「<4>むかえ湯」とは、さきの日の入浴に対応する、いいざまであろうか。金光大神は、この日の入浴を最後として、世をおわるまで、ついに、また入浴のことがなかったのである。  金光大神は、神前撤去ののちは、つねに、ひかえの間(納戸)にあって、こころしずかに、祈念の生活をおくっていた。それと同時に、妻が、<5>糸車などをたずさえて、<*6>中の間にいで、かくとはしらずして、地方から参拝するものの、ねがいごとをきき、これを金光大神につたえ(藤井きよの)、そして、そのものに、
 「ここまで、まいってこぬでもよい。自分のうちで信心なされよ。朝夕の取次だけは、してあげる」
など、いいきかせるのであった(高橋富枝)。
 三月十五日、神は、
 「『天地金乃神・生神金光大神。一心ニ願ネガエ、おかげは和賀心ワガココロにあり』という書附いたせい」
と金光大神をさとした。これは、のちにしるすごとく、四月十一日になって、その内容が、あらためられた。

… 戸長の内達

 とかくするうちに、三月二十日になった。この日、世話人森田八右衛門が広前をおとずれて、
 「金神さまお厨子をだし、内々ナイナイ、おとどけ申上げるように、と川手戸長から申附けられた」
とつげた。家族は、これをきいて、愁眉をひらき、よろこびあうのであったが、金光大神は、
 「内々ではいたしませぬ。御上さま御役場へ、御心配かけては、あいすみませぬ」
とて、これに応じようとは、せぬのであった。八右衛門は、意外なこの態度を、いぶかりながら、ひきかえして、
 「金光は、内々では不安シンパイなから、おがまぬ、と申しまする」
と戸長につげた。戸長はこれをきいて、
 「あんまり、金光は、丁寧すぎてどうもならぬ」
とつぶやき、
 「はじめ禁トめたも私ワシ。おがめいというも私ワシ。御上オカミも、はじめのほどは、きびしゅう申附けられ、小祠コミヤどもは、とりはらいになろうか、とおもうほどであったが、また、すこしは<7>御裕ゴユウになり、<8>おひざもとの<*9>大仙院や稲荷社では、建築もでき、おがみおるのに、金神さまでは、人がまいってきても、おがんでやられぬから、みな、ちからをおとしてかえるときく。なにも、わるいことを、するのではなし。人がたすかることじゃ。
また、なんとか、懸念シンパイになることがあるようなら、いずれ、この方へ、沙汰のあることであるから、なにごとでも、すぐに申してやるから、心配はない。おがみがかりになっておるものを、うちきって、あとで、また新規にねがいだすことになると、ほねがおれて、容易なことではない」
とねんごろに、八右衛門につたえ、金光大神も、
 「さようならば」
と得心した。この日、世話人川手保平も、
 「万一の場合は、私があなたのおみがわりにたってあげます。御心配を、おかけ申しませぬ」と進言した。金光大神も、
 「私も、『氏子たすけ』にでるからは、あなたがた、みなさまへ御厄介かけては、あいすみませぬ」
とこれにこたえ、翌、二十一日、もとのように厨子を奉斎し、使をもって、そのよしを戸長にとどけ、三月二十二日から、袴をつけて、つねのごとく取次にしたがうこととなった。この間、広前をひくこと、あたかも三十一日であった。金光大神は、このたびのことについて、
 「御上へでても、実意をたてぬき候」
と、しるしている。

<1>根拠のないことを、口軽くあれこれいうこと <2>午後四時
<3>明治六年 <4>「迎酒」「迎温泉」などと同趣の言様なるべし
<5>糸つむぎ車 <6>旧「外の間」
<7>「緩和」の方言 <8>県庁所在地の意、笠岡のこと
<*9>大仙院は川辺屋町にあり、仏性山海蔵寺と称し、伯耆大山智明権現を本尊とす。真言宗古義派

.. (二八)神名さだまる

… 神名の変遷

 神名は、金光大神の信心展開とともに、しだいにうつりかわっていった。このことについては、さきに一言するところがあった。

 「天地金乃神」という神名は、『御覚書』には、はやくすでに安政五年(一八五八)十二月二十四日の記事にあらわれ、ついで安政六年(一八五九)十月二十一日の「取次のたのみ」、元治元年(一八六四)正月朔日の「取次広前建設のたのみ」などの、神のみさとしにあらわれ、それと同時に、「金神」「金乃神」あるいは「天地乃神」などの神名もあらわれている。
 「金乃神」の神名には、「鬼門金乃神」とか、「丑寅鬼門金乃神」とか、「丑寅未申鬼門金乃神」とかいうように、いわゆる陰陽道の俗説たる「鬼門」が、なお、その痕迹アトをとどめている。鬼門方は丑寅(北東)であるが、その対方たる未申(南西)も、俗に「うら鬼門」として、おそれられていた。
 鬼門と金神とは、もとより、なんら関係あるものではないが、古来、この方位を、陰悪の気のきわまるところとして、もっともおそれたことが、金神七殺の恐怖とむすびついて、「鬼門金神」がうまれ、金神のなかにあって、もっともおそるべきものとせられていた。金光大神は、「金神」、ことにも「鬼門金神」が、「たたりの神」でなくして、「福の神」(市村光五郎)であり「大吉神」(白神新一郎)であることを、民衆に会得せしめるために、特に、これ等の神名をかかげたのである(金光萩雄)。
 「金神」「金乃神」乃至「鬼門金乃神」は、大地の神である。この大地の神に対するものが、「日天四(子)」であり「月天四(子)」である。そして、これ等を統一する神の信仰にすすむにしたがって、金光大神は、「天地乃神」乃至「天地金乃神」の神名をもって、これをあらわしたのである。

… 神名の確定-天地書附

 明治五年(一八七二)十一月九日、改暦の詔渙発せられ、いわゆる陰陽道の俗説が、暦面から一掃せられたことは、これまで、いろいろに表現せられた神名を、おのずから確定する機運を、あたえたようである。さきにしるした明治六年(一八七三)三月十五日の「天地金乃神・生神金光大神、一心ニ願、おかげは和賀心にあり、という書附いたせい」との神のみさとしは、この神名を確定し、そして、そのとなえかたなり、信者の、日常のこころうべき要義なりを、しめそうとするものであったが、こえて四月十一日、神はさらに、
  <1>生神金光大神   天地金乃神 一心ニ願    おかげは和賀心にあり    今月今日でたのめい と、これをあらためしめ、そして、「書附はじめいたし、かきためおき候(え)」と命じた。金光大神は、これを「天地書附」ととなえた。かくて、明治七年(一八七四)三月十二日から、萩雄・宅吉両人が、「今日よりかきはじめ、ためおけ」との神のみさとしのままに、主として、この「書附」を、<2>したためることに、あたったのである。

… 天地書附の意義

 かくして神名は確定した。金光大神は、この書附を参拝の氏子にさずけ、そして、
 「あなたがたが、岡山へ、かいものにでもゆかれれば、かきつけをしてゆけば、わすれぬようなもので、まあ、これをもってかえって、わすれぬように、信心しなされ」
とも(片岡馬吉)、
 「これは決して守ではない。朝夕に、よくみるところへ、はっておくじゃ。そして、これをわすれぬようにしておれば、らくじゃ。これはまあ、算盤のたまとおなじことじゃ。<*3>『二一天作の八』とおいたらあわぬが、『二一天作の五』とおいたらあうのじゃ。この書附もそのとおり、かいたとおりを、わすれずにおいたら心配はない。おかげがうけられます」
とも(近藤藤守)さとすのであった。

… 出社神号さしとめ

 金光大神は、これまで信心の程度に応じて、神のみさとしのままに、信者氏子に「神号」をさずけていた。しかるに、明治元年(一八六八)九月二十四日、神は、
 「新の氏子には、神号を禁トめい」
とて、これが新授をさしとめたが、後、明治三年(一八七〇)九月朔日、浅尾藩は、金光萩雄をよびだして、「出社神号差留サシトメ」のことを沙汰した。されば神は、明治六年(一八七三)十月十日、
 「出社神号、<*4>御地頭ゴジトウよりとめられ、今般コンパン、みな『金光大神の一乃弟子』にあらためいたし(せ)」
とさとし、これによって、金光大神広前の出社として、取次にしたがうものは、ことごとく「金光大神一乃弟子」として、とりあつかわれることとなった。

… 天地金乃神と申すこと

 この日(十月十日)神は、
 「天地金乃神と申すことは、天地の間アイに氏子おって、おかげをしらず。神仏シンブツの<5>宮・寺・社、氏子の家宅カタク、みな<6>金神の地所。そのわけしらず、方角・日柄ばかりみて無礼いたし、前々ゼンゼンのめぐりあわせで難をうけ。氏子、信心いたして、おかげうけい。
今般コンパン、<*7>天地乃神より、生神金光大神さしむけ、ねがう氏子に、おかげをさずけ、理解申してきかせ(す)。すえずえまで繁昌いたすこと。
氏子ありての神、神ありての氏子。かみ・しも、たつようにいたし候」
とさとした。
 これは世のすべての氏子をさとすところのものである。そのこころは、すなわち、
 「世の氏子等が、今日まで、大地の恩をわきまえずして、方位・日柄の迷妄にとらわれ、みずから苦難をまねいてきたが、そのこころをあらためて、神のさしむけたる生神金光大神の理解を承服し、信心発起したならば、その苦難をのがれて、すえずえまで繁昌のおかげに俗することができる。かくして、神もたち、氏子もたちゆくようにするのが、天地金乃神と申すことである」
とて、天地金乃神の神徳を開顕したのである。そして、これは、「神名確定」と関連するところの意義をもつものである。
 以上、神名の変遷についての大体をのべたが、金光大神は、その実際の取次にあたっては、かならずしも、名義のすえに、とらわれることがなかった。
 「天地金乃神」は、金光大神によって、はじめてあらわれた神である。したがって、その神名は、当時の民衆には、したしめぬものがあった。「金神さま」といえば、それは、何人ナンビトにも、すぐわかるのである。それゆえ金光大神は、世をおわるまで、「金神」の神名を口にし、きわめて自在なものがあった。

… 取次の座

 明治六年(一八七三)四月二十日、神は、
 「いままでは広前へむき。今日キョウから、金光大神、おもてぐちへむき(け)」とさとした。ここに「広前」とは、神前のことであり、「おもてぐちへむき」とは、神前に対しては、横向に坐ることである。
 これまで、金光大神は、つねに神前にむかって奉仕し、氏子の、まいりくるたびに、適宜に、そのむきをかえていたものと、おもわれるのであるが、このみさとしによって、あらたに、神前にもむかい、参拝の氏子にも、むかい得る位置につくこととなり、ここに、取次の座のありかたが、取次の意義と、おのずから、相応することとなったのである。

<1>「生神金光大神・天地金乃神一心ニ願」と称うべきものにて、この点さきの書附と相違せるものの一なり <2>料紙は、美濃紙(当時「三ツ折」とよぶ)竪四つ切のものを用う
<3>算盤の珠のおきかたの熟語。「二一天作の五」は、十を二にて除するときのよびかた <4>ここは地方官署の意
<5>「宮」は「御屋」、神殿。「社」は「屋代」にして、神殿の有無に拘らず、神を斎う一定の地域 <6>大地の神としての金神
<*7>天地金乃神と同義にて、天地の統一神

.. (二九)金光大神とその家族

… 神のねがい

 金光大神に、取次のことをたのんだ神のねがいは、すべての氏子の「すえずえまで繁昌いたすこと」であった。されば、金光大神取次の、究極のねがいも、また、このほかにはない。この神のねがいと、取次のねがいとを、まずもって実現せねばならなかったのは、金光大神みずからの家庭であったのである。したがって、金光大神の、子女に対する日常のしつけも、将来ののぞみも、みな、このねがいが、もととなっていた。
 金光大神の家族のことについては、これまで、そのおりおりに、記述するところがあった。養母すでに逝き、浅吉また浅尾に仕官し、慶応以後、家にあったものは、妻をはじめ、四男石之丞(萩雄)・五男虎吉(宅吉)・二女くら・三女このであった。
 妻は、金光大神取次の当初こそ、鋤・鍬を手にしていたが、金光大神取次の背後の用務が、いそがしくなるにつれて、いくばくもなくして、これを手ばなさねばならぬこととなり、金光大神にしたがい、つねに母屋に起居し、子女等のみ、東長屋に起居していた。
 妻をはじめ子女は、つねに、金光大神を「金光さま」とよび、肉親の情をはなれて、これをあおぐこと、一般の信者氏子よりも、かえって純真なものがあり、広前の尊厳をたもつことをも、つねにこころしていた。されば、広前は、いつ参詣しても、しんとして、こととも、ものおとがしなかった(佐藤範雄)。
 歳わかきころの金光大神は、ときに、子等を打擲チョウチャクすることもあった。これは、ひとつには、四十二・三歳のころまで、健康のすぐれなかったことに、もとづくものであるとかんがえられる(藤井くら)。
 神のみさとしを、感得するようになって後の金光大神の生活は、なにごとも、これをもととしていとなまれたのであって、家族に対する態度も、これにもれることはなかった。したがって、家族に対する、おりおりの神のみさとしは、そのまま、金光大神の、これに対する態度でもあったのである。

… 家族に神号をゆるす

 妻は、元治元年(一八六四)十月二十四日、「一子明神」とゆるされ、浅吉も慶応元年(一八六五)十月十日、「一乃弟子」をゆるされたが、明治元年(一八六八)十一月朔日、神は、妻を「一子大神」、浅吉を「金光正神」、石之丞を「金光山神」、虎吉を「金光四神」、くらを「正才神」、このを「末為神」と、それぞれ神号をゆるし、明治七年(一八七四)一月十日、神は、

… 五箇所の宮

 「子ども五人、五箇所宮たて、それぞれの役をさする。…神の守役、氏子をねがうこと」
とさとし、さらに、明治八年(一八七五)十一月二十四日、
 「子ども五人みのうえ、神が、よきようにいたしてやる。三備洲」
ともさとした。ここに「三備洲」とは、備中・備前・備後を意味し、子女の「神の守役」にあたるべき地区を、しめしたものと解せられ、子女の、その後の経過によって、このことが、おもいあわされるのである。
 これ等は、子女に対する神意のあらわれであるが、これは、そのまま、金光大神の子女に対する信頼、将来への希望のあらわれでもあったのである。

… 子女の教養

 子女の教養については、神は、いろいろの事項を金光大神に指示した。そのなかでも、学問・手習のことは、もっとも、おもきをなすものであった。されば明治四年(一八七一)八月四日、
 「手習・読書ホンヨミ・算盤、<1>したものから、しだいにおしえてやり(れ)」 という神のみさとしは、そのあらわれである。  学問のことについては、萩雄は、かつて、  「行儀をよくし、倹約をして書物をかえ、とつねにおおせられ、<2>森田のせわにて、鴨方<3>長川寺の住職にたのみ、<4>『四書』をおしえてもらうことになりおりしも、自分すすまず。そのことを、母より、教祖に申上げられたれば、本人が、それならしかたがない、とおおせられ、そのままとなりたり」と、ものがたっている。これも子女の奨学についての、金光大神の意向のほどの、うかがわれるものである。
 学問のことについては、金光大神は、ただに子女に対してのみでなく、信者氏子に対しても、つねに「神徳・学徳」とさとしていた(佐藤範雄)。

… 申渡しの覚

 明治七年(一八七四)一月二十七日、金光大神は、神のみさとしのままに、「諸稽古のこと、なにかについての、きまりかたの書附」をさだめて、妻をはじめ、子女に申渡した。
 すなわち、
一、申渡しの覚オボエ。諸稽古のことは、とめ申さず候。なかにも、字かく書読カキヨミ・算盤、身のうえのためになること、かんがえていたし候(え)。
身のためにならぬことは、せぬがよし。
商売のことと、よそへいくの、でるの、誰いけの、とはいうな。誰一人も、よそへはやらぬのぞ。なかようにいたせい。
人のよろこぶことは、いたして(すが)よし。おいおい、縁談のことも、神がさしずいたす。衣裳・諸道具一切、少々のものは、ときにかうがよし。なにがあっても、いらぬ時節がくるぞ。
誰が身のうえにでも<5>あるぞ。なにごとでも、神のことわすれな。神をたのみ(め)。わるきことは、神はいわぬ。 男は、なりたき(け)家のため、みんなの身のうえのためになること、いたすようにせい。女は、なりたきに、<6>白の木綿モメンいたし、ためおき(け)。女のつむり道具にもなり、衣裳にも、金にも、田地にも、なになりとも、のぞみしだいに、神が、ときのかんがえでしてやる。
なんぼう、氏子が利口・発明でも病気・難があたるときには、いけぬぞ。慾のこというな。<7>気をせるな。気みじかにいうな。短気は損気ということあり。 五人の子に宮たって、みな、それぞれに、総氏子をたすける守役モリヤクを申附るぞ。さきをたのしみ(め)。  『どこにはどう』『<8>あしこにはどう』と、よそのことは、いうな。なにごとも、世間のとおりにはならぬぞ。御上御変革に相成候。御上どおり。神のいうとおり。いつ、たれにでもひとくちも、うそをいうな。いうとおりきかねば、めいめいの難儀。神が残念におもうだき(け)。<*9>家内・子ども中。
  取次生神金光大神 天地金乃神
 明治六癸酉十二月十日
 新、七甲戌一月二十七日
というものである(藤井家所蔵)。

… 日常の心得

 家族の日常のことについても、神は、ときにふれて、こまやかに、さとすところがあった。たとえば、明治四年(一八七一)八月四日には、
 「麦かうな。この方のありたき(け)にたべい。子どもに<10>から臼ふませいでもよし。家内中、米をたべさす」 といい、明治六年(一八七三)一月十三日には、  「家内、たべることは、なになりとも、こしらえてたべい」  「諸事のかいもの、無面識ミズシラヌ(ひと)のもの、かうな」  「魚たりとも、入用なら、<11>拾匁のものが、弐拾匁しても、かえい。ねぎることすな」
 「<12>いきたるもの、数多イカイ飼うな。ほねがおれるぞ」  「衣類・諸事のもの、<13>むたいにかうな。こうてよきものは、神が、こうてやる」
 「観覧モノミ・聴聞のこと、むたいにとびでな。時のみあわせでまいり(れ)。世間の人は『命ミョウのばし』と申して出。この方には、神がおるから、命のばしにはおよばず(ぬ)こと」
などさとし、明治六年(一八七三)四月二十六日には、
 「銭が、三文が一文になりても、札が<14>とおらいでも、慾をいうな」 ともさとした。これは、新旧貨幣交換のときの、みさとしであって、「札」とは「藩札」のことである。ついで五月十七日には、  「<15>ものごて、贈遣して、え(よ)いものに、なろうとおもうな。え(よ)い、とおもうことは、神がさしずいたしてやる」
とさとした。ことに女子に対しては、明治四年(一八七一)十二月四日、
 「娘、縁談ごと、たとえ三十になりても、『嫁イかず後家』とゆ(い)われても、くるしゅうなし。人のいうこと、<16>苦世話にすな。めいめい、かんがえい。神は、さきをたのします。寿命長久・すえ繁昌ねがえ」 とさとした。これは、女子の結婚についてのみさとしであるが、このことについては、さらに、翌、五年(一八七二)正月二十五日、  「子ども縁談のこと、『壱人も、よそへはやらぬ』と今日いいきり(れ)。なにごとも<17>法どおりにはさせず。神の(が)さしずいたす」
ともいましめた。

… 紡織につきての教

 女子の紡織については、白木綿を奨励した。このことは、前記「申渡しの覚」によっても、しることができる。それは、あの書附にもしめしてあるごとく、売って金にすることもできれば、田地にすることもでき、好きな色合にそめて着ることもできるからである。
 それであるから、くらも、このも、としごろになっても、つねに無地のもののみ着ていた。たまたま、都会の地から、はでな模様ものや、しまものを、着かざってまいる婦人でもあると、それがうらやましくて、物かげから、瞳をかがやかすのであった(古川この)。
 かくて、衣類につかったあとの白木綿は、「一反もうるな」とて、金光大神は、時価で、みずからかいとり、その金を、それぞれに貯蓄せしめるのであった。かいとった白木綿は、そのまま保存せられ、金光大神帰幽の際、紋附の羽織地にそめ、かたみとして各方面にわかたれたのである(古川この)。

… とせ

 妻は、まことに温良にして、貞淑の資質を、そなえていた。しかしながら、その信心の点については、容易に、金光大神についてゆけぬものがあり、したがって、世の常識をこえた金光大神の行動に対しては、納得のゆかぬこともおおく、ときに、おのが常識によって、これを批判することもあり、忠言することもあった。かの安政五年(一八五八)九月二十三日の神のみさとしによって、はだしで野にでる金光大神を、外見をはばかるこころから、忠言したごときは、その一例である。

 安政六年(一八五九)十月二十一日、金光大神が、神のたのみのままに、農業をなげうって、取次にしたがうようになった後の一家のことを、その双肩に、になうこととなった当時の、妻のこころもちなり、態度なりについては何等つたえられたものがないが、はじめは、相当に、こころをなやませたようである。しかしながら、神によっていかされる生活のあじわいは、年月とともに、ようやく自得せられていったであろう。そして、かげの、かたちにそうごとく、つねに金光大神のうしろにあって、内助の功をいたすようになった。この間、神は、妻を試煉することを、おこたらなかった。
 ある年の、村の秋祭に、金光大神の家にも、よいから来客があった。妻は、客の応対はいうまでもなく、夕餉ユウゲの饗応のために、ひとり、いそがしくしていた。この日、金光大神は、あさからひぐれまで、ただひとりの信者氏子をとらえて、理解のつきるときがない。妻は、こころひそかに、
 「金光さまは、なにも、今日にかぎって、あのようにおはなしをなされいでも、よさそうなものである。さかなの料理のひとつも、てつどうてくだされればよいに」
と、やや不満であった。すると、たちまち、うらの便所の方で、ただならぬものおとがするので、妻は、おどろき、あやしんで、かけつけると、いままで広前にあった金光大神が、小便壷におちていたのである。いそぎたすけおこして、けがれた衣類を、うらの小川まで、もっていって、すすぎなどせねばならなかった。そのとき、神は、
 「親類が大事なか。氏子が大事なか。神には、かんがえがあって、しているのに、それを不足におもう。いのちをたすけられた恩はわすれて、不足におもうから、余計に手がかかるぞ」と、いたく、これをいましめた(高橋富枝)。
 明治六年(一八七三)一月十三日、神は、妻に神号をゆるしたことに関連して、
 「妻は、神となりても、<18>常住ジョウジュウ、風邪カゼヒキと申す。このうえ、神のいうとおりにせねば、病気・病難・はやり病気まであるぞ」 と痛烈にいましめた。  かくて妻は、明治三年(一八七〇)七月三日、神より、この年かぎり「<19>ぼろせんたく無用にいたせ」との申渡をうけ、さらに、明治七年(一八七四)二月十七日、「当年より、金光山神へ<*20>世を相渡し候(え)」との申渡をうけて、家事のわずらいをはなれて、金光大神取次の内助に、専念することができるようになった。

… 浅吉(金吉)

 浅吉は、浅尾侯に仕官することとなったとき、その実名ナノリとして、金光大権現から「金吉」とさずけられ、後、これを戸籍名とした(金光国開)。まえにしるしたごとく、金吉は、藩侯にしたがって京師にあったが、侯が、病のゆえをもって、慶応三年(一八六七)六月六日、職を辞して、江戸に帰ることとなったので(蒔田家譜)、金吉もこれにしたがい、爾後、<21>小日向の藩邸にあって、新館弘に師事して武道に励み、明治元年(一八六八)には、真影流免許皆伝を得た。かくて、その年三月三日、藩侯にしたがい、浅尾にかえった。途中、藩主はじめ一行の乗船が明石沖の難所にさしかかったとき、暴風シケのため、舵の自由をうしない、一行中の侯の抱力士すら、どうすることもできなかった。金吉は、かねて懐中していた<22>「御書附」を手にし、「金光さま」と念じながら、難なく舵をきることができて、事なきを得た。帰藩の後、君侯は、その功を賞して金吉の役をすすめ、金光大神には、<*23>紋附裃一領をおくった(金光国開)。

 金吉は、生来、人の困窮をみては、いさぎよく金品をあたえ、ためにみずから窮乏にくるしむ、といった気風の人であり、そのうえ、この浅尾時代は、相当に金づかいが、あらかったようである。
 それは、足守、津川善右衛門が参拝していたときのことであった。<24>一本ざしの力士が、素足に草鞋で広前をおとずれた。金吉が<25>総社で遊興して、<26>一貫目ばかりの銭をたてかえてあるので、それをもらいにきたとて、なかなかの剣幕である。  善右衛門は、かたわらから、「本人の手紙でももってきたか」とただしたが、「それはもってこぬ」という。「それでは証拠のないことであるから」とて、善右衛門は、体よく、これを、こばもうとするのであったが、金光大神は、善右衛門を別室によびいれ、  「あなたのいわれるのは、御道理ゴモットモじゃが、これは、やりましょう。かりたものを、やらぬともいえますまい。うそであったにしても、これは、私の方のめぐりじゃ。うそであったら、私の方のめぐりを、おうてかえってくれるのじゃ。まあやりましょうや」 とて、いうにまかせて、かえらしめた、というようなこともあった(津川善右衛門)。  金吉は、明治四年(一八七一)四月十日、浅尾にあって、三上かねをめとった。このとき、金光大神は、妻を、その居におもむかしめ、左の「申渡し覚」を金吉にさずけた。すなわち、   申渡し覚 一、今度コンド、神様御理解なされ、金光大神御断オコトワリ申上、御聞済オンキキズミ。神は、<27>わるうていうのではない。今までの心得では、おやもたたず、夫婦もつづかず。<28>じづのくる事もしらず。<29>ここ改て、男壱人、女壱人、夫婦仲善う、おや大切、家内むつまじゅういたし(せ)。子供繁昌願う心に成り(れ)。神は、氏子繁昌守役モリヤク。朝晩共、天子様はじめ、天下太平・諸国成就祈念、総氏子身上安全願えと被仰付候。
巳之年金光正神
 家のおもりに<30>正銭五貫さしむけ。 とあった(金光正神君)。  金吉は、明治四年(一八七一)、版籍奉還によって俸禄にはなれた。明治七年(一八七四)二月二十四日の神のさとしにより、後、妻をともない岡山にうつり、<31>「御暇金オイトマギン」をもとでにして、西中島ニシナカジマのあたりに、「鳥金」となづける鳥料理店をひらき、一時は相当に繁昌したのであったが、もとより「士族の商法」であるうえに、生来の、金銭にこだわらぬ気風がわざわいして窮乏した。そして、その窮状を、しばしば金光大神にうったえ、ときには、一子大神が岡山に微行して、その面倒を見などした(小林鎮)。
 金吉は、明治九年<32>旧正月二十一日参拝して、おのが、これまでの不始末を神に謝し、数日滞在して、<33>旧二十八日にかえっていったが、<34>二十四日早朝、神は金光大神に、  「いままで、つこうた金子を、まわしとるとおもうておれい。利は、この方からまわしてやる」 とさとし、さらに金吉をさとして、  「三畳じきのうちにて三年辛抱いたし(せ)。神をたのみ、人をたすけてやり(れ)。<35>懲役場におるとおもうて手習い(え)。
<*36>四月二十日は、この方へ来、借銀おいおいにはらい(え)。『わしも、辛抱してはらうから』と申して、かりた方へ、ことわり申しておき(け)」
とあった。
 この神のみさとしは、筆が簡略で、きわめて解しにくいものであるが、その要は、金光大神に対しては、
 「いままで、金吉のためについやした金子は、他に融通しているものとおもうておれ。利子は神の方から、はろうてやる」
といい、金吉に対しては、
 「三畳じきの室を、懲役場とおもうて三年辛抱し、その間、手習をはげみ、神をたのみ、人をたすけてやるようになれ。四月二十日には、ここに来い。借銀、おいおいにはらうようにしてやる。借りた方へ『わしも辛抱して、返済するから』と申して、ことわりをのべよ」
と、さとしたものと解せられる。金吉のつねの居間は三畳じきであったので、金吉は、この神のみさとしに「三畳じき」と指摘せられたのに、おどろきと、おそれとをおぼえつつ、かえっていった(金光国開)。
 こえて六月二十日、金吉は参拝して、金光大神に、
 「妻が他所へ勤奉公をしておるが、病気にかかって、こまるから、入用をだしていただきたい」
とねがいでた。金光大神は、このむねを神前にとりつぐと、神は、
 「いうとおりにしてやれ」
と、いたわりさとすところがあった。当時の金吉の窮状が察せられるのである。

 金吉に対する金光大神夫妻の、こうしたあたたかいこころづくしも、おのずから、他の弟妹等には、こころよくおもわれぬものがあり、
 「兄さんばかりに、いろいろのことをして、われわれには、なにも、してくれぬ」
など、不平をもらすこともあった。これに対して、金光大神は、
 「人間というものは、飯をたべねば、いきてゆけぬ。しかしながら、人、それぞれの性分があって、すこしたべてすむものもあり、大飯をくうものもある。金吉は、あれは大飯くいじゃ。おまえたちは、大飯をくわぬのじゃ」
とさとすこともあった(小林鎮)。
 岡山における金吉の生活は、かくのごとくにして、きわめて不如意なものであったが、金吉は、この間、つぶさに、世のなかの辛酸をなめ、そぞろに、人のこころの表裏を、うかがうことができ、かくして、その人格は、しだいに円熟の域にすすんでいったのである。

… 石之丞(萩雄)

 石之丞は、慶応三年(一八六七)九月十二日、齢十九にして、東長屋に、病床の人となった。これよりさき石之丞は、九日、日がえりで浅尾藩庁に出仕し、なんとなく身につかれをおぼえたのであったが、十一日、これをおして小坂西村に、貝畑久太郎の死を弔問したのであった。かくして病勢は、しだいに、つのりゆくばかりであった。
 「この方広前へおこせい」
との、二十日夜の、神のみさとしにしたがい、二十一日早朝、病床を、広前奥の間にうつした。神は、金光大権現に、あらかじめ、
 「今日より<37>祭、明日、全快をねがえ」 とさとすところがあった。  二十二日、祭の当日、病勢は悪化して、<38>昼の九ツ時には、妻は「九死一生」とて、金光大権現を奥の間によび、
 「このとおりであります。いかがいたしましょうか。命ごいのおねがいをしてくだされ」
と申出た。金光大権現は、これに対して、
 「命ごい、それは、なにをするのじゃ。自家ウチのものは、みな、神さまのもの。日頃のこころえかたを、あらためい。大切な、年に一度の御祭に、死ぬる、というような病気になるも、家内中のこころから。いたしかたなし。死んでも<39>だいない。ほっとけ。 私は、今日は、<40>あなたへの御用をいたさねばならぬ」
と妻をいましめ、神も、
 「かわいい、とおもうな。うちころしてしまえ」
と金光大権現のむねに、しらせるところがあった。
 金光大権現は、「神酒オミキをねぶらせおけ」といいすてて、広前にひきかえし、夕がたまで、氏子の祈念にいとまがなかった。
 翌、二十三日は、月天四(子)の祭日である。金光大権現は、これを「二十三夜の御月待」ととなえた。この「御月待」の<41>総氏子祈念の際、神は金光大権現に、  「<42>酉の年へ、神飯ゴハンをさげて、茶をわかして、茶漬にしてたべさせい」
とさとした。金光大権現は、このみさとしのままに、
 「神さまのおさしむけじゃ、茶漬をたべい」
とて、病人にすすめるのである。
 病人は、床のうえにおきなおって、これを手にしてたべ、翌、二十四日には、粥をたべなどして、しだいに食づき、日に日に、快方におもむいた。二十八日朝、神は、
 「病床ネドコをあげい。昼には、そとにでられるようにしてやる」
とさとしたが、やがて、そのとおりになった。かくて、金光大権現は、十月朔日、石之丞に<43>「結剃ユイソリ」をさせ、広前にでて感謝の祈念をささげしめ、かくて、ほどなく「もとの本身ホンミ」にかえることができた。この間、石之丞は、十一日も、普通の食事をとることができなかったのである。  石之丞は、明治二年(一八六九)八月十一日、<44>「可憚官名」の触達にしたがい、名を萩雄とあらため、明治八年(一八七五)一月二日、歳二十七にして、古川参作長女ゆき(二十歳)をめとり、こえて十一年(一八七八)九月十五日、長男桜丸をあげた。
 桜丸は、不幸にして、明治十四年(一八八一)九月十七日、四歳にして夭折した。「すえずえの繁昌」をもって、取次の究極のねがいとする金光大神は、このことをもって、
 「この方の道は、<45>途中・さかさまごとは、させぬという道であったが、若葉のこころえが、わるいから、この道が、たたぬようになった」 とて、こよなく遺憾とし(佐藤範雄)、萩雄もまた、鬱々として、たのしまぬ日が、うちつづくのであった。  萩雄は、これよりさき明治十一年(一八七八)六月二十日、<46>村社ソンシャ、加茂神社祠掌となり、さらに、十二年(一八七九)七月二十八日、教導職試補に補せられ、つねに表面にたって、金光大神の取次を、たすけるところが、あったのである。

… 虎吉(宅吉)

<47>虎吉が、「宅吉」とあらたまったのは、萩雄と、おなじときのことであったとおもわれる。  宅吉は、かの安政六年(一八五九)六月、六歳にして、九死に一生をえたことを、「おやさまの御信心による」として、これを胆に銘じ、はやくから、こころを信心にかたむけ、長ずるにしたがって、金光大神取次の座のうしろにあって、つつしんで、その徳にならうとともに、なにくれと雑務に弁じていた(佐藤範雄)。  明治六年(一八七三)四月二十八日、妹このをともない、伊勢参宮のたびにのぼり、五月二十一日無事にかえった(参宮御歓請帳)。  宅吉は、冬季、酒のしこみどきには、<48>南浦ミナミノウラや、高梁タカハシなどの酒造家ツクリザカヤに、そのしたばたらきなどにおもむき、世間をしることにも、こころがけた。
 その青年時代をものがたるものとして、佐藤範雄は、つぎの事実をつたえている(三十年祭講話)。
 「ある冬のさむい日に、四神さまは、教祖の命によって、備中浅尾に、つかいせられたことがあった。どんよりくもった、いまにもふりだしそうなそらあいなので、生神さまに、『今日は、傘をもってまいりましょうか』
とおうかがいになると、
 『傘は、もってゆかなくても、よろしい』
というおことばであったので、さむい日であったから、おめしもののうえに、単衣ヒトエものを、はおって、おでましになりました。
玉島をすぎて、長尾のあたりまで、ゆかれるころには、ポツリ、ポツリ、あめがおちてきた。かねて、みしりごしの茶店で、ひとやすみなされたが、茶店の主人が、
 『あめがおちてきたから、これを』
というて、傘をだしてくれましたが、四神さまは、その厚意を謝せられるとともに、
 『今日は、おやさまが、傘はいらぬ、といわれたから』
とて、それをことわって、すたすたでてゆかれ、やがて浅尾の御用がすんで、ひきかえされるころには、雨は、一層、つよくなってきた。
そこで、浅尾でも、傘を、というてすすめてくれたが、まえのとおりに、おことわりになって帰途につき、玉島のまちにいられたときには、おおぶりになっていた。そこで、方々から、傘を、傘をというてくれるのを、一々丁寧におことわりになり、ずぶぬれになって、おかえりになり、教祖に、おつかいのおもむきを復命せられ、かつ、みちみちでの、ありし次第をのべて、生神さまに御礼を申上げられ、生神さまにも、ことのほかに、およろこびなされた、ということであります」
 もって、当時の、ひたむきな信心ぶりを、うかがうことができる。
 宅吉は、明治十一年(一八七八)<49>旧暦九月十日、「屋守ヤモリ」安部三平長女喜代(二十歳)をめとり、明治十三年(一八八〇)八月五日、長男摂胤をあげた。その当時、岡山の人、<50>秋山甚吉が参拝したときに、金光大神は、これをまえむきに、両手にかかえて神前に拝礼し、やがて、これを甚吉の方にむけて、
 「うちにも孫ができました」
と、まことによろこばしげであった。甚吉は、かえってのち、家人に、そのときのさまを、
 「いかにも大切そうに、熊の子を、かかえたようにしておられた」
とものがたった(秋山きぬ)。

… くら

 くらは<51>明治七年(一八七四)のすえ、齢二十四にして、藤井駒次郎長男恒治郎(二十五歳)のもとにとついだ。それまで、家にあって母儀ハハをたすけて、広前の内事につとめ、ことに明治二年(一八六九)三月二十三日の、  「日々の御はん、娘、亥の年おくらにたかせい」 との、神のみさとしにしたがい、日々の御供のことに奉仕した。  恒治郎との縁談は、明治七年(一八七四)九月十五日、占見新田村「胡麻屋」中務坂助によって、はじめられた。この日、坂助は、金光大神にまみえて、「こなたの娘おくらさんをもろうてくだされ」と藤井母子オヤコからたのまれた、とて「よろしゅう、おねがい申上げます」と申しでた。金光大神が、このよしを神前に取次ぐと、神は、「金光大神、神は、ひとくちに承知した」 とて、  「御上、御変革に相成、この方も、天地金乃神も変革。<52>不入用いたすな。さきで、自然、なにごとあっても、『胡麻屋へいうていけい』『よんでこい』とは申さぬ。仲介アイのひとに心配かけぬように。『三軒同姓』と申し、『神の分家』とおもえ。神の一家・親類ということは、いままできいたこともなし。
病気につき、医師・祈念と申すところへは、やらぬ。それをせぬから、三軒うち、はん栄ねがい、辛抱してくれ。すえのたのしみのため」
とさとすところがあった。
 ここに、「三軒同姓」とあり「三軒うち」とあるのは、古川・藤井・安部三氏のこととおもわれる。これ等は、もとより「同姓」ではないが、「神の分家」の義において、信心上、同姓のよしみのあることを意味するのであろうか。この神のみさとしによっても、子女の結婚に対する、金光大神の意のあるところが、うかがわれるのである。

