生成AIで小説をつくってみた

ことほぐ心の引っかかり ー学友SNSの諸相

20世紀末に京都の大学生だった宗教好き6人衆で構成されたLINEグループが今なおある。そこでははっきり、生と死とが交錯していた時期があった。いったいどういうことなのか。まずはそのメンバーの生きざまをひとりずつ、なぞってみよう。

ヒデは長髪に茶髪でキャンパスではひと際目立っていた。誰にでもすぐ話しかけるが、おとなしい。なんの見返りもなく、友人の引っ越しを手伝うために、別の友人をだますように連れてきて、今更引き返せない状況に全員をもっていくのが得意な変わった奴だった。卒業後は実家付近の豊岡で自動車教習所の教官に就き、学生の頃とはうってかわった地味な生活を送っていた。私と共に3回生から編入してきた。


コマキはキャンパス内で学友と知り合ってはT教団の広報紙を渡すという信仰熱心な女性。いろんな学友を信仰の研鑽の会合にいざない、教団から重宝される存在だった。卒業後は結婚して東京へ引っ越し。東京でもT教団の活動をしながら、占い師のアルバイトやモデルの仕事をしつつ、妊娠活動を熱心にいそしんでいた。


トココはそのT教団にいた別の大学の学生だった。いつもコマキと一緒に資料の配布などのお世話係を担い、おとなしく教えを受け入れる女性だった。コマキにさそわれたわけではないが、たまたま東京に引っ越してOLをしながら、婚活している。I教団にも浸透している時期があったが、いまはT教団もI教団にも距離をおいている。読書やドラマが好きだったので私とは新ドラマが始まるたびに、何をみようかよく話し合った。実は結婚している噂あり。


ノブはI教団の熱心な二世信者。選挙があるたびに、みんなに偏った政党への投票を促す積極的な面とは裏腹に、日常は謙虚で控えめな性格だった。卒業後も関西にとどまり、彼女と同棲しても入籍はせず、いっぱしの会社員になっている。


アユムはやさしく生真面目。ひとりだけ法学部だったがヒデと同じく寮暮らしでいつもヒデと一緒にいた。なので文学部のほうが知り合いが多かった。一時期は実家の長野県に戻っていたが、保育士の資格をとって、再び京都で保父さんとして働いている。ヒデや私と共に3回生から編入してきた。


そして私も編入組。卒論では所属学部教授の著書を扱ったアウフヘーベンが、教育賞を受賞した。卒業後はパチンコ業界に正社員入り、結婚して転職してマンション購入して子供3人に恵まれていたが、いまは脱サラ独身で自由奔放な暮らしぶり。


ある日、ヒデが突如としてLINEを反応しなくなった。それと同時期、40歳を越えても妊活を続けていたコマキがついに妊娠し、1月に出産予定であることを知らせた。高齢出産のリスクはあったが、その報告にLINEグループは喜びで満ち溢れた。

ヒデの話題が時々出るものの、LINEは専ら食事とか体重とかヨガやったとか、コマキのトークばかり。
小川洋子『妊娠カレンダー』を読んでるような状態が続き、ついに1月22日、無事出産。

コマキの出産はグループにとって特別な瞬間であり、それにまつわるエピソードが多く語られた。新しい生命の誕生に、友人たちは感慨深い思いを抱えていた。

コマキは出産の経緯や感想をLINEグループでシェアし、赤ちゃんの名前や性別も明かされた。男子の誕生に、メンバーは喜びと祝福の言葉を贈った。コマキの強い意志と母性に触れ、友人たちは温かいコメントを続けた。

その中で、コマキがヒデを思い出すきっかけが現れた。出産の際、特にヒデとの思い出が鮮明に蘇り、彼の存在がコマキを取り巻く感情の一部となった。彼女の喜びと悲しみが入り混じった心情が、グループ全体に静かな波紋を広げていく。

ヒデの突然の消息不明に対する友人たちの葛藤が色濃くなっていた。コマキの投稿に対するメンバーの反応も変化し始めた。笑顔の裏に広がる影を感じ、LINEグループは静まりかえった。

そしてある日ついに、こんな投稿が。

18:22 コマキ ヒデくんは、どうしているのだろう?
18:22 コマキ 誰も実家の電話も住所も知らないの?
19:29 ノブ すいません。
19:30 ノブ 彼の状況は分からないです。
21:35 コマキ 「無念」 スタンプ

