正月に年をとらない氏子もなく、正月に年徳神をまつらぬ家もないが、一番大切な年をとらしてくださる年徳神を正月にだけまつって、普段には、そこにおられるかとも言わない。一年中、願い事が多くあっても、年をとらしてくださる親神様にと言っては願わない。そういうことでは一心の信心にはならない。
(2)正月には、代々家が伝わるようにといって、だいだいを供え、一年中、喜ぶことがあるようにといって昆布を供え、家内中打ちそろい、めでたいことが続くようにといって、懸鯛をするではないか。(3)また二日には、その職分職分で、爺ジイは縄の綯い初め、婆バアは糸の引き初め、子供は書き初め、商売人は売り初め、侍は具足の祝いというではないか。年をとるとは生き延びることで、まめでその日その日の家業をうれしく勤めさせてもらうことを、生き延びるというのである。
(4)年徳神が年をとらしてくださるといえば、それが一年中お守りくださることではないか。年をとらしてくださり一年中お守りくだされば、親神様であろう。世間の氏子は、正月にだけ思い出して参って、平生には、わが家にこの親神様がおられることも忘れているではないか。うちの親を忘れて、よその親にばかり頼む。それで、親心にかなうか。親の心にかなわないような子が出世できるとは思うな。