… この

 このは末女であった。明治八年(一八七五)一月二日、十八歳にして、古川参作長男才吉(二十三歳)にとついだ。これは、兄、萩雄が、古川ゆきをめとったのと同日であって、かねて、神のさだめるところであった。すなわち、神は、その前の年八月八日・九日両日にわたって、
 「子ども縁談ごと、妻に、<53>うえへあいたいさせ、<54>じきもらい、<55>女子オナゴかえことにても、得心ならいたし、よし」と金光大神に、さとすところがあったのである。  かくて、<56>旧暦三月朔日、金光・古川・藤井の三家をあわせた結婚披露の宴が、もよおされた。このときの模様を、金光大神は、
 「<57>上カミ・下シモ、嫁のよろこびにみえ、客いたし。<58>ばんの七ツ前に、総方ひきとり。よる・ひるにぎやかし、機嫌ように、みなかいられ、あいすみ。あんしん仕候ツカマツリソウソウ。酒二斗五升つかいいりと申(す)」
とのべている。上・下両講中があつまるということは、「本谷」全部を意味するのであって、大勢集ってにぎやかしたこととおもわれる。かかる場合には、一組や二組の喧嘩沙汰をみるのが、当時の通例であったので、「機嫌ように、みなかいられ」「あんしん仕候」には、金光大神の、おさえきれぬよろこびと安心とがこめられている。
 このは「末子のわがまま」と、古川の家の、なれぬ農事のつらさとで、里がえりをしたまま、とやかくと無理をいうて、婚家へかえろうとは、しなかった。このために、離縁ばなしまでも、もちあがり、金光大神も、よほど、もてあましたもののごとく、古川参作に、
 「子でも、いうことをきかねば、しようがない」
となげき、
 「あいて、あかれて離縁する人あり。すきおうた縁も、離縁するから、世のことはどうならぬ。また、帰縁になる人もあり」
ともらしたほどであったが、ついに、円満におさまることとなった。

 子女の結婚については、神は、かねて「法どおりにはさせず」とも「この方も、天地金乃神も変革」ともさとしたが、この古川との婚儀には、「妻にあいたいさせ」て媒酌人をもうけず、<59>熨斗ノシのやりとりをもせず、披露の宴も、三家一度にかねていとなむなどして、「不入用」をさけたのである。  以上のごとくにして、五人の子女は、それぞれに、独自のみちをあゆみながらも、ついに、備中・備前・備後の地区にあって、神のみまえにつかえる身となり、かの「子ども五人、五箇所宮たて、それぞれの役をさする。<60>夫婦、同十二のえとくみあわせて、神の守役、氏子をねがうこと」との、神のみさとしを、事実のうえにあらわすことができたのである。

<1>習得したものから、せぬものへ <2>八右衛門
<3>曹洞宗、清瀧山と号す。当時の住職、玄法 <4>大学・中庸・論語・孟子
<5>おもわぬことがあるぞ <6>はたおりの意
<7>せく <8>あそこ
<9>妻 <10>柄臼の義、米麦精白の農具。柄の一端にきねをつけ石・木などにて支え、他の一端をふみて、きねを上下す
<11>銀貨の称。十匁は一両の六分の一 <12>三女この猫を愛して飼いいたり
<13>むやみに <14>通用停止
<15>「ものごと」の訛 <16>苦にすな。心配すな
<17>世間の方式 <18>始終
<19>ふるものの、つづくりなどの称 <20>世帯
<21>現西五軒町 <22>神名を記したる書附
<23>八曜の紋 <24>道中差を腰にすること
<25>吉備郡。当時浅尾藩庁のありしところ <26>銭九百六十文の称
<27>わる気があって <28>「りづめ」の訛の逸か
<29>「こころ」の逸か <30>紙幣に対する称
<31>退職賜金 <32>陽暦二月十五日
<33>陽暦二月二十二日 <34>陽暦二月十八日
<35>今の刑務所のこと <36>陽暦五月十三日
<37>金乃神祭 <38>正午
<39>「大事ない」の略、方言 <40>直接に「神さま」というをさけたるいいざま
<41>信者・未信者を含めたる称 <42>石之丞のこと
<43>髪をゆい、ひげをそること <44>政府は、之丞・之進・太夫・兵衛・左右衛門・之介(助・輔)などの名を禁じたり(永代御用記)
<45>「途中」途中死。「さかさまごと」子の親に先だつこと <46>「村社」当時の社格の一。「祠掌」当時の神職の職名
<47>安政六年六月虎吉と改名後も「宗門帳」は依然「宇之丞」と記したり <48>「南浦」現玉島市黒崎町。「高梁」備中上房郡
<49>陽暦十月五日 <50>天瀬教会初代米造の父
<51>推定による <52>むだな費用
<53>古川の通称 <54>媒酌人なし
<55>ゆきとこのと <56>陽暦四月六日
<57>上下の講中 <58>午後四時まえ
<59>結納のこと <60>明治七年一月十日の神伝。金光大神夫婦と子女五人の夫婦とにて、十二支のごとく十二人組合せることとなるとの意

.. (三〇)『覚書』の執筆

… 覚書執筆の神命

 明治七年(六十一歳、一八七四)十一月二十三日、神は、
 「この方へ一場イチバたて、金光大神うまれどき、おやのいいつたえ、この方へきてからのこと、覚、前後ともかきだし(せ)。金神方角おそれる(た)こと、無礼ことわり申したこと、神祇信心いたしたこと」
と、金光大神にさとした。ここに「一場たて」とあるのは、「一定の場所をさだめる」意と解せられる(地方凡例録)。したがって、これは「祖先が、ここに居をさだめたときのこと」ということであろうか。「この方へきてからのこと」とは、「金光大神が養子として、この家にきてからのこと」を意味するのであろう。
 金光大神は、この神のみさとしを奉じて、爾後、取次のひまびまに、その記憶をたどりつつ筆をはこんだ。占見新田村「胡麻屋」の浅野喜十郎が、
 「夜の十二時までも、<*1>まわり行燈アンドンをおきて、なにごとか、かきつけおられたり」
とかたっているのは、このこととおもわれる。

… 覚書の内容

 その記述は、金光大神生誕に筆をおこし、明治九年(六十三歳、一八七六)六月二十日の条におわっておる。その末尾のあたりは、筆のはこびが、おのずから簡略になり、その意義を解するに、くるしむ箇所もあるが、金光大神の記憶の、きわめて正確であり、精密であることが、この覚書全般にわたって、うかがわれるのである。みずからの思惟・行動、家族の言動はいうまでもなく、地方の風習・行事などを、きわめて率直に、素朴に、方言・訛ナマリをまじえ、かな文字モジはもとより、漢字の音・訓を自由に駆使して、かきしるされていることは、一の、異彩ある文献として、すこぶる、おもむきのふかきものが感ぜられるのである。ことに、その信仰・風格から、にじみでるものに至っては、まことに、いいしれぬ、とうとさをおぼえるのである。

… 金光大神の自重

 さきに「神の簸かえ」のことがあり、これにともなう、さまざまな世の悪評をあびていた金光大神は、さらに、神主職の喪失によって、取次のうえの、おおやけの資格をうしない、したがって、官憲の監視も、相当に厳重なものがあったようである。それ等の結果、金光大神の広前は、しだいにさびれていったが、この情勢を、さらにつよめたのは、かの神前撤去のことであった。
 神前撤去によって、金光大神の、広前をしりぞいた期間は、およそ一箇月ばかりであったのであるが、その影響は、決してすくなくなかった。明治七年(一八七四)一月十一日、備中高屋の人中村茂次郎が、はじめて参拝したときのことを、
 「途中より、玉島へゆくものと同道したるに、そのもの、『金神さまは、ちかごろ、わるい評判がたって、おがんではおられぬ、とかいうことであります』とかたりいたるが、まいりみたるに、<*2>まえに御簾さがりおり、そのまえにすわりて御祈念くだされ、ついで御裁伝ありたり」
とものがたっている。もって、当時のありさまをしることができる。
 かかるなかにあって、金光大神は、つとめて人為をしりぞけて、取次の本来のたてまえをたもちつつ、神のみさとしのままに、きたるべき時節をまっていた。

… 敬神教育施行の請願

 明治九年(六十三歳、一八七六)十月十九日、金光大神は、「敬神教育之義」を岡山県にねがいでた。これが、神のみさとしにもとづくものであるか、どうか。これを、あきらかにする、なんの資料もない。当時の県令は高崎五六であり、その文面は左のごとくである。すなわち、
  敬神教育之義ニ付御願
      備中国十七大区浅口郡拾弐小区大谷村
             <3>金光大陣 一、私義、従前、神官相務居候処、去ル明治五壬申年、一般御廃シニ相成。其以来、神務之義ハ、一切相止居候得共、在職中、特別ニ天照皇太(ママ)神官ヲ奉崇敬、信仰スル処ヨリ、庶人其加護ヲ受ント欲シ来人ニ接シ、説諭スルニ、今、神明ニ対シ、其加護ヲ受ントナシ、稽首百拝スルトモ、人道ニ悖戻スルトキハ、如何程祈願ストモ、其効曾テ有可ラス。信心トハ何ソヤ、信ノ心ヲ専務トシ、敬神愛国ノ旨ヲ奉戴シ、諸ノ神明ヲ崇敬シ、上ハ、政府ノ御布令ヲ守リ、下ハ、衆人ニ接シ、廉直和親、一家至睦スレハ、則、人タルノ道ナリ。悪事ニ交ラス、誠心ヲ起シ、信仰スルモノハ、神明ノ加護ヲ受、自カラ病患、諸ノ災厄免ルヘシ、ト説諭施行仕候処、放職ノ後ハ、断然棄廃ト雖モ、前条、廃職ノ事実知ラサル処ヨリ、遠人、時々慕来モノアリ。依テハ前願ノ如キ信仰教育ヲナサハ、人民保護ノ一端ニモ可相成ト奉存候間、素より神官・僧侶之教導ニ紛敷義、且ハ、金銭貪欲等之義ハ、曾テ不仕候。各人民ヘ対シ、唯、信心教育ヲ施候義、奉願上候間、此段御採用被成下度、只管奉懇願候。以上。              右  明治九年十月十九日         金光大陣・   岡山県令 高崎五六殿 というものである(岡山県文書)。その内容は、もとより当時の情勢に順応したものであり、文章のごときも、村内、しかるべきものの起草したものとおもわれる。  これに対して、県は、その月二十六日附で、  「書面願之趣、訪人ニ対シ、己レ一箇、信仰崇敬之旨意、相語リ候迄之義ハ、聞置届(ママ)候ヘ共、信心教育施行、<4>教導職ニ紛敷所業ハ、不相成候事」
と指令した(岡山県文書)。
 ここにおいて、金光大神は、その筋の黙認のもとに、取次にしたがうことを得、さきの明治六年二月十七日の、
 「世はかわり(る)もの、五年の辛抱いたし(せ)」
といい、明治七年三月十二日の、
 「当年より<*5>戌・亥・子三年の辛抱。総方へも、この方も」
という神のみさとしは、ここに実現することとなったのである。

<1>行燈の火袋の半分が転廻し、火を点ずるに便するよう造れるもの <2>神床に簾を垂れあるの意
<3>戸籍名 <4>明治五年四月十四日、教部省の設けたる社会教化に従う職員。大教正以下権訓導まで十四級を定む
<*5>「戌亥子」は明治七八九。「総方へもこの方も」は「皆へも辛抱するように教え自分もそう心得よ」

.. (三一)岡山地方の教勢と白神新一郎

… 岡山地方の教勢

 岡山藩士松本与次右衛門・岩藤市三郎等が入信したのは、すでにしるしたごとく、文久年間(一八六一~六三)のことであった。岡山の地の信者に士人のおおかったのは、この人々の影響によるものとおもわれる。
 金光大神が、明治元年(一八六八)九月二十四日につくった『一乃弟子改帳』によると、当時、岡山で、これをゆるされたもの二十余にのぼり、おなじ日につくられた『神号帳』には、これをゆるされたものの名が十余人みえ、そのなかには、「金光大明神」「金光向明神」など、「金光」を冠したものが、それぞれ一名ある。そして、これ等のなかで、白川家の「神拝許状」をえたものが、明治元年(一八六八)五月に一名、同二年(一八六九)正月に三名あった。いずれも、金光大神広前の出社として、取次にしたごうていたものとおもわれる。

… 大森うめ

 さらに、岡山を中心として、上道郡・児島郡にも相当数の信者があり、そして、そのおおくは、取次にしたごうていた。そのなかで、上道郡中井の人、大森うめは、「金子明神」とゆるされ、「中井の金神」とよばれて、その名がたかかった。うめの取次によって入信した人に、片岡次郎四郎・難波なみ・金光カネミツ喜玉ヨシタマなどがあり、なみは、その家の壁が赤かったので、「赤壁の金神」とよばれた。

… 片岡次郎四郎

 片岡次郎四郎は、天保十一年(一八四〇)八月五日、亀三郎の長子として、備前上道郡才崎にうまれ、母を栗子リツコとよんだ。性、誠実にして恭順、事に処して熱心であった(直信片岡次郎四郎師)。
 家は、代々農業をいとなんだが、旧家として、地方におもきをおかれていた。妻庄とのあいだにあげた長男槌衛ツチエを、四歳にしてうしのうたことが、その入信の機縁となった。
 槌衛の死は、「金神さまのたたりじゃ」「しかられとる」と、人々からいわれた。次郎四郎は、
 「わたくしの家には、…かつて、他にうらまれるようなわるいことは、したものがあるでなし、また、普請・作事はもとよりのこと、なにひとつするにしても、一々、方角から日柄、年廻は勿論、家相・相性、みなみて、してあるのに、『金神さまのたたりじゃ』とか、『金神さまに御無礼ができとるから、難がつよい』とかいわれるのは、合点がゆかぬ」
とうたがい、
 「金神さまというからには、神さまにちがいあるまいが、この神が、ほんとに、この世にあるのなら、こうまで人をくるしめるはずがない。また、どこぞに、金神の社というがあって、まつってあるはずじゃ。あるなら、たずねてまいって、よく、合点のゆくまで、きいてみたいものじゃ」
とも、おもうていた。かかるおりから、村うちに石村某といい、かねて大森うめの広前にまいって信心している人があった。
 「才崎に、御信心をしよう、とおもうとる人がある」
といううめのことばをきき、某は、
 「それは片岡の家である」
と感じた。それは次郎四郎の家に難がつよく、世間では、これを「金神のたたり」であるとし、「気のどくなことぞなあ、あの家・屋敷がたえるそうな」
と評判とりどりであったからである。
 かくて、次郎四郎は石村某にともなわれて、「中井」の広前にもうでた。そのとき、うめは、
 「私が御信心しだしたのも、難がつよかったことからじゃが、御信心しておかげをうけたのじゃから、あんたも御信心なさったら、たたりや、さわりは心配するにおよびません。おかげがうけられます」
とさとし(在りし日の教話)、ここに、次郎四郎は一念発起した。それは慶応二年(一八六六)のことであった。かくて、次郎四郎は、明治元年(一八六八)二月、うめにともなわれて、はじめて金光大神を拝したのであった。
 爾後、次郎四郎は、熱烈な信心をかたむけ、十余里のみちを、月ごとにもうで、ときには、二度・三度におよぶこともあった。明治六年(一八七三)一月二日には「金光大神の片腕」といい、明治十一年(一八七八)五月十日には「神が、たよりにおもい。金光と位を附け」という信任をうけ、おおいに神徳を遠近にかがやかせた。次郎四郎には、金光大神の理解を中心とする、その教語の聞書『尋求教語録』二百余節がある。

… 中島屋喜惣次

 白神新一郎が、岡山の地にあって入信したのは、明治二年(一八六九)十二月十一日であった。当時、あたかも藤井きよのが、松本与次右衛門の紹介のもとに、石山西丸の池田邸にでいりをし、市内丸亀町、中島屋喜惣次の家にとまっていた。
 中島屋は、姓を建川タテカワといい、質業と荒物業とをかねいとなみ、岡山藩御蔵掛オクラガカリをつとめて、相当の資産をもっていたが、喜惣次の兄が、これをつかいはたしてしまった。喜惣次は、はじめ大黒町にあって、米商をいとなんでいた。生来、病弱であったので、齢十五・六のころから、こころを、神仏にかたむけていた。後、肝臓病のために、くるしんだことが入信の動機となり、明治二年(一八六九)齢二十三にして「金子明神」をゆるされ、さらに「金光」の姓をもゆるされた。
 喜惣次は、性、まことに恬淡であった。かつて売掛代金を催促したことがなく、代金のたらぬものにも、米をうりあたえなどした。取次をこうものがあっても、かつて礼物などうけたことがなく、したがって、その生活は、つねに窮迫していたのである。

… 白神新一郎

 白神新一郎は、文政元年(一八一八)五月二十五日<1>辰の刻、岡山中之町、<2>白神シラガ周蔵の長男としてうまれ、母を波奈ハナとよんだ。弘化二年(一八四五)一月、齢二十八にして、市内藤野町、銭屋ゼニヤ喜兵衛の末女晴子ハルコをめとり、八男一女をあげた。
 家は、「備中屋」と号して、米穀商をいとなみ、池田家「御内家ゴナイケ御用達ゴヨウタシ」をつとめていた。
 新一郎は、幼名を勝太郎とよばれた。性、温厚にして篤実、細心にしてしかも大度であり、慈悲のこころにもとんでいた。はやくから<3>経書の学をおさめ、文学・茶道その他、当時の町人の子弟としては、かなりに、たかい教養をうけた(初代白神新一郎師)。  新一郎は、父の業をつぎ、藩の蔵米クラマイをうけて、一時は、ひろく阪神地方から、阿波・紀州の方面にまで、これをうりさばき、一藩の利潤をはかった。  安政二年(一八五五)七月、父をうしない、ついで翌年二月、四男勝蔵をさきだて、ふかいかなしみのなかに、みずからも眼をやむこととなった。それは安政六年(一八五九)齢四十二のときであった。医薬はもとより、神仏の祈願にもおこたりなかったが、病状は、悪化の一途をたどり、ついに、まったく、もののあやめもわからぬ身となった。  新一郎は、生来、信心のこころのあつい人であった。文久二年(一八六二)正月、児島五流、大法院真徳から、山伏補任の目録をうけ、良覚坊松寿院となのり、不自由の身ながら、永寿講連中とともに、五月二十一日、金毘羅宮・伊予石鎚にもうで、二十七日には、石鎚のお山をきわめた。帰途、備後鞆の津、祇園宮をおがんで、六月三日、岡山にかえった。慶応元年(一八六五)五月には、<4>出雲一畑イチバタ詣をこころざし、従者一人をつれ、身を一笠一杖に託して、中国山脈の険をこえ、一畑にあって、二十三日から九日のあいだの「塩断シオダチ」の行を修し、踵クビスをかえし険をおかして<5>伯耆ホウキ大山ダイセンにもうで、六月十三日、家にかえった。そのほか<6>「児島四国」をすること、文久三年(一八六三)から明治二年(一八六九)にわたって、前後、実に十一度におよんだ。
 かく、神仏に祈願をこらすこと、まことに切なるものがあったが、その験シルシさらになきのみか、明治元年(一八六八)六月には、もっとも望をかけていた三男勇三郎を、十八歳にしてさきだてることとなり、いまさらに、人の世のはかなさを、しみじみとあじわうのであった。
 かかるなかにあって、新一郎は、岩藤市三郎から、おりにふれて、金光大神のおしえを耳にしていたが、中島屋における藤井きよのの話は、真に「前代未聞」のものであった。
 新一郎のいままでの信心は、ただ、賽を献じ経を誦して、神社、仏閣にもうでることであり、険をこえ難をしのいで神蹟・霊場にいのることであった。まことの信心の、いかなるものであるかを、かつて、とききかせてくれるものもなければ、その機縁にふれるところも、なかったのである。

 しかしながら、今日までの苦労は、そのまま一念発起のつよい力となってはたらいたのである。聡明にして事理にさとき新一郎は、金光大神の道をきき、とみに、その神髄をつかむことができた。そのおどろきとよろこびとは、たとえるにものがなかった。
 明治三年(一八七〇)一月十三日、中島屋の広前で、はやくも「一乃弟子」をゆるされた。一月二十日、はじめて金光大神の広前にもうで、その神徳に浴し、爾後、たびたび生神の霊地に杖をひき、まずもって、心眼をひらくことをえた。
 かくて、この年(明治三)の瀬も、おしせまる十二月すえのある日、新一郎は、古川参作の家で風呂にいりながら、はじめて行燈のあかりを、みることをえたのである(難波幸)。
 十余年にわたる眼病も、かくして、しだいに快癒におもむいた。

… 『御道案内』

 明治四年(一八七一)三月、新一郎は、その感激を筆に託して、はやくも『御道案内』を、ものして、人々に、これをわかつこととなった。短時日にして、よくも、かばかり透徹した信解シンゲを得たものである。
 『御道案内』は、明治四年三月をはじめとして、後、機会あるごとに筆をとり、その都度、内容も、しだいに増補せられた。その内容は、もとより、組織的なものでもなく、理論的なものでもない。感得したところを「一打書イチウチガキ」に、かきつらねたものである。
 これが述作の主旨を、新一郎は、その序文に、
 「神儒仏、孰イズレれに愚かはなけれども、爰ココに、
金乃御神様の、其新たなる事を聞り。小子、近比チカゴロ御道を志し、御影を蒙らんと欲して、日夜、神心の真似マネせし所に、忝カタジケナクも、日増に其験しあり。新参・未熟の小子、御道の兄達コノカミタチには憚り有といへども、余りありがたさに、<*7>三ツの宝の有余りある御影を、知らぬ貴賎の御氏子と共に戴んと、誘イザナワんが為に、御道案内と表題し、不知不才の小子、文々句々、前後、混乱たりといゑども、見聞する処、思い出の侭、其荒ましを書記す而巳ノミ。過不足有所ツタナキトコロは、見る人憐み許したまへ」(藤沢勇所有本)。
とのべている。
 『御道案内』の内容は、これを金光大神観・神観・人間観・信心観・取次観などに、わかつことができる。
 いまこころみに、その金光大神観をしるすと、
 「生神金光大神様とは、金神様より御直許ゴジッキョにして、御道開きの祖神様なり。日々夜々、其新たなる事、申述るに尽ツキず。千ト時キ、文化十一甲戌の御歳御誕生在マシマし、今コン、明治四辛未カノトヒツジ年、御寿五十八歳。御健勝にて、御生質ゴショウシツ温和にして、威有て猛からず。恭敷ウヤウヤシク、御安く、寛仁大度に。毎日、御広前に早天より暮迄御鎮座在マシマし。農民より出たまひ、大神の御位、生イキながら神とならせ給ふ事は、前代未聞ミモンの事ならず哉ヤ」(藤沢本三~四)。
とのべている。まことに直截簡明であって、しかも要をえたものということができるであろう。
 『御道案内』は、当時の「御家流」で達筆にかきつづられており、御道びらきのための、やむにやまれぬ、その熱情のほどが、感ぜられるのである。

<1>午前八時 <2>新一郎大阪布教着手後参拝の際、神号の意味にて「シラカミ」とよぶべき旨、金光大神の御諭あり、以後改称
<3>四書・五経の類 <4>名高き薬師如来
<5>中腹に大神山神社鎮座 <6>児島半島に、四国八十八ヶ所になぞらえ設けし霊場
<*7>「天地日月金神様合て三宝様なり」(御道案内)

.. (三二)防長地方の布教

… 山口県下布教の濫觴

 岩国・由宇ユウを中心とする、東周防スオウの地に、はじめて道がつたえられたのは、明治五年(一八七二)であり、これに手をつけたのは、尾道の人、藤井吉兵衛である(尾道西教会誌)。

… 浅井岩蔵

 藤井吉兵衛は、つとに、備後松永の人、浅井岩蔵によって、金光大神のおしえをうけた(芸備之霊光)。
 浅井岩蔵は、文政十二年(一八二九)三月十八日、備後沼隈ヌマクマ郡<1>松永村、浅井庄蔵の長男としてうまれ、母をサトといい、壇上ダンジョウ熊蔵の長女カヨをめとって、おおくの子女をあげた。  長じて家をつぎ、海運業をいとなんだ。齢二十五・六のころ<2>疝痛をやみ、百方、手をつくしたが、かつて、その効あらわれず、病床に呻吟すること、ほとんど十年におよび、その苦悩・煩悶の状、言語に絶するものがあった。
 文久二年(一八六二)の秋、たまたま、すすめるものがあって、笠岡斎藤重右衛門の広前にもうで、さしもの難症も、ぬぐうがごとくにいえた。
 岩蔵は、生来、意志のきわめて堅固な人であって、その性格は、おのずから、重右衛門にあい通ずるものがあった。元治元年(一八六四)、大谷にもうで、金光大神を拝して「金子宮」とゆるされ、後、さらに「金子大明神」とゆるされた。松永の地にあって取次にしたがい、教績、おおいにみるべきものがあった。その教子には、尾道に藤井吉兵衛・倉田吉兵衛・宮永徳蔵・倉田新助・吉本吉兵衛があり、四国に高橋常造・佐柳サヤナギ善吉等があった。

… 藤井吉兵衛

 藤井吉兵衛は、天保五年(一八三四)三月三日、備後沼隈郡松永村柳井津谷ヤナイズダニ、井上亀吉の長男にうまれ、母をハル子というた。長じて、尾道土堂町藤井吉兵衛の養子となって、その名をついだ。家は「北国屋ホッコクヤ」と号し、米問屋を業としていた。
 病のために、ひさしく、くるしんだことが、入信の動機となり、慶応三年(一八六七)四月十日、妻のすすめにより、浅井岩蔵の教をうけ、岩蔵にみちびかれて、斎藤重右衛門にまみえた(尾道西教会誌、教団史要)。
 吉兵衛等が、はじめて笠岡の広前に入ったとき、重右衛門は、参拝者に理解していた。吉兵衛は、かたわらにあってこれをきき、すなわち、翻然としてさとるところがあった。四月二十三日、ふたたびここにもうでて、終夜、広前に祈念をこらし、霊験に浴して、さしも多年の病苦も、たちまちにして、わすれることができた。
 吉兵衛が、はじめて金光大神を拝したのは、明治元年(一八六八)のことであった。このとき金光大神は、
 「道のために、ますますつとめよ」
と吉兵衛をさとした。吉兵衛は、この一言によって、ついに、身を、道にささげるに至ったのである(尾道西教会誌)。
 吉兵衛は、よく笠岡・松永の教風をうけ、祈念力きわめてつよく、その予言のごときも、まことに的確であった(芸備之霊光)。

 吉兵衛が、東周防の道びらきに手をそめた、はじめの事情を、その『談話聞書』には、
 「明治五年春頃、山口県周防国玖珂クガ郡由宇村の住人、岩本菊太郎なるもの、商業の為(蓮根舟にて尾道へ出入せしもの)尾道へ来り、不幸にも大患(ひえ)に罹り、神のお助けを蒙りたしと参拝し来り、忽ち、宏大なる御蔭を蒙りたり。同人、非常に喜び、是非、一度下りて、衆人へも御蔭を頂かし呉れ、との事により、同人所有の和船に便乗し、山口県へ向け出発し、滞在する事、三十余日(出発の際、神の御教により、三十日、道を拡めよ。三十日したら帰れ、との御報オシラセを頂く)。所々巡回、御蔭を蒙りしもの、枚挙に遑あらず。
時、恰も維新当時の事とて、世上、暗黒と云わんか。不肖を見れば、狐狸を使う者が来た、とか非常の噂高まり、殊に<3>門前村の如きは、数多の山伏来りて不肖を取囲み、狐・狸を追出す、とやら云いて、一心に祈れど、何、恐れんか。何一つ出る筈もなし。却って不思議にも、山伏の錫杖の柄折れ、金輪の外れたり等して、遂に彼等も閉口せり。 其当時、尾道より藤井と云うものが下クダり居る、とて<4>邏卒が頻りに捜索なせども、丁度、立去りたる後に来りて、彼等の目に触れず。余程辛苦せし様なりき。丁度、御神伝の三十日もたちたれば、帰国せんと、一行の衆人に向い、不肖は今日帰国致すが、後に、誰か七名捕縛せられる。然し、決して心配する事なし。直ちに解放せらるるに相違なし、と語って帰国せしが、後に、捕縛即時解放の通知ありたり」
としるしている。もって、当年の状況の一端を、うかがうことができる。

… 唐樋常蔵

 吉兵衛の高弟に、由宇の人唐樋常蔵がある。常蔵は、文政十年(一八二七)十月十日唐樋久蔵の長男としてこの地にうまれ、船乗を業とした。天保八年(一八三七)、十一歳にして父をうしない、その細腕に一家をささえ、つとに里人敬愛の的となっていた。
 弘化三年(一八四六)八月五日、常蔵は、大島郡横身村、大下甚助の長女マスをめとったが、子はなかった。この妻のことについて、常蔵は、かつて、
 「妻は、彼アの通りヤンチャな女で、其上に酒好きであるから、私が連れ添うてやらねば、他に、連れ添うて呉れる者がない。いとしい者じゃ、と思うて長年添うて居る。私等が二人で船に乗って居ると、世上の人等が、夫婦丸トトカカマル、夫婦丸と云うて居った。彼アのような妻でも、私は、今日まで、指一本もあてた事はない。連れ添うて居ればこそ妻であるが、離別ワカレて見れば、人の大切な娘であり、神のかわいい氏子である。その氏子に、手をあてることは出来ぬ、と思えば、腹を立てるどころではない。少しずつでも、手伝って呉れるのが、有難い様に思うて居りました。人は、義理と人情の立て合いで無ければならん。金光様は、
 『理窟あっても、皆まで云うな。理窟とクサビは八合詰め、つめる紙袋は裂ける。相世アイヨ掛世カケヨで世は治まるぞ』と教え下された事もある。自分が、自分の家を治めてからでなければ、他人の家は治め得らるるものでない」
とものがたった(唐樋常蔵師)。もって、その人柄の大体をしることができる。
 由宇の地は、蓮根の産地としてしられ、常蔵は、毎年、これを尾道につみだして、おろすのが例であった。明治の初年、たまたま、藤井吉兵衛のうわさを耳にし、その広前をおとずれて取次をうけた。そのとかれるところは、篤実にして、まじめな常蔵のこころの琴線に、ふれぬはずがなかった。
 常蔵は、ほどなく、尾道から陸路を大谷にもうでて金光大神を拝し、うたた感激のなみだにくれた。このとき金光大神は、
 「その方は、周防国の本宮なるぞ。疾病・患難、すべて諸難をすくい、道をひらき、諸人をたすけよ」
とさとした。
 これは、まことに常蔵の肺腑をつらぬくものであった。常蔵が、断然、船をすてて、その身命を、みちにささげることとなったのは、このときであった(唐樋常蔵師)。
 その、道にいるの端緒も、もとより、何等、ねがいごとがあってのことでなく、一介の船乗の身ながら、偉大な教績をあげ、明治十四・五年(一八八一~八二)のころ、教勢が、一時、周防の地を風靡するのおもむきがあったのも、その資性、おのずから神の祈願にかなうものの、あったがためでなければならぬ。

… 桂松平

 周防玖珂クガ郡柳井の人、桂松平は、唐樋常蔵の教子、明田アケタ角太郎によって、道にいざなわれた。
 角太郎は、玖珂郡日積ヒズミ村の人であって、商業をいとなみ、松平の家にも、でいりをしていたのである。
 松平は、安政二年(一八五五)十二月四日、桂勘助の三男にうまれ、母をシゲとよんだ。その家には、代々<5>膈のやまいが、つたわるといわれ、松平も、母も、ともにこの病のために、なやまされていた(我師を偲びて)。  角太郎は、松平母子に、熱心に信心をすすめた。母は、角太郎にうごかされて、つとに、こころを道によせ、松平にも、信心をすすめるようになった。  松平も、あえて、いなみはしなかったのであるが、「金光」の名は、かつてきいたこともない。狐とも狸とも、えたいのしれぬ神さまである。いままで、わが家では、歴とした金毘羅さまを信心している。いまさら、金光さまに、のりかえる気にもなれず、角太郎の、切なるすすめにもかかわらず、「まあ、信心はまよわぬことが、肝心ですのう」 というありさまであった。しかしながら、母のすすめにしたがわぬことは、さすがに、こころにかかるのである。  そこで松平は、金光大神のおしえを信ずべきか、いなかを、金毘羅さまに、うかごうてみよう、という気になり、  「明田角太郎の信ずる金光大神が、まことの神ならば、この数珠を、十回が十回とも、<6>『丁』のかずで、おしめしくだされ。十回のうち一回でも、<*7>『半』のかずがでましたならば、それは邪神として、今日以後、こころにも、とめませぬ」
と金毘羅さまを念じ、数珠を、さらさらと掌のうちにもみ、さっと両手を左右にひらいてみると、そのかずは「丁」であった。かくして十回くりかえし、さらに三回こころみたが、そのかずは、いつも同様であったので、さすがの松平も、
 「神は、明田角太郎をさしむけ、松平母子を、おたすけくださるのである」
とさとり、
 「今日から、こころをさだめて、一心に、信心させていただきます」
と、神のまえにちかうのであった。
 かくて、松平は、明治十六年(一八八三)春のある日、はじめて大谷にもうで、金光大神を拝したのである。

 広前には、十数人の参拝者があった。金光大神は、松平をちらとみたが、理解に余念がない。松平は、様子のわからぬままに、人々のうしろにあって、ちいさくなって、じっと、瞳を金光大神の方にこらすのみであった。
 やがて、理解が一段落をつげた。金光大神は、松平をかえりみて、
 「周防のおかた、遠方を、ようおまいりでありましたなあ」
と、こえをかけて神前にすすみ、拍手するやいなや、
 「氏子、水が毒、水が毒というが、水を毒とおもうな。水は薬という気になれ。水を薬という気になれば、腹のやまいは、させはせぬ」
との裁伝があり、つづいて、
 「氏子、水あたりということをいうなよ。水一滴無うても、日はたつまいが。大地はなんとある、みな、水がもと。稲の一穂も、五合の水をもって、しめかためる、というではないか。水の恩をしれよ」
とあった。松平は、無限の感激に、ただに、身をふるわせて平伏していた。
 金光大神は、やがて取次の座につき、微笑をたたえながら、
 「周防の国の氏子、狐じゃろうか、狸じゃろうか、とおもうたうたがいがはれて、結構でありますなあ」
とおもむろに、さとすのであった(桂ミツ)。
 桂松平が、不惜フシャク身命シンミョウの精神は、かくしてはじめられ、九州布教のたねは、ここにおろされたのである。

… 西城種吉

 下関シモノセキの地に、はじめて道のひらかれたのは、明治二十年(一八七七)十月十七日のことであった。しかしながら、その準備は、明治三年(一八七〇)のころ、西城サイキ種吉によって、ととのえられつつあったのである。
 種吉は、天保十四年(一八四三)二月十日、大阪にうまれ、妻を梅子とよんだ。文久三年(一八六三)尾道にうつりすみ、小間物コマモノ行商をいとなみ、明治三年、三宅小一郎によって入信した(手続関係調査書類)。
 小一郎は、尾道久保町の人である。つとに、笠岡金光大神のおしえを奉じ、取次にしたごうていたのである。
 種吉には、万野友次郎・林保太・高崎虎吉などの教子があった。この三人は、後、いずれも九州布教にしたがうこととなった。
 以上のごとくにして、中国・九州筋の道びらきは、ともに、その主たる源泉を笠岡に発しているのである。金光大神が、かつて、
 「神さまが、どうぞ、みちをひろめてくれ、といわれるので、<*8>東、三十三箇国は私がひろめ、西、三十三箇国は、笠岡がひろめることになっておる」
とものがたったことは(青山金右衛門)、かようにして、事実のうえにあらわれることとなったのである。

<1>現松永町 <2>漢法の病名。大小腸・腰部などのいたむ病
<3>現岩国市門前 <4>明治初年の警察官の称
<5>食道癌・胃癌の総名 <6>偶数
<7>奇数 <8>平安朝時代に逢坂山を境として立てたる称なるも、ここは霊地を境としておおらかに立てたる区分

.. (三三)教勢近畿にのぶ

… 白神新一郎大阪布教を発願す

 大阪の地は、江戸時代「天下の台所」とよばれ、わが国商業の中心であり、諸国の人のあつまるところであった。人世救済の熱願にもえていた白神新一郎は、この地に道をひらくことは、やがて、天下に道をひらく所以であるとして、ひそかに、その時節の到来をまっていた。
 新一郎は、霊地への途次、浅口郡西原村、<*1>守屋猪介の広前に、もうでることを、つねのためしとしていたが、明治六年(一八七三)九月十九日、この広前で、
 「三箇年辛抱いたすべし。また三箇年にして、おみちひらき申すべし。世界たいらかにして、困窮なることあり。用心あるべきこと」
との裁伝をうけた。
 これは、新一郎かねての熱願たる、大阪布教着手のときを予示し、「世界たいらかにして、困窮なることあり」とは、明治十二年(一八七九)に、コレラが全国的に流行したことを、暗示したものであろうか。

… 大阪布教の端緒

 新一郎が、はじめて、手を、ここにそめたのは、明治八年(一八七五)十二月のことである(願主控帳)。この月、新一郎は、二男信吉の妻しな子の父、西成郡難波村弓場町、辻野清兵衛をたよって上阪し、二十六日、清兵衛の病気全快の取次をした。これが大阪布教の第一歩であった。
 九年(一八七六)三月のころから、おいおい、新一郎をおとずれて、取次をこうものができたが、新一郎は、路銀をついやしつくして、この年のすえ、一旦帰国した。明治十年(一八七七)五月、ふたたび上阪し、その年のすえ、また帰国し、明治十二年(一八七九)四月、三度上阪して、五月のなかばまで、とどまっていた。

… 布教の開始-肥後橋当時

 新一郎は、かくて大阪の地における取次のことが、その緒につくとみるや、明治十二年七月二十四日、隠居届の手つづきをとり、即日、岡山をたって、二十五日正午、海路を大阪につき、八月五日、居を、中之島肥後橋北詰、水谷善七の家にうつして、ここに、いよいよ、本格的な取次がはじめられることとなった。
 新一郎の、かねての熱願は、やがて、人に対しては、懇切にして誠意溢れる理解となり、神に対しては、これを、動かさずにはおかぬ、あつき祈念となった。