コマキの無念のスタンプに、私たちも言葉を失っていた。ノブの返答には複雑な感情が込められているように感じられ、友人たちの絆が試されているようだった。


ここで時を2カ月ほどさかのぼる。11月初め、ヒデの音信不通が気になり、私はノブ、アユムとともにヒデの調査を始めていた。ヒデが1年前に早期ガンで入院していたことを、私とノブは知っていた。ヒデは大したことないと言っていたが、ノブの話ではまだ手術できずに薬で腫瘍を小さくしている段階だった。

ノブの情報から、最近入院していた病院2つを特定し、私が電話で確認した。指先が緊張に震えながら電話をかけるたびに、心臓の鼓動が早まるのを感じた。ある病院は「いま38歳のヒデさんなら、9月に退院しました」と答えた。もう一方の病院は「電話じゃ何も教えられません。来れば居るか居ないかくらいはお答えできます」と冷たく答えた。

大学当時の他の知人に「ヒデ知らない?」と確認し、そのたびにヒデの音信不通状態が知れ、かえって心配されてしまうことが続いた。なかでも、一回り年上だった女性バイゼンは、ヒデのことを心底親友と思っていた。

彼女のとった行動も辛い。ヒデのことが心配になり、1人で遠く豊岡市の病院に行ったのだが、彼が入院していないという以上の情報を教えてはもらえず帰らされたという。


皆で年賀状をあさり、実家の住所をつきとめたのが11月10日。すぐに私が電話したところ、ヒデの母親が出て告げられたのは「いまは面会をお断りしているので、1カ月くらい経ったらまた連絡ほしい」だった。

入院中だが場所は教えられないということだったので、信じて待つことにした。
とりあえず心配させた人たちには、いったん心配ないと言って回った。

12月初め、そろそろ1か月経ったのでヒデの実家に電話してみた。ところが、朝も昼も夜もいつかけてもコール音のみ。連絡がつかなくなっていることに気づく。と同時に、その突破口を開いたのは、偶然にも私の仕事だった。たまたま、ありえないほど近くの現場に行くことになったのだった。

12月26日、ヒデの実家は京丹後市という遠い場所だったが、私はひとり仕事のついでに、アポなしで訪問してみた。あいにく留守で、名刺の裏に「ヒデさまの無事を祈っています」とメモして投函して帰宅した。

これで調査を打ち切ってはヒデと二度と会えない気がして、ノブとアユムと男3人総出で、何度も何日もヒデの実家に電話をかけ続けた。


そして年が明け、ようやくヒデの実家と連絡がとれたノブから届いたメッセージは、「11月中旬に亡くなったと言われました」という信じられない内容だった。ということは、私が訪問したときには、すでに亡くなっていたという事実が判明した。アユムはトココに、ノブはバイゼンに、今度は訃報の連絡を回すことになった。

トココは、アユムからの電話を受けた瞬間、言葉を失った。電話口からはアユムの声が伝わってくる。「トココ、ヒデが…亡くなったの。信じられないよね。詳しくはまた話そう」。トココはその場で電話を切り、しばらく立ちすくんでいた。ヒデとはT教団の集まりで何度も一緒に過ごしてきたし、一昨年前の正月には6人(+子供1人)で初詣にいった仲だった。言葉では表現しきれないほどの衝撃が彼女を襲った。

アユムも電話を切った後、しばらく呆然としていた。ヒデがいないなんて信じられなかった。大学編入で出会ってからずっと一緒だった仲間であり、共にボランティアもしたりと、彼にとっては大切な存在だった。アユムはヒデの死という現実を受け入れた結果、小説執筆を志すことになる。

一方で、バイゼンはノブを責め立てた。バイゼンとノブの関係は、ノブが最初にバイゼンにヒデの死を伝えたとき、予期せぬ対立が生まれた。バイゼンは怒り心頭で、「なぜヒデが早期ガンと知っていたのに教えてくれなかったんだ!」とノブを責めた。ノブはただ黙っているしかなかった。

しかし、数日後、バイゼンは再びノブに話しかけてきた。彼女は冷静になり、ヒデの死に向き合うことができたのだ。バイゼンはその時初めて、ノブがヒデを守るために精一杯努力していたことを理解した。

ノブとバイゼンの対話を通じて、二人の絆はより深まり、お互いに支え合うことができるようになった。ヒデの死を通して、友情の大切さと、時には難しい決断をしなければならないことを学んだ。


そして、冒頭のコマキが「無念」 スタンプしたシーンへとつながる。コマキにヒデの死を伝えるのは私たちにとって難しい瞬間だった。出産前は、彼女に余計なストレスをかけたくないという思いから、話すのをためらっていた。しかし、1カ月が経ち、毎日喜びに満ちたコマキの様子を見ているうちに、これ以上隠し通すわけにはいかないという決断が固まっていった。

