上下そろうのご神意
このことは本教万世の方針であるから、具体的に言うておく。教祖のご神慮のほど、将来を思わせらるるの深かりしこと、口にするあたわず。(2)教祖ご在世中より、手厚き信者は、お道をお取り立て申そうということを、しきりに申しあげたものであった。生神の道が上に貫くようにお世話を申そうとしたものであった。それは、その筋(官憲)が拝むことを許さなかったから。(3)教祖は、
「まだ時節が来ぬ。まだ時節が来ぬ」
と仰せられ、お許しがなく、手の着けようがなかった。
(4)道は岡山から西周防辺までは早く開かれた。岡山より東は比較的遅かった。(5)明治十二年のコレラ病流行の時、初代白神師、大阪にておかげ立ち、昇天の勢いで人が助かることとなった。初代帰幽、次いで二代となり、初代の高弟近藤藤守師出で、いよいよ盛んになる。(6)どうして大阪で道を開いたかというと、大阪神道分局の派出説教所として開き、信者は日々に多く参る。宣教師亀田師ら大阪の本教信者を見るに、まちまちにして道が不明瞭で、何が何やらわからぬというので、神道分局では問題になった。これは、もとへ参って生神にご面会して教義を聞き、筋立てねばならぬとて、亀田師、吉本師、この地へ下り来ることとなった。
(7)白神、近藤両師、前もって参り来り、生神様のご都合を伺うた。それが明治十六年六月九日のことであった。大阪の事情を両人言上し、御領の佐藤に相談いたしたいと思いますがいかがでござりましょうと申しあげた。生神様はご祈念あり、
「御領へ行くようにしたらよかろう」
とのお言葉あり。(8)私は九日には御領にあり、十日はお祭りゆえ生神を拝しに参ろうと神様に伺いしに、「大阪から来るから、参らずに待っておれ」とのお知らせあり。待っておったが、いっこう来ない。昼飯がすんでも来ぬ。神の教えが間違ったかなと思うておると、四時ごろ使いが来た。「これから参ろうと思うが、行ってよいかどうか」と。「待っておる。来てくだされ」と返事し、五時ごろ両師来る。
(9)その時の随行は、道願縫、虎谷吉兵衛、大場吉太郎、今一人あったと思う。随行は宿に残り、両師のみ来る。「大谷から笠岡まで車に乗り、中利旅館に寄り、車を乗り継ごうとしたら高く言い、五厘の相談調わず歩いた。白神は脚気にて困った。近藤が我慢で歩かせられて困った」と言っていた。
(10)「さて、ご用はいかが」「今日は金光様のお許しを得て、ご相談があって来た。かくかくで大阪で道が開けたが、三人の人(亀田ほか)が金光様に直々にお会いして、お話を聞かねば説教ができぬと言って、大谷へ来ることになったから、その引き受け方について相談に来た」「それは、いつ来るか」「来月十一日に来る。それで、いっさいの準備をしてもらいたい」というのであった。
(11)いろいろ干渉があり、「そんなことはすな。こんなことは言うな」と言うて、どうにもならん。どうしても、この道を貫くようにせねばやりきれぬ。それで、三人いろいろ相談した。一夫(範男の長男)が生まれたばかりの時であった。目刺しを焼き、飲みつつ話をした。ランプの光がなくなったので気がつけば、夜が明けておった。
(12)それでは準備をしようということで、十一日、両師は大谷へ帰り、生神様へそのことを申しあげて大阪へ帰った。後にて聞けば、非常にご安心の御模様とのことであった。(13)十二日、私どもも参り、事の次第を申しあげたるに、この時、生神様、
「上下そろうた」
とお喜びになった。
(14)七月に来る大阪よりの人を待つべき準備のことを申しあげ、それより山神の君(金光萩雄)にお目にかかりしに、「佐藤さん、この度、大阪の両師とご相談のことを、金光様はお喜びであります。これまで、お取り立て申そうと、いろいろ言うて来る人もありましたが、この度は『上下そろうた』と仰せられ、『時節が来た』とのお言葉であります」と山神の君仰せられた。
(15)上下とは、階級上の上下の意義にあらず、これは西も東もとのご神意なり。これは備中大谷を中心としてのことである。(16)道は四方八方へ広がり行く。道を開くは人である。人を用うる偏することなく、広く中心を持つべきことを語られたるなり。
(17)東が二人、西が二人。私の裏には金照明神(高橋富枝)があるが、金照明神は女の身で表に立てぬから、御領辰の年(佐藤範雄)をお使いくだされと金光様に申しあげてあったのである。(18)これは、将来永久に道の幹部に立つ人を用うる基礎立てるなり。
(19)これ以前にも、教会の組織はできぬことはないのであった。山神の君には、明治十一年六月二十日、賀茂宮(大谷村の氏神)の司掌となられおり、また十二年七月には神道事務局より教師試補に補せられておられ、教会組織ができるのになされず、上下、人のそろうのをお待ちになっていた。部下は、道を開くに非常に困難したが、その困難を忍びつつ時節を待たれしなり。これ以上説明せんとするも、思い余りて言うことあたわず。(20)それより、大阪より来たる人を待つ準備として、本をいろいろ買うて読んだ。規則を知っておらねばならぬというので、『神官必携』(明治十四年までのもの)なども買うて、よく読んでおいた。注文した本が早く着き、都合がよかった。
(21)七月十二日、両師来る。白神、近藤、案内し、四人連れで来た。吉備乃家の一室で引き受けた。(22)両師の案では、美濃の国南宮神社は金山彦命をまつってある、その分霊を受け、出社として立てたらよかろうというのであった。そのことを、両師が教祖にお目にかかる前に、教祖に申しあげた。
(23)「此方のは神様が違う。そのとおりにはできませぬと言うてくれ」
と仰せられた。(24)そのことをば両師へはいまだ話さずに、両師を生神様のみもとへ案内した。両師とも体を清めて参り、右の次第を両師より申しあげしに、ただ、
「ご苦労でありました」
と仰せられるのみ。そして、
「御領をもってお話しいたさせます」とおっしゃる。みな、み前を下がり、宿にて両師が「論外じゃ、論外じゃ」と言う。それから、お話の次第を申しあげたが、「かくかく仰せられます」と申したら、「偉いお方じゃ」と言うのみであった。優遇して、白神、近藤両氏を案内として、また大阪へ帰った。(25)この大阪の両師の申しこみは、まことに親切な話なれども、お受けなし。もし、この時に、それならそうしようかと人情に流れられたら、金光教の今日はないのである。(26)これをはじめとして、白神、近藤両氏と私との会合しばしばとなり、そして、相談が一つできれば教祖に申しあげ、また一つできれば、また申しあげるようにして、その夏を過ごした。
… 第二日