… 伏見町当時

 されば、神のひれいも、日とともに、ようやくいちじるしく、その広前も、とみに狭隘をつげることとなり、その年(明治十二)十二月二十四日、東区伏見町二丁目二十番地、早川伊兵衛の別邸に、これをうつした。
 伏見町当時の教勢は、まことに、めざましいものがあった。参拝者は、日ごとに、未明からたえまなく、そののりすてた人力車など、街路も、ところせきまでにうちならび、誰いうとなく、この附近を「金神町」とよぶようになり、参拝者は、番札によって、順次取次にあずかる、というありさまであった。当時、住吉にすんでいた和田安兵衛のごとき、
 「朝、五時に住吉をたって、夕、五時ごろ、ようやくにして、かえりつくことをえた」
と、ものがたっている。もって、当時の情勢を察することができる。
かかる情勢は、当時の官憲の、みのがすところではなかった。明治十三年(一八八〇)五月二日、高麗橋警察署は、新一郎をよびだし、
 「教導職にあらずして、庶人をあつめ、祈念することは、かなわぬ」
とて、その取次を禁止した。
 ここにおいて、新一郎は、やむをえず、世話人等とはかり、神道中教院所属大講義真鍋豊平名義の説教所をもうけ、神床に、天照皇大神・天地金乃神を併祈し、新一郎は、その給仕人としてこれに奉仕する、ということにし、七月十三日、神道中教院の認可をえて、十六日、東区役所ならびに高麗橋警察署にとどけでた。

… 立売堀当時

 一方、広前の経理については、新一郎は、世話方等とのあいだに定約書をさだめた。ところが、このことに関して、はやくも、世話方等のあいだに確執がおこり、たがいにあらそうような形勢になったので、新一郎は、それになやまされることをいとい、その年(明治十三)九月一日、ひそかに、居を、西区立売堀南通四丁目にうつして、取次に専念した。かくて、取次をこうものは、まえにもまして、一層おおくなった。
 この形勢をみた官憲は、ふたたび、干渉の手を新一郎にくわえてきた。ここにおいて新一郎は、警察当局了解のもとに、嗣子、信吉を岡山からよびよせて、<*2>あつし織店「備中屋」を経営せしめ、新一郎は、隠居仕事として取次のことにしたがうこととなった。これは、その年(明治十三)秋のことであった。
 かねて新一郎は、わが国経済の府たる、この地の布教の基礎の確立をまって、さらに、政治の府たる、東京の布教をこころざし、おおいに道を天下に弘通せしめようと念願していた。しかるに、明治十五年(一八八二)二月、なんとなく身につかれをおぼえるようになり、三月九日、ついに、隣人、阪本氏の隠宅をかりて、新一郎は、ここに身をやしなうこととなった。

… 白神新一郎世を去る

 四月十六日、新一郎は、金光大神の広前に代参をたてた。代参の人々は、金光大神に、いのちごいの取次をこうたのであったが、金光大神は、
「白神は、時節をまたず。みだりに、こころをわずらわすな、といいきかせておいたに、世をうれえるのをあまり、みずから、こころをいためて、かくは、なったのである。いまは、せんすべもない。されど、世のため、人のために、身を犠牲にしたのであるから、いきても神。しにても神。
みな、しぬるのを、なげくけれども、月でも、みよ、くもがかくすことがある。この二十日になっても、ようなければ、二十四日が、安心のできる日じゃ」
とさとすところがあったが、はたして、その二十四日、しずみゆく春の日とともに世をさった。ときに齢六十五であった。葬儀は、難波神社社司権大講義武津八千穂によって、岩崎墓地にいとなまれ、「白神弥広イヤヒロ真道別命マミチワケノミコト」とおくられ、後、明治四十二年(一九〇九)三月二十二日、阿倍野のいまの墓地に改葬せられた(初代白神先生年表、初代白神新一郎師)。

… 信吉教蹟をつぐ

 かくて、その教蹟は、嗣子信吉によってつがれ、その名も「新一郎」とあらためられた。
 信吉は、性、質実重厚にして寡黙、しかも事理に通じ、大局をみるの明をそなえていた。
 はじめ、新一郎の歿するや、篤信の徒は、その教蹟をつぐべきことを信吉に懇請したが、信吉は、到底、その器ウツワにあらずとして、にわかに、がえんずるところがなかった。

… 後継者に対するみさとし

 信吉は、亡父の十日祭をおえるとともに、斎藤宇兵衛・小川イトをともない霊地にもうで、金光大神を拝して、亡父が生前の神恩を謝し、今後のことについて、
 「いかが、いたしたものでございましょう」
と神意のあるところを、うかがうのであった。金光大神は、
 「その方のこころは、どうか」
と反問した。信吉は、かしこみて、
 「なるべくは、おやのあとをついで、お道をつたえたいものとおもいますが、これまで、商売一途に従事いたしおりました私、なにごとも存じませんので、はなはだ不安におもいます」
とこたえた。すると、金光大神は、
 「おやのあとを、子がつぐが当然、おまえのこころがけが結構じゃ。是非、そうするがよかろう」
とさとした。信吉は、
 「然らば、<*3>おみくじなりと、おさずけくだされ」
と率直にきこえあげると、金光大神は、
 「それは信心次第のもの。まずまず、そんなことを心配せずに、信者に理解をしてやれば、よろしい」
とさとした。信吉は、
 「その御理解の方法を、うけたまわりたいものです」というと、金光大神は、
 「理解は、そのとき、その人についてするもの。あらかじめ、かくかくせよ、と方法をさずけるわけにはゆかぬ。なにも、そのように心配することはない。ただ、一心に信心しておれば、自然にわかってくる。人にたのまずに、父のあとをつげ、神さまがおしえてくださる」
とさとし、さらに,
 「おもうたことを、そのままに、はなしてやれ。神さまが、あわせてくだされば、よかろうが」
と、まことに懇切をきわめた(道興弥高根君)。信吉は、ここに、はじめて覚悟がさだまり、勇躍して帰途についた。金光大神は、
 「この方いきておるあいだに、はや、二代目ができた」
とてよろこび、かつ、その将来を祝福した(教団史要)。

… 教子等出でて取次にしたがう

 白神新一郎の大阪における取次は、わずかに三年をいでなかったが、その生前、教子らのなかから、はやくも、身を、取次にゆだねるものが輩出した。その主たるもの、大阪に、近藤与三郎・吉田綾子・泉谷イズミダニ京・桧皮ヒワダ安兵衛・和田楠松(安兵衛)・龍田ツル等があり、兵庫に、井口市兵衛があり、京都に、中野セイ・葦田アシダ道之助・田中庄吉・田畑五郎右衛門(久世郡寺田村)等があった。かくて、その教系は、東日本にあまねく、さらに、とおく海外にもおよんだ。

… 近藤与三郎(藤守)の入信

 近藤藤守は、はじめの名を与三郎とよんだ。安政二年(一八五五)八月二十日、大阪大手通にうまれ、父を弥左衛門、母をエイというた。家は「天満屋」と号し、代々、城代番出入頭・江戸三度飛脚を業としていた。
 弥左衛門は、町人ながら、一種の風格をそなえ、つねに摂州吹田垂水在、隠士、及川オイカワ鼎カナエのもとをたずねて修養につとめ、与三郎も、父にともなわれて、しばしば、その門をくぐった。
 与三郎が、十四歳の年のある日、及川老仙は、与三郎を、じっとみて、
 「かわいそうなが、この児は十七が非命、二十五が天命じゃ。養子をもろうておきなされ」
という。弥左衛門は、
 「さようでありますか。実は、天満屋は私で九代目、この天満屋も、私かぎりとおもいまして、雅号も『九陰』とつけております」
とこたえるのであった。
 与三郎は、そばから、
 「それでは、どうしても死にますか」
とあやしみただすと、
 「そうじゃ、どうしてもいけぬが、十七は、養生のしようでたすかる。この薬をのめ」
とて薬をくれた、ということである。
 はたして、与三郎は、十七歳の年(明治四)の五月五日、大患にかかり、さらに、二十五歳の年(明治十二)にふたたび大病におかされた。当時、織屋町にすんでいた旧金沢藩士三宅某という医師は、これを<*4>脳癆と診断した。与三郎は、老仙かねての言もあり、いよいよ天命来れり、として覚悟するところがあった。

 あたかも、出入の呉服商人に、南本町二丁目、伊藤文助というものがあった。みずから蒙った霊験談をして、しきりに信心をすすめてくれた。
 与三郎は、生来、うたがいぶかい性質であったので、文助のはなしを、はじめのほどは、冷評ヒヤカしていたが、あまりの熱心さにうごかされ、明治十三年二月十三日、夫婦づれで、伏見町当時の、白神新一郎の広前にもうでたが(初代白神先生年表)、もとより、様子をみにゆくという程度のことであった。
 与三郎は、わが身のことは、ねがうこころになれず、妻の、持病の癪のなおるようにとねがうのであった。新一郎は、懇切に理解をあたえた。その一節に、
 「備中国浅口郡大谷村、生神金光大神様が、おひらきくだされたる御教で、神さまは、天地金乃神さまと申上げ、天は日・月さま、地は金乃神さまが、おまもりくださる。天は父、地は母なり。むかしより、天はおがめども、地を拝せず。まことに、あやまりである。天恩をしるとともに、地恩の宏大なることを知らねばならぬ」
とあったのに、いたくこころをうごかされ、そのうえ、そのときの理解のなかに、「おかげは和賀心にある」とあったことも、いたく与三郎の気にかない、かえりのみちすがら、ただちにお宮をもとめて、神を奉斎したのであったが、妻の病気は、ほどなく全快をみた。与三郎は、
 「あの人(白神新一郎)は、たとえ山師にせよ、教は結構である。ひとつ、信心してみよう」
という気になり、ある日のゆうがた、つくづくと、わが、こしかたをかえりみて、
 「自分は、これまで、天恩・地恩と申すことは、しらずにくらしてきたのであるから、天に対しても、地に対しても、おかせる罪は、すくなくないであろう。また、こどものおりから、親に不孝をいたし、人さまにものをかりたり、御迷惑をかけたことこそないが、随分、放蕩もして、祖先からの金銭を、湯水のごとくつかったこともある。これ等の行為は、法律には、ふれるようなことは毛頭ないが、天地の神律には、さぞかし、段々、ふれていよう。すなわち、天地に対して、かずかず、御無礼は、かさなってあるにちがいない。天命で死ぬのも、脳癆などという業病にかかるのも当然である。今日は、神さまに一切の懺悔をしよう。懺悔は、すなわち自訴である。このうえは、天地の神律によって、いかようとも裁判をあおごう」
とこころをさだめて、まだ、奉仕の作法もわきまえぬままに、神前に<*5>三鉢ミツバチと、一二合ほどの御酒とをそなえ、与三郎は、そのおさがりをいただいた。

… 与三郎難症をすくわる

 当時、与三郎は、酒とては、一滴も口にしなかった。これをいただけば、死ぬにきまっている。もとより医師も手をきり、天命もつきている。よかれ、あしかれ、すべては神律によって、裁判をうけよう、とそのまま神前に、すわりこむのであった。
 夜のふけるにつれて、いつか、うとうとした。ふと眼をさますと、すでに夜もあけており、そして、自分は、いきているのである。それのみでなく、年来の頑固な脳癆が、わすれたように、ぬぐいさられていることに気がついた。いまさら、歓喜の情にたえぬ与三郎は、とるものもとりあえず、伏見町にかけつけたのであるが、広前には、戸がたてられてあった。こころならずも、むなしく日をおくるうちに、「立売堀に金神さまがある」とのうわさに、もしやとおもいながら、参拝すると、それは、まがう方なき、新一郎の広前であった。与三郎のよろこびは、たとえるにものなく、ありし次第をのべて衷心感謝した。かくて、与三郎は、道の人となったのである。
 与三郎が、はじめて金光大神を拝したのは、明治十四年(一八八一)二月一日(旧正月三日)、それは、軒につららのたれている、さむい夕のことであった。金光大神は、夜のふけるまで、与三郎夫婦に、ねんごろに理解した。

… 難波村に取次にしたがう

 かくて、与三郎は、もっぱら立売堀の広前にあって、もうでくる人々に道をとき、後、家業を廃して難波村に居をうつし、専心、取次に、身をゆだねることとなった。それは、明治十四年(一八八一)十二月のことであった。神のひれいは、ここにも、とみにかがやいたが、警察の眼もまた、するどく、これにむけられるのであった。
 明治十五年(一八八二)五月十五日、南警察署は、
 「その職にあらずして神をまつり、衆庶を参集せしめる」
というかどによって、十日の拘留処分に附したのである。こえて六月七日、与三郎は、霊地にもうで、金光大神を拝して、ありしことどもをものがたって、感謝したが、金光大神は、この日、名を「藤守」とあたえた(まつのみどり)。

… 京都布教の開始

 近藤藤守の熱烈な取次は、大阪における道のすがたに、さらに、一段の光彩をそえた。明治十六年(一八八三)には、白神新一郎の教子、中野米次郎が京都下京吉水町に、明治十八年(一八八五)には、近藤藤守の教子、杉田政次郎が京都島原に、いずれも広前をもうけ、両々あいまって、京洛の地の教勢を開拓した。近江高宮の人堤清四郎が、この地の定宿、相宗豊次郎によって、はじめて道のうわさを耳にしたのも、このころであった(高宮教会文書)。

… 畑徳三郎の入信

 白神新一郎の宿願たる東京布教を、一生の使命として、身命を、これにささげた畑徳三郎が、山城久世クゼ郡寺田の人、田畑五郎右衛門によって、郷里伏見にあって入信し、近藤藤守の取次によって、不治の難症をすくわれたのは、明治十六年(一八八三)九月八日のことであって、東京布教の種子タネは、このとき、すでに用意せられたのである。

<1>経歴未詳 <2>もとアイヌの衣服に用いたる織物、大阪南部地方に産す
<3>神のおしらせを俗にかくいう <4>脳漏か。脳漏は慢性鼻カタルの旧称
<*5>肴三種の称、煮物・刺身・塩焼

.. (三四)四国路の先駆

… 高橋常造

 四国路における、わが道の先駆者は、浅井岩蔵の教子、高橋常造である。
 常造は、安政二年(一八五五)十一月十八日、讃岐三豊郡和田村大字箕浦ミノウラにうまれ、はじめ、川下梅次とよばれ、船乗を業としていた。船を、しばしば笠岡によせているうちに、斎藤重右衛門のことを耳にし、その広前にもうでて、取次をあおぎ、後、信心ようやくすすむにつれて、といくる人々のために、みずから、道をとくこととなり、高橋家にいって、名をも常造とあらためた(毛利良吉)。
 常造は、後、浅井岩蔵について修行をかさね、その神徳遠近にきこえ、きたって、すくいをもとめるものが、しだいにおおくなった。
 明治三十年(一八九七)一月十日、常造は、居を、伊予川之江にうつして、ここに教会をもうけたが、行持、謹厳にして、信者に対する理解、また懇切をきわめ、その神徳を、したいあつまるもの、日々、門前、市をなすありさまであった。かくて、常造によってすくわれるもの、ほとんど、万をもってかぞえられ、教化はあまねく、讃予のあいだにおよんだ。

.. (三五)教団組織の機運

… 教団組織の要求

 神主職をうしのうてのちの金光大神が、いろいろの困難に当面した事実は、すでに、しるしたところである。
 地方にあって取次にしたがうものも、おなじような困難に、でおうたことは、白神新一郎・近藤藤守等が、しばしば、官憲のとがめをうけたことによっても、しられるのである。
 白神新一郎が、神道中教院所属のかたちをとり、唐樋常蔵が、<1>神宮教教師となり、田中庄吉等が、<2>御金神社を創立し、葦田道之助が、その講師となったなど、みな当面の困難に処する、かりのはからいであった。
 しかしながら、金光大神は、ひざをまげて他の配下クミシタになっては、神のひれいがたたぬとし、また国民教化の機関として、<*3>明治初年に政府の設置した教導職につくことをも、いさぎよしとせず。いわんや、人間の利巧を弄し、金銭を投じて、一時を糊塗するごときことの、到底、功をなすものでないことをしっていた。
されば、一面、当局の黙許をえるとともに、ひたすら時節をまち、地方にあって取次にしたがうものにも、「はなしでたすかるみちである」ことをさとして(佐藤範雄)、世間の誤解をまねき、官憲を刺戟することなきように、といましめていた。
 この間、教団を組織して、積極的に、教義を宣布しようとする気運も、こころあるもののあいだに、うながされていた。その主なるものに、佐藤範雄・白神新一郎(信吉)・近藤藤守があった。

… 佐藤範雄の入信

 佐藤範雄は、はじめの名を皆治郎ミナジロウとよび、安政三年(一八五六)二月八日、備後<4>安那郡上御領村にうまれ、父を吉五郎、母を満貴マキとよんだ。皆治郎は、その三男である。  家は、代々、村の組頭をつとめていた。文久三年(一八六三)五月二十八日、用水池の決潰によって、所有の田畑をうしない、極度の貧窮におちいり、くわうるに父が、藩主福山侯長州征伐の軍役に、人夫として徴発せられたので、母の機織ハタオリの手内職などによって、わずかに、一家の生計がささえられていた。  皆治郎は、かかる境遇にそだてられ、六歳(文久元)のとき、おもい疱瘡にかかり、余毒のために膿瘍ノウヨウをおこして、重態におちいったが、外科の名手、菊池隆伯によって、いのちを、まっとうすることができた。  明治四年(一八七一)十六歳にして大工職にこころざし、ひそかに「明治の左甚五郎」たらんことを期して、備中小田郡<5>大江村、棟梁坂本峰蔵の徒弟となり、ひたすら技にはげんだ。かく、技にはげむかたわら、夜学にかよい、道具箱にひきだしをとりつけて、他からかりた<*6>『経典ケイテン余師ヨシ』その他の書籍を、底にしのばせて、休憩のときには、これをひもとき、学問にはげむことをも、わすれなかった。かくして、十八歳(明治六)の年には、はやくも一人前の腕になることができた(吾生立の概要)。

 建築業者は、その職業がら、かの方位・日柄・家相のことを、ことに、やかましくいうのが、一般のならわしであったが、皆治郎は、つねに、こころひそかに、これをあきたらぬことにおもうていた。
 明治八年(一八七五)晩秋の一夕、たまたま、ほどちかい<7>高屋村吉野の人、土肥トヒ弥吉が、入浴のために皆治郎の家をおとずれた。皆治郎の母は弥吉をみて、  「弥吉さん、いざりになっておられたが、どうしてなおりましたか」 とあやしみたずねると、弥吉は、  「<8>井原の千原という医師に、みてもらいましたら、五十服や百服の薬をのんで、きくの、きかぬのというようでは薬はやらぬ、といわれましたが、近所の<*9>中村信ノブさんが、玉島から一里ほど西で、大谷というところに、金光さまと申される生神さまがあるから、そこへまいれ、とおしえてくれましたので、妻が、本家の甥をつれて代参しましたら、生神さまのおしえに、『今日から、ぬれがみを、一枚ずつ、はぐように、なおしてやる』といわれまして、それから五十日めに自分ではおぼえず、表窓の、障子のたて桟ザンをにぎって、たっておりますと、妻が『オヤ、あなた、あしがたちましたなあ』というのをきいて、ほんに、たっておるわい、と自分も気がつき、ありがたくて、こえをあげてなきました。それから、このように全快いたしました。
おうちにも、信心なされませ。皆治郎さんが、大工をしておられるが、『これまで、建築フシン・作事に、鬼門金神・八将神のたたり、方位・方角のさわり、三隣亡じゃの、縁談・縁組に相性・相剋のとがめなどと、おそれておったが、この方のおしえをまもれば、勝手・自由にさせて、家繁昌・子孫繁昌をまもってやる』との、みおしえであります」
と、ものがたるのであった。
 皆治郎は、かたわらにあってこれをきき、おもわず、一種の霊感にうたれ、いいしれぬ感激をおぼえ、翌朝、はやくも手ずから神棚をしつらえて、神を奉斎した(信仰回顧六十五年)。これが、皆治郎入信の機縁である。

… はじめて金光大神を拝す

 皆治郎が、はじめて金光大神を拝したのは、明治九年(一八七六)二十一歳の年の<10>二月四日であった。  この日、皆治郎は、弥吉につれられて、まいった。弥吉は、  「金光さま、きょうは、はじめての、わかい氏子をつれてまいりました」 とて、皆治郎をひきあわせた。金光大神は、皆治郎をかえりみて、  「よくおまいりなされた。なんのおねがいか」 とたずねた。  「なんのおねがいもござりませぬ」 とこたえると、金光大神は、けしきうるわしく「そうか」と、ただ一言もらしただけであった。金光大神は、やがて祈念の座についたが、  「辰の年、一心に信心せよ。大願成就をさせる。人をたすける身となれよ」 との裁伝があった。  皆治郎は、この「大願成就をさせる」の一語をもって、かの「明治の左甚五郎」のことと速断し、「人をたすける身となれよ」という点は、耳にいらぬもののごとくであったのである。  皆治郎は、なお、種々理解をうけ、弥吉とつれだって帰途についたが、里見川の<11>仮橋のあたりから、広前の方をかえりみて、
 「あの薮のなかから、生神さまが、天におかよいなさる道がついておる」
と、無限の感にうたれたのであった。
 皆治郎が、この年(明治九)八月二十八日、参拝のとき、神は、
 「御領の氏子、大工という職は、宮・寺をもたてる、とうとい職分ではあるが、その職人は世におおい。人のいのちをたすけるものは、すくないぞ。職をやめて、神に一心になれよ」
とさとすのであった。
 皆治郎は、日に、日に、信心をすすめていったが、職をやめるこころには、到底、なることができなかった。されば、明治十一年(一八七八)秋の、ある日の参拝のおりに、金光大神は、
 「氏子は、この方のいうことは、きかぬかやあ。脛・腰がたたぬようになったら、たすけてくれ、というて神のまえに、すわるのか」
と、いかにも、もどかしげにさとすのであったが、皆治郎には、なお「脛・腰がたたぬようになったら」ということが、「年おいてからのこと」と解せられて、その真意は、なお、通ずるところが、なかったのである。

… 神の警醒

 ここにいたって、神の警醒のむちは、直接、皆治郎の身にくわえられることとなった。その第一は、明治十二年(一八七九)三月であった。皆治郎は、同職、井上甚太郎とともに、隣村、八尋村の山中で、梁の用材をつくっていた。二人で、それを、もちあげようとするはずみに、皆治郎は腰をくじいた。たってはおられるが、かがむことはできぬ。すわることはできても、たつことができぬようになった。それでも、不思議に、歩行はかなうのである。すぐに家にかえって祈念したが、神は、
 「それは、なおしてやるが、神のいうことをまもれ」
とさとすのであった。かくて、腰のいたみは、一週間ほどでなくなった。
 その第二は、五月三十日であった。この日、皆治郎は、兄弟子入江順太郎とともに、高屋村の吉谷屋ヨシタニヤという醤油屋で、醤油槽の据附作業をした。醤油槽には、醤油をしぼる、ふとい樫材カシザイの横木ヨコギ(男木オンギ)が、その上によこたえられ、横木の一端は、女木メンギとよばれる竪木タテギに、はめこまれ、他の一端は、綱で天井にささえられ、綱は、小田巻となづける轆轤ロクロで伸縮し、横木を、上下に操作することができるようになっている。醤油をしぼるときには、この横木に、さらに、重量をくわえるのである。
 皆治郎は、横木を、竪木にはめこむ作業にあたっていたが、あやまって、刃わたり七寸余もある<12>杣木割ソマキワリを、右足の拇指のあいだに、うちこんだのである。  「しまった」 と皆治郎がさけぶと、  「足はあるか」 と順太郎が、さけびかえした。気をとりなおしてみると、一滴の血さえ、みえぬのである。仔細にみると、その拇指のあいだに、一片の木屑が、はさまっていたのである。  これにおどろいた兄弟子は、皆治郎の仕事を自分でかわり、皆治郎に、横木をささえる、綱のはしをもたしめた。その綱をしっかりと、ひかえておれば、横木は、宙にたもたれるのであるが、皆治郎には、その横木を宙にささえているだけの体重がない。横木のさがるにつれて、皆治郎のからだは、あなやというまに、うえにつりあげられた。みな、色をうしのうた。あやうく、轆轤にまきこまれようとした途端に、横木が地についたので、ことなきをえた。  かさねがさねのできごとに、ちぢみあがった吉谷屋の妻女は、  「もう、今日は仕事をやめてくれ」 といい、「トオカミエミタメ、トオカミエミタメ」と「三種祓サンジュノハライ」を口にしながら、塩をまいて、あたりをきよめるのであった。  みずから持することのつよい皆治郎も、ここにいたって、ようやく「脛・腰がたたぬようになったら」との神のいましめを、さとることができ、断然、職をやめるこころになったのである。家にかえって、其の旨を、神前に申上げると、神は、  「なお三十五日間、これまでどおり、仕事をいたせ」 とさとすのであった。かくて、三十五日を経た七月三日(明治十二)をもって職をやめ、ついでその月二十五日、神のみさとしのままに、名を「範雄」とあらため、専心、取次にしたがうこととなったのである。  明治十五年(一八八二)四月一日、範雄は、齢二十七にして、小田郡<13>富岡村の農、平野五良四郎二女照(二十一歳)をめとり、五男二女をあげた。

… 教団組織の機運

 範雄は、つとに一教組織の大願をたて、いかにしても、金光大神の偉大な教義を、公然、天下に宣布し得るようにせねばならぬ、と決意した。
 明治十五年(一八八二)八月、<14>安那郡平野村の人、<15>長岡宣ノブルを介して、鞆ノ津沼名前ヌナクマ神社宮司<*16>吉岡徳明ノリアキをたずね、範雄は、その素願をのべて、
 「なにとか、おとりたてをねがいたし」
と申入れるのであった。
 徳明は、これに対して、教義の大綱をしめすべき「信条」があるか、とただした。範雄は、
 「信条とは、なんでありますか」
とたずねた。信条とは、教義を箇条書にしたものであるとの説明を得、範雄は、その意向を了し、将来のことどもをたのみおいて辞去した。翌日、霊地にもうでて、みぎの次第を委細にきこえあげると、金光大神は、
 「この方は、人がたすかることさえできれば、それで結構である。これまで、ほかからも、道が、上カミにつらぬくようにいたしたい、とねごうたものが、なんぼうもあった」
という(信仰回顧六十五年)。そこで範雄は、
 「金光さま、おわするあいだは、おおせのとおりで結構でありますが、おかくれののち、なにか、かいたものがありませぬと、世の、はやり神と、おなじようにおもわれます」
と、おして進言した。
金光大神は、そのむねを神前に奏した。すると、
 「神のおしえることを、なにかと、かいておくがよかろう」
との裁伝があり、
 「あのように、おゆるしがあった」
とて、金光大神も、よろこぶのであった(神誡神訓拝承の次第)。

… 「神誡」「神訓」成る

 範雄は、この日、委細を金光萩雄にもものがたり、この年(明治十五年)の秋から、翌、十六年(一八八三)の夏にわたって、かみのおしえのあるごとに、「これもかいておくかのう」「これもかいておくかのう」との、金光大神のことばにまかせて、これを記録するのであった(神誡神訓拝承の次第)。範雄は、これを箇条書にして萩雄にしめし、さらに、金光大神は、これを神前に奏し、かくして、神のおしえは、一箇条・一箇条とまとまっていった(記念の神語)。わけて、十六年夏のころには、金光大神は、このため、ときに、夜を徹することもあった。いまの「神誡」「神訓」は、かくのごとくにして、つたえられたのである。

… 神誡・神訓の淵源

 明治十六年(一八八三)九月八日、範雄は、
 「金光さま、今日コンニチまで、かずかず、ありがたいみおしえごとを、うけたまわりましたが、どの道でも、奥義というものがありますが、この御道の奥義は、なにでありますか」
とたずねると、金光大神は、こえの、ひびきに応ずるように、
 「この方の道は九箇条である」
とて、
 一、方位 二、毒立ドクダテ 三、不成フジョウ  三ツ
 四、慾徳 五、神徳 六、人徳  三ツ
 七、神  八、皇上カミ 九、祖(親)孝 三ツ
とつたえ、そして、
 「この方の『ふじょう』は、『きよからず』とかくのではない。『ならず』とかくのぞ。ものごと、成就せざるを『不成』というのぞ」
 「神徳とは『寿命長久』、人徳とは『人にもちいられること』である」
とさとした(記念の神語)。これについて佐藤範雄は、「この九箇条を拝せば、我道の発達の順序も、神誡・神訓の淵源も拝せられる」と、かたっている(教祖御教の大綱)。

… 神道大阪分局員来る

 明治十六年(一八八三)七月十二日、神道大阪分局宣教師が、金光大神を、おとずれた。その主旨とするところは、今や、京阪地方に、金光大神の道がひらけ、つぎつぎに取次の広前がもうけられ、そのおおくは、「神道分局派出説教所」の名目をもちいているが、道の実体が判然せず、したがって、いろいろの問題を生じてこまるので、実状を調査し、したしく金光大神に面接して、問題になる点をあきらかにし、なにとか、方途を講ずるようにしたい、というにあった。

… 上下そろう

 これよりさき六月九日、白神新一郎(信吉)・近藤藤守うちつれて金光大神にまみえ、このよしを、きこえあげるところがあった。金光大神は祈念ののち、
 「御領におもむき、佐藤範雄と相談するように」と指示した。
 ここにおいて、両人一行は、翌十日、範雄を御領にとい、当面の打合をおこなうとともに、道の将来について、つぶさにうちかたらい、夜のあけるをもしらなかった。
 当時、新一郎は三十七歳、藤守は二十九歳、範雄は二十八歳であった。烈々たる信念にもえさかるこれ等三者の鼎談は、まことに一教組織のうえの、意義ふかきものであり、金光大神も、広前にあってこのことをきき、
 「<*17>上・下そろうた」
とて、たのもしげに、うちうなずくのであった。

… 神道大阪分局の意向

 かくして、七月十二日、神道大阪分局宣教師亀田加受美カズミ・吉本清逸キヨイツ(武津フカツ八千穂不参)が、白神・近藤等の案内で来訪し、佐藤範雄が、これを<*18>旅宿にむかえ、来意をただした。
 このとき、分局案として、もたらしたところのものは、「金乃神」の神名にちなんで、金山彦命を祀る、美濃宮代ミヤシロ鎮座の南宮ナングウ神社の分霊を歓請して、金光大神の広前を、その出社とし、そこから、取次の方途をたてる、ということにあった。
 範雄は、この案を、ただちに金光大神にしめし、あらかじめ、その意向をうかがうところがあったが、金光大神は、言下に、
 「この方の神さまは、ちがう。そのとおりには、できませぬというてくれ」
とて、ここにも、儼然たる態度をしめすのであった。

 範雄は、その意を体し、両宣教師を広前にみちびいた。一行は、身をきよめ、威儀をただして金光大神にまみえ、その、もたらした分局案について進言した。金光大神は、これに対して、
 「御苦労でありました」
とて一行をねぎらい、
 「佐藤をもって、おはなしいたさせます」
と挨拶した。かくて、一行は旅宿にひきとり、くちぐちに、
 「議論の外じゃ」
と感嘆のこえをはなった。範雄は、金光大神の意のあるところを、あきらかにした。これに対して、一行は、ただ「えらいおかたじゃ」と、もらすのみで、なんら、取きめるところもなく、白神・近藤におくられて、そのまま、帰阪したのである(上下揃うの御神意)。

… 教団の組織はじめて成る

 一教組織のことは、金光大神帰幽ののち、はじめて、その方途がたてられ、明治十八年(一八八五)六月、<*19>神道事務局に属して金光教会を創設し、さらに、明治三十三年(一九〇〇)六月、金光教として独立したのである。

<1>明治十五年五月神道事務局より分離し、「神道神宮派」と称す <2>京都押(小路)西洞院町。明治十五年創建
<3>明治五年四月二十五日、教部省に隷属 <4>現深安郡御野村
<5>現井原市 <6>渓百年著、四書訓釈、十巻。大江村橋本一作より借入
<7>現井原市高屋町 <8>現井原市
<9>信次郎 <10>旧正月十日、金光大神祭日
<11>現神影橋のやや上手に架せられたり <12>斧の一種
<13>現笠岡市 <14>現深安郡御野村
<15>神道事務支局副長にして小学校長を兼ねたり <16>元、天台宗僧籍にありしが、維新の際還俗して神職となれり
<17>大谷以東を「上」、以西を「下」とす <18>後の「吉備乃家」
<*19>後の神道本局

.. (三六)金光大神の修行

… 生活即修行

 金光大神の全生活は、それが、そのまま修行であったのである。
 ことに安政五年(一八五八)七月十三日、みずから、神のみさとしを感得するようになってからは、なにごとも「神のおおせどおり、なにかによらず、そむかず」、まったく「我」をはなれたものであったのである。そこには、神から「修行」として課せられたものもあれば、「おためし」として、こころみられたものもあったのである。

… 百日修行

 金光大神の記録のなかには、「百日修行」ということが、しるされている。すなわち、明治八年(一八七五)十一月十五日、
 「百日修行たのしめ」
との神のみさとしをうけ、やがて明治九年(一八七六)二月二十二日、
 「無事にあいたち、御礼申上げ」
としるされている。さらに、明治十六年(一八八三)七月一日、片岡次郎四郎参拝のみぎり、金光大神は、「神さまのおおせで、金光大神、今日から『百日の修行』にいる。これで、この方一切の修行が成就するのじゃ。そのもとも、才崎にあって修行せよ云々」
と、さとした(片岡次郎)。
 これ等は、日をかぎった特殊の修行であったのであるが、それが、どのようなものであったかは、あきらかでない。

… 蚊帳を廃す

 明治九年(一八七六)五月十日、神は、金光大神に、
 「かやをつるな。蚊がくうて、<1>ちみどりになっても、だいじなし」 とさとし、こえて、明治十二年(一八七九)五月三十日、「かや御免」になった。この間、三箇年二十日であって、夏を、三度すごしたことになる。  金光大神は、生来、蚊がきらいであったことは、かの安政五年(一八五八)の秋「あきうんか」のことについての、みさとしの際、  「その方は、ひごろ、蚊にまけて<2>ほろせがでる」
と神の指摘しているとおりである。したがって、このことは、金光大神にとっては、一の、容易ならぬ修行であったといえよう。しかも、金光大神は、その初年の経過を、
 「当年は、格別に、蚊がさわらず」
としるし、やがて三度の夏を、無事にすごしたのである。
 金光大神は、晩年、蚊が、ささぬようになった。高橋富枝も、同様であったとつたえられる(高橋沢野)。ある年の夏の一夕、金光大神は、富枝とともに、うちかたろうとしていた。やがて、一子大神もそこにきたが、一子大神は、蚊にたえずして、
 「ああ、かゆい、かゆい。あなたがたは、蚊がくわぬからよいが、私は、蚊がくうから、どうもならぬ。子どものところへいって、ねさしてもらいます」
とて、東長屋の方へ、でていった、ということであるが(同上)、「格別に蚊がさわらず」ということに、おもいあわされるものである。

… 神のおためし

 神の「おためし」のなかには、金とか、宝とかを、ひろいにゆけ、と金光大神に命じた、ということが、つたえられている。それは、まだ金光大神が、農耕にたずさわっていたときのことであった。神は、
 「これから、はやく占見の<3>経免堂まで、いってみい。そこに宝がある」 とか、  「<4>三宅までいってみい、宝がある」
とか、さとすのである。金光大神は、このみさとしがあると、祈念中でも、仕事中でも、すぐに駈けていった(藤井広武)。
 また、あるときには、神は、
 「あすのあさ、はようおきて、玉島のまちへゆけ。金が、五百円おちておる。それを、その方へさずけてやる。ひろうてこい」とさとした。金光大神は、弁当をたずさえて玉島におもむき、所々をたずねて、ひるどきになったので弁当をひらいた。金光大神は、
 「ただいままで、まわりましたけれども、おちておりませぬから、かえりましょうか」
と神にうかがうと、
 「日がくれるまでまわれ。是非、おちておる」
ということで、ついに夕方になった。金光大神は、
 「おちておらぬから、もうかえりましょうか」
と、再応、うかごうた。神は、
 「その方のふところに銭はあるか」
とたずねた。
 「わたくしのは、まるでござります」
とこたえると、
 「その方のがあれば、他も大切なから、おとさぬからかえれ」
と金光大神をさとした(大喜田喜三郎)。
 専心、取次に奉仕する身となってから後のある日、神は、
 「あすは、金をひろわせてやるから、西へゆけ」
とさとした。金光大神は、弁当を用意して、二里ばかりをゆき、「もっと西へゆきましょうか」
とうかがうと、「もっとゆけ」ということで、富岡あたりまでいった。「どうでござりましょうか」とうかがうと、さらに「もっとゆけ」とのことで、ついに、笠岡までいった。あたかも、ひるどきになったので、茶店で食事をすませて、しばらく休息したが、
 「かえったら、よかろう」
との神のみさとしがあって、ここからひきかえした。
 「ただいま、かえりました。ありがとうござります」
と神前に拝礼すると、神は、
 「金は、おちておったか」
とたずねた。
 「おちておりました」
とこたえると、さらに、
 「なにほど、おちておったか」
と、神は追究する。
 「へい、いくらかわかりませぬ。わたくしは、今日、ひさしぶりに、からだを動かすことができて、血のめぐりもよくなり、それだけ丈夫にならせていただくことが、できました。これは、金銭では得られませぬ」とこたえると、神は、
 「その方は、どちらから、もっていっても、よい方にとる」
とさとすのであった(近藤藤守)。
 これに類するはなしは、なお、いろいろにつたえられている。さらに佐藤範雄は、
 「これは、<*5>山神様よりも、金照明神様よりも、承ったのである。『深夜、参詣人もない時に、神様の御指図で、御広前の南庭に御出になって、子供の鬼ごっこをする様に、西に駈けれ、東に駈けれと、御指図があって、幾度も幾度もなされ、もう止めよ、と神様より御指図があると、御止めなされた』との事である」
とかたっている(記念の神語)。これ等は、いずれも、神のみさとしに、よろこびしたがい、あえて、ゆるがせにすることのなかった金光大神の態度を、ものがたるものである。
 以上のほか、断食・水行をはじめ、いろいろのことが、修行として、こころみられたもののごとくであって、金光萩雄は、
 「なにもかも、のこらずしてみる、という御考にてありたるらしく、修行につきては、『無理な事をすな。自分で、して見よう、とおもうことは、して見い』とおおせられたり」
とかたっている(聞書)。

<1>「ちみどろ」の訛 <2>◇子
<3>「胡麻屋」より鴨方に通ずる道路南側に、観音辻堂あるより地名となれり <4>現金光町地頭下の小字
<*5>「山神様」-金光萩雄。「金照明神様」-高橋富枝