かと言って今は何のリアリティもない。なのでしっかり説明できるよう、ノブ、アユム、そして私は、亡きヒデが眠るお寺でその親族らと待ち合わせるアポをとった。

ヒデの母親や妹さんと面会し、ヒデが急変した様子をしっかりと聞かせて頂いた。とにかく辛くても辛がらなかったので、急に最期がきたという。晩年のヒデの気持ちを想像するとこの場が耐え難い場になってしまう。これ以上の悲しみはそれぞれが帰宅したあと個別で処理することにした。

静寂のなか、残されたご家族と共に、彼に対する思い出話を交わし、私たちは笑顔と涙でつながった。そこに居合わせた誰もが、ヒデの好きだった場所やエピソードを振り返り、彼の存在を感じながら話すことで、なんとなく心が軽くなったようだった。

コマキにようやく彼の死を告げたのは、そんな日の帰りの移動中の車からのLINEだった。出産を終えて間もなかったコマキには、酷な告知になった。

ところが彼女はいたって冷静。喜怒哀楽の反応はなく、動じていないようにも思えた。と思っていたのだが、数ヶ月後、コマキは自分の所属する教団でヒデの供養をしたという報告を送ってきた。

コマキの報告は、彼女がヒデを神聖視しているような気がした。我が子が産まれる数日前にヒデの死があったのは偶然なのだろうか。自分の所属する宗教で供養をすることで、ヒデへの思いをより深く、精神的な形で表現しているのだろう。彼女の行動には、友情だけでなく、信仰心から湧き出る何かが感じられた。


何年か経ち、たまたま私を尋ねてきたセイタという学友が加わった。彼はヒデの不在を埋めるほどではないものの、新しい輪を生みつつある。実はこのセイタ自身も死という暗い出来事を背負わされていた。にもかかわらず、私たちと一緒にヒデの墓参りにも参加してくれるようになった。彼もまた、こまきと一緒にT教団の共励会に参加した経験もあったし、私より前からヒデの知り合いだった。墓前で手を合わせるたびに、その想いを形にしていた。

ヒデのお墓は日蓮宗の寺院にあり、I教団のノブが慣れた調子でお題目をあげてくれる。我々もその声に合わせて「南無妙法蓮華経」と唱え、ヒデへの思いを込める。バラバラに聞こえる声が、ヒデの面白さや個性を思い出させ、生前の彼と一緒にいた頃の風景が浮かんでくる。

みんなが黙とうを捧げる中、心の中でヒデに感謝の気持ちを伝えている。彼がもたらしてくれた楽しい思い出、共に過ごした時間、そして彼の影響で形成されたLINEグループは目に見える絆。それは私たちの心の中にも深く刻まれ、彼の最後を静かに受け入れていることを感じる。


死をT教団では、「死はない。人間の生命は永遠生き通しである」と説く。肉体は、人間が地球上で生きるための“宇宙服”のようなものと考え、この世の使命が終われば“宇宙服”を脱いで、また次の世に移行する。たとえ肉体は滅んでも、人間の魂は生き続けるという。

かたやI教団では、成仏とは、他の世界に行くことではなく、あくまでもこの現実世界において、何ものにも崩されない絶対的な幸福境涯を築くことをいう。

不思議と私たちは、それらをおおらかな気持ちで受け入れることができた。コマキが自分の所属する宗教でヒデの供養を行ったことは、彼女なりの形で悲しみや喪失感を乗り越え、ヒデへの愛を表現したものだろう。ノブのお題目のあげ方もまたしかり。異なる信仰を持つ友人たちでも、お互いに尊重し合い、同じ気持ちを築いていくことができた。私たちは共に時を重ね、未来へ進んでいく。ヒデの影響は私たちの中に生き続け、彼の思い出を胸に新たな一歩を踏み出していくのだった。

生成AIで小説をつくってみた” に対して2件のコメントがあります。

  1. こまき より:

     写真にイラストに文章に驚き。流石、卒論で受賞しただけある深さ。魂は永遠だと信じています。高き霊界、神界に昇られますようにと供養させていただきました。神聖化をしてるのかな?何か女遊びをしていたとか悪い裏の顔ってあったのかしら?静かで個性的な人だったような。魂も高い人だったのかな?と思っています。他界される前に初詣参拝をできて良かった。ステキな作品を読ませていただいて、ありがとう。

  2. sara frances russell より:

    物語らは、解りやすく読みやすいんだけどAIのノブと京都は行き過ぎ‼️最後のせいたで話しで話しでちょっと重さが軽くなって良かったと思う…小説家に転職できるね。

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