金神参りというて、遠方から参って広大のおかげを受けて喜び、しだいしだいにおかげをいただいた人もあり、この大谷の土地でも参らぬ人もある。わしの顔を知らん人もある。
(2)たとえば、なにほどのよろしい料理屋が隣にあっても、その料理屋のごちそうを食うたことのなき人は味が知れん。これと同様である。これはただ、例えである。料理屋のごちそうは食わんでもよいが、此方が話しておる天地の神様のおかげは、受けずにというわけにはいかん。
(3)また、多くの人の中には、私は天地の親神様と言うて拝まんが、それでもさしつかえはないと言う人もある。これは恩を受けて恩知らずという者である。(4)たとえば、五人の子供のうち、自分の気侭ばかり言うておる子供があり、なみ合いの心持ちでおる子供がある。親のところでは、五人はみな子である。
(5)例えにも、子を育てて親の恩を知るというて、人間は善悪のことは知らねば人間でない。また、人間、幸せのよろしい時ばかりはない。自分のさしつかえのない時から親に親切な人がよろしいと言うが、親に不孝の人を世の中の人がいかに言うか。もし万一、不孝の子供が災難にかかりた時には、いずれは親の罰バチではないかと人が言うようなもので、自分の難儀のない時に天地の親神のことを知りて信心するのが人間ではないか。
(6)人は一代、名は末代というて、人間は一代の内に、死んだ後へ名の残るようなことを伝えるとか、または何か品物でも買い求めておくがよい。人間は、死去した後に葬式とか弔いとかいうて入費を使うばかりであるから、生きておる間に名の残ることをしておかねばならんと思うて働けば、「若い者が礼を言わん。喜んでくれん」と、年寄り老人が集まりた時、不足話をせずにすむ。若い者から、「おじいさんおばあさん、話が聞きたい」と言われるような信心をしなさい。