.. (三七)現身の取次を終う

… 死期の予言

 それは、明治九年(一八七六)秋のことであった。備前上道郡<*1>松崎新田の人、伍賀慶春が参拝したとき、かずかずの裁伝のあった後、一段、こえをひそめて、
 「旧暦と新暦と両方あるが、さきで、どちらも、九日・十日つれのうてゆくときがあるぞえ。そのときに、神あがりするぞえ」
と、金光大神は、いいきかせるのであった。
 こえて、明治十一年(一八七八)五月十日、片岡次郎四郎に、子息、幸之進の将来のことどもを、さとした金光大神のことばのなかに、
 「そのあいだには、この方も、世もかわり、二十五年にもなり」
という一節があった。「二十五年にもなり」とは、金光大神取次の期間を意味するものと解せられるのであって、これ等は、いずれも、現身をもっての取次を、おえる日や年を、暗示したものとおもわれる。
 金光大神は、つねに、「自分が、すがたをかくせば、御比礼がたつ」とかたり(熊野藤七)、「この方は、いつ、なくならぬとはいえぬ」ともかたり(山本留)、さらに「わしは、死にはせぬ。ものいわぬようになったら、このまま、やしろへはいるのじゃ」ともかたっていた(近藤藤守)。ことに、その子女等には、「あすの日に、すがたをかくすかもしれぬから、ききたいことは、きいておけ」とも、さとしていた(金光萩雄)。
 明治十六年(一八八三)元旦、藤井恒次郎参拝のとき、「金光大神の身に、むしが入った」
という裁伝の一節を耳にした(藤井くら)。そして、この日、金光大神は、朝祈念ののち、
 「みんな来い、申しわたすことがある」
とて家族をあつめ、
 「なにごとも、これまで、いうておるとおりじゃから、これまでどおりに、大切にしてゆかねばならぬ」
とさとした(金光萩雄)。

… 夏のころよりようやく力なし

 この年(明治十六)の夏は、まれにみるあつさであった。百日ばかりも旱天がうちつづいた。その夏のある日、備前上道郡<2>福泊の人、難波なみが参拝したときに、金光大神は、  「ことしのひでりは、金光の身にあたったとみい。<3>卯の年、金光は、わずろうて棺のなかへ、はいるとおもうかい。いきておっても、棺のなかへ、はいるぞよう」
とさとしたごとく、このころから、食事がしだいにへって、なにとなく、ものうげにみえ、わずかに、<*4>白雪◇ハクセツコウで、茶をのむくらいのことであり(藤井くら)、後には、広前への出入も、はいながら、するようになった(金光萩雄)。

… 高橋富枝最後の教をうく

 八月二十六日、高橋富枝が参拝したときの金光大神は、なにとなく、なごりをおしむもののごとくにみえた。この日、金光大神は、いつになく控の間に、うちくつろぎ、あつさ二寸余もある、ひとつづりの帳面を手にし、富枝をかえりみて、
 「あなたは、神さまから、みおしえのあったことを、かきつけておられますか」と、たずねるのであった。富枝は、
 「いえ、わたくしは、かいてはおりませぬが、おぼえております」
とこたえると、金光大神は、
 「わたくしは、こんなにかいておりますが、わたくしのは、無筆者のことじゃから、人に、おみせ申すことはできぬが、倅がおりますから、よいようにしてくれましょうわい。
 『ようも、ようも、こういうことが、できましたのう』と、けさほどから、何度も何度も、日天四(子)・月天四(子)が、そうおっしゃる。『よう、これまで、つとめてくれたのう』とおっしゃりますのじゃ」
とて、ほろほろと落涙するのであった。
 「今晩は、おとまりなされば、よいに」
と、まことにねんごろであったが、富枝は、
 「はじめて、<*5>沢野をおいてまいりましたので、母が、こまりましょうから」
とて、やがて富枝は辞去したのであった。これが、富枝が、広前において金光大神を拝する、最後であったのである。

… 佐藤範雄最後の教をうく

 佐藤範雄は、すでにしるしたごとく、金光大神の広前にあって、その教を筆録することに、たえずつとめてきたが、七月十七日、
 「金光さま、あなたは、いつまでおいきなされて、人を、おたすけなされますか」
と、うちつけに金光大神にたずねた。金光大神は、「いつまでも、とおもうてもみるが、肉体カラダがあれば、ときに、いたい・かゆいということもあって、おもうように、ねがう氏子がたすけられぬ」
とこたえるのであった。

… 十日のおかげ日

 九月九日、範雄は、
 「わたくしも、ひさしく御領へかえりませぬから、あすは、『十日のおかげ日』でもありますので、一度、かえらせていただきます」
と、いとまをこえば、金光大神は、
 「あまり、ながかったら、かえってみるも、よかろう。まだ、あつい時分であるから、人ク力ル車マにのって、かえってくれ」
といたわるのであった。範雄は、あまりの勿体なさに、これを辞退したが、
 「遠慮はいらぬ。からだがつかれてはならぬ。大切にしてくれ」
という金光大神のことばのうちに、
 「佐藤さん人力車が来ましたぞ」
と藤井くらがにわの口からよんだ。範雄は、ついに、いなみかねて、やがて車上の人となったが、こころもこころならぬので、<6>「赤鉢アカバチ」で、車夫に「ここから、かえってくれ」とたのんだ。車夫は、  「金光さまから、いいつけられた御用じゃから、<7>西浜ヨウスナまでまいります」
という。やがて<*8>新庄の堤まで来た。範雄は、どうしても乗るにたえぬので、「ここから、かえってくれ。金光さまへは、ちかいうちにまいって、よく申上げる」
とふたたび車夫を制したが、車夫は、なお「金光さまの御用でありますから」と、くりかえすのみである。範雄は、
 「これからさきをのれば、わしが神の罰をうけるから、かえってくれ」
とて、しいて、車夫をかえしたのであった(余の回顧の一端、信仰回顧六十五年)。
 範雄にとっては、これが、この世において、金光大神の言葉をうける最後であったのである。

… 神勤をとどむる直前の模様

 備前上道郡津田村の人、古市伸ノブは、月参をしていた。九月ある日の参拝の節、金光大神は、
 「お伸ノブさん、こうして、毎月、おまいりになっとるが、結構なことじゃ。今度の十日には、是非、まいってきなさいよう」
とさとした。伸は、
 「今度の十日ごろは、秋のとりいれが、いそがしくなりますので、大抵、おまいりができぬ、とおもいます」
とこたえた。金光大神は、さらに、
 「そうか。くりあわせがついたら、まいってきなされよう」
とさとすのであった。やがて、伸は、いとまをつげて帰途につくと、金光大神は、わざわざ、門のあたりまで出て、「十日には、まいってこいよう」
とて、なごりおしげであった(玉置はぎ)。
 備前児島郡林の人、金光梅次郎参拝の節、金光大神は、
 「もう、いとまごいじゃ」
という。梅次郎は、
 「どこへゆかれますか」
と、あやしみたずねた。金光大神は、
 「みすのうちじゃ」
とこたえた。梅次郎は、これを、当時「社務所」とよばれた家には、簾がつられていたので、その家に入られることかとおもうた(山形春蔵)。
 さらに、浅口郡口林クチバヤシの人、水田梅吉参拝の節、金光大神は、この人にも、
 「もう、これが、おわかれじゃ」
とかたった(六条院教会)。これ等は、いずれも、金光大神の、広前をひく直前のことであったとおもわれる。

… 神勤をとどむ

 金光大神現身の神勤は、九月二十七日をもっておわった(高橋富枝、浅野喜十郎)。この神勤最後の日、あたかも、尾道の人、宮永助四郎が参拝した。金光大神は、助四郎に、
 「今日をかぎりに、もう、どこからでも、神さまにねがえい。いつまでも、わしはおらぬから」
とさとした。この日、夕祈念のとき、「金光大神、ながながと道をときたり。萩雄、手がわりつとめよ」
との裁伝がくだり(教団史要)、金光大神は、はいながら、控の間にしりぞき、ふたたび広前にでることがなかった。
 かくて、神勤の手がわりは萩雄に命ぜられた。萩雄は、かならずしも、たえまなく、これに奉仕したのではなく、金光大神は、藤井恒治郎にも「すわれ」と命じたようである。恒治郎は、かたく辞退したが、金光大神は、
 「心配すな。口へ、でたことをいやあええ。神が、そのとおりしてやる」
とさとすのであった。恒治郎は、やむことをえず、十日ばかり、これに奉仕したが、袴もなければ、羽織もない。袴は、妻(くら)がとつぐときにもってきた、青色<*9>フクリンの帯をといて、黒にそめなおして仕立て、羽織は、しまもので、まにあわせた(藤井しげの)。
 金光大神は、控の間にあって、浅葱アサギのおもてに、白うらの夏蒲団をかけて安臥した(高橋富枝)。便所には、ひとでをかることなく、そのゆき・かえりには、広前のへだての襖のもとに伏して、神前を拝するのであった(金光萩雄)。
 この間、食事は、わずかにおもゆに、百合根の「たまごとじ」などをとるにすぎなかった(藤井くら)。
 枕頭には、主として、妻とくらとが、つきそうていた。幼児のあるものには、
 「子があるのに、くるにおよばぬ」
といたわり、他にしらせねば、みまうものもなく、控の間は、障子や襖の、あけたてにもこころして、きわめてしずかであった。

… 佐藤範雄御領にあってゆめむ

 佐藤範雄は、御領にあって九月二十九日の夜、ゆめに、
 「金光大神、ながなが道をときたり。萩雄、手がわりつとめ」
とのこえをきき、
 「私、おいおい、御道、とりしまりいたし候」
とこたえるのであった(教団史要)。
 ついで範雄は、金光大神広前、控の間の次の一室に、白木の八足机、三段にすえられ、そして、上段、中央に霊璽が安置せられ、ふたたれの垂手のかかった榊が、左右にたてられ、そのまえに、白衣に、黒紋附羽織をきて拝礼している金光大神のすがたをゆめみ、おどろきめざめて、このむねを、妻にものがたるとともに、そのまま家をでて、三十日払暁、西六に高橋富枝をおとずれ、事の次第をつげ、ともに大谷にいそいだ。
 広前には、萩雄が奉仕していた。萩雄は、両人、参拝のむねを神前に取次ぎ、
 「他にしらせぬように、ひそかにねがいます」
と注意するのであった。かくて、富枝のみ、そとから、うらにまわり、西の濡縁のところから、金光大神を拝し、やがて両人つれだって帰途についた。このとき富枝は、
 「金光さまは、いと、おしずかに、あおむけに、おやすみになっていた。ほほが、すこし、すいて拝せられた」
とものがたった(佐藤範雄)。その日、範雄は、夜ふけまで、西六にあって、なにかのことを富枝とうちあわせ、かえりの途次、小田郡入田に瀬戸廉蔵をおとずれ、委細のことをつげたのであった。
 十月三日、範雄は、あらためて参拝し、その後の金光大神の容態を、萩雄にたずねた。
 「なにのかわりもなく、おやすみになっておられます」
と、萩雄はものがたり、
 「おひけになってからは、誰の手も要せず。おりおり、なにごとか、おおせられるようにきこえるので、母がなにか御用でございますか、とたずねると、なんの用もない。神さまと、おはなししておるのじゃ、とおおせられます」
とも、かたるのであった(信仰回顧六十五年)。

… 金光大神の臨終

 かくのごとくにして、金光大神は、十月十日の未明、枕頭に侍していた妻とくらとに見まもられて、きわめて、やすらかに世をさった(藤井くら)。ときに、齢七十であった。
 この日は、あたかも陰暦九月十日にもあたっていて、金光大神祭の当日であるばかりでなく、神命のままに身内・親類をまねいて祖先の祭祀をも、あわせいとなんでいた、年一度の祭日であったのである。
 金光大神は、その日の数日まえ、家族を枕頭によび、
 「<10>兄は、家の相続をさせる子じゃけれども、ああいうことになっておる。みんな、かわゆがってやってくれい。<11>萩は丁寧をつくせ。みんな、なかようせい」
とさとすところがあった(藤井くら)。ここに、金吉の身の上について、「ああいうことになっておる」とは、金吉が、はじめ浅尾に仕官し、明治維新の変革によって、いま、苦境にあることを、こころにかけてのことである。
 金光大神は、かくして世をさった。金光大神は、この最期の日と、葬儀をいとなむべき日とを、かねてかきしるしていた(藤井光右衛門、高橋富枝)。

… 斎藤宗次郎の参向

 この日、いちはやくかけつけたのは、西阿知の斎藤宗次郎であった(藤井光右衛門)。これは、神のみさとしを、えてのことであったであろうか。

 高橋富枝神示をうく

 高橋富枝は、この日、朝祈念に、
 「金光大神、けさのあけ六ツに、神ざりになったぞよ。封金と鏡餅とを、<*12>節供のおそなえに、もたしてやれ。『佐方の一本松』までいったら、しらせの使にあう」
との、みさとしをうけ、みさとしのごとく用意をととのえ、夫、藤吉をうながして、大谷にいそがしめた。
 藤吉は、みちみち、いまさらに、胸ふさがるをおぼえ、なみだをとどめかねた。あるいはたたずみ、あるいはあゆみ、ようやくにして、佐方の一本松まできたときに、はたして、藤井広武にでおうた。広武は、
 「葬儀は、きたる十三日におこなうこと。祭事は、西六にたのむこと。西六において都合あしくば、入田にたのむこと。とかねてかきしるしおかれたれば、よろしくたのむとのことであります」
とつげ、藤吉は、委細を了承して、一旦、ひきかえした(高橋富枝)。

… 白神新一郎神示をうく

 白神新一郎(信吉)は、この日、大阪にあって、
 「用事があるから、早速、大谷へまいれ」
との神命をうけた。「なにごと」とふたたび、うかがうと、「わるいことではない」
との神命であったので、それとも気づかなかった(我が信仰の経路)。このことに関連して、和田安兵衛は、
 「御神去ゴカンザリの三日前に、寝ねて居りし時、教祖様、神前にお勤めの時の侭のお姿にて、ありありと現れられ、<*13>国を換える、と仰せらる。驚きて、大阪教会所へ行き、其事を白神先生(二代)に申上げしも、生神様じゃもの、そう云うことがあるものか、と仰せられ、其侭となりたり云々」
ともかたっている。

… 近藤藤守神示をうく

 近藤藤守は、これまで霊地にもうで、金光大神を拝することを、うみのおやにあうようにおもい、夫婦つれだって、月ごとに、もうでくることを、こよなきたのしみとしていたのである。
 十月十日午前三時、藤守は、神前を拝した。金光大神のすがたが、ありありとみえ、眼をひらけば、たちまちにきえ、とずれば、ふたたびみえるのである。ただごとならずと感じて、妻に、
 「金光さまは、しなれた」
とつげたが、妻は、
 「罰があたりますぞ。金光さまは、つねづね『このまま、やしろへ入る』とおおせられていたでは、ありませぬか」
とて、これを耳にいれようとも、せぬのであった。
 藤守は、すぐに霊地にたつことにした。同行の信者十六人ばかりとともに、海路を、<*14>三蟠につき、小舟にのりかえて、児島湾を西に倉敷川をさかのぼり、その支流を連島にで、玉島から人力車をいそがせて、十二日、ようやく霊地についた。
 藤守は、広前に入っても、いまは、ありし日の金光大神を、拝することのできぬさびしさをおもい、しばらく、縁がわにたたずみ、なつかしいおもいでに、ふけるのであった。ややあって意を決して、うちにいり、広前になきふして、容易に、かおをあげることが、できなかったのである。

… 片岡次郎四郎神示をうく

 片岡次郎四郎は、すぐる七月一日参拝のとき、金光大神「百日修行」のみさとしをうけ、こえて三日から、才崎にあって、この修行にはいったのである。日々の行をおさめつつ、ついにこれを成就することができた。それは、あたかも、十月十日であった。次郎四郎は、居室の柱にもたれながら、
 「いよいよ今日で、百日の修行も成就した。ありがとうございます」
とこころのなかで感謝して、頭をあげた途端に、
 「金光大神、神あがり」
と、おぼえず口ばしった。うちおどろき、神前にすすんでおうかがいすると、
 「今日は、まいらぬでもよい。奥城であおう」
とのことであった。かくて次郎四郎は、葬儀の翌日(十四日)もうでて奥城にぬかずき、
 「おくればせながら、ただいま、まいりました」
ときこえあげるのであったが、次郎四郎には、もりあげられている墳土ハカツチが、ぐっとうごいたかに、おもわれたのである(片岡次郎)。

… 藤井吉兵衛神示をうく

 藤井吉兵衛は、尾道にあって、神前拝礼のとき、
 「金光大神神あがり、裃を用意してゆけ」
との、神のしらせをうけた。吉兵衛は、このよしを、三・四の信者にはなしたが、誰も、これを信じようとはしなかった。吉兵衛は、船をいそがせて、かけつけてみると、それは、金光大神葬送の日であり、しかも、いまにも発葬せられるかのごとき気配であった。
 吉兵衛は、「裃を用意していけ」との神命から、葬儀について、なにかの用事があるにちがいないものとかんがえて、藤井駒次郎にたずねてみた。駒次郎は、「役配帳」をしめして、このとおりに、そろうているという。吉兵衛は、なお、神のみさとしのことをおもうて、よくしらべてもらうと、あたかも「大榊」をもつものだけが、一人さだまっていないことがわかり、ただちに、その役につき、葬儀に奉仕することが、できたのである(尾道西教会誌)。

… 秋山米造神示をうく

 岡山の秋山米造も、ゆめに、金光大神、神あがりのしらせをうけたが、父、甚吉は、
 「いきがみさまが、しなれるということが、あるものか」
というので、そのままとなった(秋山きぬ)。おなじく岡山の石原常ツネは、しきりに、こころのうごくままに、霊地にもうできたが、それは、あたかも、金光大神の世をさった日であった。常は、かぎりなき、おどろき・かなしみのなかにも、ふかき感激をもって滞在し、やがて葬儀を拝して、あつき神恩を感謝した(大教新報)。

… 金光大神の死にともなう不思議

 備前邑久郡<15>土師村の人、市村光五郎は、  「十日のあけ方に、<16>未・申・酉の方から、地なりあり。表の戸・障子へ地震あり。御記オシルシし申上候」としるし、児島郡林の人<17>金光カネミツ琴コトは、  「御葬儀三日前、神前へ供えたる御飯より、湯気、一時間も経たる後、立ち上り、何事の御知らせならんか、と思い居たるに、それより三日経て、朝八時頃、<18>葉書来り、其日、二時の御葬式とのことなりしかば…」
とも語っている。これ等のほか、金光大神の死にともない、いろいろ、不思議なことのおこったことが、つたえられている。

… 葬儀に関する協議

 佐藤範雄は、この日、御領にあって、<19>古川忠三郎の急報をえた。すなわち、  「金光さま、今朝おかくれになりました。御葬儀をたのみます。西六へは、別の人がまいりおります」 というしらせが、もたらされた。  範雄は、忠三郎とつれだって大谷へいそいだ。あたかも、高橋藤吉もきていたので、葬儀についての協議をとげ、斎主以下葬祭奉仕者をさだめ、帰途、入田に瀬戸廉蔵をたずねて、葬儀についてうちあわせ、十一日午前、御領にかえり、範雄の国学の師、<20>黒坂クロサカ昌芳マサヨシを請じて、祭詞の起草にかかり、同夜十二時、昌芳によって、その浄書をも、おえることができた。
 金光大神は、かねて、
 「死んだら、つとにいれて、ながしても、やいてもよいが、そうもなるまいから、神の資格で、御神燈(神前の)を、さきにたててゆけ。からだを葬るときには、大勢の人をよぶな。霊を大切にせよ」
とかたっていた(佐藤範雄)。したがって、その葬儀は、すべて、この精神を本としていとなまれ、墓地も、金光大神は「孫が杖をひく」とて、金光桜丸埋葬の地を、かねて、それと、さだめていた(藤井光右衛門)。
 金光大神の葬儀とて、当時、もとより、さだまった様式もなければ、作法もなく、これに奉仕したものにも、その素養もなければ、経験もなかった。黒坂昌芳によって起草せられた祭詞のごときも、きわめて一般的なものであって、金光大神独自の信仰を、もととしたものでもなければ、一教の教祖をおくるに、ふさわしい格調を、そなえたものでもなかった。ただ、これが、教子等の手によって、とにも、かくにも、すべてがいとなまれた。ということが、当時としては、せめてものことであったのである。
 このときの祭詞のことについて、佐藤範雄は、
 「今、御葬儀の祭詞を見るも、真に拙ツタナきものにて、当時は、神葬祭詞の文範とても見たるもの少く、範雄は素より、黒坂翁も、維新以来、始めての御葬儀なれば、教祖の御神意・御高徳の一端をも、現はし奉る事を得ざりしは、只々恐懼の外なし」
と、している(教団史要)。
 金光大神の遺骸は、油甕アブラガメととなえる陶棺におさめられ、六角がたの霊輿に、やすんぜられた。これは、かねて、祈念の座としてもちいられていた六角畳にちなみ、棟梁高井谷五郎がつくった。霊輿は、広前、神床の右側、押入のまえにすえられ、押入には、寒冷紗の壁代が、たれられた。
 祭儀は、修祓・発葬祭・葬場祭・葬後霊祭の順序におこなわれ、奉仕者は、斎主高橋藤吉・副斎主佐藤範雄・祓主瀬戸廉蔵・後取山本利平、喪主は、金光萩雄とさだめられ、式は、十月十三日午後二時に、はじめられることとなった。

… 葬送の儀

 前日は豪雨であって、雨は、当日、未明までやまなかった。このため、かねて黒坂昌芳を通じてたのみおいた、小田郡大江村、池田金五郎はじめ四名の楽人が、すがたをみせず。祭儀は、定刻を、一時間をすぎても、容易にはじめられなかった。
 会葬している講中のものらのなかには、
 「金光さまは、一代のあいだ、おっしゃったことは、ひとつもちがわなんだが、葬式は、さだまった時刻に、でやせぬ」
など、陰言カゲゴトするものもあり(高橋富枝)、一子大神も、
 「奏ガ楽クは、のうてもよい。講中の人にすまぬから」
と、うながすところがあり、祭儀は、ようやく午後三時をすぐるころからおこなわれた。
 高橋・佐藤・瀬戸等は、いずれも直垂ヒタタレ、山本は狩衣、喪主は緋の直垂といういでたちであった。斎員のほかにも、近藤藤守・藤井広武等も、装束をつけて葬列にくわわった。神葬祭というものを、かつて、目にしたことのない村人等は、
 「まるでお祭のようじゃのう。金光さん(萩雄)が装束をかわれた、ということであったが、あかいのじゃのう」
など、ささやきあった(信仰回顧六十五年)。
 修祓の儀として、祓主は、
<21>「さかきばに、ゆうしでつけてうちはらう、身にはけがれの、くもきりもなし」という歌を、二度となえた(同上)。  ついで発葬祭が、霊輿のまえにおこなわれ、副斎主は、斎主にかわって祭詞を奏した。かくて、霊輿は発引せられた。  葬列は、神燈を先頭に、斎主・霊輿・副斎主・喪主・斎員・遺族・親族・一般会葬者の順序によって、門前を南に、「多郎左衛門屋敷」の南かどを西に、村道にでて、これを北にすすみ、大橋兼蔵の屋敷の北を、東におれ、さらに、南して坂にかかった。坂は、かなりの急勾配にくわえて、雨あがりではあり、そのうえ、霊輿も相当におもいので、葬列は、しばしばゆきなやんだ。裃すがたの藤井恒治郎が<22>風呂鍬をとって坂路に「あしがかり」をつけながら、のぼっていった。
 輿側コシワキには、近藤藤守にともなわれてまいった法華僧もまじり(教団史要)、親族のなかには、香取繁右衛門のすがたもみえた(金光琴)。葬列の、坂路にゆきなやんでいるころに、児島郡林の金光梅次郎・同琴夫妻も、人力車でかけつけた。この二人は、古川氏から「二時の葬式」とのしらせをうけて来たのに、三時をすぎて発引した葬列が、坂の途中にとまっているので、「新田かみ」の籔のこかげから、はるかにこれを拝して、金光大神が、いままで、まってくだされてある、と感激したという。
 葬場は、「辻の畑」の藤井恒治郎小作の、<23>らっきょう(薤)ばたけに、もうけられ、<24>だつをしきつめたうえに、霊輿が南面して、やすんぜられ、ここに葬場の儀がおこなわれ、副斎主が、斎主にかわって葬場祭詞を奏した。
 かくて、諸員、最後の拝礼ののち、遺骸は、<25>いまの墓域にしずめられ、桧<26>四寸五平ゴヒラの角材に「金光大陣霊標」としるされた墓標がたてられ(残存墓標)、周囲にかりの垣がゆいまわされ、正面に、かりの門が、もうけられた(古図)。後、明治二十一年(一八八八)九月十五日、「金光大分オオクマリ威命イズノミコト」としるした石碑にあらためられ(同上)、後、明治二十六年(一八九三)のころ、さらに、表面に「教祖金光大神人力ジンリキ威乃命オドシノミコト之奥城」、裏面に「明治十六年<*27>九月十日帰幽」、側面に、神誡十二条のきざまれた八角の石碑が、現在のごとくにたてられた。「人力威乃命」とは、慶応二年(一八六六)十一月二十四日、金光大神が、神にゆるされたものである。
 葬送の儀は、葬後霊祭をもって、すべて、とどこおりなく、おわった。

… 金光大神の死に関する地方の噂

 金光大神の死については、附近にも、いろいろのうわさが、つたわったようである。瀬戸廉蔵が、人力車をかって<28>大谷におもむくときに、車夫が、 <29>「金神は、死んでおります。それでもえらいことをいうて、死んでおりますそうな。自分で、死ぬる日まで、かいておりますそうな」
など、ものがたった、ということである。もって、その一斑を、うかがうことができる(瀬戸廉蔵)。
 金光大神死後の取次奉仕は、藤井駒次郎が、五十日間、主としてこれをつとめ、ときに、その長男恒治郎が、これに、かわることもあった(教団史要)。

… 五十日祭と教会創設の議

 金光大神の五十日祭は、十一月二十八日、当時「社務所」とよばれた金光萩雄の住居でおこなわれ、斎主白神新一郎・高橋藤吉・佐藤範雄・近藤藤守・瀬戸廉蔵・勅使河原テシガワラ静也・松尾某等によっていとなまれ、ついで金光萩雄は金光大神の遺業を継承すべきむねを、神前に奉告した。

 この日、佐藤・白神・近藤等は、金光萩雄を中心として、金光教会創設のことを議した。白神・近藤等は、内にあって、もっぱら教義扶殖のことにつとめ、佐藤は、主として外にたって、教会創設の準備にあたり、金光萩雄が、これを総摂することとなった。かくて、神前奉仕のことは、金光宅吉が専念これに奉仕することとなった(佐藤範雄)。

… 金光宅吉の神勤継承

 金光大神の死は、一部の信者氏子の信念に、動揺をあたえたもののごとくであった。しかしながら、金光宅吉の、昼夜をわかたぬ神勤は、よく、全教の信望を維持しえたのみでなく、儼然たるその威容と、峻烈なるその機鋒とは、かえって溌刺たる気魄を、全教にみなぎらしめた。佐藤・白神・近藤等の遺弟も、きわまりなき悲痛のなかにも、
 「いよいよ生神の神徳は、たかくかがやき、道はひろくひらけ、世界の人がたすかることになれり」
として、前途の光明に感奮興起するのであった(信仰回顧六十五年)。
 金光宅吉、神勤当初のありさまを、佐藤範雄は、かつて、つぎのごとくに、ものがたった。
 「さて、四神様におかせられては、氏子の、昼のねがい・おとどけを、さらに、夜おそくなるまで、御祈念あそばされ、朝は、<30>一番鶏のこえをまって、御祈念をはじめられる、というありさまであって、その神勤が、はなはだ、はげしいのである。 ときは、明治二十年(一八八七)秋のころであった。ある夜、<31>おうらにまいり、
 『あなたは、あまり、おつとめがはげしゅうござります。おからだに、おさわりはいたしませぬか』
とおたずね申上げたところ、『わたくしだけでは、とてもつとまりませぬが、毎夜、十二時をすぎますと、おやさまが、もとのとおりに、おでましになって、一日のおねがい・とどけの御帳面を、くりかえし、くりかえし、三箇年のあいだ、御祈念くだされましたので、不徳なわたくしも、つとまりました』
との御返事であった。承りし余は、おどろき、かつ、神秘にうたれ、ひたすら、おそれいったことでありました」(余の回顧の一端)。
 もってその神勤の一端を、うかがうことができる。

… 教会創設の準備

 当時、玉島羽黒神社の祠官に大賀オオガ磐人イワトがあった。
 この人は、浅口郡神官教導職幹事の職をかね、つねに金光大神を悪罵し、その道びらきのことを圧迫していた。されば、その手をへては、教会組織のことは、到底、不可能であるとして、佐藤範雄は、直接、神道本管たる神道事務局に手続をとることを得策とし、ただちに東上しようとして、かの長岡宣にこれをはかった。宣はこれを非として、
 「現今、神道は、広島がもっともさかんなり。ことに、貴君は、広島分局管内のものなれば、まず広島にくだるべし。余も十分尽力せん」
と、すすめるのであった。範雄も、これを諒として、金光大神五十日祭の日の翌々十一月三十日、郷里をたって、十二月一日、午前九時過、広島鉄砲町なる、神道広島分局をおとずれ、長岡宣の紹介状をさしだして、分局長三上一彦に面会をもとめた。三上局長は、その紹介状をひらきみて、
 「天下の有志、また一人来れり」と大聲して、これをむかえた。
 かくて、佐藤範雄は十二月一日、五等宣教師の辞令をうけ、宣教師野田菅麿スガマロにしたがって、その指導をうけることとなり、やがて十二月二十日、「金乃神社信徒取扱願」を分局に提出し、おもむろに、一教組織の準備をすすめていったのである(教団史要)。

<1>現西大寺市 <2>現岡山市
<3>なみの生年 <4>米粉に砂糖を和して、固めたる菓子。江戸時代乳粉として用いらる
<5>「沢野」長女にて六歳。「母」千代、六十九歳 <6>鴨方駅東方
<7>現笠岡市 <8>里庄駅の北方
<9>明治初年オランダより輸入せし手織物 <10>金吉
<11>萩雄 <12>旧暦重陽の節供
<13>死を意味する大阪地方の隠語 <14>現岡山市
<15>現国府村 <16>南西方、大谷の方向
<17>金光梅次郎妻 <18>古川氏発信
<19>古川八百蔵四男 <20>小寺清之の門人(垂加神道系図)
<21>平田篤胤の歌か <22>木の台に鉄の刃をつけたる鍬
<23>現金乃神社本殿西南隅の辺 <24>荷造などに用うる粗菰
<25>地番「客人神」二四七 <26>四寸角を二寸の厚さに割りたる材
<27>旧暦による <28>葬儀の日のことか
<29>金光大神の神名 <30>午前二時ごろ
<*31>控所

.. (三八)一子大神の帰幽

… 一子大神世をさる

 いまや、教会創設のこと、ようやくならんとする明治十八年(一八八五)二月八日、一子大神は、齢六十七にして、にわかに金光大神のあとをおうて、世をさった。
 それは、さしたる病状でもなく、単なる「かぜごこち」というほどのことであった。
 されば、佐藤範雄なども、二月六日、岡山からの帰途、はじめてこのことを知り、あたかも、神道岡山事務分局長佐々木元孫モトヒコからおくられた菓子折をたずさえて、その病床をおとずれた。一子大神は、
 「今日は<1>御祭日で、すこし気分がよろしい」 といい、  「おみきをいただいて、かえってくれ」 とも、すすめるのであった。範雄は辞退したが、  「わたくしがみておるまえで、是非、いただいてくれ」 との、かさねてのことばを、いなみかねて、これにしたがい、  「もはや、お道も、つらぬきたつ、みこみが、つきましたから、御安心くだされまして、教祖の神に、このよしを<2>明神さまより、御申上げくだされますよう、ねがいます」
とものがたるのであった。
 一子大神は、こよなく、これをよろこぶとともに、「つづいておこころがわりなく、御苦労であります」
とも、こころから、ねぎらうのであった。その状、いかにもこころよげに、みられたのであったが、こえて八日、にわかに幽界の人となったのである。

… 葬儀

 かくて葬儀は、二月十日、斎主佐藤範雄によって、とりおこなわれ、遺骸は、金光大神の右側にしずめられ、墓標に「金光登勢トセ一子イッシ大明媛オオアカルヒメ之奥城」としるされた。

<1>旧暦十二月二十二日 <2>当時、婦人取次者をよぶ一般の敬称

. 三、金光大神の広前とその取次

.. (一)金光大神取次の広前

… 金光大神取次の広前

 金光大神取次の場を「広前」とよぶ。金光大神取次の最初の広前は、嘉永三年(一八五〇)八月にたてられた家であった。この家の家作ヤズクリおよびその変遷については、すでに、その大体をしるした。

… 神床

 金光大神が、安政六年(一八五九)十月二十一日、神のみさとしを奉じて、取次に専念することとなった当時は、上の間正面、床柱の上部に、ささやかな神棚がしつらえられ、それに、厨子が奉斎せられ、そのまえに、神酒が三宝にのせて、そなえられていたにすぎない。その年十二月二十二日、金光大神は、神のみさとしによって、厨子を床の間にうつし、そのまえに二段の棚をもうけた。これは、占見村「宗元ムネモト」の大工、逸見ヘンミ重蔵が、おかげをうけた礼にとて、ととのえたもので、重蔵は、さらに賽銭櫃をも献納した。
 氏子から神にたてまつったものは、この二段の棚にのせられ、あまったものは、神前にござをしいて、そのうえにおかれる、というように、きわめて簡素なものであった(津川善右衛門)。
 文久のころ(一八六一~六三)になると、にわかに信者もふえ、いろいろのものを、神にたてまつるようになって、神前には、金幣や鏡などが、いくつかたてられ、金燈篭や提燈もみえ、神床には幕がはられ(庄屋日記)、後、翠簾もかけられた(中村茂次郎)。土間ニワの壁ぎわには「大願成就」などそめた幟も、たちならび、絵馬も、そこ・ここにかけられた。広前の天井には、大小長短さまざまの提燈が、ところ狭セマきまでに、つりさげられ、襖のきわには、くくり細工の「千匹猿」が、いくすじとなく、たれさがっていた。明治になってからは、東京あたりの<*1>官員の名刺など、いくらも鴨居に、はられていた。神社などのように、太鼓をそなえるものもあり、門に鳥居をたてるものもあり、おもての井戸の南がわに、手水鉢チョウズバチをすえるものもあった。

… 祈念の座

 神前には、六角畳の祈念の座がもうけられたが、これは、明治四年(一八七一)二月三日、神のみさとしによって徹せられた。祈念の座のまえには、小机がもうけられ、それには花模様のある磁器の香炉がのせられ、線香など、そなえるものがあると、金光大神は、これをたいて拝礼した。金光大神は、この線香をたくことを、
 「長者の万燈・貧者の一燈ということがあろう。その貧者の一燈も、たてまつられぬものもあろう。神は、燈明でも線香でも、なんでもかまわぬ。一本の線香をたてまつられぬものは、一本を、半分におってたてまつっても、燈明のかわりにうけとってやる。線香も、たてまつられぬものは、<*2>切火をして、そなえても、燈明のかわりにうけとってやる」
とした(佐藤範雄)。線香をたくことは、明治十六年(一八八三)七月、かの神道大阪分局宣教師の西下を機として、これを廃した(佐藤範雄)。

… 取次の座

 取次の座は、上カミの間、中境ナカザカイ北よりにもうけられた。ここに机がすえられたのは、いつのころであろうか。机のまえには、木を、十字にくみあわせた台にとりつけた、粗末な燭台がおかれた(斎藤精一)。金光大神は、はじめ、ここにあっても、つねは神前にむかって端座し、取次をこうもののあるごとに、おもむろにむきなおったようであるが、明治六年(一八七三)四月二十日、神のみさとしのままに、そのむきを、側面にかえることとなった。取次の座には、座蒲団がしかれ、地方藩主などの取次のときには、わずかに、これをはずしていた(藤井くら)。

… 広前の模様

 上の間(神前)と外アダの間(参拝席)との中境には、はじめ仕切をもうけたが、「入ろうとおもうものは、入ってもよい」とて、ほどなくこれを撤去した(金光萩雄)。
 上の間と外の間との南がわの雨戸は、文久三年(一八六三)三月二十一日以後、神のみさとしによって、夏冬とも、これをたてることなく、門の戸も、さきにしるしたごとく、慶応三年(一八六七)十月五日、神のみさとしによって、その閾シキイをつぶして、とざすことができぬようにした。
 それゆえ、ときに、往来の浮浪者など、無断で、ねとまりするものもあったらしく、そのため、当初にゆるした、信者氏子の「おこもり」をも中止した(市村光五郎)。
 母屋の屋根は、麦藁でふかれていた。嘉永三年(一八五〇)八月建築以来、かつて、やねがえのことがなかったもののようである。明治三年(一八七〇)九月の記録には、
 「一、本家(母屋)やねがえ、おしらせあり。従前ウチウチ『雨ふり、もり、畳くさりても、だいじなし』とおおせられ、雨もっても、ざす(し)きへ、うけものいたし。今度『世話方、やねひ(ふ)くともうさば、まかし(せ)おき(け)』とおしらせ」
とあって、当時、損傷の、はなはだしかったことが、想像せられる。ついで、
 「九月、<3>御まつり後、本家(母屋)のやねのこと、<4>私にとどけ。『えいようにしてくだされ』と、せわ方へまかせおき。<*5>世話方両人・『道木』の伊勢辰の歳、屋根屋『胡麻屋』の組五郎・同『佐方』の筆蔵。同二十七日・八・九日迄、四方成就仕候。みな御くり合せ。御かげ」
とも、しるされている。これによって、明治初年における、家屋の状況なり、金光大神の、これに処する態度なりを、うかがうことができる。

<1>明治初年の官吏の称 <2>火打金を火打石にうちつけ、火を発せしむること
<3>九月二十二日 <4>世話方より
<*5>「世話方両人」-川手保平・森田八右衛門。「道木」-占見新田村。「伊勢」-久戸瀬伊勢五郎。「組五郎」-浅野氏。「筆蔵」-吉田氏。「四方」-屋根の四方

.. (二)金光大神の風格

… 風貌

 金光大神の風格は、どうであったろうか。白神新一郎は、これを、
 「温和にして、威イ有て猛からず、恭敷ウヤウヤシク、御安オンヤスく、寛仁大度に」
としている。備後向島ムカイシマの人、岡田きくは、
 「眉ながく、肉つきよく、つやよく、温情あふるる方であったが、眼つきに、すこぶる、するどい感じをうけた。人間として、こういう方が、おられるか、とおもうた。みたことのないような人だ、とおもうた」
とかたり、岡山、秋山米造の妻きぬも、
 「きついような、やさしいような方でありました。これが本当の神さまじゃなあ、とおもわれ、こういうようなお方は、どこにもあるまい、とおもうた」
と、同様のことをかたっている。
 金光大神の身長は、普通であったが、肩幅ひろく、肥満していて、すわると、両股があいかねた。それゆえ、かつて、近藤藤守がまいっていたときに、一疋のむかでが、その膝のあいだに、はいった。藤守は、おどろいてそのよしをつげたが、金光大神は、
 「そのままにしておけば、どうもせぬ。いらうから、害をするのじゃ」
と、うちわらいつつ、平然として、はなしつづけた、ということである。
 顔は、やや、ながめでおおきく、頬がたれ、顔イ色ロあくまで白く、元治元年(五十一歳、一八六四)六月十日から、神のみさとしにまかせて、入浴・行水のことなく、明治六年(六十歳、一八七三)三月十三日・二十九日の二回、これをゆるされ、その後、ふたたびこれを禁ぜられたにかかわらず、いつも、「いま、風呂からあがられたであろうか」とおもわれるばかりに、つやつやとして、ちかづいても、すこしの体臭をも感じなかったということである。
 頭髪は、明治維新の<*1>断髪令とともに、いちはやく散髪した。晩年、ややうすくなったが、白髪は、ついに一本もみえず、いつも、うしろになでつけていた。はじめは、顔に剃刀をあてることもなく、髯ヒゲも、のびるにまかせたということであるが(佐藤範雄)、後には、神のみさとしのままに、日をさだめて、これを剃った。
 眉はきわめてながく濃く、ふさふさと、たれさがるほどであり、口もとには、えもいわれぬいつくしみがたたえられた。こえは、たかくはなかったが、鈴をふるようにすみとおり、「ねがいこみ」のときなど、きわめて早口に、氏子の身のうえのこと、なにくれとなく、こまごま、うったえて祈念するのが、うしろからよくききとれるほどであった。
 以上は、したしく接した人々のはなしを、綜合したものであって、そのゆたかな風格が、そぞろにしのばれるのである。

… 金光大神の服装

 衣服は、正月五箇日は、裃をつけて奉仕した(高橋富枝)。つねの日は、白衣に黒紋附羽織をつけ、ときに、浅葱色アサギの着物や羽織を、もちいることもあった(佐藤範雄、大西秀)。
 衣服を、四季、おりおりにかえることも、みな、神のみさとしにしたがい、おのれの意志によることはなかった。備後上御領の人、佐藤光治郎が、かつて旧暦五月節供の日に参拝すると、金光大神は、まだ、<3>小紋の綿入をきていた。光治郎が、  「あつくは、ござりませぬか」 とたずねると、金光大神は、  「神さまから、おさしずがなければ、きかえぬのじゃ」 とこたえた。これによって、その平生が、うかがわれるのである。  裃は、つけることもあり、つけぬこともあり、これまた、神のみさとしによったのであって、ときに「<3>くくりばかま」をつけることもあった。三女このが工夫して仕立てた、<*4>まちのひくい、腰板のないのを、「具合がよい」とて、愛用した(古川この)。
 衣服は、つねに清潔であった。襟垢のついたものなど、かつてみたことがなかった(佐藤範雄)。

… 金光大神の日常

 金光大神の起床は、何時ナンドキであったか。それは、誰も、しるものはなかった。控の間の西の濡縁で、手水をつかい、広前にでて、晨朝の祈念をした。祈念の後、一旦、広前をさがって朝食をとり、あらためて広前にでて、取次の座につくのであったが、ときには、朝食をとるいとまもなく、早朝から、参拝者がうちつづき、夜にいって、その日の食事を、一度の夕食で、すますこともあり、昼食時には、家人が、うしろから袖をひき、「お茶がさめます」「御飯がさめます」など、しばしばうながしても、容易に、その座をうごかぬことが、おおかった。
 かつて、佐藤光治郎は、昼食時になっても、金光大神が、取次の座をたたぬので、
 「御空腹ではありませぬか」
とたずねると、金光大神は、
 「金神よけじゃいうて、神をきらう氏子もあろうし、天地乃神のみかげをうけて、ありがとうござります、というて、御供をそなえる氏子もある。それを神さまが、わけてくださるのじゃろう<5>でい、ひもじゅうない」 と、さとした。  かくて、後には、晨朝の祈念にさきだって朝食をとり、昼食をぬくことが例となり、夕食も、参拝者のあるかぎりは、いつまでもとろうとしなかった。古川このは、かつて、  「たべものは、なんでもおあがりましたが、麦の飯がきらいでした。わたしが、また、麦がきらいでしたから、金光さまの御飯がすむのを、まったものですが、それが、なかなか、時間どおりにいかんので、話ずきな人ですから、おまいりの人でもありますと、晩がおそくなり、いつまででも話がはずむので、まちどおしいことというたら、とてもたまらぬほどで、いまに、ようおぼえております。 朝は、はやいし、夜は、そうしてふけるし、台所は、こまったものです。小田から、森田八右衛門という人がきておって、なにかと世話をしてくれましたが、話がはずむと、この人も、なかなか、かえれぬのです」 と、その幼時を、ものがたっている。  斎藤重右衛門は、笠岡にあって、取次に奉仕するようになった当初のころ、  「なんぼう修行をしても、とても<6>大谷にはかなわぬ。あちらは神じゃ。わしは人間じゃ。とても、おなじようにはなれぬ。いっそ、信心をやめてしまおうか」
とまでおもいつめて、冬のある日、金光大神の広前に、ひそかに、いとまごいのつもりで参拝したのであった。
 金光大神は、その日にかぎって、信心のはなしは、すこしもせず、世間ばなしに、ときのうつることをわすれ、ついに、夜なかの<7>八ツ時になった。金光大神は、 「笠岡の、大分さむうなりました。炬燵コタツへあたりましょうや」 とて、控の間にみちびいた。そこには一子大神が、炬燵によりかかったまま仮寝ウタタネをしており、炬燵も、つめたかった。金光大神は、  「おいおきい。おきて火をせい」 と両三度、一子大神をうながしたが、さらに、こたえがない。  「あれみなされ、昼、くたびれておりますけい、おきませんわい。火がのうては、つまりません。また、神さまのところへ、でましょうや」 とて広前にいで、  「まあ、ひえついでに、ひえましょうや」 とて神前から、蜜柑二顆をさげ、ともに皮をむきつつ、ついに朝まで、はなしつづけた。重右衛門は、  「金光さまも、やはり人間じゃが、堪忍がつよいから、神にもなれたのじゃ。わしで見い、すぐに<8>手がでておろうに。わしも、あの百倍も修行したら、おなじように、神になられぬこともあるまい」
と、こころひそかに感動し、かつ、覚悟をあらたにして、かえっていったのである(大本藤雄)。もって、その日常の一斑を、うかがうことができる。
 金光大神は、煙草は、生来きらいであった。酒は、夕食のとき、ちいさな盃に、ふたつ・みつかさねるのが、つねであったが、昼のあいだは、決して口にしなかった。
 「ひるのあいだに酒をのむと、顔があかくなる。そうすれば『あれが、あかい顔をしてなにをいうか』とおもわれるから」
と、いっていた(高橋富枝)。

<1>明治四年八月 <2>小形の模様を一面に染出したるもの
<3>差貫(奴袴) <4>襠マチ、袴の内股のところ
<5>「ぞい」の訛 <6>金光大神
<7>午前二時 <8>妻を打つの意

.. (三)金光大神の神勤

… 神勤の刻限

 神勤の時間は、はじめは、それと、さだまるところなく、参拝者のあるにまかせて、早朝から夜半までもつとめたが、後、神のみさとしのままに「六ツから六ツまで」とさだまった。すなわち午前六時から、午後六時までである。かく、さだめられたのは、いつのころであるか判然しないが、おそらく明治初年のころとおもわれる。
 さりながら、かく、さだまった後も、「氏子が、まいってきおるから」との神のみさとしのある場合には、夜も、いつまでも、取次の座にあってこれをまち(松本太七)、控の間にあっても、まいって、こえをかければ、夜おそくても、「そうか」といって、ただちに広前にでた(佐藤範雄)。

… 神勤の模様

 取次の座にあっては、いつも両袖を、うちがわから、かるくおさえて、ひざにおき、つつましやかにすわっていた。神勤当初、三年ばかりのあいだ、神は、取次の座においても胡坐アグラをゆるした。それは、百姓仕事ばかりしていた直後のことであったからである(近藤藤守)。後には、控の間にあっても、ひざをくずすことはなくなった。たまたま、これを、くずす場合には「御免なされ」と会釈した(高橋富枝)。
 夏も、うちわや扇子を手にすることなく、冬も、火鉢や炬燵をとおざけた。
 朝は、縁端にでて、東天を拝して取次の座につき、暮には、また西天を拝した。かくして、日々、神勤におこたりなく、文久二年(一八六二)七月二十一日、矢掛、智教院強請の件で、神のみさとしのもとに、<*1>笠岡出社におもむき、神職補任ののち、公用によって、数度、浅尾藩庁に出頭したが、慶応二年(一八六六)九月、養母死去の際にも、
 「一時も、祈念やめることあいならぬ。死人のところへ、いくことならず」
との神のみさとしのまま、わずかに、門のあたりまで、みおくり、それ以後、また、黒土をふむことがなかった(河本虎太郎)。
 金光大神は、
 「この方でも、風邪にかかることがあるけれども、ひかえて、やすむようなことがあっては、さしつかえるから、つとめるがすこしもさわらぬ」(佐藤光治郎)
 「家がやけても、じっとこうしている。どのようなことがあっても、うごかぬ」(古川てる)
などと、平生の、こころがまえをものがたり、さらに、
 「こころがちがえば、この方といえども、どうなるかしれぬ」(浅野喜十郎)
と、その、つつしみのこころを、ものがたっている。

<*1>一四一頁参照

.. (四)神前の奉仕

… 献燈

 金光大神は、夜間は、神前に燈明を献じた。これは、暗いあいだの神への「御馳走」であったことは、
 「みな、金神を、おがむというて、昼でも、あかりをつけるが、神は、めくらでないから、あかりはいらぬぞ」
ということばによっても、うかがうことができる(小林財三郎)。

… 御膳

 日々の御供は、これを「御膳」ととなえ、毎朝、三つの器にもってこれをそなえた。
 「ひとつは天、ひとつは地、もうひとつは、天地のあいだにそなえるのじゃ。それは、みんな、信心するものの先祖・先祖のみたまに、神が<*1>ちわりあたえて、くださるのじゃ。一心に信心するものは、神にそなえたものは、神から先祖へちわりあたえて、くださるのじゃ。ありがたいことじゃのう」
と、三つそなえることの意義を、金光大神は、近藤藤守にさとした。「御膳」は、はじめは一子大神がととのえたが、明治二年(一八六九)三月二十三日以後は、神のみさとしのままに、二女くらが奉仕した。

… 献香

 神前に、線香を献じたことについては、さきにしるした。

… 祓・心経の誦唱

 神前拝礼の際には、はじめは「六根清浄祓」や「磐若心経」をとなえ、これも神への「御馳走」であった。金光大神は、この祓・心経を、一巻一息であげ、しかもおわりは、こえを、きわめてながくひくのが、つねであった(高橋富枝)。
 白川神祇伯から、神拝許状を得るにおよんで、金光大神は、その許状にそえてあたえられた「大祓詞」を、この祓についで奏したが、いつとはなしに「大祓詞」のみとなり、さらに明治十四年(一八八一)のころから、これをも廃した(佐藤範雄)。このことについて、金光大神は、
 「神さまが、大祓をあげても、あげぬでもおなじこと。氏子に、ひとくちでもはなしをしてきかせい、とのおさしずであるから、やめた」と、当時、佐藤範雄のたずねにこたえた。

<*1>「分配」の大阪地方の方言

.. (五)金光大神の取次

… 『神門帳』・『願主歳書覚帳』

 金光大神が、取次に専念することとなったのは、安政六年(一八五九)十月であったが、翌、万延元年(一八六〇)正月朔日、神は、「神門拍手」をゆるされた信者氏子の国所・歳・名を、「覚」としてしるすべき『神門帳』を、ととのえよとさとし、さらに五月朔日、『願主歳書覚帳』を、ととのえよとさとした。
 金光大神の取次は、神に対しては「祈念」となり、氏子に対しては「裁伝」となり「理解」となって、おこなわれた。

… 祈念

 祈念は、これを、総祈念と別祈念とにわけることができる。総祈念は、総氏子の身上に関するものであり、別祈念は、個々の氏子の、個々の場合のねがいに関するものである。

… 総祈念

 総氏子の祈念は、毎日、朝と夕とにおこなわれ、明治二年(一八六九)三月二十三日、神は、
 「日々、朝・晩のきねんとめ。総氏子の祈念は、家内・子どもにさせい」
と、さとすところがあった。「朝・晩のきねん」とは、総氏子祈念のことであり、「とめ」とは、金光大神の、これをつとめることを、禁止するの意であろう。かくて、総祈念は、この日をもって、家族のものが、かわって、これをつとめることとなった。
 総祈念には、一定の祈念詞がもちいられた。それは、総氏子の身上に関する、こまやかに、ひろくゆきとどいたものである(大阪教会文書、大喜田喜三郎)。

… 別祈念

 個々の氏子のねがいを、神に取次ぐことを、金光大神は、はじめ、「おがんであげます」など、いうていたが、明治五年(一八七二)七月二十八日、神は、
 「金光大神『おがむ』というな。『おねがい・とどけいたしてあげましょう』と申して(すが)よし」
とさとし、さらに、
 「『ねがう氏子のこころでたのめい』と申してきかせい。わがこころに、おかげはあり」
とも、さとすところがあった。
 個々の氏子の祈念には、
 「生神金光大神様・生神金光大神様…」
と、くりかえしとなえてのち、「ねがいこみ」があり(徳永健次)、その後か、もしくは「ねがいこみ」の中途で、裁伝があるのが通例であった。

… 裁伝

 裁伝は、神前に対ムカったままで、ときには、顔を、すこしよこざまにむけ、まじまじとまばたきしつつ、「何年ナニドシの氏子」とよびかけ(和田安兵衛)、ついで、そのねがいごとに対し、あるいは、その氏子の身上に関し、直接に、端的に、神のこころをつたえるのである。
 金光大神取次の当初の裁伝には、かなり峻厳なものもあり、気のよわい氏子は、そのために、参拝することを、おそれ、いとうようなこともあったので、金光大神は、「すこし、やわらかに」と神に懇請したほどである(片岡幸之進)。また、ときには、きいていて、くすくすと、おもわず、わらいだすような、諧謔オカシミのまじることもあったが(高橋沢野)、全体としては、きわめて森厳・荘重であって、おのずから、えりをたださしめるものがあった。
 裁伝は、かの「神憑」などのように、つたえるものが、無意識状態にあるのとは、ことなる。それであるから、神のみさとしが簡単で、初信のものに、会得がゆかぬと察せられるときなど、金光大神は、
 「いまのが、わかったかや」
と、念をおし(森政さだの)、また、その内容を敷衍フエンして、とききかせることもあった。
 金光大神は、その晩年、裁伝の、あやまりつたえられることをおそれ、明治十五年(一八八二)、神のみさとしのままに、
 「御裁伝は、この方一代かぎりぞ」
とさだめた(佐藤範雄)。

… 理解

 理解は、取次の座にあっておこなわれた。これは、「ものの道理を解きわけてきかせる」意義であって、当時、庄屋が、村人を訓誡するのを「理解」というていた。金光大神は、これにならったのであろうか。
 裁伝も理解も、ともに、地方語でのべられ、すこしのかざりけもなかった。そこにまた、いいしれぬゆかしさが、感ぜられるのであった(和田安兵衛)。
 金光大神の理解は、「きけよ、さとれよ」ということが、その根本態度であって(市村光五郎、佐藤光治郎)、いかなる場合にも、まず「道理」をときさとした(吉原良三)。その骨子とするところは、
 「金光が、金神さまに、一心に信心をして、おかげをうけておることを、はなしてきかすのぞ」とあるごとく(市村光五郎)、金光大神みずからの体験であった。それゆえ、比喩や例話には、農業に関するものが、もっともおおかったが、諺語のごときも、かずおおく引用せられ、史的事実や故実もさしはさまれ、ときに、寓話や諧謔もまじえられ、いかにも、その常識のゆたかであったことがうかがわれる。その内容も、天地・人生のことから、日常起居のことにわたり、ときに、夫婦のまじわりにまでおよぶこともあり、きわめて広汎なものであった。
 理解は、個々の人の、個々の場合に適応するものであったから、一般的な通義をとくこともあったが、おおくの場合、いわゆる、応病与薬的のものであった。したがって、それ等を対照すると、彼比、矛盾・撞着することが、かならずしも、ないとはいえなかった。
 金光大神の理解は、神意のままのものであるとともに、氏子のこころを反映するものでもあった。それゆえ、ときには、滾々コンコンとして理解のつきぬこともあり、ときには、いつまでまっても、一言の理解のないこともあった(佐藤光治郎)。また、ときには、春風のごとく、なごやかなこともあり、ときには、秋霜のごとく、きびしいこともあった(高橋富枝)。
 さらに、金光大神は、理解なかばでも、神意にかなわぬものの参拝したときには、突然、口をとじ、そのものの、かえりさった後、おもむろに、ふたたび口をひらいた(松本太七)。他ヒトのことをいうのを、金光大神は、もっとも厭うた。それゆえ、それを、口にするのはもとより、こころひそかに、おもうものが広前にあっても、金光大神は、理解の途中でも、これをとどめ、さりげなく、正面を、みつめているようなこともあった(和田安兵衛)。

… ある日の理解

 金光大神の、諄々として理解する様子は、周防熊毛郡大野村の人、徳永健次が、はじめて参拝したときの記録が、これを彷彿せしめる。それは、明治十五年(一八八二)十二月十八日のことであった。
金光大神「あなたは、どちらから、おまいりなされましたか」
健次「わたくしは、周防の国から、参詣いたしました」
金光大神「何里ぐらいありますか」
健次「ちょっと五十里ぐらいあります」
金光大神「ようこそ、五十里も遠方から、おまいりなされましたのう。周防の国は、何郡何村、お名まえは、何と申しますか」
健次「周防の国は、熊毛郡大野村、徳永健次と申します」
金光大神「大野か小野か」
健次「大野であります。わたくしは、眼病で、参詣いたしました」
金光大神「神さまへ、一心に御信心なされませ。おかげはあります。遠慮はないから、ちこう、およんなさい。おはなしをせねばなりません。
周防のおかた、わたくしのことを、人が、神・神といいますが、おかしいではありませんか。わたくしが、なんの神であろうぞ。わたくしは、なにもしらぬ、土をほる百姓であります。
東京あたりから、官員がたが、沢山にみえまして、人が神になる、というが、ちがいはない。人が神になるのじゃ、といわれます。あの鴨居に、はってある名刺を御覧なさい。沢山はってあります。
これへ、おいでなされるおかたが、神さまであります(まいる人をゆびさし)。あなたがたが、神さまの、お子でありましょうが。生神ということは、ここに神が、うまれる、ということであります。わたくしが、おかげのうけはじめであります。あなたがたも、そのとおりに、おかげがうけられます。
あの、日乃大神さまのことを、いまは、ことがようひらけましたのう、<1>機械ということになりました。機械にもせよ、ええ機械でありますのう。この機械に、あかりを見せてもらい、せわになれば、礼をいわねばなりません。あかいものを見れば、『ひ』といいます。『ひぢりめん』じゃの、『ひもうせん』じゃのといいますが、くらいところで、ふりまわしても、あかりはとれません。 あの、天照皇大神というのは、日本の神さまであります。天子さまの御先祖であります。<2>この神さまは、日本ばかりの神さまではありません。<3>三千世界を、おつかさどりなされます神さまであります。周防のおかた、いまは、なにでもなられますのう。太政大臣にでもなられます。なる、という腰になれば、なられます。ならぬ腰であれば、なられません。もともとは、お百姓は、学問は、せいでもええ、ということでありましたから、それで、<4>せざったから、つまりませざった。いまは、お百姓でも、学問は、せねばならぬ、ということになりました。してみれば、お百姓でも、学問のできぬ、ということはありません。また、婦人は、学問はいらぬもの、ということでありましたから、せざったので、つまりません。いまは、婦人でも学問はせねばならぬ、ということになりました。して見れば御婦人のかたが、<5>けっくで、よく出精ができますのう。 して見れば、信心もそのとおり、できぬ、ということはありません。せぬ腰ならば、できません。できぬ、ということは、するこころでないのであります。一代のうちに、いけぬということは、何でも、ありませんが、たったひとつ、いけぬということがあります。それは、寿命が<7>みてて、死ぬるのが、いけませんのう。
あの、病気になると、つよいものを、くうてはわるい、といいますが、つよいものをくわぬと、からだがよおうなります。油づよいものを、くいさえすれば、体が丈夫になります。体が丈夫になり次第、病の方がまけます。油づよいものをくわぬと、体がよおうなります。よおうなり次第、病の方が、かってくるようになります。それで、つよいものをくうた方が、ええのであります。くうてわるい、ということになれば、死ぬる人が、何々がほしい、というたときに、あれは、油づよいもの、あれは、毒だてがあるから、くわせぬがよい、とかいうものはありますまい。医師をはじめとして、なんでもよい、くわして見よ、といいましょう。何々が、ひとくちくえたならば、何々がいけた、まだまだ気づかいない、というて、一同のものが安心しましょう。そんなら、くうた方が、ええのでありましょう。また、この世へは、くいに、うまれたのでありますぞよ。また、からだへ、灸をすえると、きずがつきます。あれは、『人間のきずもの』というものであります。町へ、かいものにゆきましても『これはきずものじゃによって、やすうせい』といいます。灸のあとがあれば、『人間の安物』の分であります。あの立木へでも、鎌をあて、<8>朸オウコをあてると、きずがつきます。そのきずより、大風がふくと、風折カザオレがしますぞよ。すなおにそだった木は、滅多に風折はしません。人間もそのとおり、神さまより、きれいなからだを、くだされたものであります。それに、きずをつけたり、鍼をたてたりすると、体がちびます。そこで、ながいきができぬように、なりますぞよ。 あの、暦をそしるではないが、旧の暦には、今日は『麦まき、よし』『菜まき、よし』『そばまき、よし』とあるが、大雨ふりにでも、今日は『麦まき、よし』『菜まき、よし』『そばまき、よし』、どうでもまかねばならぬというて、大雨ふりにまいては、つまりません。あれは、お百姓衆が、しめりあんばいもよし、みあわしてまくと、よいのであります。 また、暦には『この方にむかって、大小便せず』とありますが、あの、便所は、毎年<9>かかえなおす、ということはできません。そこで、おことわりをいうて、いく方が、よろしゅうござります。それで、暦にあっても益ないものであります。
あの、牛肉をくうては、わるいとかいいますが、天子さまから、くえとおおせられるからは、なにをくうても、<10>かもえません。それで、神さまのおかげの、ないということは、ありません。口へくうた、くわぬではない。おかげはこころにあるのであります。 神さまというものは、あの、さかいを、よく、しっておいでなされるものでありますのう。ここに、畠に、菜がつくってある。蕎麦がつくってある。上の<11>町にも、虫が沢山におる。下の町にも、沢山におる。中の町は、神さまへおねがい申して、お水をふりかけたらば、ひとつもおりません。また、ひと町のなかでも、<12>溝をさかいに、神さまへおねがい申した方には、虫がひとつもおりません。神さまというものは、ようさかいをしって、おいでなされますものでありますのう。 また、このさきの方に、わたをつくる人が、今年は、<13>わせ棉がよろしいか、おそ棉がよろしいか、と神さまにおねがい申して、わせ棉をつくりましたら、余程よろしくて、おかげをいただきました。おそ棉をつくったものは、大雨がふって、<14>つまりませだった。それで、わせ棉をつくったものが、綿を、もってきました」 ここで、金光大神の理解は一転した。 金光大神「このごろ、長門国萩にて、信心するものが、八人ほどあります。あなたがたのところにも、だいぶん信心する人が、できましたのう」 とかたるのであった。あたかも、<15>同郡平生町、礒部藤太郎というものが、まいりあわせておった。
藤太郎「わたくし方におきましても、四代ほどまえに、さくら荒神という神をまつったものがありますが、これは、なにをまつったもので、ござりましょうか」
とたずねた。
金光大神「それは、なんでもよし。さくら荒神とあれば、<16>つい、さくら荒神で、ええのではありませんか」 藤太郎「その桜荒神社へ、天地金乃神と、ほかに、三神と合して、五社とまつりましては、どうでござりましょうか」 金光大神「その桜荒神社とある神さまへ、この神さまを、御一処にまつると、この神さまは、神さまのなかでも、天子さまどころじゃによって、まえにまつってある神さまが、おられぬようになります。おたがいの家にでも、天子さまがおいでになりましたならば、おたがいは、おられません。ほかほかへ、でてゆかねばなりません。この神さまは、別におまつりなされる方が、よろしい」 とさとすのであった。そこへ近傍の人が、まいりあわせていて、  「わたくしは、銅山を、四年ほどいたしまして、大損害をうけましたが、もう一年やって、もうけられましょうか。どうでござりましょうか。もうけられますれば、もう一年やってみますが…」 金光大神「それは、もうけられるやら、もうけられぬやら、<17>やってみんねば、わかりませんのう」
とさとし、ついで、
金光大神「周防のおかた、<18>いも、おかえりてはどうじゃ。わたくしのはなしは、いつまではなしても、<19>みてるということはありません。書物やなんどを見てはなすのなら、これまでで、ひときり、はなしたからやめる、ということがありますが、それでないから、いつまではなしても、みてるということはありません」
健次「わたくしは、<*20>風がわるくて、かえられません」
金光大神「そんなら、陸カチをおかえりては、どうじゃ」
健次「わたくしは、船をかりきりにして、参詣いたしましたのでございます」
金光大神「そんなら、どうもなりませんのう」
とて、その日の理解は、おわりをつげた。かくて二十二日、健次は、帰国することとなり、
 「今日かえりますから、御本社の御講社へ、御加入いたしとうございます」
と申出たが、金光大神は、「ここには、講社ということはありませんから、国もとへおかえりなされて、そのうえ、講社をとりたてて、信心なされるが、よろしゅうござります」
 「さようならば、そういたしましょう」
と挨拶して、健次は、下向の途についたのである(教祖御親教)。

… 洗米

 金光大神は、取次をこう氏子に洗米をさげた。これは、かならずしも、神への供物には関係なく、「たしかに神に取次いだ」という意義のこもるものであって、洗米は、取次の当初から、さげられていた。そして、その数は、人によって、かならずしも一定していなかった。
 その形式は、当初から現行のものとかわりはなかった。剣先形の上包の料紙は、はじめは、氏子から、神前にたてまつった供物の上包紙などを整理して、利用したもののごとくである(高橋沢野)。
 中にいれられる米は、直接に手をふれぬようにして水できよめ、一旦、ほしあげてのち、神酒をそそぎ、さらに、ほしあげるのである、とつたえられる(高橋富枝)。
 洗米は、主として一子大神の手によって、ととのえられ、金光宅吉等もこれをたすけた。洗米をいかにいただくか、ということは、一に、いただくものの、こころごころにあって、「かくあつかわねばならぬ」と金光大神は、かつて、さとすところはなかった。
 はじめは、誰もこれを「御洗米」ととなえたが、京阪地方で、その形から、いつしかこれを「御剣先」ととなえたり、「御神体」などよぶようになったので、金光宅吉は、これを「御神米」とさだめた(佐藤範雄)。
 ちなみに、洗米の一箇年に、さげられた数について、金光宅吉は、その手控に、つぎのようにしるしている。

 年次      枚数
 明治十二年(一八七九)  一五、九一一
 同 十三年(一八八〇)  一四、二二二
 同 十四年(一八八一)  一七、四三七
もって当時の大体をしることができる。

<1>唯物観 <2>天地金乃神
<3>仏教の語。あらゆる世界 <4>「せずあった」の約音
<5>「結局」の意の山口地方の方言 <6>不可能
<7>尽きて <8>てんびん棒
<9>「移転」の山口地方の方言 <10>「かまい」の山口地方の訛
<11>田畑の区劃 <12>畝と畝との境の水はけ
<13>早蒔きの棉 <14>山口地方のいいぶり
<15>熊毛郡 <16>山口地方慣用の間投詞
<17>山口地方の訛 <18>「今」か
<19>「終る」の方言 <20>逆風

.. (六)取次の権威

… 儼然たる態度

 金光大神は、なにごとにも儼然たる態度をもってのぞみ、みずからを、いやしめることを、極度にいましめたが、このことは、その取次の態度に、もっとも、よくあらわれている。
 「金光大神は、銭・金をめあてには、おがまぬ」
といい(山本定次郎)、さらに教子等を、いましめて、
 「この結構なお道を、<1>ふり売にゆくなよ。金光大神は、すわりて、このお道をひらいておるなり。かならず、ふり売にはゆくなよ。いれば、かならず、もらいにくるなり」 とも(斎藤宗次郎)、  「信者のうちへ、神をおがみに外出してゆくことは、ふり売と申すことなり。ふり売するな、というておいたに、出られたのう。これからは出られなよ。出ずと、うちにおれ。三百里・四百里は、神がひきよせてやるから、出るなよう」 とも(近藤藤守)、  「おかげを、やすうりしてくれなよう。祈念・祈祷にであるくなど、不見識なことはすな。隣同志でも、おがみにいってはならぬ。まいってくるものだけ、たすけておけ」 ともさとした(高橋富枝)。  あるとき、川崎元右衛門が、蝦をたずさえて参拝して、  「笠岡は、やかましいから、あちらへは<2>くろ蝦をもってまいりましたが、此方は、おこころやすうござりますから<3>がざ蝦をもってまいりました」 というた。金光大神は、  「氏子は、こなたは、おこころやすいからがざ蝦をもってまいった、という。いくら、やかましくても、笠岡は、この方の出社ぞ。神のこころにかなわぬ」 とて、これをしりぞけた(佐藤範雄)。  浅口郡<4>乙島、国枝三五郎は、眼病が、その入信の機縁であった。ある年の夏、西瓜の初なりを、わが家の神前にそなえ、翌日、これをたずさえて、家を出た。途中、玉島の、とある家でやすんでいると、親子づれの巡礼がきかかり、
 「どこへ、ゆかれるか」
ときくので、
 「大谷の金神さまへ、西瓜の初なりを、もってまいろうとおもう」
とこたえた。空腹をおぼえていたその子どもが、
 「わしも金神さまになりたい」
とて、なきだしたので、三五郎は不愍におもい、西瓜を、その子にあたえ、空手で参ったが、さて折角の供物がなくなったので、広前のそとで、もじもじしていた。そこへ、金光大神が、たちでて、
 「国枝さん、西瓜の初なりは、昨夕ユウベ、神さまが、よろこんでおうけとりになった」
と三五郎をさとした(原田友恵、蜂谷金次郎)。さきの話と、まことに対蹠的なものである。
 あるとき、備中窪屋郡<5>富久村の人、堀兼吉カネキチが参拝していると、総社村のものがまいって、取次をこうたが、これに対して金光大神は、  「その方のように、あちら・こちら、うろたえものにゃあ、<6>おごうでやらぬ」と、これをとがめた。兼吉のとりなしによって、ようやく、金光大神は、その取次をした(荻原豊松)。
 浅口郡<7>西阿知村の人、荻原利喜三が、その<8>娘の病気について、取次をこうたとき、金光大神は、
 「そちらの娘は、執念で、うたがいぶかい。<9>たのうでやっても、おかげは<10>なあから、今日はたのうでやらぬ。また、<11>つれそうものも、<12>こげも信心気が<13>なあけん。にへんとはいわぬ、いっぺんだけ、つれそうものを、<14>まあらさんせい」
と、これをいましめた。
 これ等は、いずれも、金光大神の取次のきびしさを、うかがうにたるものである。

<1>「触れ売」の転。商品名をふれて売りあるくこと <2>「くまえび」大きさ二三寸
<3>「あかえび」小蝦 <4>現玉島市
<5>現倉敷市 <6>「おがみて」の音便。祈念の意
<7>現倉敷市 <8>名、須喜。荻原豊松妻
<9>「たのみて」の音便 <10>「ない」の訛
<11>配偶者豊松 <12>かけらほども
<13>「ないけに」の訛 <14>「まいらせい」の訛

.. (七)金光大神の眼識

… 金光大神の眼識

 金光大神は、対者の如何によって、その取次は、柔剛・緩急・擒縦そのよろしきを得、その眼識には、きわめてするどいものがあった。

 備前上道郡<1>光津コウズ村、角南スナミ佐之吉は、気象のはげしい人であった。長男平次が、四歳にして病気にかかり、当時、村内五蟠にいた青井サキのもとを、おとずれて、その全快の祈念をこうた。祈念は、こいつつも、こころのおくには、なお、一抹のうたがいがひそんでいた。  あるとき、サキにともなわれて、大谷に参拝の途上、  「あれは、狐や狸をつかうのではなかろうか」 など、うわさをしていた。やがてまいりつき、サキは、平次の病気全快の取次をこうのであった。金光大神は、  「そうじゃのう、氏子ひとり、すてるわけには、ゆかぬわい。まあ、あとのおかげを、うけなさるがよい」 とさとし、さらに語をついで、  「この方が狐をつかう、というものがあるが、狐をつかうなら、千人まいれば、千疋つかわねばならぬてやなあ、ハハハ…」 とわらうのであった。サキは、さらに、  「この人の家には、罪がおおいに相違ない、といわれるのでありますが」 というに対して金光大神は、  「自家ウチウチで、罪をこしらえぬようにせぬと、いけぬのう」 という。  「どういうわけでありましょうか」 と、サキの、たずねるのに対して、  「家ウチのものが、夜ねて、からだはやすめても、<2>お前のために、夜、こころをやすめることができぬと、御無礼になるわい」
といましめた。これは、佐之吉を、家族のものが、もてあましていることを指摘したものである。佐之吉は、この理解によって得心がゆき、ひたすらに神にわびた。
 かくて、平次は死去したが、ほどなく<3>女児をあげ、  「金光さま、今度は、<4>ほん、びりができましてなあ」
と、きこえあげると、金光大神は、
 「ハハハ…、そうよのう。それでもなあ、女の児の十五にはかかれるが、男の児の十五には、かかれぬからのう。女の児の十五には、二十歳の養子ができるが、男の児の十五には、二十歳の嫁はもらえぬからのう」
と、ねんごろにさとした。
 佐之吉の気象のはげしさは、本人だけでなく、その兄弟も同様で、親子・兄弟のあいだに、いさかいが、たえまなく、農事なども、おなじ田圃で、親子いっしょに、はたらくことすら、こころよしとせぬありさまであった。
 ある日、佐之吉は、親とあらそいごとをしたすえに参拝した。金光大神は、これに「御書附」をさずけ、そのなかの「和賀心」ということを、
 「和はやわらぎ、なかよくする、という字で、『くわえる』とも訓む。賀は、祝賀の賀で、『いわう』とも『よろこぶ』ともいう字じゃ。信心するものは、この、やわらぎ、よろこぶこころでなければいけぬ。このこころで信心すれば、おかげがある」
と、ときさとした。佐之吉は、さながら電気にでもうたれたごとくに感じ、さすがの我執も、根柢からくだけ去って、「ああ、わしがわるかった」と、とみに、あらたまるところがあった。かくて、こころもかるく家路をたどることができ、爾後、一家、和楽の生活を、いとなむことができるようになった(角南巍)。
 片岡次郎四郎も、はじめ、気象はげしく、気みじかの人であった。他が、まがったことをすると、かならず竹箆返シッペイガエシをし、しかも、それが正当であるとかんがえていた。次郎四郎、ある日、参拝のおりに、
 「人に、わるくいわれたときに、信心するから、こらえねばならぬ、とおもうて、こらえるぐらいでは、まだいけぬ。先方のこころを、どうぞ、なおしてやってくだされ、とおがんでやるようにならねばならぬ」
と、金光大神は、これをさとし、次郎四郎の態度は、ここに一変した(片岡次郎)。
 中野米次郎は、はじめ、金光大神を「狐つかい」か、「狸つかい」であるとし、まいって、正体をみとどめてやるとて、七十余人から、ことづけられた初穂を、ふところにして参拝し、
 「これを、ことづかってまいりました」
と取次の座に、さしだした。金光大神は、これを藁しべでつかねて、机のかたわらに、なげだしておき、七十余人の名と願事とをしるした帳面だけをもって祈念の座につき、まず、その帳面を一枚ずつ、くってのち、一拝し、まえの小机にのせ、すこし、しりぞいて神名をとなえ、その七十余人の願事を、一々、そらで取次ぐのであった。米次郎は、この光景にうたれて、さすがの疑念も、一時に、ぬぐいさられたのである。
 近江高宮の人、堤清四郎は、性、きわめて剛愎であって、機鋒のするどい金光宅吉すら、
 「道におらねば、一筋縄では、ゆかぬ人じゃ」
と評したほどである(近藤藤守)。小間物を行商し、「近江商人」として、足跡を、全国にとどめていた。
 はじめ、京都で、相宗豊次郎から、道のはなしを耳にしたことは、さきにしるしたごとくである。清四郎は、これに信がおけず、さらに中野米次郎について、きくところがあったが、なお、
 「中野は、苦労がたらぬから、だまされておるのである」
として、容易に、その言を信じなかった。これも、
 「おれがいって、検ミてきてやる」
ということになった。米次郎は、
 「いき神ともいわれる人に、なにか、かいてもろうておけば、家宝になる」
とおもいつき、二円五十銭の潤筆料と紙とを託した。
 清四郎は、大阪川口で乗船の際、あやまって海におちた。
 清四郎が広前に入ったとき、金光大神は、
 「堤さん、あなたは、方々あるかれるから、おもしろいことも、つらいことも、ありましたろうのう」
とたずねた。清四郎は、
 「へい、わたくしは、江戸から長崎まであるいて、しらぬところとては、ありませぬ」と、すこぶる得意であった。金光大神は、
 「それでは、根の国・底の国も御存知でしょうなあ」
という。
 「そんな国はござりません」
というと、金光大神は、
 「大阪の川口で行ったのが、根の国・底の国でありましょう」
といったので、さすが剛愎の清四郎も、一度に胆キモをうばわれたのであった。金光大神は、
 「かくことは、親が、おしえなかったから、ようかきませぬわい」
とて、ことづかっていった紙と金包とは、藁しべでゆわえて、鴨居のうえにのせ、ついに筆をとることもなかった。
 備前邑久郡<5>射越イゴシの人、某は、建築のことにつき、松崎新田、伍賀慶春の広前に取次をこい、  「さしつかえない」 との、みさとしをうけていたが、なお、金光大神の広前にもうでて取次をこうた。金光大神は、言下に、  「これは、松崎新田ですんでおるが。ちかいところにあるのに、ここまで来いでもよいに」 とこれをとがめた。  大阪住吉の人、和田安兵衛の入信は、明治十三年(一八八〇)三月六日である(初代白神先生年表)。はじめて金光大神の広前にもうで、取次の座一間ばかりまえにすすんだときに、金光大神は、これをかえりみ、いきなり、  「遠方からまいったのう。住吉というと、余程あるのう」 とこえをかけた。このときのことを、安兵衛は、「実に驚入候」としるしている。  角南佐之吉の兄、小林財三郎は、参拝の途中、玉島の町をすぎ、ちょっと見物などをしても、金光大神は、すぐにそれを指摘して、  「余所アダを見物するのなら、日をかえて来なされ。<6>じなばあ、いわぬようにしなされい」
といましめた。
 国枝三五郎、ある日、参拝の帰途、道づれになったものが、
 「眼がわるければ、灸をすえなされば、よろしい」
というをきき、「ほんに、そうかいなあ」とおもうのであった。
 そのつぎの参拝のおり、金光大神は、
 「このあいだ、かえるときに、おとしものをしたのう」
という。
 「いや、なにもおとしは、しませぬ」
とこたえると、
 「よう、かんがえてみい、つれが、ありはせなんだか。氏子は、おかげをおとしておる。天地金乃神よりほかに、眼をなおすのは、上手なものがある、というたものが、あろうが」と指摘せられて、三五郎は、いたくおそれいった。
 児島郡田ノ口の人、難波幸ある日の参拝に、隣家の少年で、つれてまいってくれ、というものがあった。親は、
 「今日は、都合がわるいから、他の日にせよ」
とさとしたが、それをきかずに、しいて参拝した。すると金光大神は、
 「今日は、親にそむいてまいって来たのう。神は、どこへも行きはせぬぞ。親にそむかぬようにして、参詣せいよう」
と、その少年をいましめた。
 備前上道郡北方村の人、石原銀造が、ある日、月参をするとて、若いもの誰彼と、つれだっていた。途中、婦人にであうたびに、
 「いまのは、まえのより一割上じゃ」
とか、
 「今度のは二割おちる」
など、たわむれつつ、まいって来た。金光大神は、銀造をかえりみて、
 「今日は、はなしが大層<7>しげったなあ。帰途カエリには、おかげばなしをして、かえれよ」 とさとされたので、みな、はじおそれた(藤田円造)。  備後安那郡上御領村、森政禎治郎は明治十二年(一八七九)の夏、重患におちいり、七月三日、佐藤範雄の取次によって、たすけられた人である。  この年十月十二日、土地の<8>妙見宮の祭の夕、客に来た親族に、禎治郎の母が、
 「禎治郎の病気は、信心のためとはいえ、寿命があったればこそ、全快したのである」
など、うわさをしておるのを、禎治郎の妻さだのが耳にし、「ああいうことを、いわれるが」とおもうた。こえて十五日、さだのが大谷にもうでると、金光大神は、
 「氏子の家には、亭主の病気が、おかげでたすかった、とはおもうておらぬものが、あるぞよう。棺桶へ足をいれてから、出したのでなければ、おかげとは、おもうまいが。今度は、いよいよ、寿命かぎりであったが、<9>氏子の一心で、たすかったのぞよう」 とさとした(森政さだの)。  和田嘉平は、備前上道郡<10>倉富の人である。明治九年(一八七六)ごろ、父、嘉太郎が大病のうえ、叔父、巳代吉が発狂して、難儀をした。親戚某々等が、その全快の取次をこうために、参拝してくれたが、倉敷のあたりで、嘉太郎の生年のわからぬことに気がつき、いまさら、ひきかえすこともならず、如何せんかと、まどいつつ、まいりついて、そのよしを、金光大神にきこえあげた。金光大神は、
 「年ぐらいのことは、わかるわい。これは子の年じゃ」
とて、
 「建築をしとろうがな」
とたずねる。
 「へい、いたしました」
とこたえると、
 「建築フシンをするのに、家相見にみせて『方角はわるいけれども、道路オウライが界になるから、屋敷が、かわるで、かまわぬから、建てい』というて建てておろうが。<11>そのためにわるうなっておるのじゃから、おことわりをいうてやるからなおる」 とさとすのであった。嘉平の家は、まことに、金光大神の指摘したごとく、道路をまたがり、往来のうえを、屋根がおおうているのである。金光大神の取次によって、父の病気は全快した。  備中小田郡<12>上稲木の人、山本徳次郎は、元治元年(一八六四)の春、二男伊平をあげたが、妻志摩は、産後の血の道で、足がたたぬようになり、はじめて、大谷の広前に参拝して取次をこうた。このとき、金光大神は、徳次郎の住宅の模様を、
 「家は南むき、<13>戌亥蔵、西に長屋、東に<14>たちあがりあり、<15>家のうえに、おれまわりになっておる。この、おれまわりかどに大便所あり」 など、たなごころを、さすがごとくに指摘したが、まことに、そのことばのごとくであった。妻は、取次によって、こころよくなったのであるが、徳次郎は、「金神狸をつかう」という評判におそれて、しばらく参拝を中止していた。ほど経て、明治九年(一八七六)<16>旧正月十五日、その子定次郎が、あらためて参拝したときに、
「金光さま、わたくしかたには、父親が、元治元年に参詣つかまつり、母親の病気につき、おねがいいたしましたとき、わたくしかたの建物・道・方角のこと、すこしもたがわぬことを、おつたえくだされたことを、幼少ながら、きいております。おそれいった次第でござりますが、五里へだてて、よく、しれますことでござります。いかがのおねがいでも、遠方のことがわかりますか」
とたずねた。金光大神は、
 「天地金乃神さまは、天地一般にみて、おまもりくだされてあるから、あわせ鏡のあいだに、すんでおるようなものじゃ。目をつむいで、おねがいしておると、ねがう氏子の宅地・建物が、みえるようにおもう。そのままをつたえれば、すこしもちがわぬ、と人がいう」
と、さとすのであった。
 あるとき、青井サキは、角南佐之吉と参拝の途中、玉島あたりから足をいため、みなに、たすけられながら、ようやく大谷にたどりついたが、金光大神は、
 「親のこころを子がしらぬ。親神さまも、なみだをながしておられるわい。親のこころをしって、おかげをうけよ。すぐ、おかげがうけられる。明日は、よくなり、かえられる」
と、さとすのであった。サキは、
 「おそれいりました」
とて、涙ながらに、
 「実は、けさ、たちますとき、母が、ひっかけ草履の用意をしてくれまして、座敷にならべましたので、『縁起でもない』とおこって蹴ちらし、土間から、はいてまいりましたのであります」と懺悔した。それは、葬式のときに、座敷から草履をはく、ならわしがある。それを忌んだのであった。かくて、サキは、みさとしのごとく、翌日は、平生のとおりに、元気で下向することができたのである(角南巍)。

<1>現西大寺市 <2>佐之吉のこと
<3>名、槙 <4>「びり」は少女をあざけりていう語。「ほん」は「まことに」の意
<5>現西大寺市 <6>「埓もないこと」「他愛もないこと」を方言にて「じなくそ」という。その略。「ばあ」ばかり
<7>「はずむ」の意 <8>北極星の神格化
<9>さだの <10>現岡山市
<11>「家相見に見せて足れりとし神に願うことを怠りしため」の意 <12>現井原市
<13>西北 <14>がけ
<15>がけ路が、家を見おろすように折れ廻れる意 <16>陽暦二月九日

.. (八)取次のこころづかい

… 取次のこころづかい

 金光大神の取次には、つねに、こまやかなこころづかいが、こもっていた。もし、金にこまる氏子があれば金をあたえ、「これにてくらすうちには、仕事もあろう」などはげまし(浅野喜十郎)、「一番いそぐ方の利子へ、まわしておけ。しだいに、できればおくってやる」とも、いたわった(高橋富枝)。
 これ等は、もとより、その事情によることであって、みだりにするのではなかった。
 あるとき、大谷村新田の人が、あさから広前に来て、日のくれまで、じっとすわっていた。夕方、参拝者が、みなかえってから、金光大神のまえにすすみ、
 「金神さまが、大谷へまいって、おかげをうけて来い、といわれました」
という。金光大神は、
 「わが家の金神が、大谷へまいって、おかげをうけて来い、というたのか。おかげといやあ、金でもいるというのか。米でもいるというのか」
とたずねると、その人は「へい」という。
 「なんぼう、わが家の金神が、おかげをうけて来い、というても、金神は、なにもやるものはない。あさから、参詣する人々へ、神さまから、おさげになっているはなしは、いただいておろうのう。ほかにやるものはない。金や米は、やっても、つかえば、みててしまうが、あさから、おさげになっておるお言葉を、いただいておれば、その一言でも、千両にも、かえられるのぞ。舟に、つもうというても、車につもうというても、舟にも車にも、つめぬのぞ」
とさとした。その人は、また、
 「へい」
というて、かえっていった(市村光五郎)。
 浅口郡<1>安倉の人、渋谷せんは、血の道でなやみ、人におしえられて、まいってきたが、金光大神は祈念ののち、  「これは、はや、血の道が高じて、ひどうなっておる。もっとはやけりゃ、神も、時日が限られるけれども、もう、こうなっては、時日を限って、どう、ということができぬ。こういう血の道には、<2>サフランがよいものじゃ。小銭を、もっておいでりゃあよし、なけりゃあ、ここにあるから、なんぼうでも、<3>用立ってあげますけい、鴨方へまわって、こうて、去にんさればよい」 とさとした。せんは、このみさとしのままに、銭をかりてサフランをもとめてかえり、これを煎じて服用し、「死ぬれば、死んでもよい」とおもうて粟粥をたき、腹一杯いただいて寝についた。その夜、十七回の通ツウジがあり、翌日は七十回、その夜は三十回と通じて、十日ばかりののち、からだのかるくなるのをおぼえ、やがて全快したのであった。  角南佐之吉が、信心はじめのころのある日、青井サキ等と大谷にまいろうとて、三蟠まで出て、そこから、船で、玉島までゆこうとした。その日は、風があらく、船は出せぬという。ほかの人等は、「日をかえてまいろう」というて去ったが、佐之吉とサキと、<4>五蟠の利守千代吉との三人だけ、なんとしてもまいろうとて、陸路を、あるいてまいった。その日は、さむい日であった。佐之吉は、頬かむりをしていたが、鼻水が、こおるほどであった。広前についたのは夜半であったが、金光大神は、おきてまっていて、
 「よう、まいったのう。さむかったじゃろう。天地乃神さまが、備前から、三人まいってきておる、とおしらせなさったので、<5>藤井へも、いうてある」 とさとした。佐之吉は、全身の毛が、一本だちになるほどに感じて、おそれいったのである。取次をいただき、退出しようとすると、金光大神は、神前から、おおきな鰡をさげて、  「これをもってゆき、料理をしてもろうて、いただけ」とねぎらうのである。佐之吉等は、藤井へさがってみると、食事はもとより、風呂までたてて、まってくれていたのである。翌日、下向のときに、金光大神は、  「三人とも、神の御用がつとまるぞ」 とさとした。三人には、それが、なんのことか、わからなかったが、後、はたして三人とも、<6>取次奉仕の身となったのである(角南巍)。
 津川善右衛門、ある日の参拝に際し、金光大神は、
 「信心する人は、第一のこころえが、腹のたつことのあるも、腹をたてぬようにせよ。腹をたてては、家内の不和をおこす。人と、なかたがいをする。世間を見よ。後には、わが身をすつるものがある。これ、堪忍がたらぬのである。かんにんは大切なもの、とこころえよ」
とさとした。このみさとしをうけてから数年もへたある日、善右衛門が参拝すると、金光大神は、
 「あなたは、ものの堪忍を、よくいたされますのう。神さまも、ひどう、おほめになっております。結構なことでありますが、もひとつすすんで、おかげをおとりなさい」
とて、
 「神さまのおっしゃるのに、『<7>申の年は、よくきけ。堪忍はよくするが、腹のたつのを、おさえこんでおる。そのおさえこむので、気分をいためる。それでは、まだいかぬ。もひとつ、すすんで、腹のたつということを、しらぬ、というようにせよ。そうすれば、身の薬であるぞ』とおおせられる」 とさとした。金光大神が、信者の信心の経過を、つねにみまもっていたことの一端を、うかがうことが出来る。  それは、あたかも高橋富枝が参拝していたときのことであった。髪をきれいにゆいあげ、みなりも、さっぱりとした婦人が、黒溜塗クロタメヌリの盆に白米をもり、その上に初穂の綿をのせて、上端アガリハナのところから、取次をこう。その応接には富枝があたったのである。その婦人のかえりさったあとで、金光大神は富枝に、  「あなたは、あの人をしっておいでなさるかい。あれは、なにがしの家内であります。あの人らも、神さまから御覧になれば、おなじことであります。太鼓でも、それを張ってくれるものがなければ、神さまの御祭も、できませぬわい」 と、ものがたった(高橋富枝)。  明治維新前のある日、津川善右衛門が、足守藩家老杉原寿男を、ともない参拝したことがある。このときの金光大神の態度を、善右衛門は、  「他の人とおなじことにて、『へい、それは』と会釈せらるるのみなりき」 とかたっている。  明治十一年(一八七八)のころ、尾道の人宮永延蔵が、父、助四郎とともに参拝したことがあった。  金光大神は、助四郎に、なにごとか、しきりにはなしており、近傍の人も、誰彼まいりあわせて、そのはなしをきいていた。そこへ、相当の風采をした人がまいってきたので、いあわせたものらは、おもわず席をゆずるのであった。  その人は、金光大神のまえにすすみ、妻の病気について、取次をねがう様子であった。金光大神は、その願事をうけた後、なお、助四郎とのはなしをつづけ、やがて、はなしをおえて祈念の座につき、しばらく祈念ののち、  「信心なされば、おかげをうけられます」 と、その人にさとした。  その人のかえりさったあとで、助四郎は、  「あの方は、どなたでありますか」 とたずねると、金光大神は、  「あれは<8>庭瀬の殿じゃ」
とこたえた。
 「殿さまならば、いますこし、おもてなしかたが、ありましょうに」
と、助四郎のいうに対して、金光大神は、
 「氏子、人間には、かみ・しものへだてがあるが、神には、殿であろうが、<9>職人であろうが、かみ・しもはないから、そのつもりで信心をせい」 とさとした(宮永延蔵)。  あるとき金光大神は、岡山丸亀町の人、吉原良三に、  「金がなければ、信心できぬということなら、貧乏人は死なねばなりませぬ。わたくしの方には、乞食がきて、おそなえするものがない、といえば、それでも<10>御神米をあげる」ともさとした。
 ある年の夏、近藤藤守が参拝していると、ひとりの婦人が、はいってきた。お高祖頭巾をかぶったままで礼拝するのを、いぶかしくおもうていると、金光大神は、藤守に、
 「このお方は、もと、岡山中島で遊女をしていた人じゃ。評判の美人で、玉島の、ある材木屋の主人に、ひかされて、そちらへうつられるようになり、『玉島にきてからは、毎日まいられる』というて、よろこんでおられるが、神さまから、『おまえは、ながらくつとめをして、身体中カラダジュウが毒じゃ。その毒を、とってやろうとおもえば、生命イノチがおわる。身体カラダにきずをつけて、毒をとれば、生命イノチはたすかるけれども、そうなれば、亭主は、すてるであろう。それゆえ、子どもをさずけてやる、子どもができれば、亭主も、おまえをようすてまい』とおおせられ、そして、その年に子がやどって、翌年、玉のような子ができて、亭主がよろこばれてのう。すると、この人の顔に、ぽつりぽつり腫物ができた。神さまが、『これから毒をとってやる。もう、身体が、くずれてもらくじゃ』とおおせられたが、それから、腫物デモノが沢山できて、このとおりになられたのじゃ」
とて、金光大神は、その婦人の身のうえをものがたり、そして、その婦人に、
 「このお方は、大阪難波の<*11>土橋で、先生をしておられるのじゃ。なにも、はずかしいことはない。その頭巾をとって、みてもらいなされ」
とつげるのであった。婦人は、そのことばにしたがい、頭巾をとったが、まことに、二目とみられぬ、みにくさであった。金光大神は、語をついで、「亭主がこの人に、隠居をさせようとしたが、子どもが、ついてゆくというので、それもならず、亭主は、この人を本宅において、他に、婦人をかこうておられるということじゃ」
とも、ものがたった(近藤藤守)。

<1>現寄島町 <2>いちはつ科の多年生草本。花柱を陰乾して健胃剤・ヒステリー・月経不調等の薬剤に用う
<3>貸すこと <4>現西大寺市
<5>駒次郎。信者旅宿の御用を命ぜらる <6>佐之吉は九蟠に、サキは小豆島に、千代吉は光政に、それぞれ教会を開く
<7>善右衛門の生年 <8>板倉勝弘
<9>助四郎は石工職 <10>後のいいざまにて、当時は「御洗米」とよびたり
<*11>叶橋の通称。新川に架す

.. (九)「理解」の諸相

… 理解の諸相

 金光大神の「理解」は、まえにしるしたごとく、人により時により場合によって、応病与薬的な活作用をなすものであったが、同一の事項についても、そのとくところは、かならずしも一様・同趣ではなかった。
 金光大神の「理解」は、人々によって、書きつたえられ、いいつたえられた。これをつたえる場合にも、その人の機根の勝劣、表現の巧拙によって、同一の事項も、いろいろに表現せられた。したがって、それ等は、それぞれに、特殊の意義をもつものということができる。

 以下、これ等おおくの「理解」の中から、その、おもなものをぬきいだして、おおよその類型にしたがって、しるすこととする。

… 神

 金光大神は、はじめ、あらゆる神・仏を、信心の対象としていたが、後、それが金神信仰に統一せられることとなった。
 金神も、はじめは「七殺金神」として地上を遊行する神であったが、後、大地の神となり、これに、日天子・月天子を配して、「天地三神」に展開し、さらに「天地乃神」「天地金乃神」によって、これ等が統一せられるにいたったのである。
 金光大神は、かく、一面に、天地の統一者としての神をとくと同時に、個々のものに内在する神をみとめ、この内在する神の徳を、あらわし得たものを「生神」ととなえ、この生神の徳を、あらわす所以のものを、信心とおしえた。
 金光大神の、神についての「理解」は、以上の場合が、その対者によって、いろいろに、ときあらわされている。いま、その一二を、しるしてみよう。
 備後福山の人、青山金右衛門の叔父、某が参拝したときに、金光大神は、
 「金神さまは、おしかりがある。七代まえからの罪を、おしかりなさるから」
とさとした。備中総社の人、池上タミには、
 「なにも、金神は、むつかしい神じゃない。この方は、方角がわるいというても、さきへ、ことわりをいうて、氏子が、こうしなければなりませんから、というてとどけてせい。すぐうさえゆけば、金神は、むつかしいことはない」
とおしえ、大喜田喜三郎には、
 「みな、家・蔵たてるに『屋敷取』をし、しめなわをはり、金神よけの守をたてて、金神に、この内をよけ、と申してふしんをするものが、たくさんあるが、金神は、しめなわにはおそれぬ」
といい、さらに、
 「人のすむ家をたてたら、そのものが、はいらぬうちに、金神は、さきにはいりておる神ぞ」
とといた。また片岡次郎四郎には、
 「いままででみりゃあ、金神といえば、人が、おそろしい、しかられる神とばかり、おもうておる<1>けいども、神信心をして見りゃあ、決して罰をあてる神ではないぞ。氏子より『頼む』『願う』とあることなら、いかなることでも、ききとどけて、おかげをさずけてやる。どうぞ、神信心をして、世間の模範テホン・亀鑑カガミになるようなおかげを、うけてくれ」 と、さとしている。かくて金光大神は、金神を「たたりの神」「さわりの神」でなくして、「幸の神」「福の神」とした(近藤藤守)。さきにしるした備前<2>北方の人、石原銀造が、「金神封」をしてもろうておるむねを、もうしのべると、金光大神は、
 「それは、人間にしてみれば、<3>閉門をみたようなものじゃのう。神さまは、一目にみてござるけいども、とびらをあけはなして信心すりゃ、末代の、おまもり神となるぞよう」とさとした(藤田円造)。  岡山の吉原良三が、建築について取次をあおいだときに、金光大神は、  「天は日天四(子)・月天四(子)、地は金神とて、<4>『三年ふさがり』といい、『廻り金神』がある、というが、よう、かんがえて御覧なさい。ふさがっておるあいだは、建築ができぬというので、留守のまにしておいて、まわって来たときに、どうするのか。人間にしても、私の留守のまに建築をして、不都合じゃないか、というて、こごとをいうじゃろう」
とさとし、尾道の人、松山勝蔵には、
 「日天四(子)・月天四(子)・<5>八百八金神さま、あなたに御無礼がありましょうとも、というてねがいなされ。日天四(子)は父神さまで、金神様は母神さまじゃ。お母さまが、よい方へ、つれてあるいて、くれられる」 とさとし、荻原豊松の妻須喜には、  「三宝さまとは、日乃神・月乃神・金乃神の三つ、あわせて、世界の三宝さまなり」 ともさとした。  天地金乃神の神性について、金光大神は、備前児島郡<6>福田村、三村佐野に、
 「この天地金乃神は、きよきところも、きたなきところも、おまもりあるなり。…この大天地は、みな、この神の体なれば、いずこにあるも、大神のおかげならざれば、一日もすごすことはできぬなり。ゆえに、神のまえも、いずこも、おなじことなり」
とさとし、岡山東中島の人、島村八太郎には、「天地乃神は、幾千万年、天地あらんかぎり、ただひとつなれども、ほかの神は、年々にふえるぞ」
 「神が、社にすむものとおもうな。亭主が、家の内にばかりいては、家はたつまいが」
とさとし、市村光五郎には、
 「いのるところは天地金乃神。むかしからある神ぞ。中古からできた神でなし。はやりもせず。おわりもせず。信心はせいでも、おかげはやってある」
ともさとし、尾道土堂ツチドウ町の人、松本太七には、
 「たとえ、畑ハタでこやしをかけておろうが、路をあるいておろうが、天地乃神の広前は、世界中じゃぞよ」
とも、山本定次郎には、
 「天地のあいだに、すべておかげは、みちわたりてある」
とも、片岡次郎四郎には、
 「日天子の、かげもなくおてらしなさるおひかりの、とどくところは、神は一目にみておる。天地金乃神といえば、天地一目にみておるぞ。神は、平等におかげをさずけるけれども、うけものがわるければ、おかげがもるぞ」
ともさとした。
 近藤藤守夫妻は、金光大神夫妻を、わが父母としたい、なつかしみつつ、大阪から、月ごとに参拝した。あるとき、金光大神は、
 「天地金乃神は世界中にある。大阪ばかりでも、日本ばかりでもない。世界中、天地のあらんかぎり、おめぐみあるのじゃ。遠方のところを、そう、たびたびまいってくれば、一度に、五円からの入費がいろうが。…」
とさとすのであった。
 金光大神は、「神のつかわしめ」のことについて、近藤藤守に、
 「天地金乃神はのう、けだものをおつかいにはならぬ。まあ、眷族といえば、人じゃろう」
とさとし、市村光五郎には、
 「世、はじまって、神がものをいうてきかすことなし。金神というは天地金乃神。人をもってつげる。そういうてあろうがな『天に口なし、人をもってつげる』ということを、いうてあろうがな」
 「どこへまいっても、片便で、ねがいすてじゃろうが」
 「これまでは、神へまいりて、おかげをくだされい、というてもどる<7>ぎり。あるやら、ないやら沙汰なし。それでも、一心とおがめば、わがこころに、いきたる神さまがござるがゆえに、めいめいにおがんで、おかげをうけるのぞ。ここらを、よく、氏子、合点して信心をせよ。死んだ神へ信心しては<8>おえぬぞ。金光がいのるところは、天地金乃神と一心なり。天は、むかしから死んだことなし。地が、むかしから死んだことなし。日・月あいかわらず」
などと、さとした。
 津川善右衛門は、その信心の当初、「守札オフダを」と、ねがいでた。これに対して、金光大神は、
 「守札はない。あれは人間のめあてにするもので、守札からおかげが出るのではない。神さまは、眼にこそ、みえさっしゃらね、そこらあたり一杯におられるので、神さまのなかを、わけてとおりおるようなものじゃ」
とさとした。
 明治十五年(一八八二)秋のある日、近藤藤守は、参拝の途上、須磨と明石とのあいだで、烏を囮にして雀をとっておるさまをみて、不愍におもい、そのさまを金光大神にものがたり、
 「実に、人は、かわいそうなことを、するものでござります」
というと(講話集)、金光大神は、
 「<9>かわゆいとおもうこころが、そのまま神じゃ」 とさとした(聞書)。さきにも、しるしたごとく、金光大神は、「生神」ということについて、徳永健次に、  「生神ということは、ここに神がうまれる、ということであります。わたくしが、おかげのうけはじめであります。あなたがたも、そのとおりに、おかげがうけられます」 とさとし、島村八太郎にも、  「自分も、神の子なれば、ひとつの神ではないか」 ともさとした。  天地金乃神の包容性について、金光大神は、  「備前、<10>新太郎さまは、神道がおすきで、<11>仏ブツをお廃しになり。寺をおとされたので、<12>仏罰をこうむられたろうがな。この金神は、神・仏ホトケをいとわぬ。神道の身のうえも、仏の身のうえも、区別なしにまもってやる。神道も仏も、天地のあいだのものじゃからに、何派・かに派など、宗旨論をしたり、<13>かたえたりするような、せまいこころを、もってはいけぬ。世界をひろう、かんがえて、手びろくゆかねばならぬ」 とも(市村光五郎)、  「神道じゃの、仏じゃのというて、<14>かたぎることなし。仏具じゃの、神道の道具じゃのというて、氏子、へだてておる。金神さま、申されしは、神も仏も、みな、天地のあいだのもの」
ともさとし(同上)、さらに、
 「神さまといえば、みな、神のくらいじゃから、堂・宮のまえをとおれば、御拝をしてとおれい。その日の悪魔は、その神の威徳で、のがれるわい。余の神をあなどってはならぬ。『薮荒神』といえども、神のくらいはある」
ともさとした(石原銀造)。

<1>「けれども」の音便 <2>現上道郡浮田村
<3>武士・僧侶・社人に科した江戸時代の制裁の一 <4>大将軍方
<5>「八百八町」「八百八島」の類にて、数多き意 <6>現倉敷市
<7>だけ <8>「ならぬぞ」「つまらぬぞ」などの意の方言
<9>不愍な <10>池田光政
<11>寛政六年領内の寺院を整理す <12>伝説
<13>偏執 <14>偏執

… 神と人

 神と人との関係については、安政六年(一八五九)十月二十一日の神のみさとしに、
 「神もたすかり、氏子もたちいき(ゆく)」
といい、
 「氏子あっての神、神あっての氏子」
という一節のあったことは、すでにしるした。
 金光大神は、島村八太郎に、
 「馬は馬づれ、牛は牛づれ、ということがある。神の取次は、神がするのじゃ。まことの信心あるものは、神なり。ゆえに、神の取次ができるのじゃ。狐や、蛇や、鳥のようなものが、なんで、神の取次ができるものか。何の神は、狐がつかわしめ、何の神は、蛇がつかわしめ。いろいろのことを、世の人がいうが、金乃大神は、神の子の人をもって、つかいなさるのじゃ」
とさとし、片岡次郎四郎には、
 「神があっての氏子、氏子があっての神じゃによって、病気・災難をはじめ、なにごとでも、非常・平生にかかわらず、神に、いのりをかけよ」
とさとし、市村光五郎には、
 「この方が、天地金乃神を、<1>巳の年の父母とさずけてやろう。親とおもえば、子とおもう。子とおもえば、親とおもうて信心をしておれば、神のところよりして、子とおもう」とさとし、近藤藤守には、  「信心しても、氏子から、ひまをとるものがあるが、三度までは、わびてくればゆるす。しかし、神はひまは出さぬが、氏子から、ひまをとるなよ。神に、ひまを出されたならば、どのくらいわびたとて、もとへ、かえりはせぬぞ」 とさとし、島村八太郎には、  「氏子が、わすれさえせねば、神は、わすれぬぞ」 とも、  「神を信ずる人おおし。神に信ぜられる人すくなし」 ともさとし、佐藤光治郎には、  「天が下のものは、みな、天地金乃神さまの氏子じゃろうが。天が下に、他人はない」 とさとし、さらに、  「天地乃神は、<2>『自家ウチの子ぞ』というておらっしゃるのじゃ。親のためには、不肖な、心配さす子ほどが、かわゆかろうが。天地乃神さまも、神のこころを、しらずにおるものほどが、かわゆい、とおっしゃるのぞ」
とさとし、荻原須喜には、
 「五人の子どものなかに、屑の子が、ひとりありゃ、屑の子ほど、かわゆいのが、親のこころ。神も、のう、不信心のものほど、神は、かわゆい。信心して、おかげをうけ<*3>さんせよう」とさとし、市村光五郎にも、
 「金光が、金神さまに、一心に信心をして、おかげをうけておることを、はなしにしてきかすのぞ。いうことを、うたごうてきかぬものは、是非におよばず。かわゆいものぞ。また、ときをまって、おかげをうけるがよし。めいめいに、子をもって合点せよ。いうことを、きかぬ子が、一番つまらぬものぞ。そこで、神のこころを氏子しらず、親のこころを子しらず、というてあるぞ」
とさとした。
 金光大神は、山本定次郎をさとして、
 「人間は、万物の霊長であるから、万物をみて、道理にあう信心をなさい」
とも、
 「どこの国でも、としよりの人を、とうとぶのは、神さまを、うやまうとおなじことである。人間は、自分のかんがえで、さきへ、うまれてきたものではない。神さまが、はやくおつくりくだされたことは、誰でも、しっておるが、はやくうまれて来た人ほど、国のため、家のために、はたらきを沢山しておる道理であるから、としよりの人を、うやまうのである。わかい人でも、ひとなみ以上の、役にたつ人は、なんとなく、人がうやまうようになる。また、うやまいを、うくる人でも、不都合・不行届がかさなれば、次第に格がさがり、人から、うやもうてくれぬようになる。これくらいのことは、誰でもしっておるが、信心する人は、なお、こころがけておるがよろしいなあ」
ともさとした。

<1>光五郎の生年 <2>「氏子」の一つの解釈
<*3>「させ」の延音、「させ」は敬語

… 金光大神-取次

 金光大神の取次を信ずることは、信心の神髄である。これによって、「神もたすかり、氏子もたすかる」のである。
 されば、明治四年(一八七一)十二月十日、神は、
 「<1>金光大神社でき、なにごとも、神の理解うけたまわり、承服いたせば安心になり。神シン・仏ブツとも、よろこばれ。親大切、夫婦なかように、家内、むつまじゅういたし候(え)」 とさとし、さらに、明治五年(一八七二)七月二十八日には、  「天地乃神の道をおす(し)える生神金光大神社を、たてぬき(け)、と信者氏子に申附けい」 とも、さとすところがあった。  かつて、近藤藤守が参拝したとき、神は、  「<2>氏子は、おかげをうけて、遠路のところを、まいってくるが、この方、金光大神あって、天地金乃神のおかげを、うけるようになった。金乃神は、何千年このかた、悪神・邪神といわれて来たが、この方、金光大神があって、神は、世にでたのである。神よりの恩人は、この方、金光大神である。氏子からも、この方、金光大神があればこそ、金乃神のおかげが、うけられるようになった。氏子からも恩人じゃ。神からも、氏子からも、両方からの恩人は、この方、金光大神である。よって、金光大神のことばに、そむかぬよう、よくまもって信仰せい」
と裁伝した。
 金光大神は、取次の座にしりぞき、藤守にむかって
 「神さまは、ああ、おおせられるが、わたくしは百姓で、なんでもない。天地金乃神というて、神さまのおそでにすがって、信心しなされ」
とさとすのであった。
 あたかも、そこへ、地方の人らしく、熱病全快の取次を、こうものがあった。金光大神は、これを、神に取次ぐと、神は、
 「金光大神に、すがっておれ。一週間めには、おかげをいただく。心配はない」
 「のう近藤さん、金光大神は、ああいうが、金光大神にすがっておりゃ、らくじゃ。まさかのおりには、天地金乃神というにはおよばぬ。金光大神、たすけてくだされ、といえば、すぐに、おかげはさずけてやる」
と、かさねて裁伝するところがあった。
 藤守が、遠路、月参することを、金光大神は、しばしば、とどめたが、藤守は、さらに、それをきこうともしなかった。金光大神は、ついに、一子大神をして、同様、さとさしめるところがあったが、藤守は、涙ながらに、「さよう、おおせられず、これまでどおり、参拝させてくだされ」と懇請した。これに対して、神は、
 「この方、金光大神より、たびたび、うちで、おがめと申すとおり、神は、世界いずくからおがんでも、おかげはやるが、生神金光大神は、この大谷に、ひとりしかないのじゃから、まいってくれば、金光大神は、よろこぶぞよう」
とて、藤守のねがいを納受した(講話集)。
 青井サキは、「学問がなければ、御取次はできぬ」としきりにいうものがあるので、あるとき、このことについて、金光大神にただした。金光大神は、
 「金光大神も無学・無筆じゃわい。<2>あんごうでもかまわぬ。まことさえあれば、人はたすかる。学問があっても、まことがなければ、人はたすからぬわい。学問が身をくう、ということがある。学問があっても、難儀をしておるものがある。金光大神は、無筆でも、『金光大神』『金光大神』いうて、みな、おかげをうけるわい」 とさとした。  金光大神は、市村光五郎をさとして、  「人間を、かるうみな。かるうみたら、おかげはなし」 と極言した。光五郎は、このおしえをうけて、  「金光さまは、もとは、お百姓であったによって、近村のひとは、<4>じあいを知ってござるによって、おかげを、よううけられず。とおきところのひとは、じあいを知らぬゆえ、おかげをうけなさる。そこで世に『燈台もとくらし』ということが、いわれる」
としるしている。

 金光大神は、取次者に対する、氏子の、こころやすだてを、いましめて、
 「わがうちの人は、あまり、こころやすだてがすぎて、うやまい・とうとむことが、むつかしい。金銭ゼニカネはいらず。別に、御礼にゆくこともなし。医師のうちには、『わがうちの薬はきかぬ』というておるが、これも『先生さまのお薬』と、うやまいがないからである。
わがうちでも、神さまに、ちがいはせぬ。わがうちの薬も、薬にちがいはせぬ。うやまい、とうとみ、よろしきよう、信心しなさい」
とさとした(山本定次郎)。
 取次の作用について、金光大神は、
 「こころは、すぐいもので、天地金乃神の信心を、しておるものは、蜘蛛クモが、<5>えぎを、世界にはったとおなじことじゃ。とんぼがかかれば、びりびりとうごいて、蜘蛛がでてくる。神さまもおなじことで、神の道は、空気のなかに、ズッと道がついておるから、何百里あっても、おがめば、それが、ズッととどくから、女郎蜘蛛ジョロウグモのとおりじゃ」 とさとした(伍賀慶春)。  金光大神の、この理解を、うらづけるものに、つぎのような、はなしがある。三村佐野が、大谷にはじめて参拝したとき、金光大神は、  「おまえは、さいさいみるが、どこやらぞなあ」 とたずねた。佐野は、「わたくしは、はじめてでありますが、<6>広江の方へは、たびたび、おまいりをして、おかげをいただいております」
とこたえると、金光大神は、
 「広江でおかげをうけるので、しれるのじゃなあ」
とうなずくのであった(千田種一)。
 尾道の人、池田富助は、明治十二年(一八七九)三月、四国巡拝をおもいたち、そのむねを、金光大神にねがいでた。金光大神は、
 「四国へ行って、路が分らぬ様になれば、『生神金光大神、どちらへまいりましょうか』と願えい」
とさとした。富助は、このみさとしのままにして、かつて、路にまようこともなく、無事、巡拝をおえたのである。
 さらに、白神新一郎、あるときの参拝の節、金光大神は、
 「その方の広前の信者であろう。北新地下原シタバラにすむ入江カネ女と申すもの、この方に日参いたしておる。これを、もちかえって、わたしてやれ」
とて、新一郎に「御書附」を託した。新一郎は、帰阪ののち、「御祈念帳」をしらべてみると、まさに、その人の名があるので、そのものをよびよせて、金光大神の言をつたえると、カネは、
 「その日かせぎの、いそがしさにおわれながら、くらしておる身でございます。どうして日参が、かないましょう。一生に、ただ一度なりとも、金光さまのおかおを、おがませていただきたいと、あけくれ、おねがいしておるばかりでございます」
と、あやしみ、こたえるのであった。そこで、新一郎は、
 「そうもあろう。その、あけくれのおねがいこそ、金光さまのみもとへの、まことの日参である」
とさとすのであった(初代白神新一郎師)。
 地方に、いまだ取次広前のなかった時代に、遠方からまいってくるもののなかには、「お取次をする人を、おさしむけを」と、ねがいでるものも、すくなくなかった。金光大神が、このよしを取次ぐと、神は、
 「遠方の氏子は、いそぐときには、ここまでまいってこなくても、氏神の広前へまいって、氏神の取次をもってねがえ。氏神が、ここまで、取次いでくれる」
と裁伝するのであった(氏神の取次)。
 備後向島の人、槙つねは、明治十五・六年(一八八二~八三)のころの正月、はじめて参拝したときに、これとおなじ、みさとしをうけ、爾後、つねは、毎朝身を海水できよめて、土地の氏神、国津神社に丑刻参ウシノトキマイリをして、信心に、はげんでいた。後、八年ほど経たときに、その神より、
 「今日から、天地金乃神さまの、直々の御用をしてくれ」
とのみさとしをうけて、取次に、つかえる身となったのである(槙鉄雄)。

<1>神社になぞらえたるいいざま <2>藤守のこと
<3>「阿呆」の訛か。方言 <4>「もと」「したじ」「なりたち」などの意
<5>蜘蛛の糸。「いぎ」ともいう <6>千田志満奉仕の広前。現倉敷市

… 取次者のこころがまえ

 金光大神は、取次者のこころがまえを、いろいろに、さとしている。この点について、市村光五郎は、
 「信心して、神になることを、おしえてやるぞ。神になっても、神より、うえになることは、無用なり」
と、いうをはじめ、
 「世の中には、みな、神を商売ショウホウにしておろうがな。この金神は、商売ショウホウにはせぬ」
 「<1>そばをさるな。もりがだいじ」  「金神さまに信心をいたし、おかげをいただいて、田をもとめたり、金をひとにかして、利をとるようなこころでは、金光さまのこころにあわず。金神さまのこころにあわず。金光さま申されしは、<2>今日コンニチさまは、<3>一文イチモンもとらずに、御苦労をなさる、と金光さま、つねのおはなし。金光さま、口ずから、『わしは、世界を<4>たすけい出ておるのぞ』とお言葉あり。<5>巳の歳、こころをいただき」 などしるしている。  尾道土堂町の人、柏原とくは、取次の当初、山伏や、氏神の神職などが来て、神前の供物をもちさり、おがませぬ、などおどかしごとをいうので、このよしを金光大神に、きこえあげた。金光大神は、  「もってかえるものは、やってしまえ。おがむな、といえば、おがむな。おがまいでも、機ハタをおりおりでも、着物をぬいぬいでも、おしえをしてやらんせ。おしえさえしてやれば、ひとはたすかる。なにごとも時節をまちなされ」 とさとした。片岡次郎四郎に対しても、「この方においても、この道のためにゃ、いろいろの困難におうて、これまでに、はや二百円・三百円・五百円までも、ものをいれてみたけれども、なんの効もなかったから、たとえ、どのようなことを、いうてくるとも、そこを、なんと<6>ないというて、すべっておってくれ。ここには、神も、かんがえのあることじゃから、たとえ、顔に、どろをぬられるようなことがあるとも、堪忍しておってくれ。やがて、神が、顔をあろうてやるから、他のおしえの組下になったら、神のひれいはたたぬぞ。本家とおもえ。分家とおもうから、どうぞ、この道のためには、この方と浮沈ウキシズミを一緒にしてくれ。神がたのむぞ」
 「天地金乃神といえば、親神じゃによって、壁をあてにおがんでも、わがこころに、まことさえあれば、おかげは充分うけられる。神は、一体じゃによって、この方の神じゃからというて、別にちごうておらぬ。あそこの神さまでは、おかげをうけたけれども、ここの神さまでは、おかげがうけられぬ、というのは、畢竟、神の守をするものの、神徳の、あつい・うすいによって、神のひれいが、ちがうのぞ。神の守をしておれば、諸事に身をつつしみ、あさねをしてはならぬぞ。はやくおきると、おそくおきるとは、氏子が参詣の、はやい、おそいにかかわるぞ」
とさとし、さらに、
 「氏子が、もちいてくれねば、神の役目がたたぬけれども、神が、氏子に寄進をさせ、氏子をいためては、よろこばぬものとしれ」
ともさとした。このことは伍賀慶春にも、
 「むかしも、いまも、<*7>もののいる方ホウは、人はすかぬ。もののいらぬ方は、人がすくから、もののいらぬ方へ、もとづいていかんせい」
とさとしている。
 ある信者が、金光大神に、
 「わたくしは、ひとのことを、神さまにねごうてやって、そのものが、おかげをうけると、すぐ、わたくしかたに、わずらう」
と、うったえると、金光大神は、
 「いや、それは、わがちからのないのに、手もとに、もっておるから、わずらう。この広前へ、もって来い。とりさばいてやる」
とさとした(荻原豊松)。
 取次の限度については、金光大神は、
 「おなじ病気は、三度までは取次をしてやっても、四度目には、ねがうなよ。むかしから、なんという、『仏のかおも三度』というじゃろうが。三度までは、取次ぐもののいうことは、神がきくが、それからむこうは、神はきかぬぞよ。あとは、おかげは和賀心じゃ」
 「二度までおしえたら、あとは、無理にすすめぬがよろしい。今度は、対者ムコウから、どうぞ、おねがい申します、というてきたら、おしえてやりなされ」
と近藤藤守をさとした。このことは、備前児島郡田ノ口、難波幸にも、
 「はなしを、きこう、きこうとおもうて来るものには、神さまが、ひとり、ひとり、おはなしを、させなさる。神さまは、稽古じゃから、二度までは、おしえてやるがよいが、きこうとおもうものは、三度目には、対者ムコウから、たずねて来る、とおっしゃるのじゃ。それを、たずねて、こがれて来るものには、神さまが、なんぼうでも、きれぬように、はなしをさせてくださる。二度までおしえても、たずねてこぬようなものは、稽古が、きらいなのじゃから、というて、おはなしは、ひとつもさせてくださらぬ」
ともさとした。

<1>「神前」の意 <2>日乃神
<3>一銭の十分の一 <4>「たすけに」の音便
<5>光五郎 <6>「なり」の音便
<*7>金銭を要する方

… 神と取次者

 神と取次者との、あいだがらについて、金光大神は、難波なみに、
 「おとす神がありゃあ、神が、ひきあげてやるぞ。めいめいは、人を取次する身分になっとるが、その方も、信心するからに、なにもかも、おしえてやる。『いろは』の『い』の字からおしえてやる。<*1>卯の年、『い』の字がかけたら、『ろ』の字がかけるぞ」
とさとした。なみは、
 「おそれながら、わたくしは『い』の字もわかりませぬ。御祓をあげるすべが、わかりませぬ」
とうったえると、金光大神は、「御祓修行した、というても、いざりが、たったとも、めくらが、あいたとも、いうて来たものはない」
と、ねんごろにさとすのであった。金光大神は、さらに、白神新一郎に、
 「人を一人助ければ、一人の神じゃ。十人助ければ、十人の神じゃ」
ともさとした(近藤藤守)。

<*1>なみの生年

… 信心の本質

 信心の本質ともいうべき点について、金光大神は、いろいろに、さとしている。
 すなわち、国枝三五郎に対しては、
 「いま、天地のひらけるおとをきいて、眼をさませ」
とさとし、市村光五郎に対しては、
 「信心をせよ。信心ということは、『しん』はわがこころ、『じん』は神なり。わがこころが、神にむかうをもって、信心というなり。恩徳のなかにおっても、氏子、しんなければ、おかげはなし」
とさとし、尾道土堂町の人、田村忠平には、
 「信心は、正直がもとぞよ」
とさとし、国枝三五郎には、さらに、
 「おがみ信心をすな。まことでなければ、いけぬ」とさとし、市村光五郎も、
「金光さま、<1>巳の歳に『誠ぞ』と説得セトクあり。千万センバン、ありがたきこと」 としるしている。  あるとき、金光大神は、近藤藤守に、  「しんじんとは、『信の心』でないぞよ。この方のしんじんは、『神人』とかくぞよ。そこでのう、『ぶしんじん』とはいうなよ。『不神人』といやあ、神もおこたり、人もおこたる、ということになるからのう。『神にとおらぬ』といえばらくじゃ」 とさとし、大喜田喜三郎には、  「氏子が、神さまと、なかようする信心ぞよ。神さまを、はなれるようにすると、信心にならぬ。神さまに、ちかよるようにせよ」 とさとし、市村光五郎には、  「信心ということは、天地の恩を、わすれぬことぞ」 ともさとした。  秋山きぬが、実母、平野登美、十二年間のながわずらいに、隣人、塩飽シワクきよにすすめられ、明治九年(一八七六)<2>十一月六日、十三歳にして、はじめて金光大神を拝し、その取次をこうたときに、金光大神は、いろいろ理解のすえ、
 「親に孝行して信心すりゃ、おかげがうけられる。親のために信心するのは、親孝行になるんじゃからのう」
とさとして、きぬをはげまし、島村八太郎には、
 「おがめいとも、なにをせよともいわぬ。ただひとつ、まことの信心をせよ、というに、そのひとつが、できぬのか」
といましめている。

<1>光五郎 <2>陰暦九月二十一日

… 信心のねがい

 信心のねがいとするところについて、金光大神は、市村光五郎をさとして、
 「信心は『的なし信心』ぞ。おかげはうけがち。まもりは、うけどく」
といい、さらに、信心の窮極のねがいを、
 「信心して、神になれい」
とも(福島儀兵衛)、
 「信心して、神になることを、おしえてやるぞ」(再録)
とも(市村光五郎)、
 「金神さまより金光に、いつまでも、みてぬおかげを、はなしにしておくのぞ。また、<1>巳の歳も、信心して神となりて、人に、丁寧にはなしをしておくのが、まことの道を、ふんでいくのぞ。金光が、さげたことばを、ちがわぬように、また、さげるのが、これが、生神となるのぞ。神になっても、神より上ウエになること、御誡オンイマシめあり、また、先生より上になること、無用なり」 とも(市村光五郎)、  「いきとるときに、神になりおかずして、死んで、神になれるか」 とも(島村八太郎)、  「めいめいに信心しなさい、というのは、六根の祓にもあるごとく、<2>霊レイと同体ドウタイなり。我ワガ願ネガイとして、成就せずということなし、とある。神さまのようなこころでおれば、神さまと同体である」
ともさとしている(山本定次郎)。

<1>市村光五郎 <2>「天地乃神止同根奈留賀故爾、万物乃霊止同体奈利。万物乃霊止同体奈留賀故爾、所為、無願而不成就矣」と引用したるを、ききかじりたるもの

… 信心のすがた

 信心のすがたは、いかにあるべきか。金光大神は、石田友助に、
 「おもいものを、おうておるか、かついでおれば、くるしいが、そうでないから、信心は、たのしみなものじゃから、家業を、つとめつとめするがよろしい」
とさとし、市村光五郎に、
 「信心に、つれがいるといえども、つれはいらぬぞ。ひとり信心なり。信心につれがいれば、死ぬるにも、つれが<*1>いるが。みな、にげておるぞ。日に日に、不浄心をさりていきるが、信心なり」
とも、「信心は、あい縁・機縁」
ともさとし、近藤藤守には、
 「一生、死なぬ父母に、とりついた、とおもうて、なにごとでも、無礼とおもわず、天地乃神にすがればらくです」
とも、
 「かねの杖をつきゃ、まがるし、竹や木の杖をつきゃ、おれるし。神を、杖につきゃらくですのう。神はまがりも、おれも、死にもなさらぬからのう」
ともさとした。

<*1>「いろうが」の意

… 信心のこころがまえ

 信心するものの、こころがまえは、いかにあるべきか。かの「天地書附」は、その要義を、端的にしめしたものである。金光大神は、
 「ただ、ただ、生神金光大神・天地金乃神、ありがとうござります、というこころさえあれば、それにてよろしい」
と和田安兵衛をさとし、
 「天地日月ジツゲツ・生神金光大神さま、今月今日で一心にたのめい、おかげは、わがこころにあり、という<1>見識をおとしたら、世がみだれるぞ。神々のひれいもなし。また、親のひれいもなし」と市村光五郎をさとし、  「信心は、あらたまりが第一で、この方といえども、まちがえば、いつ、おひまがでるかもしれぬ」 と佐藤範雄をさとした。市村光五郎は、さらに、  「金光さま、巳の歳に御理解あるは、『こころは、ひろうもっておれ。世界は、ひろうかんがえておれ。世界は、わがこころにあるぞ』とおさげあり。『大天地というてある。また小天地ともいうてあるぞ』と御はなしあり。『<2>神と神と、もとのあるじ、わがたましいを、いたましむることなかれ、ということもある』」
ともしるしている。金光大神は、
 「信心は、みやすいのを、氏子、みなむつかしゅうするのぞ。信心を、みやすうするがよいぞ」
とも(大喜田喜三郎)、
 「信心は、やすいようでも、なかなかむつかしい。三年・五年の信心は、まだ、まよいやすい。十年の信心が、つづいたら信心家じゃ。日は、としつきのはじめじゃによって、その日、その日のおかげを、うけてゆけば、何十年・何百年でも、たちゆこうが。今月今日でたのめい。おかげはわがこころにあり。取越苦労をすな」
とも(片岡次郎四郎)、
 「ひとに、さそわれて、しょうことなしの信心は、つけやきばの信心じゃ。つけやきばの信心は、とれやすいぞ。どうぞ、その身から、うちこんでの、まことの信心をせい。世には、『勢信心』ということをいうが、ひとりで、もちあがらぬ石でも、大勢、かけごえで、一度に力をそろえれば、もちあがるも同然じゃ。ばらばらでは、もちあがらぬぞ。家内中、勢をそろえた信心をせよ」
ともさとし(同上)、
 「むつかしゅういえば、きりはなく、みやすういえば、きりはない。時がきて、道がたつのじゃから、よう聞きわけて信心しなさい」
ともさとし(伍賀慶春)、
 「信心するのに、某ソレガシの道では御祓をあげる。金光大神の道は、むつかしゅうせいでも、やすうに、たのんでおいたら、無学のものでも、おなごでも、信心すりゃなおる。遠方ゆかいでも、わが宅でおかげが、うけられる」
ともさとし(同上)、
 「本人が信仰せられませねば、おかげはありますまい。おかげは、わがこころじゃ。めいめいの信心がなければ、たすからぬのう」
とも(近藤藤守)、
 「堂・宮へ参拝して、おかげがいただかれるか。堂・宮は死んだものなり。いきた神にすがりてこそ、おかげがあるぞ」
とも(島村八太郎)、
 「手や口は、手水鉢であろうても、性根は、なんであらいなさるか。実意・丁寧のまことでなければ、あらえ<3>まあが」 とも(同上)、  「神をつこうて、神に、つかわれることをしらず」 とも(同上)、  「信心しておりゃ、<4>論じがあったときには、かならず堪忍して、まけてかてい。その方が、おかげじゃとおもい、かったら、かたきとおもえい」
とも(石田友助)、
 「信心するひとは、十人の股はくぐっても、一人の肩はこすな」
とも(同上)、
 「ひとをころす、というが、こころで、ひとをころすのが、重大の罪じゃ。鉄砲でうったり、刀できったりせねば、わたくしは、ひとを、ころしはせぬというが、それ等は眼にみえる。眼にみえぬところで、ひとをころすのがおおい。それが神さまの御祈願にかなわぬ。
眼にみえてころすのは、お上があって、それぞれの、おしおきにあうから、それで、かたづくが、こころでころすのは、神さまから、おとがめになる。それなら、こころでころすのは、どういうのかといえば、病人でも、これは大病じゃ、とてもたすからぬ。というのが、これが、こころでころすのじゃ。氏子のこころで、たすかるものやら、たすからぬものやら、わかりはすまいが。また、こいつが、しぬればよい、といおうが。それがみな、こころでころすのじゃ。それよりは、どうぞ、対者ムコウが改心しますように、というて神さまに、祈念してやれ」
とも(佐藤光治郎)、
 「裃を、たてたようなこころで信心をせい。裃を、たてたようなおかげが、うけられるぞ」
ともさとしたが(野方ちか)、ときには、
 「信心は裃をかけた信心より、形をかまわぬ信心が、むつかしゅうないぞ」
とさとすこともあった(大喜田喜三郎)。
 さらに金光大神は、
 「祓・心経では、おかげはうけられぬから、わがこころの一心で、おかげをうけいよう。祓・心経で、おかげがうけられるものなら、<5>太夫や山伏は、みなおかげをうけそうなものじゃが、そうはゆかぬ」 とも(森政さだの)、  「信心する氏子、六根の祓にもあるとおり、朝より、<6>いさぎよきこころもちで、木綿一反おるつもりなれば(のところをカ)、朝より、一反半おるつもりになれば、一反半成就する。よそへゆくひとが、十里とおもえば(おもうてもカ)、十五里は、はこびが、できるようなものぞ。神さまへ、おかげをうけるおねがいも、その、ひとびとで、ちがいがある。おかげも、仕事も、ひとなみ以上のおかげをこうむり、ひとに、ほめられるようにしなさい。また、百姓なれば、一反歩ブに二石の米をつくるひともあり、二石五斗つくるひともあり。ひとなみ以上つくれば、ひとにほめられて、わが利得。国のつよみ。信心も、人の身のうえ、わが身のうえを、神さまに御願い、国家信心するがよろしい」とも(山本定次郎)、
 「たびたびまいられるが、金神さまへ、まいる、まいるというて、親に心配をかけてはならぬ。牛の<7>草どもを、刈りてまいりなさるかのう」 とも(同上)、  「世のなかで、うたがいが一番わるし。<8>巳の歳を金神にまかして、一心に信心をせよ。まかしたうえは、金神が、よきようにしてやるのぞ。うたがいをはなれる、のひとつで、おかげをいただくのぞ。また、臆病をされ」
とも(市村光五郎)、
 「信心は、おすことが第一」
とも(同上)、
 「容赦をすな。鐘は、うちわるこころでつけ。太鼓は、たたきやぶる気でたたけ。われも、やぶれもせぬ。ただ、そのひとの、うちよう、たたきよう次第。天地になりわたりて見せよう」
とも(島村八太郎)、
 「いまの世は、智恵の世。人間が、さかしいばかりで、身の徳をうしのうておる。世のなかに、一番きたなきは慾。算盤をはなせ。われが利口な、というて、細工をしてはならぬ。発明ぶることはすな。利口・発明・智恵・分別をだすな。世の<9>世話をされ。世の世話をさって、身を神にまかせ」 とも(市村光五郎)、「一年に分限者になるようなこころになるな。二年にも、三年にも、五年にも出世をするがよし。さきはながいぞ。一文イチモン・二文ニモンとためたのは、みてることなし。一度に<10>のばしたのは、どっと、みてるぞ」
とも(同上)、
 「こころひそかにして、この信心は、いけよ。日月さえたてば、世間がひろうなっていく」
とも(同上)、
 「なにごとも、釘づけではなし。信心を、めいめいにしておらねば、なごうつづかぬ」
とも(同上)、
 「ひとの、あしきことを、よう、いうものがある。そのところに、もし、いたら、なるたけにげよ。かげで、ひとをたすけよ」
 「かげで、ひとをたすけておけば、自然、神のめぐみがあるぞ」
とも(大喜田喜三郎)、
 「信心は、おおきな信心がよい」
 「まよい信心ではいかぬ。一心とさだめい」
 「いかにも、信心は、手びろうゆけよ。<11>かたえてはならぬぞ。いかにも、信心は大オオけにゆけよ」 などとも(市村光五郎)、  「神も人もおなじこと。なんぼう神をおがんでも、人のこころにかなわねば、神のこころにかなわず。神のこころにかなわねば、人のこころにもかなわず」ともさとした(同上)。  荻原豊松は、さきにしるしたごとく、金光大神によって、その舅利喜三に、その無信心を指摘せられ、ただ一度でよいから、まいらせよ、とさとされるところがあった。かくて、豊松、はじめて参拝したとき、金光大神は、  「お前、ひごろ、どのような信心をしておるか」 とたずねた。豊松は、  「日本国の、あらゆる神・仏、悉皆シッカイ、信心します」 と、こたえると、金光大神は、  「それは、あまりの信心じゃ。そのなかには、ここがありがたあ、というところはないか。人にしても、この人が親切なとか、この人がたのみがいがある、とかいうことがあろう。 なにごとを、人にたのむにしても、ひとりに、うちまかすと、その人が、自分、およぶかぎりの力をつくして、世話をしてくれる。二人三人たのむと、相談にくれて、ものごと、はかどらぬ。また、大工をやとうても、棟梁がなけにゃならぬ。なんでも、心シンというたら、ひとつ<12>はきゃない。日本の国でいうと、天子が心。一国では領主が心。村では戸長が心。一家では亭主が心。草木にしても、心というたら、ひとつにかぎる。
神信心も、この一心というものをだすと、すぐ、おかげがいただける。この金神という神は、建築するに、『知らずにすれば牛・馬七匹。知ってすれば、亭主より七墓つかす』とむかしから、いいつたえるじゃないか。そのようなむつかしい神なら、たのみがいがある。こころやすくして、おかげをうける方が、よかろうじゃないか」
とさとした。豊松は、
 「いまより、こなたへ、一心になります」
ともうしあげると、金光大神は、
 「それはいけぬ。かえって、一家、相談のうえでの、ことにせよ」
とさとすのであった。
 金光大神は、まいって来るものに、たえず理解したが、
 「千人まいりても、千人のなかに、おかげを、うけて去ぬるものが、ひとりがむつかしく、土間の口を、そとへでたら、みな、<13>あやいて去ぬぞ。金神さまの、おさげあることばは、一言のことばが、千両の金にも、かえられぬおことばぞ。ありがとう、いただいて去ぬれば、みやげは、船にも車にもつめぬほどの御徳なり」 となげき(市村光五郎)、さらに、  「世のなかに、みな、見・聞をさしてある。おかげをうけるがよし。なにをみても、なにをきいても、つまるところは、善と悪とのふたつなり。見・聞が第一」 ともさとし(同上)、  「巳の歳、変人になれ。変人にならぬと、信心はできぬぞ」 ともさとし(同上)、さらに、  「幾百万の金も、おかげの資本モトデには、ならざるものぞ」 とも(荻原豊松)、  「おそなえものと、おかげは、相つきものにはあらず」 ともさとし(荻原須喜)、また、  「まけて、こらえておれい。まけりゃ、損をするのじゃから、あほらしい、とおもおうが、神が、また、くりあわせを、さずけるからのう、よいひと、というようになり、身に徳がついてくる。村のうちでも、<14>肩を切らしてあるいたり、慾をしたりしておるもののあとをみい。ああいうことになった、といわれるようになろうがな」
ともいましめた(河本虎太郎)。
 平野五良四郎が、備中吉備津神社参詣の帰途、金光大神の広前に参拝したとき、金光大神は、五良四郎に、
 「<15>このごろは、<16>おがむことはできぬのじゃから、お前、おがんでかえれい。なんでも、実意・丁寧が、第一じゃからのう。実意・丁寧にしておれば、おかげがうけられる。信心しておりゃ、さきで出世ができる。えだがさかえりゃ、葉もしげる、というてのう、子じゃ、孫じゃいうて、さかえてくりゃ、死んだときは、にぎやかな葬式が、してもらえるわい」
とさとした。

<1>わが持するところ <2>六根清浄祓「心波則神明乃本主多利カミトカミトノモトノアルジタリ莫令傷心事ココロ」という句を、金光大神の引用したるをかく聞きかじりて記したるもの
<3>「まいが」の訛 <4>争い
<5>神道者 <6>六根清浄祓「清久潔礼波仮爾毛穢古止無之」
<7>飼料 <8>光五郎
<9>「心配」の方言。ここは「世の中のことに、みだりに心を煩すな」の意 <10>財産をふやす
<11>偏執 <12>しか
<13>「あゆ」の他動形。「おとす」の意 <14>「肩で風をきる」の意
<15>明治六年前後のことなるべし <16>取次の意

… 信心と取次広前

 信心と取次広前との関係について、金光大神は、
 「ここへは、信心の稽古を、しに来るのじゃから、よう、稽古をしていねい。夜・夜中、どういうことがないとは、かぎらぬから。おかげは、わがうちで、いただけい。子どもがあるものや、日傭ヒヨウとりは、わが家を、でて来るわけにはいかぬ。病人があったりすれば、すてておいて、まいって来ることはできぬから、ここへは、まめなとき、まいって来て、信心の稽古をしておけ」
とさとした(難波幸)。

… 修行

 修行について、金光大神は、「行は、無理に、よそへ、いってせいでも、わが家でできる」
とさとし(青山金右衛門)、
 「水を<1>かべって行をする、というても、からだにかべっても、なんにもならぬ。こころにかべれい。寒、三十日、水行をするというても、からだをくるしめて、病気をこしらえるようなものじゃ。家内や、子どもの病気のために、水をかべって、一週間、おまいりをしても、なおらなんだ、といえば、氏子のからだに、きずがつく。水をかべる<2>けい、まことじゃ、かべらんけい、まことでない、とはいえぬ。喰わずの行をするのは、金光大神は大嫌いじゃ。喰うて飲んで、からだを大切にして、信心をしなされ。正月に、<*3>鯛をそなえるのは、氏子、一年中の体タイが、丈夫になるように、というて、神さまに、そなえるのじゃ。体タイに、水をかべらんでも、こころに、水をかべれい」
ともさとし(佐藤光治郎)、さらに、
 「千日の修行が肝心じゃ。十年一昔・十年一昔」
ともさとした(同上)。金光大神は、また、
 「こりをとっての信心なら、してみよ。すぐに、おかげがある。世に、水をあびて神をいのるひとは、こりをとらずに、こりをつけるのじゃ。おかげにならぬぞ。こりは、寝床ネマのなかでも、とりのぞかれるぞ」
とさとし(島村八太郎)、津川善右衛門に、
 「手で香をたいたり、断食をしたり、寒中に、こりをとったり、すきなものを断タったり、するものがあるが、津川さん、あなたも、段々、断っておいでなさろうが、そういうことはやめて、神さまと、約束をかえるがよろしい。そういうことは、行ではない。まよいというものじゃ。
これからは、喰われるがよい。そのかわり、こころをかためて、どこまでもかわらず、一升の信心でも八合の信心でも、つづいてゆくのが、大事じゃ。
神さまは、信心のかたいものと、そうでないものと、まるで御承知じゃ。口と心がちごうては、なんにもならぬ。玉というものは、まるいものじゃ。とかく、ころびやすうて、どうもならぬ。もう、こことおもうたら、それをうごかさぬように、せねばならぬ。むつかしかろうが、そうせねばならぬ。こうして、大勢まいってみえるけいども、神さまの眼から御覧になれば、さまざまでありましょうぞい」
とさとし、山本定次郎にも、
 「世のなかに、表行は、段々、するひとがあります。寒行して、おがんで歩行しておるひともあるが、心行というて、ひとを不足におもわず、ものごとに不自由を行とし、家業をはたらき、身分相応を、すごさぬよう倹約をし、だれにも、いわずにおこなえば、これ心行なり。苦難のことにつき、心願するひとおおし。信心のことがらを、知らぬひとも、かずある」
とさとした。

<1>「かぶって」の訛 <2>からに
<*3>歳徳神に塩鯛を供う

… 死生

 死生について、金光大神は、
 「死にぎわにも、なお、おねがいせよ」
とさとし(荻原須喜)、
<1>「弘法大師は、無常の風は、ときをきらわぬ、というたがのう。この方、金光大神のおしえは、無常の風は、ときをきらうぞ」 ともさとした(近藤藤守)。これについては、また、  「仏ブツには、無常の風は、ときをきらわぬ、というてや、のう。金光大神は、その無常の風に、ときを、きらわしてやるのぞよ。 人間の、からだの病気の度にあわして、『生きる』『死ぬる』の診察ミタテをするのは、医者が、するのじゃろうが。『これではいきられぬ』と医者が手を断キったら、死ぬるのじゃろうが。その医者が、手を断キったのでも、天地乃神さまのおかげをいただいて、たすかったら、無常の風が、ときを、きろうたのじゃろうが。…医者が、もう、たすかりません、というのでも、一心・まことをおこして、たすかったら、無常の風に、ときを、きらわしたのじゃろうが。氏子の、こころ・ごころにあるのじゃから、一心になって、おかげを、うけさんせい」 ともさとした(佐藤光治郎)。  金光大神は、また、  「死ぬる用意をすな。いきる用意をせよ。死んだら、土になるのみ」 とも(島村八太郎)、「あなたがたでも、なあ、いつごろ、お死になさるか、とひとがとうても、いいなさんな。さきのことは、わかりませぬ、とこたえておきなさい。死ぬる日をきるのは、神さまも、およろこびなさらぬから」 ともさとし(高橋富枝)、  「さきの世までも、もってゆかれ、子孫までも、のこるのは神徳じゃ。神徳は、信心すれば、誰でも、うけることができる。<2>みてる、ということがない」
とも、さとした(松本太七)。

<1>いろは歌に関連して、かくときしものか <2>なくなる

… 天地・自然

 天地・自然を金光大神は、いかに見、いかにおしえたであろうか。
 「天の恩をしっても、地の恩をしらねば、父あることをしって、母あることをしらぬも、おなじことじゃ。<1>地形ジギョウを、しゃんとついておかねば、くずれていかぬ」(石田友助)  「人は、いろいろといいますけれども、肉眼で見れば、天が、一番たかい。地が、一番ひくい。たかいてっぺんと、ひくいてっぺんとへ、たよっておれば、一番、安心でありましょうがな」(近藤藤守)  「日乃大神の、おてらしあるうちは、心配すな」(島村八太郎) など、いずれも、その要点を、しめすものである。金光大神は、さらに、  「婦人が、菜園サエンにいって、菜をぬくにも、地を、おがんでぬく、というようなこころになれば、おかげがある。また、それを煮てたべるとき、神さま、いただきます、というようなこころがあれば、あたることなし」  「金神、あれ地を、おきらいなさるぞ」 とも(市村光五郎)、  「いまも、むかしも、これから、何万年たっても、世のなかにちがいはせぬ(ない)。おなじことじゃ。人も<2>きれねば、人のくう穀もきれることはない。つぎつぎに、たねがはえて、つづいてゆく」(伍賀慶春)
 「天地のことを、あれや、これやという人がありますが、人では、天地のことはわかりませぬ。天地のことが、人でわかれば、潮のみちひが、とまりましょう」
とも(近藤藤守)、
 「水を、粗末につこうては、なりませぬ。麦まきして、麦を、とりいれるまで、一穂の麦に、五合の水が、いりますじゃ。そこで、五合、水をつかえば、麦一穂、すてるようになりますじゃ」
ともさとした(同上)。
 斎藤宗次郎が、かつて
 「<3>午の年の男は、水をのむと腹が<4>にがり、また、たべるものが胸元にたまりて、日々、腹が甕カメのごとくなり、はや、十年余ヨもこまりおります。どうぞ、おたすけくだされ」
とねがいでた。金光大神は、そのとき、
 「それは、水をのむとき、茶碗にくんだ水を、いただいてのむこころになれ。また、なにをたべるとも、体の丈夫になるよう、いうこころで、いただいて、たべよ。…」とさとした。
 さらに、金光大神は、
 「天と地は、夫婦と、たとえてあるものじゃ。天が、のうてもならず、地がのうてもならず、天が男なら、地は女じゃ。
御夫婦とあっても、日天子さまが、がちがちおてらしなさるときに、月天子さまは、なんともなさらぬ。また、<*5>月天子さまが、雨を、おふらしなさるのは、一家にとりゃ、家内が、乳を、のませるもおなじことじゃが、その家内の役目を、日天子さまが、邪魔はなさらぬ。
そのとおりで、一家のうちで、亭主が、一家のことを、とりしまるのを、かれこれ、いわぬように。また、家内のすることは、家内のこころをくんで、大抵のことは、かれこれ、いわぬようにせぬと、一家のことが、たたぬぞ」
ともさとした(藤原嘉造)。

<1>基礎、もとづくところ <2>絶える
<3>宗次郎 <4>「きりきり痛む」の方言
<*5>水は月の支配するものとの当時の通念にいず

… みかげ

 金光大神は、神のみかげということについても、いろいろに理解している。
 「いかに信心すればとて、寿命のないものは、しかたがないが、神さまに、もたれておれば、うろたえることはない」
とも(青山金右衛門)、
 「おかげは長命と出世が、おかげの一等じゃ」
とも(石田友助)、
 「いきておるものは、みな、おかげをやってあるぞ。御恩をわすれなよ。そのなかにも、まことのおかげをうけるものが、千人に一人イチニンがないぞ」
とも(市村光五郎)、
 「おもう念力ゃ、岩でもとおす、というが、氏子が、一心をだしてねがえば、<1>どがあなことでも、かなえてくださる<2>どよう」
とも(荻原豊松)、
 「信心をして、おかげが、あらあ、なあは、いうけえど、十年、ひと辛抱すりゃ、どがあなものでも、おかげをくださるぞよう」
とも(同上)、
 「<3>丑の年、いたあのが、なおったが、ありがたあのじゃあ、<4>なあぞよう。まめなが、ありがたいのぞよ」
ともさとした(同上)。
 岡山の人、某、商業上のことについて、取次をねごうたときに、金光大神は、
 「おまえの方には、病人があるのに、ほっておいて、ねがいもせず、不孝のものじゃ」といましめた。某は、このことばによって、家に、中風症で、うごくことのできぬ老人のあることに気づき、そのことを、きこえあげると、金光大神は、
 「それを、ほっておいて、よいか」
と追究するのである。某は、
 「なおるでありましょうか」
とうかがう。
 「老人じゃからとて、なおらぬ、ということはない」
とさとした。某は、その日から、一心に信心して、病人は、ついに全快をしたのである(秋山きぬ)。
 さきにしるした荻原豊松の妻須喜が、病気全快して、はじめて礼参したときに、金光大神は、
 「よう、おかげを、うけさんしたのう。<5>こがあに、ありがたあこころに、はようなりゃ、二箇年も難儀せいでも、よかったに。これからのう、他ヒトがいたあいうて来たら、わが、いたあときのこころをもって、たのうでやれ。われは、もう、なおったに、他ヒトのことはしらぬ、というようなこころをだすと、またこの病気がおこるぞ。いまのこころでのう、おかげをうけてゆきゃあ、<6>丑の年、<7>西阿知の活手本イキデホンにしてやる。  人間は、わずかに六十か七十になると、死なにゃならぬのじゃから、丑年、名をのこさせて、死なしてやる。<8>おやしろを、たてさせてやるぞよう」
と、ねんごろにいましめ、さとすのであった。

 片岡次郎四郎、あるときの月参の途中、腹痛をおこして、くるしみにたえず、あるいは這い、あるいはたおれ、かろうじて、大谷にたどりついた。金光大神は、
 「三年・五年と信神していても、なお、まよう。十年、信神がつづいたら、信心家ということができる。神信心をして、<9>おつげを得て参詣しておるのに、この腹痛とは、なにごとぞ、とおもうじゃろうけれども、わが家ウチにおりて、これほど、いたかったら、家内中、心配をするけれども、旅でいたいのは、その身だけの難儀ですもうが。これも、神信心のおかげぞ。明日は、つね平生のとおり、あるいて下向のできるように、おかげをさずけてやるぞ」 とさとし、やがて、そのとおりに下向することができた。  金光大神は、また、次郎四郎に、  「病気・病難があったからというて、にわかに、とりすがっても、つね平素からの信心、手うすければ、神も心配せぬが、信心のあつき信者でみりゃ、神も心配して、いかに、大病じゃの、<10>九死じゃの、というような病難でも、さかりをしのがして、全快さしてやる。さかりをしのぐのが<11>おかげで。とかく、信心は地をこやせ。つね平生からの信神が肝要ぞ。地がこえておれば、肥料コエをほどこさずとも、ひとりでに、ものが、できるようなもので、人間においても、平生、信心をしておれば、医者の薬は、のまずとても、病気・病難は、うけさせぬ」 とさとし、また、山本定次郎には、  「ながわずらいの人、または、代々難儀のつづく人、神さまのおかげをいただくに、たとえば、井戸水が、<12>にごれたとき、<13>水がえをするとき、八・九分かえても、退屈してやめれば、そこの掃除はできぬ。それゆえ、おなじく水は、にごれておるようなもので、信心も、途中でやめれば、病苦・災難の根はきれぬ。井戸水は、清水になるまで。病苦・災難は、その悪根のきれるまで、と一心に天地金乃神さまへねがい、まめで、繁昌するように、元気なこころで、信心しなさい」 ともさとした。さらに金光大神は、  「信心するほど、人間に、くらいがつく」 とも(伍賀慶春)、  「神にたすけてもろうた病気は、ふたたびおこらぬ」 とも(近藤藤守)、  「まことの信心すりゃ、敵倍の力をさずけてくださる」 とも(同上)、  「信心しておれば、途中死はさせぬぞ」 とも(同上)、  「ついた病気は、すぐ、なおしてくださるが、こころからおこした病気は、神もなおせぬ。氏子、心配して、こころから、わずらわぬようにせよ」 とも(同上)、  「一心に信仰するものならば、従兄弟イトコのはしまでも、おかげをいただくぞな」 とも(同上)、  「めでた、めでたの若松さまよ、えだもさかえりゃ、葉もしげる、という伊勢音頭があろうのう。みな、このおかげをいただきゃ、らくじゃ」 とも(同上)、  「一代信心は、神はよろこばぬ。子孫につづく信心」 ともさとした(山本定次郎)。  金光大神は、かつて、佐藤光治郎に、  「<14>寺子屋へいって、なろうた字を、こころに油断して、もどしてしもうても、それで、師匠が、どれだけ得をした、ということはない。子どもが、おぼえておって出世して、あの人のおかげで、これだけ出世した、といえば、それで、恩をおくることになる。
神さまの信心をして、おかげを、おとしてしもうては、神はよろこばぬ。おかげを、うけてくれれば、神もよろこび。金光大神のはなしをきいて、それでおかげになれば、金光大神もよろこぶ。氏子が、おかげをうければ、神もよろこび、金光大神もよろこび、氏子もよろこぶ」
とさとし、さらに、金光大神が、狐をつかうの、狸をつかうのという、悪しき評判のたっていたころ、金光大神は、佐藤光治郎に、
 「狐・狸などいうて、これよりえらいものはないようにおもうておるが、人間は、天地乃神さまの、わけみたまじゃ。からだのぬくいのは、日天子さまのおかげじゃ。からだに、骨・筋のあるのは、金乃神さまのおかげじゃ。口のうちに、水がまわって、呂律がきれるのは、月乃神さまのおかげじゃ。それでいて、天地乃神さまに、かのうた氏子がない。
天地乃神さまに、かのうた氏子とは、身代と、人間と、無病とが、そろうて、それが、三代つづいたら、家柄・家筋となって、これが天地乃神さまに、かのうたのじゃ。それを、知らずに氏子がおる。むごいものじゃのう、と神さまがおおせられるのじゃ。
財産が、百石米できれば、それだけの力が、なければならぬ。それが、天地乃神さまにかなわぬものは、財産はあるが、智恵がないで、しかたがない、ということができる。また、この人は、財産もあり、力もあるが、まめ息災ならよいに、病身なから、村のことなり、なになり、出てやってもらうことができぬ、ということになる。それで、人間のかしこい、無病のものが、できたとおもえば、財産を<15>みたす。財産がみてなんだら、大切なものが死んで、財産をのこしておいて、子孫をきらしてしまう。人間はかしこい、相当の家筋じゃが、ものがないから、人に、無理をあてがうけい、それぞれの筋へ、あてることができぬ、ということになる。これが、天地乃神の御祈願にかなわぬ。天地乃神のおかげをしらぬから、たがい・ちがいになって来る。 信心して、神の恩をしって、無事・堅固でくらしてゆきおりゃ、子孫もでき、財産もできて、安心になって来る。さきをたのしめ。はじめは『一年まさり、一年まさり』といい、『十年一昔』といいおるが、のちには『代まさり、代まさり』のおかげを、うけることができるぞよ。 果物ナリモノが、花の時分にゃ、なるものやら、ならぬものやらわからぬが、だんだん、<16>実がなって、大きゅうなれば、<*17>五升柿でもできる。ああいうように、すえへゆくほど、大きゅうなって来コねばならぬ。神さまは、天地中に、みちわたって、山のたにでも、川のそこでも、おなじことじゃから、信心しなされ」
とさとし、津川善右衛門にも、
 「信心してみい。眼にみえるおかげより、眼にみえぬおかげがおおい。知ったおかげより、知らぬおかげを、うけることがおおいぞ。あとでかんがえてみて、はじめて、あれもおかげじゃった、これもおかげじゃった、ということがわかるようになる。そうなれば、ほんとうの信者じゃ」
とも、
 「なににでも、辛抱ということが肝心じゃ。信心には、なおさらのこと、辛抱がよわくては、おかげがとれぬ。なかには、やけをおこして、信心をやめる人がある。気の毒のことである。
車でも、心棒がよわったり、おれたりしたら、車がまわらぬ。信心ばかりではない。人間のわざにては、なににでも辛抱が肝心じゃ。辛抱をせずに、仕合シアワセをえたものは、あまりない。漁夫リョウシでも、農家でも、商人でも、辛抱のなきものは、出世はできませぬ。漁夫や農家は、雨・風の天災があり、商人は、損をしたりして不仕合なことがある。それを辛抱してゆかねば、よきことにはなれぬ。
これとおなじことで、信心するにも、辛抱が大切である。その証拠には、神の御扉をひらいてみよ。御幣か、御鏡ミカガミのほかは、なにもない。ただ、ただ、信心の辛抱で、おかげがでるのじゃ。神さまからおかげがでる、とおもわずに、信心からおかげがでる、とおもうて、信心の辛抱をつよくせよ」
ともさとした。

 浅口郡鴨方の人、樋口鹿太郎は、はじめて金光大神の広前にまいったときに、父親が、大酒のうえ、酔狂にて、家族のものの困却することを、うったえて、取次をこうた。金光大神は、鹿太郎に、
 「親のすきな酒なら、他所ヨソへまいって、買うてきても、あげるくらいのものじゃ。すきなものを、やめてくだされい、というてはようない。まあ、信心しなされ。おかげが<18>あろうぜい。よう、まいってこられた。今年の、二度の祭を、安心に、させてやろう」 とさとしたが、はたして、その年<19>八月十四日になると、父親は、まったく酒をやめ、翌日も、翌々日も、来客など、酒をすすめるものがあっても、一滴も、口にせぬようになり、酒、ときくさえ、いとわしくなった、といいながら甘酒ばかり飲んでいた。かくて、九月十四日・十五日の祭にも、さらに、酒を口にしようとは、しなかったのである。
 小田郡矢掛の人、佐藤彦太郎が、金光大神の広前に、はじめて参拝したのは、文久元年(一八六一)であった。そのとき、金光大神は、彦太郎に、
 「信ありゃ徳あるのじゃ<*20>けん」
とも、
 「おかげは、わがこころに、あるのじゃけん」
ともさとした。
 さらに、金光大神は、信心のあじわいともいうべき点について、
 「いま信心したから、いま、おかげがあるとはゆかぬ。たとえてみれば、さかなでも、あじのよいものといえば鰹節じゃが、あれは、いま、けずって、いま、あじがでるとはゆかぬ。ながらく、にておるうちには、よいあじがでようが。
信心も、まあ、十年してみい。そのあいだには、ありがたい、ということが、わかろうぞい」
とさとした(山形春蔵)。

<1>どのような <2>「ぞよう」の訛
<3>豊松妻、須喜 <4>ないぞよう
<5>このように <6>須喜の生年
<7>現倉敷市 <8>取次広前
<9>神のさしずによって <10>九死一生の略
<11>「おかげぞ」という意の、地方のいいざま <12>「にごりた」の訛
<13>井戸替 <14>江戸時代、士人・僧侶・医師・神官等によって行われたる庶民教育機関にして、主として習字・読方を教えたり
<15>失う <16>みのる
<17>御所柿。ここは大いなる実の意 <18>あろうぞい
<19>祭礼日 <20>「けに」の音便

… 処世・家業

 金光大神は、家業をことに重んじた。したがって、処世・家業についても、いろいろにさとした。慶応三年(一八六七)十一月二十四日、神は、
 「日天四(子)のしたにすみ(む)人間は、神の氏子。身上ミノウエに、<1>いたが・病気あっては、家業できがたなし。身上安全ねがい、家業出精、五穀成就、牛・馬にいたるまで、氏子、身上のことなんなりとも、実意をもってねがえ」 とさとした。  秋山甚吉は、岡山藩士であった。慶応のすえのある日、参拝すると、金光大神は、  「これからのう、天が地に、ひっくりかえることがあるぞ」 とさとしたが(秋山米造)、ほどなく明治維新となった。甚吉は、廃藩になり、俸禄をうしない、妻コウメが、今後、どうなりゆくやら、とおもいわずらいながら参拝すると、金光大神は、  「なにやかや心配して、かれこれおもうておろうが。神にまかせて、足タリ・不足をおもうな。安心して、時節をまっておれ」 とさとした(秋山コウメ)。かくて、その子、米造は、歳わかくして、取次にしたがう身となったが、これよりさき、兄、熊吉とともに参拝したとき、金光大神は、  「<2>酉の年、その方は<3>不調法なから、おかげをうけて、人をたすけてやれいよう。<4>巳の年は、手さきが器用なから、その方で、出世させてやる」
とさとしたが(秋山米造)、はたして、熊吉は、正阿弥ショウアミ勝義カツヨシの門に入り、後、<5>「左」と号して、名ある彫刻家となったのである。  小田郡<6>富岡村の人、塩飽きよは、かつて、
 「わたくしは、ながらく信心をさせてもらいますが、貧乏で、こまります」
とうったえると、金光大神は、
 「貧乏で、くわぬときが、あるかや」
と反問した。きよは、
 「いや、くわぬことはありませぬ」
とこたえると、金光大神は、
 「なんぼう、<7>つみかさねておっても、くえぬことがあっては、どうもなるまいが。まめで、くえれば、それが<8>分限者じゃ」
とさとした。
 渋谷せんの中の子、伊三郎が、不品行の結果、痲疾にかかり、たえずくるしんでいたが、ついに、「金光さまのお力で、おたすけくだされ」といいだした。そこで、せん夫婦が参拝して、このよしを、もうしあげると、金光大神は、
 「親がよいこともない。子がわるいこともない。『どうじゃ』『こうじゃ』というて、七年このかた、すてておいとるが、三人の子のなかで、これが<9>子一コイチじゃが、<10>どうなら。これまでは、『これが毒じゃ』『それが毒じゃ』というて、塩をよけて、ばかりおるが、これから帰って、毒だてせずと、根コンかぎり、<11>こごしってやれ。つよいものばかり、くわせてやれ」 とさとし、せんは、そのみさとしのままにしていた。すると、あるとき、便所にゆくと、白く、ながいものがでて、はっていた腹も、すくようになり、後、二度ばかり、おなじようなことがあって全快し、きわめて壮健になったのである(渋谷せん)。  金光大神は、あるとき、片岡次郎四郎をさとして、 「かねがねも、申しきかすとおり、<12>若葉、十五歳におよんだら、何事にも名代ミョウダイをたてい。<13>金光子の年においては、始終、大広前をつとめてくれ。田地・田畑も、<14>たんとかいあつめよう、とせぬがよいぞ。みな、それ相当に、作番頭をつけねばならぬから、これも、なかなか世話がおおい。作方サクカタの方においても、<15>瓜の皮をむいたように、牛をつこうておろうとも、作の方へ気をよせぬがよいぞ。神信心をしておれば、作物のみのりに、ちがいはないようの、おかげをさずけてやる」 とさとし、  「商売をするなら、もとを、しこむところと、売ウリさきを、大事にせい。人が、たとえば<16>口銭を拾銭かけるものなら、八銭かけい。目のさきは、弐銭損じゃ<17>けい、やすうすりゃ、かずがうれるから、やはり、その方が得じゃ。からだは、ちびるものではないからのう」 とも(大喜田喜三郎)、  「すぎたるわるいことを、おもいだして、心配すな。今日が大切。さきをたのしめ」 とも(島村八太郎)、  「信心せよ。家業・家業で、くりあわせをもって、繁昌さしてやる、何業はよし、あし、と別にえらむな。そのような、せまい道でない」 とも(同上)、  「わかいときの信心、おいてのたのしみぞ」 とも(同上)、  「戸じまりをして、家のうちにねていても、信心がなくば、野なかに、ねているも同然とおもえよ」 とも(同上)、  「稲をつくるというても、よそのが、ようできておるから、うちのも、ようしよう、とおもうて、一度に、こやしをやると、<18>青アオがえって、なんにもならぬことになる。信心も、おなじことで、平生から、しておかねば、やれ病気な、というても、まにあわぬ」
とも(千田種治)、
 「人は、身代をこしらえたり、先生といわれるようになったり、とかく、人にあがめられるようになると、人をあがめることを、しらぬようになる。人をあがめて、わが身が、あがるものじゃ。身が、あがって来れば、五穀のまねをせねばならぬ。唐黍トウキビのような、おおきなものでも、<19>実がのれば、かがむではないか。 よく、あたまをうつ、というが、天で、あたまをうつのが、一番おそろしい。天は、たかいから、あたまをうつことは、あるまい、とおもおうけいども、天は、おおごえをだして、しかったり、手をふりあげたりすることは、ないがのう」 ともさとした(鳥越四郎吉)。  難波幸が、ある年の<20>節季にまいると、金光大神は、「神さまへ、おしめが、さげられたかや。手でのうたおしめは、つい、そなえられるけいども、帳にしめをせねば、おしめが、そなえられぬ。しめのうちに鬼がくるぞ」
とさとし、また、<21>洋傘の、はやりはじめのころに、金光大神は、  「人よりさきに、(洋傘を)さそう、とおもうなよ。からだに、はでなことをしておると、こころにぼろをさげねばならぬ。こころに錦をかざっておれい。弱うて、たかいものをきるよりは、やすうて、つよいものを、きるようにせい」 ともさとした。  尾道十四日トヨヒ町チョウの人、藤原善平が、  「金光さま、仕事は、人の倍くらいいたしますが、貧乏でこまります」 とうったえると、金光大神は、  「それで、貧乏ということはあるまいが」 という。  「それでも、銭がのこりませぬから、貧乏に相違ありませぬ」 とこたえると、  「ふう、それは、どこか<22>あだがあるじゃろう。招ヨばれてゆくに、こちらから茶漬をたべて、ゆくようなことをする。御馳走をいただくときには、充分にいただき、御馳走をするときには、充分にせねばならぬ。十銭あだをすれば、十円罰バチをこうむる。それは、天地がゆるされぬ。それをこころえて、あだをせぬようにせねばならぬ。百円のあだは、なんでもない。とおもおうが、千円の罰をこうむるから、貧乏をする。あだをせぬようにすれば、出世もする」
とさとした。金光大神は、さらに、
 「他人をたすけておけば、わがたすかるのじゃ。他人の娘をもろうても、嫁は、わが身の死枕シニマクラじゃから、大切にしてやらねばならぬ。自分の子をよそへやったら、たとえ、病気な、というても、たずねてゆかいでもよい。他人が、また大切にしてくれる。そうして、家内ウチワが、よくおさまれば、近所とのおりあいもよし。家も繁昌する」
とも(村木マス)、
 「子どもが、おおぜいおっても、おおぜいじゃからいらぬ、とおもうてはならぬ。九人あって、十人目にできた子がいらぬ、とおもうておっても、その十人目の子にかかって、死なにゃならぬことが、あるかもしれぬ。ひとりの子であってみい、ひとりが貧乏なら、みな、貧乏じゃろうが。おおぜい、そだてておけば、そのうちには、仕合せな子も、できようぞい」
ともさとした(森政さだの)。
 森政禎治郎は、妻さだのの信心にて、重患をすくわれた人である。その礼参のみぎり、金光大神は、禎治郎をいましめて、
 「<23>氏子、家内とおもうておろうが、身体カラダは家内じゃけれども、<24>氏子の一心で、なおったのじゃから、こころは、いのちのおやぞよう」とさとした(森政さだの)。
 石原銀造は、
 「大谷へまいれば、『今年は、なにをつくれい』ということを、おしえてくださると、みな、いいますが」
ときこえあげると、金光大神は、
 「それは『今年は早稲ワセがよい』というても、早稲一作は、ようすまい。『中稲ナカテがよい』というても、中稲一作は、ようせぬ。それじゃから、この作を、とおもいついたら、それを<25>三月にまくとき、もみをそなえて、立派にできるようにねがい、<26>五月にうえるときには、よう、おいたちますように、というてねごうて植え、秋、穂がでたら、立派にみのるように、ねがうようにすれば、作徳がいただけるからのう」
とさとし(吉田多三郎)、
 「人は、五十以上になると、隠居をしますが、隠居は、いくつ何十になっても、するものじゃありませぬ。人は、天地乃神が、天地のうちに、はたらくように、おつくりなされたのじゃから、いくつ何十になっても、手足のうごくかぎりは、はたらきますのじゃ」
とも、さとすのであった(近藤藤守)。
 片岡次郎四郎は、酒をば、たしなまなかった。あるとき、金光大神は、次郎四郎にむかって、
 「才崎は、お酒ミキはすきか」
とたずねた。次郎四郎は、「いや、わたしは、不調法であります」
とこたえると、金光大神は、
 「一杯ずつは、いただくがよいぞ」
と、すすめるのであった。次郎四郎の弟、実三ジツサは、兄とは反対に、酒をたしなむ人であった。実三は、兄に対する、この金光大神のすすめを、つたえきいていたので、ある日の参拝のとき、
 「お酒は、すきか」
という、金光大神の問に対して、実三は、
 「はい、すこしはいただきます」
とこたえた。金光大神は、
 「酒は、のまぬがよいぞ。酒には、のまれるから。のまぬがよい」
と、いましめるのであった(片岡次郎)。

<1>痛処 <2>米造
<3>不器用 <4>熊吉
<5>この人、左利なりしより、そのまま、号となせりという <6>現笠岡市
<7>米俵を <8>財産家
<9>一番優れた子 <10>尋ねる意
<11>栄養をあたえ大切にする意の方言 <12>幸之進
<13>次郎四郎 <14>沢山
<15>耕すこと浅き形容 <16>手数料
<17>「けれど」の意の備前地方のいいざま <18>勢づきて、却って実を結ぶにいたらぬの謂
<19>「みのる」の一種のいいざま。方言 <20>年末
<21>月岑日記(明治四年のころ)に「近頃はやりもの」の中に「蝙蝠傘」の一項をあぐ(近世日本世相史) <22>むだ
<23>禎治郎をよびかく <24>妻
<25>苗代に <26>田植

… 国家・社会

 金光大神は、国民生活・社会生活の重要なことを、いろいろにさとしたが、市村光五郎は、
 「信心をして、神になることを、金光さまが、おんおしえくださったのぞ。以後の、こころえのこと。神になっても、神よりうえになること無用なり。神国ともいうてある。巳の歳を御説諭あり」
としるしている。これは、いわゆる「神国」についての金光大神の見解を、つたえたものである。金光大神は、さらに、
 「おかみもかみ、神さまもかみじゃから、おかみの規則に、はずれたことをしたら、神さまのおかげは、ないぜ」
とも(河本虎太郎)、
 「年貢を、おさめるのも、村役場へおさめるようにおもうが、ちがいなり。みな、天皇さまの御恩なるぞ」
とも(島村八太郎)、「百人の不信者より、一人の信者が、国のためなり」
ともさとした(同上)。金光萩雄は、
 「おかみのおためになるように、とつねにおおせられ、<1>資格のごときも、ただ、法度にかなうだけに、なりおれば、それでよろしい。うえへ出よう、とはすな、といわれたり。また、時節をまて、といわれ、時節をまっておれば、おそいけれども、たしかである、とおおせられたり」 と、金光大神の、つねの態度を、ものがたっている。  かくして、金光大神は、時の制度を遵奉しつつ、つねに政治の圏外に立って、中正円満の大道をといた。この点を佐藤範雄も、  「吾が教祖、道開きの御態度は、一、政治に不平なく、二、他宗を誹ソシらず。是れが、吾が金光大神が、終始一貫して、道を御開きになった御態度である」 と説いている(金光教祖と初代白神)。  さらに金光大神は、市村光五郎に、  「天地金乃神と礼拝しても、そのつぎには、のこらずの金神さま、とあがめまつって、礼拝せねばならぬ。みなさまと申してもよい。伊邪那岐イザナギ・伊邪那美イザナミノ命ミコトも人間、天照大神も人間なら、そのつづきの天子さまも人間じゃろうがの。<3>宗忠神ムネタダノカミもおなじことじゃ。『神』とはいうけいども、みな、天地乃神から、人体をうけておられるのじゃ。天地の、ととのえた五穀をいただかねば、いのちが、もつまいがな。してみれば、やはりみな、天が父、地が母じゃろうが。そうしてみれば、天地金乃神は、一段上の神。神たるなかの神じゃろうが」
ともさとした。
 さらに金光大神は、
 「天が下のものは、みな、天地乃神さまの氏子じゃろうが。天が下に他人はない」(再録)
とも(佐藤光治郎)、
 「人が、人をたすけるのが人間である。小児コドモが<*3>こけておるのをみて、すぐにおこしてやり、また、水におちておるのをみて、すぐにひきあげてやられる。
人間は、万物の霊長であるから、自分の、おもうようにはたらき、人を、たすけることができるのは、ありがたいことではないか。牛・馬、その他のけものは、わが子が、水におちていても、ひきあげることはできぬ。人間がみると、たすけてやる。牛・馬・犬・猫の、いたいときに、人間が、介抱してたすけてやることは、誰でもあろうがな。
人間、病苦・災難のとき、神さま・人間に、たすけてもらうのであるから、他の難儀なときを、たすけるのが人間である、とこころえて、信心しなさい」
ともさとした(山本定次郎)。

<1>取次者の資格 <2>黒住宗忠
<*3>ころぶ

… 婦人

 金光大神は、婦人の地位をおもんじ、その任務の、おおいなることを、つねに、ときさとし、おこたるところがなかった。すなわち、
 「これまでは、男でなければ、家がたたぬ、といえども、これからは、女、家をもつことを、金神が、おしえてやる。すなわち、神功皇后をみよ」
とも(市村光五郎)、
 「女は、神にちかい。信心は、女からじゃ」
とも(島村八太郎)、
 「古人は、女の腹は、かりものじゃ、というが、かりものではない、万代のたからじゃ。鋳物屋へいってみさんせい。釜をこしらえるには、釜。<1>かんすをするには、かんすの型を、しておかねば、できはせぬ。それに、母親の腹を、かりものというのは、おかしいわい。月どまり・火どまりいうて、妊娠とともに、月経が、とまるではないか。その水気をうけて、やしなわれてくるのじゃ。それを、しらずにおる」 ともさとした(佐藤光治郎)。  難波幸は、備前児島郡田ノ口で、取次に奉仕した人である。はじめ、金光大神は、しばしば「人に教をしてやれ」と幸をといたが、幸は「無学・不徳の身なれば」と、しきりに辞退した。金光大神は、  「学者でも、<2>道をつとめられるとは、ゆかぬ。まことさえあれば、道はつとめられる。
女は、世界の田地じゃからのう。神さまのおしえに、世界の田地を、こやしておかねば、貴きものができぬから、とおおせられるからのう。
どこの男でも、親に不孝は、しようとはおもわぬでも、男は、年中、父母のそばにはおれず、そとへ、はたらくものじゃから、女は、家の<3>家老みたようなものじゃ。家老がようなければ、城がもてぬ、というが、家老がようなければ、どうもならぬ。 善い種子タネをまいても、やせ畑には、よいものができぬ。田地がこえておらねば、よいものができぬ。 女は、妊娠のときが大事ぞ。みなに、よう、おしえておけい。<4>火事をみると、あかあざができる、というが、眼でみたものさえ、うつるのじゃから、こころの、よい・わるいは、子にうつるから、からだに子がやどると、食事がすすんだりして、めずらしいものでもほしい、というこころになるのじゃから、かくして、ものをくうようなことでは、よい子はできぬ。かげ・ひなたのこころをもった子が、できるから、はたのものが、よう、こころをつけて、ほしいものは、かげで、たべるようなことのないように、みなのまえで、たべるようにせよ、というてやれい」
とさとすのであった。金光大神は、さらに、
 「子どもでも、おおぜいあると、<5>できた子を、<6>月ながしをのんだりして、ながしてしもうた、とおもうておると、それがさわって、産のときに、むつかしゅうなって、末子バツシに、いのちをとられるようなことにもなる。なんにんできても、壮健タッシャでさえあれば、そだててゆけるからのう」
とも、
 「金神が、子どもをさずけてやっても、これからは、よりどりをすな。よりどりをすると、いる子はころし、いらぬ子は、ひきあげるようになるぞ。そうすれば、あとで難儀となるぞ。これからは、金神に信心をすれば、いらぬ子は、まえに、<7>月水ゲッスイでとりてやる。いる子は、さずけてやる。世話はおおうても、そだてておけよ」 とも(市村光五郎)、  「人間は、血で、みな、いきておるのじゃ。血のおおいものは壮健タッシャなのじゃ。女というものは、たねがやどるために、あまる血を、さずけてあるのじゃから、それを、月に一度、はねてくださるのじゃ。それが、からだのなかにあるから、ないから、というて、忌イミがあるの、ないの、ということはない。<8>種子タネをまくのでも、かわいたところに、まいてみい、はえはせぬ。女には、たねのめぐむために、よけいの水気スイキを、さずけてくだされてあるのじゃから、穢・不浄を、いわぬようにして信心せい」
とも(難波幸)、
 「子どもが、よけいできても、<9>手仕テシに、<10>まびくことはすなよう。ちょうど<11>東の綿どころに、棉づくりをすると、おなじことじゃ。<12>ふく木と、ふかぬ木を、ようみわけてぬく。神でみりゃ、氏子の寿命があると、ないとは、よう承知しておる。氏子では、それがわからぬ。
世間に、ようあることじゃ、『わたくしは、四人、子どもをそだてたが、みな、死んで、かかる子がない』ということがあろうが。四人ほか、ないものもあるが、八人も、十人もあるのに、四人ほか、そだてぬのもある。神がまびいて、寿命のないものなら、ひきとってやる」
ともさとした(樋口鹿太郎)。

 金光大神は、出産を、ことにおもんじて、
 「この方の道は、<13>よろこびから、ひらけた道じゃから、よろこびでは、しくじらせぬ」 とも(片岡次郎四郎)、  「世のなかに、もう、これからは、難産はなし」 ともさとした(市村光五郎)。  河本虎太郎の妻は、はじめ、出産のとき、いつも、生・死のくるしみをしていたが、金光大神は、  「信心をしとりゃ、産の方ホーで、しそこなうようなことは、ないのじゃ。となりしらずの、よろこびをさしてやる。<14>よかりものに、よかるようなことは、すなよう。いのちがけじゃ、とおもうて、よこになってねい。そうすりゃ、日だちも、はやいおかげをやる」
とて、つとに、横臥して出産することを、さとした(河本虎太郎)。
 備前上道郡<15>三蟠の人、北村周造も、妻、懐胎のことを、もうしあげて、ねがうと、金光大神は、  「金光さまを、まつっておれば、その神だなの方へむかって、産をするがよい。そうすれば、安産する」 とさとした。これは、<16>産穢サンエをいむとて、神のまえを、はばかる当時の風習を、いましめたものである。周造の妻は、このみさとしのままにして、ほどなく安産することをえたのである。金光大神は、
 「一心に信心すれば、隣しらずの安産ができます」
ともさとした(近藤藤守)。
 西阿知の斎藤宗次郎は、慶応三年(一八六七)八月二日、はじめて金光大神を拝したのであった。あたかも、長男近チカ太郎が生れて、五十日ほどを経たときであった。産児は、三日ばかり、昼も夜も、眼をとじて、しきりに泣くばかりであった。宗次郎は、このよしを、もうしあげて、取次をこうと、金光大神は、
 「それは、産むときに、みな、誰でも<17>あき方にむき、また、金乃大神さまへは、しりをむけ、天地の御恩しらぬゆえに、これまでの御無礼をいたし。今日より、これまでの御無礼、おことわり申して、御信心せよ。今日より十四日先を、たのんで、おかげうけよ」 とさとすのであった。その夜、宗次郎が、産児の眼をひきあけてみると、両眼に、ほしが七つほどでていた。宗次郎は、おどろいて信心をこらし、七日目には、そのほし四つがなくなり、十四日目には、全部とれて、晴眼になることをえた。  金光大神は、妊婦が、腹帯をする風習をもいましめて、  「<18>腹帯は、神功皇后の三韓征伐のときから、するようになったが、あれは、せぬがよい。腹の児がいたむから」
とも(岡繁蔵)、
 「妊娠のとき、腹帯はいらぬ。また産のとき、蒲団にもたれ、また俵に、<19>よかれることは、<20>なあぞよう。産児ウブゴには、水や<21>五香はいらぬ。すぐに神酒オミキをいただかせて、あら乳をすてず、すぐにのませて、よいぞよう」 とも(荻原豊松)、  「出産のとき、大神さまのおかげをこうむる、ということをしらずに、よろこびの模様じゃ、暦はどこにあるか。明方はどちらか。さあ、<22>水がこぼれると、不浄になった、というて、神さまに遠慮するようなことである。また、よかりものによかり、足をのべぬようにするので、枕をさげて、ねむらぬ習慣であったが、金光大神のおしえには、よかりものによかるより、神によかり、もたれよ。天地のおや神をたのみ、枕をさげて、足をのべ、安楽にねるも、さしつかえなし。いまは、金光大神ひとり、おしえておるが、この後は、医師が、足をのべて、よこにねることを、いうようになるぞ。これも、神さまのおつたえであるから、ちがいはすまい。ただ一度でも、はやく足をのべてねむるよう、おかげをうけなさい」
ともさとした(山本定次郎)。
 まことに、当時の弊風を指摘してあますところがない。
 さらに、金光大神は、婦人のいましめとして、
 「むかしから、親が、鏡、二つ買うて、もたして嫁入をさせるのは、なにゆえか。これは、顔を、きれいにするばかりではない。第一、その家を、おさめにゆくのである。こころに、つらい・かなしいとおもうときに、鏡をたて、かならず、人に、わるい顔をみせぬようにし、その一家を、おさめよ、ということである。
太古、天照皇大神より、しだいしだいに、鏡をもちて、この国をおさめたまうこと、人民がみて、なにほどの貧乏人でも、鏡は、もたしてもらうように、なっておるのである。
他家に、つかわしてからは、実の親が、子の顔をみて、毎日、いいきかすことができぬから、鏡をみて、その家の、機嫌よいようにせよ、ということである」とさとしている(山本定次郎)。

<1>鑵子、茶釜 <2>取次奉仕の意
<3>江戸時代、大小名の家臣の長の職名 <4>諺
<5>妊娠した <6>堕胎薬
<7>月経 <8>農作物の
<9>「手仕事」の略か。素人細工の意 <10>生児を人為的に処理して子供の数を制限すること
<11>浅口郡連島は、従前綿の産地として知られたり。ここを指すか <12>棉の果実の開裂して、白き毛状繊維を吐くこと
<13>産のこと <14>よりかかりもの。昔は座産にて、米俵などに凭りかかりて産をなしたり
<15>現岡山市 <16>江戸時代、父は七日間、母は三十五日間
<17>歳徳神方 <18>「はらおび、産帯をいう。いわたおびの俗称なり。神功皇后三韓攻の時より起るといえり」(倭訓栞)
<19>「よりかかる」の訛 <20>ないぞよう
<21>胎毒下し(前掲) <22>破水

… 方位・日柄・忌穢

 金光大神は、方位・日柄の吉凶など、いわゆる陰陽道の俗説をはじめ、忌穢に対する、わが国、古来の、ゆきすぎた風習などを、いましめたことについては、前に、しばしば、ふれるところがあった。
 金光大神は、青井サキに、
 「人間は勝手なものじゃ。うまれるときには、日柄も、なにもいわずに、でてきておりながら、まんなかのときだけ、なんの・かのというて、死ぬるときには、日柄も、なにもいわずに、かけって去のうが」とさとし、
 「うたがえば、鬼門の方へ、建築をやってみよ。金神が、しからぬというたら、しかりはせぬぞ。臆病をされ。おかげをやるぞ」
ともさとした(市村光五郎)。
 占見新田村の人、浅野喜十郎は、明治六年(一八七三)の改暦にあたって、
 「金光さま、<1>暦がなくなって、日柄がわかりませぬ」 とうったえた。金光大神は、これに対して、  「今月今日で一心にたのめ、おかげは、わがこころにある(ママ)」 とさとした。  備前上道郡<2>光津村の人、石井友七が、はじめて、金光大神の広前にもうで、お供ソナエの包ツツミをさしだすと、金光大神は、
 「前マ方エに納屋ナヤをしておろうがの、<3>未・申の方へ植木があろうがの。けれども、信心をすりゃ、きらいでもよい」 とさとすのであった。友七の住宅は、まことに、その指摘するごとくであり、かつ、柿と梨とが、その指摘した方位にあり、これをきるべきか、いなかについて、家人のあいだに、問題になっていたのであった(石井虎)。  金光大神は、  「いかなる智者・徳者も、うまれる日と、死ぬる日とは、無茶苦茶である。途中でばかり、日柄とか、何とか彼とかいう。いかなるところ、いかなるとき、いかなる方も、人間に宜ヨきは、よきところ・よき日・よき方ホウなり。日柄・方角などは、神が、氏子をくるしめることではない」 とも(荻原豊松)、  「とかく、神のるすばかり、ねらおうとするによって、安心にないぞ。おかみでも、御維新からは、道ひろげがあって、万事改正になるようなもので、この神においても、このたびから、道ひろげをするぞ。いかに、諸人・万人のおそれる鬼門や<4>鬼門裏でも、氏子から、ねがいをかけてみれば、『鬼の門』とかく方でも、神から鬼にはならぬ。氏子のこころから鬼をだすな。
よい日柄といえば、空に雲のない、ほんぞらぬくい、自分に都合のよい日が、よい日柄ぞ。いかに日をみて、今日キョウは<5>天赦日じゃ、というても、雨・風が、ふいたりふったりすれば、なにも、よい日柄ではないぞ。日天子のおてらしなさる日に、よい・わるいは、ないとしれ」 とも(片岡次郎四郎)、  「<6>明方アキホウ・明方というて、建築はしますけれど、明方というては、ありゃしませぬ。人でも、留守をねろうてみなされ、よきことは、ありますまい。家内が、夫の留守をねらうは、ろくなことではありません。明方・明方と、留守をねらわずとも、<7>ふさがり、といえば、神さまが御座るのじゃから、おねがい申してゆけば、らくでしょう」 とも(近藤藤守)、  「氏子が、磁石をふりて、雪隠をば、たてるときに、どの方角へたてる、というけれども、その中の<8>代物シロモノを、<9>作中サクジュウにかけるなり。また、<10>三年ふさがりゆえ、あの田へは、今年は屎クソはかけぬ、とはいわぬ。ときどきの、わが<11>おもいいれの御無礼をいたし。建築するのに、<12>ちぎり、ちぎり、御無礼いたすけれど、わが屋敷が、わが自由にならぬ、というは、わがこころに、くもりあるなり。こののちは、わが屋敷が、わが自由に、建築をさしてくだされ、というてねがえよ。
また、あの柱が、<13>丑寅にかかる、というて<14>角スミをちぎりて、たっとい金神さまじゃ、とかいうてのける。また、一心に、あなたの御地内に、建てさしてもらう、という精神と、どちらがよいか。くらべてみて、よいとおもえば、よい方せよ。
金光大神も、<15>出雲屋敷にまでなりた。また、氏子でたらいで、<16>牛・馬でも、七墓ならべるまで、金乃大神さまに、御無礼したものじゃ。
七人の命とらっしゃる金神さまなら、たのめば、命ついでくださる、とおもうて、<17>もとは、金光大神も御信心をしたら、たすけてくだされたけに、<18>萱野、<19>午の年も御信心なされ。天地に、親類にしてもらえよ。わが屋敷は、自由にさしてくださるなり」(再録) ともさとした(斎藤宗次郎)。  忌穢のことについても、金光大神は、  「けがれ・不浄をいうなよう。一皮のうちにゃ、みな、つつんでおるのじゃからのう。手・足・体カラダをあらうより、はらのうちを、あらうことをせよ」 とも(荻原豊松)、「金乃神のおはらいが、ちとちがうぞ。大晦日に、借銭をはろうて、しまうがよし。これが、金乃神のおはらいぞ」 ともさとした(市村光五郎)。  それは、明治維新前後のことであった。附近のものとおぼしき、四十歳ばかりの男、背に幼児をおいながら、いかにも広前に入ることを、はばかる体テイで、門前まで来ては、ためらいながら、ひきかえすのである。おりから参拝の、あるもの、この体をみて、そのよしを金光大神につげると、金光大神は、  「あれは、親が死んで、<20>忌のうちじゃから、とおもうて遠慮しておるのじゃ。この方には、いみ・けがれはないから、まいってもよいというてやりなされ」
とつげた。やがて、そのものが入ってくると、金光大神は、
 「おまえも、なかなか、めぐりのふかいものじゃのう。親が死んで、いみ・けがれがあるから、というても、信心にさしつかえはない。信心するには、物も金もいらぬ。もし、なにか、そなえようとおもうなら、線香を六本こうて、二本は、天地のおや神さま、二本は、先祖さま、二本は、神・神ガミさまへ、というて、そなえい。
いまから、半年ほどすれば、<21>奥州戦争があって、政府カミから、人夫をめされ、財産の高タカに応じて、人夫をだすことに、なるのじゃから、金持は、あぶないいうてでぬから、それを、かわってでてやれ。今度の戦争は、むこうが、にげる一方じゃから、あぶないことはない」 とさとすのであった。このものは、以前は、田地、一町二・三反ももつほどのものであったが、不運のため、<22>野道具までうって、生活するほどに、なっていたのである。はたして、金光大神のさとしたごとく、人夫として奥州戦争にしたがい、日に<*23>二朱ずつの日当をえ、これを資本として、家運を、たてなおすことが、できたのである(石原銀造)。

<1>日の吉凶を註したる暦の意 <2>現西大寺市
<3>南西 <4>鬼門の対方、未申
<5>陰陽家の極上吉日とする日、春は戊寅、夏は甲午、秋は戊申、冬は甲子の日 <6>ここは金神の方位を避ける意
<7>金神の巡りとどまる意 <8>汚物
<9>農作している所はどこへでも <10>大将軍方
<11>おもうままの <12>あの方位、この方位と区切りて無礼するの意か
<13>鬼門方 <14>鬼門方をいみて左の如く柱をたつ
・・・・○・・
・ 東


・北

  「ちぎり」は欠取の意
<15>前掲 <16>「牛馬まで加えて」の意の誤か
<17>「以前」の意 <18>現倉敷市
<19>宗次郎 <20>父母の忌は五十日
<21>明治元年七月、奥羽北越の諸藩官軍に抗す <22>農具
<*23>両の八分の一

… 医薬

 医薬と信心との関係について、金光大神は、「みな、いのれ・くすれにすりゃ、おかげもはやいが、くすれ・いのれにするから、おかげにならぬ」
とも(荻原豊松)、
 「これまでの人は、みな、いたいときには、毒養生をし、または、その身の、きらいなものをたべ、とかく、根を、よわらすばかりなり。それより、御信心申して、合薬アイグスリを、もちいよ。合薬とは、その身の、平常、すきなものをたべよ。体に、丈夫がつかねば、なおらぬ。また、毒というものは、うまいものなり。何によらず『いただく』こころで、たべよ。また、いたいときには、金乃大神さまへ、ねがうこころで、いただけよ」
ともさとした(斎藤宗次郎)。
 渋谷せんが、血の道をやんで、くるしんだときに、金光大神が、これに、サフランをもとめ、煎じて服用せよ、とさとしたことは、さきに、しるしたところである。
 金光大神は、神より、つとに、
 「さきの日では、水薬になるぞ」
という、みさとしをうけていた。されば足守の医師、某ナニガシに、
 「水に、薬をいれておき、これを、自分のゆかれぬときに、やりておけば、神さまのおかげで、ゆかぬうちに、おかげをうけておる」
とさとし、某ナニガシは、このみさとしのままにして、「まことに、人が、よくたすかります」と感謝した。金光大神は、「いまに、神さまのみおしえどおり、水薬を、おおくもちいるようになるであろう」
と、ものがたっていた(山本定次郎)。
 以上は、金光大神の、つねに、ほどこしていた「理解」の、おもなものを、おおよその類型にしたがって、しるしたのである。これによって、金光大神の「理解」の大体を、うかがうことが、できるであろう。

 金光大神(おわり)

活字書の奥付より

金光大神(縮刷版)
昭和28年10月1日 初版発行(10000部)
昭和57年10月1日 訂正13版発行(5000部)
著作兼発行者 金光教本部教庁
 岡山県浅口郡金光町大谷270番地
 代表者 安田好三
印刷者 中藤研一
 岡山県倉敷市玉島中央町1丁目20-8
印刷所 玉島活版所

発行所 金光教本部教庁
 岡山県浅口郡金光町大谷270番地

発売所 財団法人 金光教徒社
 岡山県浅口郡金光町大谷338番地
 (振替 岡山 3-1583番)

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  1. 今、天地の開ける音を聞いて、目を覚ませ。

  2. 先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神…

  3. 天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておか…

  4. 此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられ…

  5. これまで、神がものを言うて聞かせることはあるまい…

  1. ご伝記 金光大神(昭和28年刊行版)

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